モーゼル対戦車ライフル 前編

 「Waffen Revue」82号に、世界初の対戦車ライフルであるモーゼル対戦車ライフルに関する記事が掲載されていました。


第一次世界大戦におけるモーゼルの13mm対戦車ライフル

 オベルンドルフのモーゼル社は、当時まだタンクゲベールと言われた世界初の対戦車ライフル(頑住吉注:パンツァービュクゼ)を作ったという名声を求める権利がある。その構造に技術上特別立派な設備がなっかたにしても、その原理は他国における後の似た開発物の方向性を示した。

 我々は

13mm対戦車ライフルの歴史

の叙述のために、幸運なことにタイプライターによる文書を使用することができる。これは「世界大戦(1914〜1918年)における対戦闘車両防御。自動車部隊監督局の委託に基くPetter退役少将による調査」であり、1932年9月1日に参謀本部チーフから、ナンバー34D27 Wehr A Jn 6 l(d) 42.6.32の下に、いくつかの「戦闘車両からの防御に責任を持って従事してきた」部署に送付されたものである。当時の中佐(そして後の大将)Heinz Guderianによって署名された添え書きの中には、この文書の作成が帝国公文書保管所の書類に基いて行われたものであることが特に言及されていた。この信憑性の強調は我々にとって非常に重要と思われる。これらの書類は今日行方不明だからである(頑住吉注:ご存知の方が多いでしょうが、ハインツ グーデリアンは「ドイツ戦車部隊の父」などと呼ばれる有名な人物です http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ka/guderian.html )。

 さらなる小さな助けを、1938年にオベルンドルフのライフル工場創設125年をきっかけに出版された書籍「モーゼル工場の歴史」が提供する。いくつかのデータが前述の文書、およびいくつかのさらなる文書といくらか相違しているにしてもである。

経過
 1915年10月15日におけるOHL(軍最高司令部)のI.C.(情報将校)のレポートは、特定の軍事問題解決のためのイギリスのトライアルについて記し、その中には「Auto-Mitralleusen」もあった(頑住吉注:辞書に載っておらず、検索しても1件もヒットしません。軍用の車両のことだろうと思います)。この報告が明らかにまだ本当には、イギリス人によって秘匿名称「Tanks」の名の下に開発されていた乗物が水あるいは燃料タンク車ではなく、新種の装甲された戦闘車両であることを説明し、理解していなかったことは知られている。

 1916年9月15日に、この最初の鋼鉄の巨大なる物がドイツの前線にあるCambraiにおいて進出したときの驚きは想像できる。1916年9月28日、AOK1(頑住吉注:何の略か不明です)の情報将校は次のように報告した。

1916年9月16日、1台のイギリス製タンクがドイツの前線を突き抜け、戦場を横切って行った。タンクは歩兵および機関銃による銃火を注ぎかけられたが、弾丸は装甲の上で跳ね返った。後にタンクはしばらくの時間Flersに留まり、その後さらにLigny−Thilloyに入った。その際砲兵による1発の命中弾がガソリンに火をつけた。このタンクは破壊され、1人の乗員が捕虜となった。

 1916年10月2日、陸軍第1軍は、1916年9月15日以来、新しい戦闘手段として装甲されたイギリス製車両が登場したこと、そしてこれまでこれに関する証言は一部の捕虜となった乗員の尋問および一部ドイツ部隊の兵員からのみ得られていること、それはこの戦闘車両を(頑住吉注:無傷あるいは少なくとも詳細な調査に耐える状態で)捕獲し、安全な場所に確保することにまだ成功していないからである旨前線から報告を受けた。この報告の中では、「捕虜の供述および発見された命令書によれば、この装甲戦闘車両は敵の前線を突破して後方から銃砲撃を加え、敵の拠点を蹴散らし、砲兵陣地まで進撃する任務を持っていたらしい。
 この新しい戦闘手段が、我々の敵がこれに関して期待している成功を手にするかどうかは辛抱して待たねばならない。構造上のさらなる進歩があった場合、この装甲戦闘車両は疑いなく1つの非常に注目に値する戦闘手段となる。
 その制圧は本来的には砲兵の任務である。砲兵は装甲戦闘車両がわが軍の歩兵線の突破に成功しないように、進撃する装甲戦闘車両を早期に無害化しなくてはならない。というのは、さもないとたいていの場合味方部隊の危険のためもはや砲撃を加えることが不可能となるからである。」
とされていた。
 
 この怪物が及ぼす危険は、まず初めにはいくらか過小評価されていたように見える。1916年10月11日、OHLは国防省に図、説明、そしてイギリスの機関銃装備装甲戦闘車両に関する捕虜の供述を送った。それには以下の言がつけ加えられていた。「この戦闘車両の登場を過大評価しないならば、確実な成功があり得る。いずれのケースにおいてもより改良された車両は効果的な戦闘手段を築く‥‥」(頑住吉注:よく分からんのですが、「新たに登場した戦車は将来的に改良されて効果的な戦闘手段となるはずだが、現状では過大評価してはならない」というような意味ではあるまいかと思います)

 しかし1916年10月19日にはすでに、(頑住吉注:前線の)大規模な司令部にいた国防省の幕僚は、国防省に次のように報告する必要に迫られた。「装甲車両はイギリス人に再び有利な立場をもたらした。彼らの士気は高いという印象を受ける。(頑住吉注:我が方の)塹壕の守備隊がそれに対して無防備だからである。装甲車両は局地的なパニックを広げているが、幸運にも横方向には伝播していない。3つの地点において、わが前線内まで前進した車両を砲兵の直撃弾によって瓦礫の山となるまでに射撃することに成功した。」 「Tanks」の制圧はまず第一には砲兵によって、より近距離においては「Minenwefer」(頑住吉注:直訳すると「爆雷投射器」になりそうですが、検索してみると迫撃砲に近いものらしいです。迫撃砲との定義上の差異はよく分かりませんが、以後「小型曲射砲」としておきます)によって、そしてさらに前進した場合最終的には塹壕砲、およびマシンガンおよびライフルののSmK弾薬によって行われた。その際の効果は非常にまちまちだった(頑住吉注:「SmK」は「Spitzgeschoss mit Kern」の略、すなわち「核を持つ尖頭弾」です。したがって「SmK弾薬」とはスチールコア入りの弾丸を持つ徹甲弾薬のことです)。

 その後の1917年4月16日に開始されたフランスの攻勢において、これら同様にフランス製戦闘車両であるSchneiderおよびSt.-Chamond(頑住吉注:普通「シュナイダー」、「サンシャモン」と表記されます)車が投入された。フランス製戦闘車両はイギリス製より弱い装甲がなされているように見えたが、戦闘車両の前線への集中した登場は、それらを制圧するための手段が不充分であることを示した。特に近距離戦闘において、SmK弾薬がいかなる場合にも前もって推測していたほどには非常に効果的でないということをはっきり示した。

 この結果1917年10月12日、A2はライフル検査委員会(GPK)に、歩兵の対戦闘車両防御兵器を作るための基準となるべき観点をクリアにすることを委託した。1917年10月25日、A2において行われた協議の中で、その種の兵器のための口径として13mmが決定された。1917年11月20日に大規模な戦闘車両を使用した会戦がCambraiで開始され、歩兵のための防御兵器の問題が再び前面に押し出されるまで、まずはそれ以上のことは行われなかった。

 この兵器は13mm、あるいは15mmのどちらの口径を持つべきかという当初の問題は、13mmに有利なように決定された。まず第一にはマシンガンが考えられたが、これは1918年4月に予想される春季戦闘開始までにはもはや製造できないであろうことが理解されていたので、国防省のA2は1917年12月3日、ライフル検査委員会にできる限り早く口径13mmのライフルを製造し、その他に13mmマシンガンの設計を全力で促進することの指示を行った。この両兵器用としては装甲破りの弾丸が要求された。

 前述のモーゼル工場に関する書籍の中では次のように書かれている。「1917年11月27日、ライフル検査委員会は自己の責任においてモーゼル工場に適応するライフルの完成を委託した。口径を13mmと15mmのどちらにすべきかという問題は、まず最初には未解決のままとなった。1917年12月3日、認可を受けるために提案が国防省に提出され、認可は1917年12月11日に与えられた

 このように、どちらの記述が本当に合っているのかは未決定のままとさせるべきである。

13mm弾薬
 これに対し、対戦車ライフル用の13mm弾薬がポルテ社で開発されるべきとされたことは確実である。そのライフルは最速で作られるべきであり、そしてこれは弾薬に対する見識なしには不可能であったため、モーゼルとポルテの間に緊密な共同作業が成就し、そこにおいて弾薬の寸法、弾丸の方式、装薬の量が決定された。

 弾丸は当時想定された25mmの装甲を距離250mから貫通できるように、スチールコアが与えられた。このコアは鉛の「下着」を持ち、トムバック(頑住吉注:真鍮系合金)メッキされたスチール製ジャケットに包まれていた。これにより、弾丸はバレルのライフリングによって圧縮されることができた。弾丸が転倒したり倒立することを妨げるため、弾丸は64mmの長さを与えられ、そのうち薬莢に差し込まれる長さは23mmとなった。要求された成績(飛距離、貫通、ライフリング、飛行安定性)のためには発射薬は13g必要とされた。総合して薬莢の長さは92mmとなった。

 弾薬の発射時の弾丸エネルギーは1670mkg(これと比べライフル弾薬は約390mkg 頑住吉注:約4.3倍)であり、初速は790m/s(ライフルは815m/s)に登ったので、薬莢はこれに応じて強靭でなければならなかった。薬莢には軽い「ボトルネック」が与えられ、これにより薬莢はそのショルダーによってバレルのチャンバー内で「突っ張る」ことができた。そして発射時に発生する、薬莢が対応してチャンバーの壁を押す途方もない圧力のため、薬莢底部にはいわゆる「セミリム」が与えられ、これにより薬莢はエキストラクターによってよりよくつかまれることができた(セミリム薬莢の場合、リムのほかにさらにエキストラクターのためのミゾが存在する)。

(頑住吉注:要するにリムドは左のような形、セミリムは中央のような形、リムレスは右のような形です。ただ、なぜ圧力が高いとセミリムがいいのかこれを読んだだけではさっぱり分かりません)

 前述の「モーゼル本」の中では、1918年1月10日に新しい弾薬による最初の試射がオベルンドルフで行われ、1918年1月19日に仮の弾薬を持つ仮のT-ゲベールの射撃が国防省の代表者に披露されたと書かれている。

 こうしたSmK弾薬の他に、さらに戦闘車両の焼夷射撃のための燐弾薬と曳光弾が1種ずつ作られた。

タンクゲベール
 このライフルを作り出す任務が特別に緊急に設定されたため、モーゼルはこのT-ゲベール用にゲベール98にほぼ似たボルトを選択することで問題を解決した。もちろんそれは相応に安定性が高くなければならなかった。それゆえボルトに前後それぞれ2つの閉鎖用突起が設けられた。発射の際弾薬が発生させる圧力には、実にマッシブなチャンバーと相応に太いバレルを選ぶことで対処がなされなければならず、このことは銃の重量を約17kgにした。弾丸の貫通力のために必要なライフリングの長さは100cmの銃身長によって達成された。射撃を簡単にするためと発射の際の銃のぶれを回避するため、バレル下部の後ろから1/3に射撃架台(バイポッド)のためのバヨネット方式の連結装置が取り付けられた。

 研究は非常にスムーズに進捗し、この結果前述のように1918年1月10日にはすでに最初の試射が実施され、たった9日後にはそのライフルを国防省の代表者に披露することができた。このテストは非常に肯定的な結果になり、この結果部隊テストを待たずにすぐ30,000挺のこのライフルが注文された。

 生産開始に関し、我々は例の「モーゼル本」に次のような記述を見出す。

1918年1月21日、銃器および弾薬の調達に関する会議において大量生産のための全ての土台が徹底的に審議された。この新しい銃器の製造のためには、U-ボートと等しい緊急性クラスが与えられるべきだった。ベルリンの歩兵兵器設計事務所から1分遣隊がオベルンドルフにやってきた。特に作業所の設立の際に経営陣はSchwerd教授の協力を得た。彼の助手はEdgar Haverbeck工学士だった。
 オベルンドルフでは技術事務所がスピードアップを助長され、最大限の献身をもって要求された工作機械の作り出しに向けて働いた。その設置のためには広大な拡張建物内に充分な場所があった。ライフル検査委員会はすでに1918年1月24日における彼らのレポートの中で国防省に、まだHandwaffen(頑住吉注:手で持って撃つ兵器)史上に決して存在しない新種の兵器が非常に短時間のうちに作られていることを指摘していた。


 ある覚書から次のような内容を引用する。「1918年3月18日、最初の5挺のT-ゲベールが、1人のライフル検査委員会の特別コマンドによってAOK3に発送された。何日かの内にはさらに続いた。

 だがそれ以上の供給はかなり滞った。モーゼル工場がすでに多数あった注文のための製造をさらに引き受けねばならなかったからである。

 1918年8月30日の報告によれば、毎日100挺のT-ゲベールが検査され、後にこれは毎日300挺に上昇させることができた。1918年9月4日には4632挺が前線に存在したということである。

 この頃この銃は前線では切実に必要とされていた。1918年2月18日にはv. Wrisberg大将がA2に次のように書き送った。「遺憾ながら、私の圧力にもかかわらず、3月の終わりまで銃が対戦車用に作られないことを確認した。このことは確実性をもって支援を計算していたわが部隊にとって非常に不安である。銃が後の時点用に作られるかどうかは、私にとってはどうでもいいことだ。

 1ヵ月後、T-ゲベールの最初の供給が行われ、これにより彼の気分はいくらか改善したかもしれない。

 最初のタンクゲベールはすぐに実戦使用下に置かれ、等しく良好に真価を示したようである。というのは、さほど日がたたない1918年3月31日、この銃は内務省通達によって正式採用された。他の場所では弾薬供給が限られた数しか行われていないことが指摘されていたにもかかわらずである。

 最初のライフルとともに、

「戦車制圧用ライフル(T-ゲベール)のための暫定的説明書」(日付はなく、「1054. 18 III a」の印刷がある。なおこのうちの1部はバイエルン公文書保管所に存在している)も発行された。その中には特に次のような内容がある。

T.全般
 このT-ゲベールは、S.m.K.弾薬を使ったマシンガンとならんで、歩兵に効果的な戦車制圧を可能にする。

U.銃
 この戦車制圧用ライフル(T-ゲベール)は回転シリンダー(頑住吉注:ボルトアクション)閉鎖機構を持つ口径13mmのシングルローダーである。銃の重量は約16kgになる。ボルトはゲベール98のそれに似ており、その中には銃の閉鎖、弾薬の発射、薬莢の引き出しと投げ出しを引き起こす部品が収納されている。サイトはカラビナー98のそれに似ており、500mに達している。

 銃の大きな重量を勘案して、このT-ゲベールはMG08/15のように射撃架台を備えている。ライフルの下部リングはバヨネット結合機構を持ち、それは、

1.マシンガン用バイポッド
2.16型マシンガン用トライポッド
3.依託銃架としてのMG08用補助銃架

が使えるように作ってある。

 各ライフルにはマシンガン用バイポッドが標準装備されている。

V.銃の操作
a)ロード、アンロード、セーフティオン
 ロード、アンロード、セーフティオンはゲベール98と同様に行われる。

b)バイポッドは次の方法で取り付ける
 スプリングのテンションがかかったバイポッドの止め具を押し下げる。バイポッドのヘッドを下部リングのプレート上に位置させ、頭部の切り欠きがプレートをグリップするようにする。その後バイポッドを回し、スプリングのテンションがかかった止め具を放す。

c)射撃
1.サイトを設定し、
2.銃を肩にしっかり引きつける。
(注釈:斜めの体勢、ストックの低い使用、ストックと肩の間に柔らかい緩衝材を使うことはリコイルショックを緩和する)

左手はプローンの依託射撃時のようにライフルを支持する。右手はピストルグリップを握り、人差し指はトリガーに置く。

3.ターゲットを狙い続けながら静かにトリガーを引く。
4.閉鎖を解き、ボルトを後退させる。薬莢は自動的に投げ出される。不発時は閉鎖を解く前に2、3秒待つ。

W.銃の保守と修理
 この銃はゲベール98と同じ方法で手入れを行う。バレルのクリーニングのためには工具袋の中の、ネジで結合された3ピースのロッドが役立つ。バレル用のクリーニング帯はストック端部の穴に通す。ロッドの太くなった部分はチャンバーのクリーニングに役立ち、このためには充分厚いクッションが巻きつけられる。ロッドの細くなった部分はボルト内部のクリーニングに役立つ。

 ボルトはゲベール98のそれと同じ方法で分解される。ボルトの銃からの取り出しの前には毎回セーフティレバーが垂直に位置していることに注意を払うこと。セーフティレバーが垂直に位置しているときのみボルトを抜き取ることができる。ボルトのさらなる分解の際は、ファイアリングピンの先端が木槌の穴内、またはライフルストックの小パイプ内に位置していることに厳しく注意する。ファイアリングピン先端の損傷を避けるためである。なぜなら予備のファイアリングピンは制限された量しかない(工具入れに1個)。

 ライフルのレシーバーは最も綿密にクリーニングすること。特にエジェクター用フライス削り加工。

 全ての部品に軽く油を塗ること。

 修理に関してはこの規則の同封物で詳細に述べられている。全ての銃器名工はこの銃器の修理を無料で、そして最速で行う義務を負っているが、全工具はT-ゲベールの元に残る
(頑住吉注:いまいち意味不明です)

 使用不能になった銃(戦場の真っ只中では修理できないもの)は、Mainz砲兵隊貯蔵庫に送ること。そこで必要な交換および補充部品が注文される。

 適切な保守のためには、前線から帰ってきた銃ができるだけ一箇所に集められていることが必要である。

X.T-ゲベールの付属品

a)工具袋。
工具袋には、
3ピースの拭きロッド1個
柄を外した木槌1個(ハンマー頭部の小パイプはボルト分解時にファイアリングピン先端を入れるために役立つ)
頭部のない木槌の柄1個(応急のドライバーとして役立つ)
予備ファイアリングピン1個
オイル缶1個
麻くず

が入っている。

b)弾薬袋またはケース。

c)キャリングベルト

Y.弾薬

 この銃はスチールコアを持つ尖頭弾を発射する。

 弾薬は秘密として扱うこと。

 弾薬の注文は暫定的にシュパンダウのライフル検査委員会が行う。射手の練習用の1〜2発は例外であるが、割り当てられた弾薬はただタンク制圧用のみと決められている。他の全ての使用は禁止されている。発射済み薬莢は集め場所を経てMainz砲兵貯蔵庫に送ること。返却された薬莢1kgにつき2マルクが支払われる。したがって各薬莢につき約10ペニヒである。

Z.組織化および銃の戦術的使用
 各ライフルには1人の射手と1人の副射手(弾薬を運ぶ者)が属する。

 射手は銃を運び、取り扱う。そして銃の責任を第一に負う。

 彼は左腰の工具袋の革ベルトの上の弾薬袋内に20発の弾薬を持つ。

 副射手(弾薬を運ぶ者)は両腰に1つずつ、それぞれ弾薬20発入りの弾薬袋2つを持つ。さらに手に、あるいはキャリングベルト上に72発入り弾薬ケースを持つ。その上射手と弾薬を運ぶ者は背嚢、銃剣、ピストルを携行する。

 バイポッドは銃につけたままにされ、銃は軽機関銃のように右腰のベルト上に、あるいはフリーにした状態
(頑住吉注:意味不明です)で肩の上に担われる。

 射手と副射手としては非常に力強い、断固とした、そして冷静な人々が捜し求められる。彼らは同時にまたよい射手でなければならない。

 各部隊においてT-ゲベールが例えばそれぞれ3挺で、あるいは単独で使用されるかは、戦術的情勢および地勢によって決まる。マシンガンおよびS.m.K.弾薬と結びつけてのT-ゲベールの使用は効果を決定的に上昇させる。

敵タンクについて
 タンクの雌雄を区別する。雄タンクは武装として砲とマシンガンを装備している。雌タンクはマシンガンだけである。タンクの弾薬装備は一定の比率で非常に制限されている。タンクの戦闘価値は士気効果にあり、その火力にはより少なくしか存在しない。捕獲されたイギリス製タンクからは全て一致して、走行するタンクからの狙った射撃はその激しい動きゆえにほとんどお話にならないも同然だということが示されている
(頑住吉注:敵戦車の持つ弾薬は雌雄とも少なく、こちらに向かって来る時にはろくに弾はあたらず、こけおどしのようなものだから恐れるなといったことが言いたいようです)。タンクは煙幕内に隠れることを可能にするため、いくつかの煙幕手榴弾を持っている。

タンクの敏感な位置

 この銃から発射された弾丸には、タンクの装甲を貫通し、搭乗員を戦闘外に置く能力がある。バレルのジョイント部への射撃は価値が少ない。重要なのは、タンクの先端より後方に座っている操縦者と指揮官を戦闘外に置くことである。タンクの中央に位置するエンジンの射撃による破壊はタンクを運動無能力にし、これは第一に得ようと努められる。


 実際の貫通成績は他の覚書の中で200mから装甲22mm、500mから装甲20mmと述べられている。これに関し、貫通成績は命中角度に依存したということを考慮に入れなくてはならない。これについては後述する。

 ライフルおよびマシンガンを使った際のSmK弾薬の効果に関しては、前線は徐々に懐疑的になった。。文書から読み取れるように、彼ら(頑住吉注:前線の将兵)はもうこの頃自分でもマシンガンからのSmK弾薬を使った捕獲された戦闘車両に対する試射を行っていた。これは不思議なことではない。というのは、敵の新しい戦闘車両はわずかな位置まで含めてすでにSmK弾薬に対して安全になっていたからである(頑住吉注:対戦車兵器として与えられている7.92mm徹甲弾に事実効果がないことから、どこなら打ち抜けるのか自分で試してみたのは自然なことだ、といった意味でしょう)。この考慮はOHLに、マシンガン部隊および小銃大隊の装備に2cmカノンを対戦闘車両防御兵器として配置することをもたらした。1918年3月22日、「対戦闘車両防御兵器としての2cmカノンのための装備紹介と使用説明書」が登場し、その際2cmK(頑住吉注:「Kanone」の略でしょう)「Becker」と呼称された(頑住吉注: http://www.kaisersbunker.com/flieger/f16.htm こんなので、本来は航空機関砲です。また、 http://combat1.cool.ne.jp/LK1.htm 実際には間に合わなかったものの、このようにドイツ戦車の武装となる予定もあったそうです)。

 T-ゲベールのための極度に短い開発時間は当然の結果として、モーゼル工場がボルトを作る際に新しい道を選ばず、ゲベール98のシステムをT-ゲベール用に引き継がねばならないことにもつながった。それにもかかわらず、そこには克服すべき多くの問題があった。それは弾薬点火時の極度の圧力から生じるものだった。いくつかに関しては我々はすでにずっと前に指摘した。

 そして1918年5月10日、戦争に関する省全体が1通の文書をライフル検査委員会に向けて出した。それは次のような内容である。

13mm対タンク防御ゲベールの機械による製造の導入、そして弾薬つき銃の陸軍への供給が可能になった後で、省はライフル検査委員会の部門と、全ての銃および弾薬製造に参加している者に対して、1917年12月11日に初めて設定された課題のための解決に対する承認を表明する。」(頑住吉注:この銃の製造と供給が軌道に乗れば、新兵器である戦車に対抗できる歩兵用の兵器を大至急作れという当時の課題は満たされたものとする、といった意味でしょう)

 1918年7月における国防省の対戦闘車両防御手段に関する見解は、当時帝国議会のために作られた意見書から明らかである。この中では次のように書かれている。「戦闘車両の制圧は第一には砲兵の仕事である。軽、重砲の直撃弾は確実性を持って戦闘車両を破壊する。敵戦車が走行している際は重砲弾の大きな破片によっても破壊は行われる。特に適しているのは近距離に直接照準できる野戦カノンである。1917年春以来早くも1種類の対戦車特殊弾が導入されている。
 より強力な戦車の登場が予想されるため、le.F.H.
(頑住吉注:砲らしいんですが詳しくは分かりません)および対戦車弾を持つ重砲での装備も意図される。
 暗がり、自然のもやや煙幕がある際は戦車の制圧は近距離でのみ可能である。このため、単独の砲をこの目的のため砲兵線からずっと前進させる。方法は馬の場合も自動車の場合もある。歩兵銃は戦闘車両に対して非効果的である。マシンガンおよびSmK(SmKはすでに戦争開始前に設計されていた)は従来1つの効果的な防御手段であったが、初期の戦闘車両よりも強力な装甲を持つ新しい戦闘車両に対して現在ではもはやそうではない。
 1918年春以来、歩兵にT-ゲベールが導入された。それには短時間のうちにT-マシンガンの導入が続く。さらに平射弾道砲架を使った小型曲射砲、および先日導入された特殊弾が非常に効果的である。歩兵を守るための新しい防御手段として、すぐに小口径砲が最優先で導入される
(頑住吉注:たぶんこれはさっき出てきた2cmカノンのことでしょう)。その上収束爆薬としての手榴弾、自動式および敵戦車を監視して爆発させる方式の爆雷、および火炎放射器が防御手段として実用下にある。航空機も爆撃および機銃掃射で防御に加わる。
 地雷、戦車罠、幅広く深い塹壕、コンクリートで固めた鉄道レール
(頑住吉注:よく分かりませんが一種の対戦車障害物でしょう)、人工的にできた砲弾のクレーターの多数あるフィールド、そして自然の障害物(幹の太い木の生えた森、湿地、幅広く深い湖、沼、池)は受身の防御手段として役立つ。
 新しい自動地雷および細長く吹き出る火と「突くガス」によって戦闘車両をいぶして駆除することを意図した弾丸が試みられている
(頑住吉注:後者はひょっとして成型炸薬のことかとも思われますが違うかもしれません)

要約すれば、戦闘車両の制圧のための効果的な技術的手段が充分な数で自由な使用のために登場している。全ての技術および科学的手段の助けを得て防御手段は改良され、継続的に新たなより完全に近いものが作られている。

 1918年8月8日、1918年7月22日のOHL指令は次のように拡大された。
近々再び大きな役割を演じる戦車制圧は、歩兵、砲兵、小型曲射砲兵の適切に熟練した行動が行われたところでは成功してきた。現在支給がうまくいっている13mmT-ゲベールは真価を示してきている。
 戦闘車両の背後には強力な敵歩兵が追随しているのが常である。わが歩兵がやむを得ず戦闘車両を避け、それを通過させた後に敵歩兵と対戦したところでは、突破した戦闘車両はしばしば小型曲射砲および対戦車防御砲によって片付けられた。対戦車防御砲は、その牽引車両あるいは馬がなかったり、あるいは土地が適していないところでは、1000mあるいはもっと歩兵の後方に位置した。対戦車防御砲は敵の攻撃に対する火力戦闘には参加せず、敵から見えないところに隠れていた。


 第1軍参謀本部のチーフが1人の戦闘車両将校とともにある前線部隊の一部を視察し、その結果をOHLに知らせた後、1918年8月15日に次のような指令が発令された。

1)戦闘車両部隊の将校(頑住吉注:複数)は何日かの間陸軍分隊(頑住吉注:複数)を指揮下に置く。将校は管轄権のある部隊司令官との協力の下に、我が前線陣地の土地に戦闘車両による攻撃が行われる可能性について探索することが意図される。特に彼らには専門家として土地のどこが敵戦闘車両の攻撃に特別に有利に働くか、あるいは困難にするか、そしてさらに、どこが自軍戦車のカウンター攻撃における投入に有利な条件を提供するか、判断を下すことが望まれる。

2)13mmT-ゲベールの数は一時的にまだ限定されたものである。これを戦闘車両による攻撃がもっともありそうな場所に集めることが必要である。


 続くA2とライフル検査委員会との間の協議において、ライフルおよびマシンガン用SmK弾薬はそもそも議論にならなかった。彼らはより強力になった装甲の場合、この弾薬ではもはやほとんど成功を達成できないという認識に到達したのである。

 1918年8月30日の協議に関する議事録の中では砲以外の対戦車防御措置に関し次のような内容になっている。

1)T-ゲベール(13mm)
 本国および戦場でのテストは終了した。このT-ゲベールは戦闘車両制圧のための効果的な兵器として真価を示してきた。ドイツの戦闘車両はこの銃で武装されるべきである(戦闘車両につき2挺が予想される)。
 各歩兵中隊は3挺のT-ゲベールを得るべきである。目下生産は1日につき100挺であるが、後には300となり、この結果1919年1、2月頃には全ての供給が満たされる。

Tuf-マシンガン(13mm) (Tank-Fliegerabwehr 頑住吉注:「Tuf」はこの略で、「対戦車、航空機防御」といった意味ですは製造中である。目下ハンドメイドの50挺が存在する。春には機械による製造が行われる。この結果1919年5月までには1000挺が完成される。T-ゲベールのさらなる強化改造も予定されている。口径は15または18mmに拡大される予定である。後者に関しては、800m/sまでの初速で貫通力35mmが期待される模様である(目下まだ実験中)。

2)より軽量な小型曲射砲
 戦闘車両に対して確実な効果がある1つのさらなる兵器はl.M.W.
(頑住吉注:「leichter Minenwefer」=「より軽量な小型曲射砲」の略)、特に砲弾がまっすぐにではなく斜めに命中したときである。その際爆薬はよりよい効果をもたらす(頑住吉注:普通直角に命中した方が効果が大きいはずで、この部分の意味は不明です)。その上特殊構造の対戦車爆雷が製造と部隊テストの中にある。より大規模な製作はWumba視点からすると点火マテリアルの不足によって行われないかもしれない(頑住吉注:意味不明ですが、効果的ながら原料の不足によって生産できない可能性があるということでしょう)
 投射グレネードを使うグレネード投射器は15mmの装甲を貫通し、このためちょうどまだ充分である。特殊な投射グレネードの新設計は他方で特殊なグレネード投射器の新構造をも必要とする。

3)ハンドグレネード
 集中した爆薬は装甲を貫通する。これ(集中した爆薬)のための新しい指示がIng.委員会(頑住吉注:何の略か不明です)によってまとめられている
(頑住吉注:第一次世界大戦は1918年11月11日に休戦となっています。私もそうでしたがこの数字が頭に入っていない方はこれを念頭にもう一度この引用を読み直して見てください)

 第二次大戦中だけでなく、すでに第一次世界大戦中にマテリアルの欠乏の悪化にはまり込まねばならなかったことを確認しなければならないとき、それはすでに悲劇的なことである。

 1918年9月4日、4632挺のT-ゲベールが前線にあり、30,000挺のフルな供給が1919年1月までに行われるべきことが確認された。弾薬としてはSmKおよび燐弾薬の他に、さらに曳光弾が供給された。T-ゲベール用手押し車があったとされている。だが、T-ゲベールが本当には前線に定着していないことも確認された。第一には大きな重量、長さ、そして極度のリコイルショックが不充分な点として非難された。当時のT-ゲベール射手はふざけ半分で、「1人の射手はT-ゲベールを使って2発しか撃つことができない。すなわち、1発を右肩から、1発を左肩から発射し、その後射手は病院が必要なほどの状態になる」と言った。

 1918年9月25日、陸軍分隊からドイツ皇太子に、OHLの手元にある、T-ゲベールを使ってギリス大型戦闘車両を射撃した際の経験に関する歩兵教育連隊のレポートの次のような結果が知らされた。

1) 4発をガソリンタンクに。弾丸の命中角度約60度、距離500m。3発はガソリンタンクの前に吊るされた装甲板を貫通。1発は跳弾。戦闘車両は戦闘能力を保つと見られる。

2) 4発をドア、のぞき窓、砲塔にあるマシンガン用射撃ハッチに。弾丸の命中角度約45度。距離300m。1発が貫通、3発が跳弾。戦闘車両は運動および戦闘能力を保つと見られる。

3) 2)と同じターゲットに4発。ただし命中角度約90度。距離200m。1発が貫通、1発が跳弾、2発は失中。戦闘車両は戦闘能力を保つが、場合によってはエンジンの重大な損傷が運動不能にすることもあると見られる。

4) 2)と同じターゲットに3発。ただし、距離100m。3発とも貫通。マシンガンおよび砲の操作者は負傷もしくは死に、エンジンが損傷すると見られる。戦闘車両は場合によっては運動不能になる可能性もある。

5) 3発をのぞき窓および射撃ハッチに。命中角度は約75度。距離100m。1発が開いた射撃ハッチから貫通、1発は先のものより下の位置で跳弾、1発が失中。最初の1発はマシンガンを戦闘外に置き、この機関銃と砲の操作者は負傷または死に、エンジンが損傷すると見られる。戦闘車両は場合によっては運動不能になると見られる。

 全体結果としては、18発のうち戦闘車両を運動または戦闘不能にしたものはありそうもない。戦闘車両の中で都合のいいターゲットは60〜90度の角度を選んだ場合である。なぜなら60度以下ではたいてい効果なく跳弾しているからである


 この、そして他の届けられた意見に基いて、OHLは1918年10月1日に次のようなレポートを書いた。

13mmT-ゲベールの部隊による評価は非常にまちまちである。1発の射撃から過剰な期待をしてはならない。効果を現すためには命中角度60〜90度で、距離200〜300mからの射撃であることが必要である。50度以下では跳弾がある。
 部隊の訓練は彼らが銃に対する信頼感を得るように行われることが望ましい。


 だが、T-ゲベールの実戦投入においてはこの銃のいくつかの大きな欠点がはっきり示された。成功は戦闘車両の軽装甲が施された位置に、そしてまた適した角度で命中させたときのみ達成できたが、これにシングルローダーとしての機能は非常に抑止的に働いた。射手は発射後まず空薬莢を銃から引き抜き、次に弾薬を容器から取り出し、そして銃に装填した。これは時間を費やすだけではなく、射手に特別な注意を要求した。周知のようにターゲットは移動し、そして武装していたからである。

 さらなる大きな欠点は、すでに言及したように射撃の際の極度のリコイルショックだった。それゆえ特別に力の強い兵士がこの銃で武装されることが望まれた。

 届いた意見はモーゼル工場にT-ゲベールをさらに改良させた。そしてこの結果少なくともリコイルショックの一部を吸収できるスプリングのテンションがかけられたバットプレートと、5発入りマガジンを伴う連発設備を持つ型が誕生した。この変更は終戦の直前になって初めて完成し、わずかの銃しか作ることができなかったため、もはや前線には現われなかった。

 しかし武装停止後もドイツはT-ゲベールを装備基準量として留めたが、まさにこの新しいバリエーションがこれを導いたと言える。

 ドイツはベルサイユ条約の署名によれば、本来タンクゲベールを持つことが許されなかったにもかかわらず、この銃をその後も装備基準量に留めたという。ナンバー556/25CIzの下に1925年12月21日に作成された秘密の一覧表である「東プロシア部分を除く、得ようと努められる陸軍21個師団のための軍備状況1925-計画年度1925および1926年のための方針」の中には、T-ゲベールの必要量1788挺および在庫量804挺が記されている。

 これがT-ゲベールのどの型であるのかは明らかでない。この在庫量はまだシングルローダー(少なくとも一部は)から構成されていただろう。だが、モーゼル工場が前述の書籍の中でT-ゲベールの供給を15800挺としていたことを考慮に入れた場合、非常に低いように思われる。残りは鹵獲されたか戦勝国に提出されたとしか考えられない。

 その後もまだ軍がこの銃の継続使用に固執したことは事実である。この銃が常に強力になっていった戦闘車両の装甲にはもはや非常に成功したものではありえないことを知っていたにもかかわらずである。我々はこれ以上不思議がるべきではない。結局のところ、ドイツはさらにずっと後年、口径7.92mmのパンツァービュクゼを開発し、Pz.B38として採用した。そう、これによるなにがしかの成功も確かに期待されたのである。今日これが全く理解できないことであるにしてもである。だが、これによりドイツが完全に孤立した状態にあったということではない。というのは、他国(例えばポーランド)もこの口径を選んだ。


 へー、やっと終わったー、という感じです。読むのにこれまで一番時間がかかった記事の優に倍以上の時間がかかりました。しかし当時の状況が非常に詳しく説明されており、とても興味深かったです。まあ軍組織に関する知識不足から不明な部分が多かったにしてもです。

 ご存知のように第一次世界大戦は航空機、潜水艦、毒ガスなどの兵器が初めて使用された、もしくは初めて本格的に使用された戦争です。この史上初の国家同士による近代的総力戦の序盤で、それまで何百年、いやそれ以上の長きにわたって戦場で重要な役割を果してきた騎兵の出る幕はほとんどなくなり、中盤には陸戦の主役となる戦車が登場しました。最初の戦車は人間の歩くくらいのスピードしか出せず、機械的信頼性も低く、通常の小銃、機関銃弾をやっと防げるくらいの防御力しかありませんでした。これに対してドイツ軍は当初小銃、機関銃用徹甲弾で対抗し、イギリスは装甲の強化で応じ、ここから戦車の防御力強化と対戦車兵器の威力強化という長年にわたるシーソーゲームがスタートしたわけです。

 装甲の強化された戦車に対抗するため口径13mmのモーゼル対戦車ライフルが開発され、この銃は欠点も多かったものの、確かに後の銃器に大きな影響を与えました。「M2重機関銃の復活」の項目にもあったように、この銃がなければ天才ジョン ブローニングによる歴史的大傑作であるM2も、少なくともあの通りの形では存在していなかったはずですし、現在のアンチマテリアルライフルとこの銃の主要な違いはマズルブレーキの性能くらいであると言ってもいいくらいです。

 非常に先進的な性格を持ったこの銃ですが、登場して間もなく敵戦車がさらに強化されて威力不足となり、口径を15〜18mmにアップする予定のところ終戦となったわけです。ちなみにこの銃の開発時、敵戦車の装甲は25mmと想定されていましたが、この数字は第二次大戦における日本の主力戦車九七式中戦車と一致しています。また、日本は第一次世界大戦終戦の17年後である1935年に、第一次世界大戦末期には明らかに威力不足となっていたモーゼル対戦車ライフルと同口径でより低威力の「13mm手動砲」を開発しています。

 後半では銃それ自体と弾薬について詳しく語られます。









戻るボタン