1962年の中印戦争

 歴史秘話ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20130805/17981648.html


1962年の中印戦争:解放軍、第二次大戦の武器を使用するインド兵に教訓を与える

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「中印戦争の期間、解放軍が五六式軽機関銃を使用してインド軍に向け攻撃をかけている」、続いて2枚目、「中印戦争の期間のインドのシーク教徒の兵がブレン機関銃を操作しているところ」)

1962年10月から11月の間、人民解放軍チベット、新疆軍区の部隊はそれぞれ中印国境の東と西の2カ所で侵入したインド軍に対する自衛反撃作戦を行った。この前に、中国はまさに経済的困難と安全環境悪化という不利な形勢に直面しており、インドのネール政権は機に乗じて「前進政策」を制定し、兵を派遣してずっと中国に属していた新疆のアクサイチン地域に侵入し蚕食した。再三の勧告、警告が無効だった後、毛沢東は毅然として反撃の決策をなした。解放軍の参戦部隊は反撃戦の中での大規模戦闘、小規模戦闘の中でいずれも戦えば即勝ち、また厳格に政策と規律を遵守した。毛沢東が「1つの軍事政治戦、あるいは政治軍事戦を戦った」と総括したようにである。戦闘中部隊は非常に良好に「人・武器」の最良の結合を実現し、特に手中の軽便装備の威力を充分に発揮し、人が「世界の屋根」と呼ぶ非常に寒い地域で輝かしい戦績を創造した。

衝突の規模を制限するため、主に歩兵火器と隊所属の軽便火砲を使用

新中国成立後、戦略の重点はずっと東部にあって西部にはなく、国境をめぐる争いに対してはずっと平和的解決が強調された。1959年5月の期間、インドのチベットにおける全面的な反乱発生後に巻き起こった反中国のうねりに直面して、毛沢東は自ら中国駐インド大使がインド外務省に送った書面による談話を訂正し、私心をさしはさまず誠意をもって次のように説明した。「中国の主要な注意力と闘争の方向は東方にあってインドにはない。中国は東方でアメリカを敵にし、西方でまたインドを敵にするような愚かなことをすることはない。」 中国政府は自衛の決定を迫られた時、依然中印の友好関係回復という長期的角度の考慮から、反撃作戦を国境衝突に過ぎないと位置付け、これを国家間の戦争とは全く呼ばず、両国の外交関係もずっと保持し、作戦規模の制限のためできる限り空軍は動員しなかった。

中印国境の東、中、西という3つの部分はいずれもチベット高原のはずれの地域にあり、東部分は自然的条件によりやや良好に数個師団編成の部隊が展開できるが、西部分は非常に寒い地域に属し、一般に小分隊をもっての行動しかできない。作戦の前線はインド北部の鉄道網の終点から百から数百kmに過ぎないが、中国の当時の鉄道の終点からは2、3,000kmあり、光栄な戦闘の伝統を持ち、数の多い人民解放軍はこれにより力があっても使えない「ボトルネック」に遭遇した。反撃戦の中で、解放軍は蔵字419部隊(後に第52師団の番号を回復)と第11、第55、第130師団(第54軍の編成に属す)およびチベット、新疆軍区の国境防衛部隊を投入し、全部でインド軍の6個旅団を殲滅、撃滅し、比較的小さい代価をもって国の威信と軍の力を示した。

中印双方の参戦部隊の総数の差は決して大きくなかったが、中国軍は重点攻撃地域に兵力を集中したため、局地的優勢を形成した。両国軍の装備を比較すると、やはり一長一短だった。インド軍の小型、大型武器の多くは第二次大戦中の英軍装備で、さらに一部アメリカ、カナダの武器があった。中国軍の歩兵武器は1950年代に輸入したソ連式装備あるいは国内のそのコピー生産品で、インド軍に比べ1世代先進的だった。インド軍は前線にヘリ、輸送機、輸入した山地用自動車の保障があり、また東西2つの国境部分に小数の戦車もあったが、工程保障能力が劣るため、後方基地からの距離が比較的近かったのに重装備を前線まで輸送することが難しかった。解放軍の工兵、歩兵は康蔵国境線を築いた光栄な伝統(頑住吉注:第一次、第二次大戦間の中国・チベット戦争の勝利を指しているようです)を発揚し、爆破と突貫工事をもって軍用道路を前線まで急造し、自動車で牽引する榴弾砲や輸送車両が作戦の第一線に入り得るようにすることが保証できた。

ケジェラン河での初戦の時、解放軍は十何門かの120mm重迫撃砲と何十門かの軽便な無反動砲、82mm迫撃砲を集中して歩兵を援護し、成功裏に正面突破を実施した。対するインド軍第7旅団は道路が未開通のため航空投下した4門のイギリス製75mm山砲(さらにこのうち2門は破損したため使用できなかった)、4門の106mm迫撃砲と隊所属の81mmおよび51mm迫撃砲で火力支援を行うしかなく、それぞれの砲には20〜30発の砲弾しかなく、中国軍の火力事前制圧開始時にすぐ制圧された。西山口の攻撃前、解放軍の3個砲兵連隊は突貫工事で開通した簡易道路を通って前線に到着し、122mm榴弾砲の火力を用いてインド軍の24門の88mm榴弾砲を制圧し、有力に歩兵の攻撃を援護した。

中印国境作戦の期間、インド軍には800機の作戦機があり、主力はイギリスのキャンベラ式戦闘機で、中国空軍の主力機種ミグー17と性能は基本的に同等だった(頑住吉注:キャンベラは3人乗りの爆撃機で時速800km台しか出ず、ミグー17と比較できる機種ではないはずですが)。中国軍機は総数が多かったが、戦闘区域付近に使用できる飛行場がごく少なく、インドには逆に国境に近い完備された飛行場群があった。インド軍は自分では空軍が戦闘区域において優勢を形成できると考えたが、その政府はその首都など大都市が中国爆撃機の飛行半径内にあることを考慮し、報復性の空襲を受けることを心配してあえて空中攻撃を実施しなかった。中国サイドは衝突の拡大を避けるため「そちらが使わないならこちらも使わない」の原則に基づき、空軍を出動させて地上部隊を支援させなかった。双方が互いに空襲を行わない状況下で、中国軍の後方の非常に長い輸送線は脅威を受けず、さらに歩兵火器の優勢を充分に発揮することができた。

(頑住吉注:これより2ページ目)

中国の「五六式」歩兵火器、初お目見えし威風を大いに見せつける

新中国成立時は工業的基礎がまだインドに及ばなかったが、財力を集中して大きなことができる計画経済の優勢があり、1950年代において迅速に完備された一揃いの基礎工業と軍事工業体系が建立された。インドは同時に多国の武器を導入できたが、自主開発を軽視して輸入に頼り、武器のソースが雑多で混乱し、しかもアメリカ、イギリス、カナダなどの国の兵器商の古い品の処理基地となっていた。中印国境作戦時の武器の戦いは、標準化された中国の「国産品」と機種が乱雑なインド軍の「舶来品」の勝負ともなった。

フルシチョフが政権に就いた初期は中国の支持を勝ち取るため、スターリン時代の古い品だけを提供する方式を改変して中国に対しソ連軍の現役装備と生産技術を提供した。1955年、ソ連は中国に対し、7.62mmx39口径弾薬(ソ連はM43弾薬と称した)を統一して使用するカラシニコフ(AK-47)自動銃とシモノフ(C-41)半自動小銃、およびデクチャレフ分隊用機関銃の資料と生産設備を提供し、翌年中国は全面的なコピー製造に成功し、それぞれ「五六式」サブマシンガン(実際には自動小銃)、半自動小銃、分隊用機関銃と名称を定めた。同時に中国はソ連のRPG-2ロケットランチャーにならって五六式40mmロケットランチャーをコピー生産して中隊の支援火器とした。装備の費用が限られていたため、解放軍の重点部隊が1959年から1962年にやっとまず換装を完成させた。国境に赴いて参戦した部隊はまさに全軍で初めて戦場で「五六式」を使用した部隊だった。

中印国境の多くの地は山が高く道は狭く、解放軍参戦部隊は移動時に銃器、ロケットランチャー、無反動砲、小数の迫撃砲を身につけて携帯するしかなく、弾薬も人に頼って肩に担がれたので多く携帯することは非常に難しかった。「五六式」銃器は射程が適度で、中間型弾薬は重量が軽いため多く割り当てることができ、この特殊な地形条件下ではそのメリットを発揮できた。五六式半自動小銃は植生が少ない非常に寒い地域では、数百m離れての正確照準射撃に最も利点があり、兵個人は一基数ごとに120発の弾薬を携帯でき、持続戦闘が保障できた。五六式サブマシンガンは火力が猛烈で、400m以内では相当な精度もあり、「小型機関銃」と呼ぶことができた。五六式分隊用機関銃は100連弾薬ベルトによって給弾され、火力持続性がよく、敵のトーチカの銃眼を有効に封鎖し、遠距離の運動する敵を殺傷することができた。掃討作戦時、インド軍第62旅団の旅団長シンが4人を率いて逃走したが、五六式分隊用機関銃の一連射で全員撃ち倒され死亡した。五六式ロケットランチャーは堅固な目標の攻略時に最も使用に適した武器と呼ばれ、このランチャー重量が2.7kgしかなく、弾薬重量が1.7kgの兵個人用携帯武器は歩兵の突撃にぴったりついて行くことができ、100m以内で正確に敵のトーチカを打撃できた。統計によればこれの命中を受けた火力ポイントは何と1つも再び復活することはなかった。

この時インド軍が装備した歩兵武器は乱雑で、多数の小銃は第二次大戦前の英軍の標準装備のリー・エンフィールド式で、手動ボルトによる発射速度は非常に遅く、しかも長い弾薬は重量が大きいため、それぞれの兵は90発の弾薬しか携帯できなかった。英軍装備のサブマシンガンは主に第二次大戦時にイギリスがあわただしく大量生産したステン式で、拳銃弾薬を使用し、有効射程は50mに過ぎず、接近戦を恐れるインド軍兵士は近距離の攻撃に遭遇した時、たいていひたすら生き延びようとするだけでその配備するサブマシンガンはいくらの作用も発揮しないままだった。インド軍の軽機関銃は第二次大戦時にイギリス、カナダが生産したブレン式で、射程は長く弾丸の殺傷力は比較的大きいが、30発ボックスマガジンしか装備しておらず、火力持続性が劣り、しかも運動に不便だった。だが固定陣地内に配置されたインド軍機関銃は解放軍攻撃部隊に対しまだ一定の脅威があり、例えば10月10日の初戦時、解放軍はインド軍の1個中隊を撃退し、かつ20人余りを殲滅したが、敵をあなどり、しかも突撃隊形が密集していたため、対岸の機関銃の掃射に遭って33人が死傷した(11人死亡、22人負傷)。

インド軍が配備したイギリス式7.7mmビッカース重機関銃(水冷)とアメリカ式ブローニング重機関銃(空冷)はいずれも非常にかさばって重く、固定陣地に配備するするしかなく、何度も敗退時に銃と弾薬がいずれも重いために抛棄された。インド軍はアメリカ製のM20式88.9mmロケットランチャーを大量装備していたが、消極防御状態にあったためほとんど役にたたなかった。また、インド軍の武器は異なる国由来で、その歩兵用銃器の口径のスタンダードにも多くの種類があり、それぞれが使用する弾薬は共用できず、後方勤務補給の災難と呼ばれた。戦後多くのインド軍、政府の要員が、本国陸軍が独立後十何年か「継子のような待遇を受けた」ことを悲しみ嘆きもしたが、装備から見て完全に立ち後れた軍隊となっていた。

解放軍が中印国境反撃戦の中で得た「五六式」を使用した実戦経験は、この一連の装備に対し自信満々にもさせた。だがこの時の作戦の武器に対する使用の成功は、その特定の環境の限界も持っていた。例えばソ連軍は1940年代にC-41半自動小銃を装備した後ほどなく、即現代戦争の中での歩兵武器の高い発射速度という趨勢に適さないことを感じて装備から外した。中国軍は逆に中印国境作戦を通じて五六式半自動小銃の精度が良く、遠距離照準射撃に適し、また弾薬も節約されることを感じ、その後十何年かの間歩兵武器の中でずっと正副班長にはサブマシンガン(自動小銃)を支給し、普通の兵士には半自動小銃を支給した。だが1979年の南部国境作戦(頑住吉注:対ベトナム戦)では、戦闘員が熱帯のジャングル地帯で敵を発見するのはたいてい50m以内であり、この時最も良い方法は自動銃をもって弾丸を雨のように発射して掃射することであって、発射速度の遅い半自動小銃は反応が敏捷でないことが証明された。南部国境作戦の新たな実践を経て、解放軍の小銃はやっと統一的に自動小銃に交換され、その後の小銃の発展も小口径、高発射速度の方向に確定したのである。

(頑住吉注:これより3ページ目)

勇気に技術装備をプラスしてこそ最強の戦闘力を形成することができる

武器の機能の発揮が頼るのは使用者の素質である。当時の中印の軍隊の最大の隔たりはまさに将兵の戦闘の素質にあった。革命戦争で鍛錬され成長してきた中国の軍隊の伝統は、「ある銃で戦う」であり、主導性と創造性が発揮できることは実際の武器の有効使用のよりどころだった。インド軍は逆に植民地で雇用されるという伝統が色濃い軍隊であり、戦術思想が杓子定規で、将兵は普遍的に応付差事(頑住吉注:自分に割り当てられた最低限を行う、といった意味のようです)の観念をもって戦事に対処し、本来すでに明らかに立ち後れた武器をさらに効果が発揮し難くさせた。

解放軍の中印国境で参戦した部隊の多くは光栄な戦闘の歴史を持っていた。1956年の四川康巴反乱発生から1961年のチベット地域反乱平定終了までのこの5年間は、また非常に寒い山岳地帯での豊富な作戦経験を積ませた。部隊は強力な政治工作によって将兵の士気が高揚し、自覚をもって祖国防衛のために奮戦することを決心していた。当時の幹部、多数の正副班長および一部の老練な戦士には普遍的に豊富な戦闘経験があり、新たに入隊した若い義務兵も戦闘前の何ヶ月かの訓練によって熟練して武器を掌握することができた。

解放軍は地形複雑な高い山や険しい峰の迂回に何度も成功したが、インド軍は杓子定規に道路沿線を守ることしかできなかった。士気や戦術のレベルの他の重要な原因は、中国サイドの武器の選択使用は軽量化に重点が置かれ、一方イギリスの正規戦法を踏襲したインド軍は武器および編成の配備上いずれも現地の必要性に適応していないことだった。解放軍はインド軍のような空中投下による補給ではなく、連隊以下の単位は人力とラバに頼って全部の武器弾薬を携帯でき、「猿も通れない」とされる道なき地を長距離突っ切った。国境東部分の反撃作戦の中で、部隊の主要な戦法は、まず迂回して敵軍を分断し、さらに追撃殲滅を行う、というものだった。西部分での反撃の中の主要な戦法は接近攻撃、堅固な陣地のポイント突破だった。参戦部隊は歩兵武器と携帯支援火器の接近戦、夜戦に適した特徴を充分に発揮し、しばしばインド軍の面前に突然出現し、「隘路で行き合えば勇者が勝つ」の交戦中、士気でも火力でも敵を圧倒することができた。

東部分のインド軍主力たる第4師団は、本来英連邦軍のエースでもあった。1942年の北アフリカの有名なエル・アラメイン会戦では、この師団はロンメル率いるドイツ・イタリアアフリカ軍団の退路に迂回し、イギリスの総司令官モントゴメリーにパフォーマンス最良の部隊と称された。中印国境反撃戦の期間、インド軍最精鋭の第4師団の中にはまだ第二次世界大戦に参加した老兵が1/4いた。彼らは手中の武器を熟知していたが、いずれも年齢は40を越え、突撃する勇気にも欠けていたし体力も続かなかった。インド軍兵士はまたいずれも雇用された職業兵で、家族を養い糊口をしのぐことだけを求め作戦目的が分かっておらず、作戦行動時士気が低下した。さらにその将兵は普遍的に弾薬節約や独立作戦の観念がなく、往々にして遠くから目標を見つけるとすぐに射撃し、弾薬、砲弾を撃ち尽くした後にまた補給を呼ぶことに頼った。迂回に長けた中国軍がその後方の補給ラインを切断した時、多くのインド軍はすぐに糧食、弾薬いずれもないという状態に陥った。ああした、「長いひげを蓄え、銀色のターバンを巻いた」、「髭面の兵」たちは、普遍的に20歳未満の中国の「子供兵」の攻撃に遭遇し、構築物に頼る者がまだ抵抗できた他、それ以外は全てさっさと逃げ、それができない時は兵器を捨てて手を挙げ、すぐに捕虜となった。1ヶ月余りの作戦の中で、インド軍の捕虜になった者は3,900人もいたが、中国軍は誰一人捕虜にはならなかった。

解放軍は反撃戦の中で特に近距離戦、野戦の特徴を発揮することに重点を置いた。インド軍との遭遇時、もし数で優勢を占めなくとも、ほとんどいつも身につけて携帯する軽便武器を用いて迅速にこれを撃滅することができた。例えば32連隊第2大隊戦闘部隊が11月20日早朝にインド軍第48旅団グルカ連隊第6大隊とチャークで遭遇した時、すぐに夜の暗い中インド軍に向け猛然と突進した。部隊が村に突入した後、まず40mmロケットランチャーで7両の弾薬を満載したインド軍車両を撃って燃焼、爆発させ、インド軍の2両のアメリカ製M-3A3戦車は逃亡を図ったが、前の1両がすぐに2発のロケット弾の命中を受けて発火し、別の1両の乗員は戦車を捨てて密林に逃げ込んだ。弾薬車の爆発の音が地面をゆるがし、炎が天を衝くチャークで、インド軍は組織的抵抗ができないまま即四散、逃亡した。

解放軍の参戦部隊は人の勇敢な精神と積極性を発揚し、武器に対してもいくつかの創造的な使用方法があった。敵の火力ポイントを有効に破壊するために、攻撃部隊は解放軍戦史の中で、一江山島戦闘に続き、また火炎放射器を使用し、主に攻撃にあたる中隊には2〜6基が配属できた。当時用いられた58式火炎放射器は火薬ガス噴射を採用し、有効射程は50mに達し得たが、極度に寒い条件下ではしばしば冷噴(油を噴くだけで発火しない)を起こした。噴射手は有効に敵を殲滅するため、あえて接近戦を行う伝統を発揮し、しばしば敵からたった20mのところで噴射した。当時40mmロケットランチャー使用時に遭遇した最大の困難は、発射時に後方に噴火があり、複雑な地形での使用が不便なことで、後方の安全角度が探し出せず、しかも戦況もまたごく緊急な状況下では、射手は往々にして自分の足を火傷してでも直ちに敵に向け発砲した。第130師団によるワーノンの堅固な陣地攻略の時、75mm無反動砲の砲手は灌木が高すぎるために砲架を支え難く、背嚢のベルトを使用して砲身を樹木に結びつけて発射し、連続して敵の4つのトーチカを破壊し、砲兵戦史上稀に見る奇観となった。

中印国境自衛反撃戦は規模、時間ともごく限られた国境作戦で、懲罰という性質の打撃の目的を達成した後、1962年11月21日に中国政府は突然に停戦を宣言し、直ちに部隊は1959年の実効支配ライン10km内に撤収した。長期にわたり国内の多くの人が軍撤退に理解を示さないのは、非常に大きな程度上当時の国内外の形勢および戦闘区域の地理と後方勤務供給の難度を理解していないからで、間違いなく「自分でやってみない者には困難さは分からない」に属する。当時戦闘地域では補給が非常に難しく、後方は2本の長さ数千kmにも達する砂や土の路面の高原の道路に頼って保障を供給した。1両の燃料運搬車が前線に到着すると、往々にして自ら半分近い燃料を消耗しなくてはならず、大軍の長時間の作戦を保障しようというのは想像し難いことだった。この地域の作戦で素早く打撃し素早く撤収し、勝利獲得後凱旋したことは、我が国が非常に良好に平和への誠意を顕示することができただけでなく、いくつかの外国世論から、「スマートの極み」と称され、軍事的にも主導的立場にいて受け身に陥ることを避けることができたのである。

毛沢東はかつて、中印国境でひとたび戦争すれば、10年の国境の安定が勝ち取れる、と見積もった。事実は、この戦争後何十年来、中印国境の情勢がずっと比較的安定していることを証明している。これは自衛反撃戦の主要な目的が好都合に達成された、ということである。この戦争は「56式」武器に対する有効な使用であり、その信頼性と実用性も検証され、ここからその後長年の間、この系列が全軍の標準装備として固まったのである。この国境反撃作戦の経験は、後の我が国の国防建設に対しても重要な参考資料を提供した。


 もちろんこれは一方的な中国の言い分で、全部信用するには値しませんが、興味深い内容をいろいろ含んでいました。昔、もしアメリカがベトナム戦争でなく、長い射程が要求される砂漠や山岳での戦いを行っていたらM14がもっと長く正式小銃で有り得たのでは、と書いたことがありますが、対インド戦で成功したSKSが中国でソ連より長く生き残ったというのはそれに近いケースですね。「非常に大きな程度上当時の国内外の形勢および戦闘区域の地理と後方勤務供給の難度を理解していないから」に関し、後者の説明はありますが前者の説明がありません。これに関しては「中印戦争後、中国は外交的に孤立:アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国が中国を非難」に説明がありました。しかし50年以上たって両国の装備、道路などの整備状況、国際的影響力などが大きく変化しており、限定的な国境紛争が起きた場合この当時とは全く違う経緯をたどることは間違いありません。



















戻るボタン