1979年式サブマシンガン

 拳銃弾薬を使用しながらガスオペレーション式というユニークなサブマシンガンである1979年式に関するページの内容を紹介します。日本国内に知る人は少ないと思われますが、この銃の誕生過程には、歴史を感じさせる意外なエピソードがありました。

http://www.gun-world.net/china/smg/79/79smg.htm


1979年式サブマシンガン

口径7.62mmx25

(頑住吉注:原ページにはここに断面図イラストがあります)

1979年式7.62mm軽量サブマシンガン、略称「79式サブマシンガン」は1979年に設計定型に至り、1983年に生産定型に至った。1981年の試作から算入して1992年まで、79式サブマシンガンの生産総量は20万挺近くになり、生産量が最大になったのは1988年と1991年で、年間生産量はいずれも3万挺を超えた。一般的に銃器の研究開発期間は5〜7年、主要な研究開発人員は4〜10人であるが、79式サブマシンガンの研究開発は15年もの長きにわたり、研究開発に参加した主要な人員は数十人に達した。

79式サブマシンガンの研究開発作業は、最も早くは1965年8月に遡ることができる。当初、元軍械部所属のある研究所が、ジャングル地帯での使用に適した種類のサブマシンガン、略称「ジャングルサブマシンガン」の研究開発任務を引き受けた。当時の研究開発条件は極度に苦しいもので、試験室もなく、試作に必要な加工条件もなく、技術人員も専門学校を卒業して長い時間の経っていない者たちで、仕事の経験が不足していた。このため最初のプランに基づく試作銃は民間の機械加工工場で試作され、完成した銃は全く成功したものではなかった。

1966年5月、「文革」が始まり、研究開発作業は非常に大きな妨害を受け、正常に進行することができなかった。このため「ジャングルサブマシンガン」の研究開発は停止した。1967年には要求に基づき研究が再開されたが、1969年になって再び中止された。この間、科研人員は頻繁に異動し、科研作業はほとんど管理する者がいない状態に置かれていた。

1970年3月、解放軍参謀本部二部は、偵察兵、通信兵、砲兵、航空降下兵等特殊専門部隊及び公安人員の使用に適した、携行に便利な銃器の研究開発を要求した。このプロジェクトは中国兵器工業第208研究所(略称「208所」)の研究開発とリンクし、4月に改めて組織された人員がこの「ジャングルサブマシンガン」の研究開発の継続に着手した。この時この銃は「7.62mm軽量サブマシンガン」と改名され、劉質桐がプロジェクトのリーダーを務めた。

1971年12月〜1972年1月、新型サブマシンガンの試作品は初めての国営射撃場での試験に臨んだが、この時排莢不良、送弾不良、主要部品の強度不足といった問題が生じた。改良後、1974年に2回目の国営射撃場での試験が行われたが、依然としてスムーズに試験にパスすることはなかった。1975年9月になって3回目の試験が行われたが、この銃にはまだいくつかの細かい問題が存在した。その後プロジェクトグループは工場において100挺のサブマシンガンを試作し、相前後して済南、沈陽、蘭州、昆明等の地で部隊による試用が行われ、また高温、泥砂を使用した試験が個別に進行し、部隊の賛同を得た。

3回目の国営射撃場における試験で依然としていくつかの問題が残っていたため、部隊での試用後の1978年4〜5月、この新型サブマシンガンに関して4回目の国営射撃場における補充設計定型試験が行われ、この時はついにスムーズにパスした。1979年9月25日、このサブマシンガンは小火器定型委員会により設計定型が認可され、正式に「1979年式7.62mm軽量サブマシンガン」と命名された。

主任設計者劉質桐はかつて「軽兵器」誌の取材を受けた際、研究開発段階の79式サブマシンガンは2度の政変を経験したと語った。

79式サブマシンガンは航空降下兵等の特殊部隊のために研究開発されたので、研究開発中空軍部隊との協力関係があった。1971年、空軍部隊は開発グループに請求して、当時「ジャングルサブマシンガン」と呼ばれていたこの銃の設計図面と2挺の試作品を手に入れ、その後この図面は返却された。開発グループが図面を再び手にした時、図面上にはコンパスによる穴ができており、さらに図面は毛羽立っていた。明らかに盗作されていた。後で分かったことだが、図面と試作品は林彪反党集団の手中に至っていた。9月13日、林彪は逃亡する際に機が墜落して死亡したが、事後の調査の際、上海に私的に製造された7.62mmサブマシンガンが100挺以上貯蔵されていたことが分かり、これがまさに「ジャングルサブマシンガン」のコピー品だったのだ。サブマシンガンを研究開発していたプロジェクトグループはこのため迷惑をこうむった。幸いなことに研究所には図面を渡した際の全部の手続きが記録されており、これが組織に定められた手続きと完全に符合していたため、かろうじてそれ以上の捜査を免れた。

もう1回は1976年のことだった。この年の2月、国防部が関係者を呼んで会議を開いた。上海方面では208所のサブマシンガンの図面を基礎にして、変更を加えて試作を行っていた。後になってやっと分かったことだが、上海方面で試作されたサブマシンガンは実は王洪文反党集団の手に落ちていた。「4人組」が粉砕された後、これらの銃は208所の手に渡った。上海で試作されたサブマシンガンは、主要構造では79式サブマシンガンを踏襲していたが、アッパーレシーバーに手が加えられて放熱穴が増加し、マガジンハウジングとコッキングハンドルも改造されていた。この改造はあまり実用性を向上させていなかったし、射撃精度も比較的劣っていた。

(頑住吉注:これに関しては補足説明しないと大部分の人が何のことやら分からないと思いますので、先日メールをいただいた中国人の方に解説していただいた内容をもとに補足説明します。1966年から1976年に行われたいわゆる文化大革命当時、中国共産党内部の多くの派閥が混乱を利用して資本、権力を獲得しようと活動していましたが、その代表が林彪グループといわゆる「4人組」でした。第1回目の政変は林彪グループに関わるものです。林彪は中華人民共和国建国の英雄の1人であり、軍事面において非常に高い能力を持っていました。当時毛沢東に次ぐナンバー2の座にあり、後継者ともされていましたが、毛沢東との軋轢が生じたこともあって林彪グループの中核メンバー、とくに息子の林立果らが早期の権力奪取を企み、毛沢東の暗殺、武装蜂起をも選択肢に含めて計画を進めました。計画は「571工程」と命名されましたが、これは中国語の「571」の発音が「武装蜂起」に近いことからだということです。林彪は空軍に強い影響力を持っていたため、空軍内に毛沢東暗殺のための決死隊も組織されていました。こうしたグループの使用する武器として79式サブマシンガンが模造されたということです。一方2回目の政変は「4人組」に関わるもので、王洪文は「4人組」の1人で上海を拠点にしていました。「4人組」は林彪とは異なり実権を持たず、また軍にも大きな影響力を持たず、毛沢東の力がなければ力をふるうことはできませんでした。このため基本的に彼らは武装蜂起などの手段を考えていませんでしたが、文化大革命の末期に毛沢東の健康状態が悪化した後、権力奪取の準備を急速に進めました。王洪文は一定の民兵を動かすことができ、自身も軍での経験があったので、「4人組」の中では比較的軍事面に強く、このため79式サブマシンガンの改良、試作を行ったもののようです。ちなみに王洪文は逮捕後終身刑判決を受けて獄死しています。)

(頑住吉注:なお原ページにはここに上海で模造されたサブマシンガンの画像があります。上の3枚はそれぞれ細部が異なる型の比較であり、下は上海で模造された銃(上)とオリジナルの比較です。上海で模造されたものは全体に直線部分が多く、グレードが低そうな感じです。なお、さらに下にはカラシニコフが中国を訪問した時に79式を試射した際の画像があるんですが、現在表示されません。残念ながら以下にも表示されない画像が多数あり、現在表示されないものは無視します)

79式サブマシンガンはガスオペレーションの自動方式を採用しており、ボルトは回転式閉鎖機構である。この種の機構は使用に際し信頼性が高く安全であり、作動が静かで閉鎖を支える面が発射時に均等な力を受ける等の特徴を持つ。ボルトの前端左右には対称に閉鎖突起があり、開閉鎖を行う窪みはボルト自体にあって自動機構の高さ、幅を小さくしている。また作動する部品の重心をバレル軸線に近付け、射撃精度を高めるのに有利となっている。79式サブマシンガンには緩衝機構も備えられており、この機構は台座とゴムからなり、ボルトの余分な後座エネルギーを吸収し、後座の緩衝をする働きをする。

弾薬の撃発後、火薬ガスは弾頭を前方に推し進め、一部のガスは導気穴を経てシリンダーに入り、ピストンにぶつかる。ピストンはボルトキャリアに衝突し、後方への運動のための力を与える。ボルトキャリアがフリーなストロークを終えてボルトを動かし開鎖した後も後退は継続し、薬莢が引き抜かれ、ハンマーが起こされ、リコイルスプリングが圧縮され、薬莢が排出され、後退が終わる。その後リコイルスプリングの作用でボルトキャリアは前進し、弾薬をチャンバーに押し込み、閉鎖し、不完全閉鎖では撃発しない安全機構が解除される。前進しきるとこれで自動機構のストロークが完成する。

79式サブマシンガンは54式サブマシンガン(頑住吉注:PPSh-43のコピー品)と同様に51式7.62mm拳銃弾薬を採用している。異なるのは54式サブマシンガンは湾曲したマガジンを採用し、79式サブマシンガンはストレートのマガジンを採用している点だ。これは51式拳銃弾薬のテーパーが比較的小さいことを考えて採用された構造で、この種のマガジンが51式拳銃弾薬と非常に相性が良く、使用に便利であることは実践によって証明されている。79式サブマシンガンは頑丈な折りたたみストックを採用しており、伸ばしていても折りたたんでいても、等しく信頼性の高い射撃ができる。ストックを折りたたんでいる際はピストンの前のロック金具によって便利に固定できる。グリップの湾曲は握りやすく設計され、またグリップ内にはポンチ、ブラシ等のアクセサリーが入っている。

(頑住吉注:原ページのここにある画像を説明します。最初の画像はレシーバー右側面で、部品名は上から時計回りにコッキングハンドル、マガジンキャッチボタン、セレクターです。その右はコッキングハンドルを引いてエジェクションポートをオープンしたところです。その下の左右に分かれた丸い画像はセレクターの説明で、「2」でフルオート、「1」でセミオートです。その下はグリップの中身で、左から底蓋、ブラシ、ポンチです。その下は緩衝機構の説明です。その下はストックの説明で、右の画像ではガスシリンダー、ピストン前方のロック金具で折りたたんだストックがロックされる様子が非常によくわかります。その下はサイトの説明で、右の上下2枚に分かれた丸い画像はリアサイトの調節の様子を示し、上が100m、下が200mです。その下はボルトの説明です。左はボルトキャリアとボルトを分離したところで、右は銃に組み込まれた状態です。)

研究開発の前、論証開始時の主導的な思想は、かつて国内で装備した同等の威力を持つコピー品サブマシンガン、すなわち54式サブマシンガンを超えることだった。54式サブマシンガンも51式拳銃弾薬を発射し、有効射程は200mだったが、重量は3kg余あった。当時要求されたのは1.8kg前後で54式と同等の威力を持つ軽量サブマシンガンで、確実に「大躍進」と感じられるものだった。重量の軽減もしなければならず、しかも銃は頑丈で耐久性が高く、信頼性の高いものであることを保証しなければならなかった。設計中には多くの難題にぶつかった。主要な問題はコッキングハンドルが断裂しやすいこと、排莢不良、送弾不良等だった。これらは技術的な重要問題への取り組みを経て一つ一つ解決された。

1.コッキングハンドルの断裂問題

79式サブマシンガンの理論上の発射速度は毎分1,000発前後であり、発射速度は比較的高い。高速の振動にさらされ、前後方に衝突するという条件下では、コッキングハンドルの質量の縦方向の分布は、先端が小さく根元が大きいものにしなければならない。慣性質量をできるだけ小さくするためにである。これこそがコッキングハンドルが比較的尖った設計になっている主要な原因である。ただしこれはコッキングハンドルの強度を低下させることにもなり、また先端が尖っているため、素早く銃を操作する際に不注意で衣服を破いたり指に怪我をする問題を引き起こす可能性がある。後に採られた措置は、鍛造時にあらかじめ溝を設けることと、コッキングハンドルの厚みを増加することだった。これによりコッキングハンドルの強度も向上でき、重量も軽減できた。

(頑住吉注:原ページにはここに、コッキングハンドルを下から見た画像が2枚あり、肉抜きの様子が分かります)

2.排莢不良の問題

51式拳銃弾を使用する銃にはストレートブローバック式の慣性閉鎖機構のものが多い。試験中、この種の銃を使用している際、薬莢が火薬ガスの圧力作用の下でチャンバー外に自動的に抜け出、エキストラクターがなくても自動的に排莢できることが分かった(頑住吉注:このためストレートブローバックの小型ピストルの中にはベレッタジェットファイアなどのようにエキストラクターを持たないものもあります)。このため51式拳銃弾薬の薬莢のリムの厚みは厳格に統制されておらず、比較的薄いものや傾きのあるものもあった。生産品質上ここに厳格な要求がなされていなかったことは、79式サブマシンガンのようなガスオペレーション式の銃に使用するにあたり薬莢の引き抜き、投げ出しに困難をもたらした。エキストラクターがしっかりとリムをつかんでいないため、高加速度下で開鎖する時に、後退中の振動で容易に薬莢は脱落し、排莢不良が起きた。多くの試験は、薬莢のリムの品質が悪い弾薬を使ったときに排莢不良が明らかに増加することが証明された。そこでこの通常は偶然によってランダムに起きる故障問題の解決が1つの技術的難題となったのである。

設計中、なるべくエキストラクターを動かすスプリングのテンションを強め、支点と力点の距離を離すことの他に主に行われたのは、エキストラクターのツメ部分の寸法を厳格に統制することであり、さらには「邪道」な方法さえ用いられた。すなわち弾薬をつかんだ後0.25〜0.3mm偏心し、13度傾くようにした。これにより寸法に偏差のある弾薬を使用した際もしっかりとつかめることを保証した。多くの試験で、こうした総合的な改修により排莢不良を大きく減らせたことが証明された。使用中に薬莢はしっかりつかまれ、強く排出され、正しい軌跡を描いた。正しい軌跡を描くというのは薬莢が正確なルートで排出され、エジェクターがなるべく正確にリムを叩き、容易に銃の外に放り出し、ぶつかって銃内に戻るようなことにならないということである。

3.送弾不良の問題

拳銃弾薬の弾頭は円柱形であり、誘導性は良くない。ただし、もし具体的な構造上の制約を受けなければ、上昇角度が小さく、行程の短い進入ルートを採用するなどし、マガジン内部での給弾に関する設計さえ妥当ならば、給弾は保証され、一般的に送弾不良が起きることは比較的少ない。だが79式はボルト前端が回転する閉鎖機構を採用しているので、ボルトヘッドの閉鎖用ラグがバレル後端の大きな空間を占め、マガジンの位置は下、後方にならざるを得ず、給弾ルートは急な坂を登る長いルートとなる必要があり、ルート上で容易に停止してしまうことになる。マガジン内で最初の弾薬の前部が充分に上昇しないことも、また特に後部が上昇しないことも容易に送弾不良を発生させる。設計中に何度もの模索を経て、原因が分析され、マガジンスプリングの最も上の1、2巻きの後部間の距離さえ厳格に統制する手法が取られ、後部を持ち上げる力が強化され、送弾不良は大幅に減少した。当然マガジンリップの絞り具合や長さも弾薬供給の当初位置への影響が非常に大きく、厳格な統制が必要だった。使用中マガジンをぶつけ、マガジン、特にリップを変形させることは決してしてはならない。

4.連発精度の問題

79式サブマシンガンは設計当初、チェコのスコーピオンサブマシンガンを真似た太いスチールワイヤー製ストックを採用していた。その構造と工程はいずれも非常に簡単だったが、肩付け射撃時の連発精度は非常に劣っていた。ストックの剛性、特に基部の剛性を高めることが、連発精度問題解決の鍵だった。そこで技術人員はダブルアームの薄板式ストックの使用に改めたが、連発精度はこれでも理想的なものにはならなかった。最終的に採用されたのは中央が打ち抜かれたコの字型断面の方策で、これで連発精度問題は解決された。またストックの重量も重すぎるものにはならなかった。

79式サブマシンガンは長期間の生産を経て、実際の装備はその性能が信頼できることを証明した。ただしこれが採用した自動原理と構造は同類の軽量サブマシンガン中にあまり見られず、構造は比較的複雑であり、今に至るも評価は定まらない。だがすでに長年にわたって装備された後での反応や工場での検査、受領記録からは、79式サブマシンガンの精度と信頼性が比較的人を満足させるものだったことが見て取れる。定型試験での審査基準は工場での検査、受領でも厳格に維持されたし、生産中に工場も工程に改良を加え、製品の品質は安定し、このため故障率は検査、受領基準が要求した0.25%を下回った。79式サブマシンガンは生産初期の品質のみ良好に統制されず、連続2年合格する製品が出ないという結果を招き、このため軍は新しい7.62mm軽量サブマシンガンを研究開発する要求を出し、4年後に85式軽量サブマシンガンと消音サブマシンガンが定型に至った。だが79式サブマシンガンの生産も生産工程の改良のため製品の品質が厳格に統制され、このためこれら2種の軽量サブマシンガンはいずれも十数年生産された。79式軽量サブマシンガンは主に公安の幹部や武装警察部隊、85式軽量サブマシンガンは主に野戦部隊に装備された。85式消音サブマシンガンは主に偵察兵や特殊部隊に装備された。

79式サブマシンガンは部隊に装備された後、対ベトナム自衛反撃戦に参加し、戦争中このような1つの戦例がある(頑住吉注:いわゆる中越戦争は、ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナムが後に親ソとなって中国と対立するという「裏切り」を行ったこと、ベトナム国内の華僑を迫害したことなど、中国側にも一定の言い分はあるようですが、侵攻したのは明確に中国側で、「自衛反撃戦」という名称は第三者的立場から見ると首を傾げざるを得ないものです)。我が国の国境内にある歩哨所がベトナム軍によって占領された。我が軍のある偵察分隊の3名の偵察員はその奪還と敵状を聞き出すための捕虜を連れてくるべしという命令を受けた。3名の偵察員は79式サブマシンガンとナイフを装備して任務の執行に当たった。ある日の深夜、彼らは突然に歩哨所に突入し、1名の偵察員が室内の4名の敵ベトナム兵を射殺し、1名の偵察員が室外で掃射し、敵ベトナム兵を4名射殺するとともに1名の両足を叩き折り、他の1名の偵察員はナイフを持って前に出、足を折られた敵ベトナム兵を確保し、これを引きずって敵状を聞き出すための捕虜を手に入れた。彼らは40秒間で任務を完成し、我が方は1人の死傷者も出さなかった。

他の戦例では、我が軍のある偵察分隊が、我が辺境の某地に潜伏することを命令された。敵ベトナムのスパイ隊もその時逃亡してそこに潜伏していた。両軍の距離は約20mで、双方とも相手を発見していなかった。3昼夜の潜伏を経て、我が軍は移動を命じられ、敵軍も撤退命令を受けていた。ほとんど同時に双方は相手を発見した。双方の指揮官は同時に射撃を命じたが、我が方の射撃開始が少しだけ早く、敵はたちまち全員射殺された。我が軍は戦闘後、経験を総括した際に次のように語った。「今回の遭遇戦の勝利においては、1つには指揮官の果断さ、2つには79式サブマシンガンの平時から戦闘時への転換性が良好で素早く射撃開始できることが勝敗を決する主要な作用をなした。」

79式サブマシンガンの性能は信頼でき、クローズドボルトとガスオペレーション自動原理の採用により、射撃精度が比較的高く、また重量も比較的軽い。発射速度が高いので、短時間内に目標地域を弾雨で覆うことができ、1つの優秀な近代戦兵器である。この他79式サブマシンガンのトリガープルは非常に軽く、経験のある射手によれば連発状態下で楽に単発あるいは2発の点射ができる。一部の巡邏警察官あるいは特別警察隊員はこのメリットを利用し、79式サブマシンガンを近距離における精密射撃武器として使用しているという。79式サブマシンガンの欠点はマガジン容量が20発しかなく、持続射撃に不利であることだ。

銃全長 ストック伸長時 740mm
ストック折りたたみ時 470mm
銃身長 250mm
重量 マガジンなし 1.75kg
空マガジン付属 1.9kg
装弾したマガジン付属 2.1kg
発射方式 セミ、フルオート
マガジン容量 20発
銃口初速度 515m/s
銃口エネルギー 725ジュール
理論上の発射速度1000発/分
戦闘時の発射速度 セミオート 40発/分
フルオート 70〜100発/分
有効射程 200m

近年各地の治安機構が次々に特別警察部隊を成立させているのにつれ、現在79式サブマシンガンは国内の特別警察の主要武器となっており、多くの改造パーツが出現してこうした新しい任務にさらに適するようにしている。当初はこうした改造はバレル上にシュアーファイアータクティカルライトやレーザーサイトを取り付けるだけだったが、その後MP5用のマウントを改造したタクティカルライト用マウントが出現しはじめ、現在ではさらにM1913ピカティニーレールを使用するマウントも出現している。

2000年末、広州市のPSM特別警察隊が公開演習時に使用したサブマシンガンは、おそらく最も早くメディアに出現したシュアーファイアー装備の79式サブマシンガンである。


 「戦例」の記述は西側の兵器解説ではちょっと考えられないような生々しいもので、文化の違いを感じざるを得ません。

 先日メールをいただいた中国人の銃器愛好家の方は、この79式はオリジナリティーを求めすぎたためにサブマシンガンとしては複雑でメンテナンスが不便、故障しやすいものになったと否定されていました。私はこのページの後半に多数紹介されている画像を見て、この銃は中国版のMP5として一定の意義のあるものなのではないかという印象を受けています。通常のストレートブローバック式サブマシンガンはオープンボルトからの撃発であり、重いボルトが弾薬をチャンバーに押し込んだ瞬間に発火するので命中精度が低くなります。アサルトライフルの9mmサブマシンガンバージョンなどのようにストレートブローバックでクローズドボルトというものもありますが、やはり重いボルトが激しく前後動することによりフルオート時の動揺は大きくなります。この点MP5のローラーロッキングや、この79式のガスオペレーションでは軽いボルトが最低限の力で後退する形にできるので、初弾の命中精度が高くなるだけでなくフルオート時の命中精度も高くなります。79式はMP5よりずっと軽量であるという利点を持つ一方、市街地での治安維持用には貫通力が大きすぎるという欠点もあります。しかし後者は理論的には適した弾頭の使用で解決できるはずですし、低性能のボディーアーマーを装備した敵に対抗できるという長所にもつながります。発射速度はマガジン装弾数に比して高すぎるという評価も可能ですが、瞬間的制圧力が高いということもできます。ただ、中国には重量はさほど変わらず、50連発マガジンを持ち、より貫通力の高い05式サブマシンガンがあるので、この銃はいずれ引退することになるんでしょう。
















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