中国魚雷艇の反乱逃亡事件

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://tuku.military.china.com/military/html/2014-01-17/222161_2454465.htm


中国海軍某戦闘艦反乱逃亡事件の真相を明らかにする

1985年3月21日午後、北海艦隊快速艇第1支隊第61大隊(実際には71大隊第4中隊)(頑住吉注:ちょっと意味分かりませんが)は3213号魚雷艇(37016部隊53分隊)を指揮艇とし、その他5隻の快速艇と共に青島軍港を出て黄海海上に行って訓練を行い、演習は7時20分に終わった。画像は反乱逃亡した艦艇。

(頑住吉注:2ページ目)他の5隻の魚雷快速艇が相次いで帰航した後、しんがりを務める3213号魚雷艇上では、電信兵杜新立が艇上の銃器キャビネットの中から、サブマシンガンと拳銃各1挺を取り出し、その後銃器キャビネットを施錠し、さらに拳銃を電信・ナビゲーション担当兵王中栄に渡し、自らはサブマシンガンを携えて甲板に駆け上がり、直ちに操作室に向けて射撃した。代理艇長張暁生がまず犠牲となり、続いて杜新立はさらに操作室の中の5名のその他の幹部を次々に射殺したが、副艇長張維功および機関長曲振波は負傷したものの幸いにも生存した。その他の船員は銃声を聞いて続々と避難し、後に集団で杜新立によって船室に押し込められた。

(頑住吉注:3ページ目)韓国警備隊が3213号魚雷快速艇を曳航するのと同時に、22日午前、3隻の中国軍艦が魚雷艇捜索のため韓国海域に進入した。韓国は発見後、海空軍を派遣して警告を行い、かつ武力の示威を行った。だが双方の態度はいずれも非常に抑制的で、外交上の事件が引き起こされることはなく、中国軍艦はその後韓国領海ラインの外まで退いた。画像は叛徒の反乱逃亡の説明図。

(頑住吉注:4ページ目)韓国警備隊パトロール艇はまず張維功、曲振波両名の負傷者を高志明によって随伴させ、群山病院に搬送して応急手当した。旺嶝島から群山港までは3時間の航程だった。張維功、曲振波両名の負傷者が病院に入院した後、韓国ミリタリーポリスは直ちに群山病院に厳密な警戒措置を取り、彼らの安全を保護し、いかなる人も随意に出入りしてはならないとした。画像は韓国サイドの救急車。

(頑住吉注:5ページ目)23日午前、3時間の手術が行われた。曲振波の左腕は弾丸によって貫通され、腕の骨は完全に破断しており、手術を経た後はすでに石膏で包まれていた。張維功は左胸に命中弾を受けており、手術後すでに弾丸は摘出されていた。画像は韓国サイドによって逮捕された中国の叛徒。

(頑住吉注:6ページ目)沿岸警備隊はひとまず艇上で発生した事件の経過を理解した後、午後に3213号魚雷快速艇を群山港に曳航し、杜新立、王中栄およびその他の8名の幸いにも生存した艇員は艇と同行し、彼らは艇上の船室に施錠して艇を離れ、群山観光旅館に収容された。6つの遺体も群山病院に運ばれた。画像は韓国サイドによる犠牲者の遺体の搬送。

(頑住吉注:7ページ目)韓国の魚雷艇事件につき組成された合同調査チームが、2名の負傷者を群山病院に送り、現地の華僑の通訳によって尋問を行った時から、即事件は「単純化」の方向に向かった。画像は負傷した船員。

(頑住吉注:8ページ目)中国および韓国は、直ちに新華社香港分社および韓国駐香港総領事など外交ルートを通じて接触、談判を展開した。中国は当時韓国と外交関係がなかったため、韓国はアメリカに頼って中国の返還要求に対し聞こえないふりをした。画像は中国代表と韓国代表の談判。

(頑住吉注:9ページ目)談判を経て、韓国サイドは中国の叛徒の送還を決定し、引き渡し式は公海で行われ、世界の各大手通信社は全面的に報道した。画像は引き渡しの場面。

(頑住吉注:10ページ目)25〜26日、韓国は中国の魚雷艇に対しメンテナンスを行った他、ソウルから6つのアルミ製の棺を運んできて、群山病院の霊安室に置かれていた6つの遺体を収め、もって艇と共に中国に引き渡すのに便とした。画像は引き渡しの場面。

(頑住吉注:11ページ目)27日零時、杜新立と王中栄は安全保障人員によってベッドから呼び起こされ、韓国警備部隊の制服に着替えさせられ、先行して群山港の3213号魚雷快速艇上に移送され、隔離された。27日夜19時45分、張維功、曲振波、高志明を乗せた1両のマイクロバスがまず群山港に到着した。3人は安全保障人員の護衛の下に、直ちに韓国軍艦に乗った。続いて1両の救急車も6つのアルミ製の棺を乗せて群山港に到着した。画像は引き渡しの現場。

(頑住吉注:12ページ目)残る8名の生存者は1両の大型バスに乗って、20時25分に港に到着した。杜新立および王中栄両名はとっくに魚雷艇のある船室内で縛られており、しかも6名の韓国護衛兵が看守していた。魚雷艇上にはさらに6つの艇員の遺体が乗せられ、その他の艇員はロープで魚雷快速艇を曳航する韓国のタグボートに搭乗していた。画像は引き渡し式。

(頑住吉注:13ページ目)20時50分前後、タグボートはゆっくりと群山港を出ていった。中国の3213号魚雷快速艇、2名の反乱逃亡者、11名の幸いにも生存した艇員、6つの遺体は、韓国海軍艦艇とタグボートの護送の下、12時間の海上航行を経た後、28日午前8時40分に会合ポイントに到着した。この時中国サイドが派遣した6隻の艦艇はすでに現場で命令を待っていた。画像は中国の犠牲者の棺。

(頑住吉注:14ページ目)3名の中国海軍人員が韓国のタグボートに乗り、艇員および死者の身分を確認した後、文書に署名され、人員と魚雷艇を受け取ったことが表明された。引き渡しの過程は午前10時から開始され、1時間半を経てやっと完成された。その後中国艦艇は魚雷艇を曳航して青島方向に向けて航行し、韓国の艦艇も帰航した。杜新立と王中栄は送還されて帰国した後、軍事法廷の審理を経て国家反逆罪、故意の殺人罪をもって死刑判決が下された。画像は引き渡し式の現場。


 「世界の各大手通信社は全面的に報道した」とされてますが記憶にないです。反乱逃亡に関する「歴史秘話」ものの記事はいくつか紹介しましたが、それらと今回取り上げられた事件で決定的に違うのは、おそらく逃亡が主目的ではなく、まず仲間を無差別に殺傷しているところです。おそらくいじめその他による深い怨恨があったものと想像されますが、「真相を明らかにする」といいながらその点には全く触れられていません。また韓国が魚雷艇を曳航するまでの経緯も何故か抜け落ちており、あるいは不都合な内容が含まれているのかもしれません。





















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