1992年スフミの戦い

 日本ではあまり知られていないと思われる戦争に関する記述です。

http://military.china.com/history4/62/20130226/17699085.html


1992年スフミの戦い:グルジア軍、民兵に敵せず

1992年10月、グルジア軍はアブハジアの首都に進攻し、激烈な市街戦が発生した‥‥

スフミの戦い:グルジア軍アブハジア民兵に敵せず撤退を迫られる

コーカサス山麓のグルジアは終始あまり平和でない地方で、この旧ソ連解体によって独立を獲得した国は長年にわたり「ソ連の天然の継承者」ロシアの地位に挑戦し、かつ積極的にアメリカに頼り、ロシア抑止の「急先鋒」に充当されている。報復として、ロシアはグルジア国内の「国の中の国」アブハジアを利用して牽制を行い、各方のゲームはめまぐるしく流動している。では、アブハジアはいかにしてグルジアの管轄を脱したのか? これは1992年に発生したアブハジアの首都スフミにおける戦闘と不可分な関係がある。

お前が独立できるなら俺も独立できる

1917年に帝政ロシアが解体し、メンシェビキ分子は次の年グルジアに第1の「共和国」を成立させた。これは実際には協商国侵略軍に頼った傀儡で、1921年グルジア人民はソビエトロシア赤軍を支持してこの政権を転覆させた。アブハジアは、本来外コーカサス山地の村落の基盤で、1917年の十月革命後ボルシェビキが指導する外コーカサス共和国に加入し、1922年に新たに生まれたソ連の一部分となった。1931年、ソ連の指導者スターリンの指示の下に、アブハジアはグルジア加盟共和国の管轄に帰せられ、その統治下の自治共和国となった。

1990年6月20日、ソ連が崩壊に瀕している機に乗じて、グルジア最高ソビエトは一方的に独立を宣言し、ソ連時代の一切の文書を破棄した。まさにいわゆる「人に見習う」で、同年8月25日、アブハジア最高ソビエトも自らのグルジアからの離脱、「独立」を宣言し、かつ自らが「完全な主権」を持つと言明した。

最初アブハジアの指導者はグルジアとの「平和的分離」のつもりだった。彼らは双方がまず1つの連邦(一種の主権国家連合体でメンバー国は完全に独立した主権を留保し、軍事、外交などの方面でのみ何らかの連合した行動をとる)を組成し、その後5年の過渡期をもってアブハジアが去るか留まるか決定する、という提案をした。だがグルジアの初代大統領ズヴィアド・ガムサフルディアはこの種の平和な方式を採用しての問題解決を拒絶した。彼はアブハジアが不法に武装組織を建設したことを非難し、かつ当地に駐留するソ連軍が不法な武装勢力に武器を販売したことを非難し、そこでアブハジアとグルジアの衝突は全面的にエスカレートした。

1992年1月、ズヴィアド・ガムサフルディアは対アブハジア作戦に全く進展がないため、国内の反対派によって退陣に追い込まれた。グルジアには旧ソ連外務大臣シュワルナゼが指導する新政府が成立した。同年8月14日、シュワルナゼはシグアにグルジア国民防衛隊指揮官を担当させ、アブハジアに行って反乱を平定し、もって独立を阻止するよう委任した。

ソ連解体の過程で、グルジア人は国内のソ連軍の兵器庫を洗いざらい略奪し、少なくとも350両の戦車と歩兵戦闘車、400門の大砲、50門の迫撃砲、4.7万の小火器およびいくらかの作戦機を手にしていた。装備が貧弱なアブハジア武装勢力に比べ、グルジア国民防衛隊は装備精良と言うに耐えた。

だが、グルジア軍の人員の素養はまちまちで、一部の準軍事人員はアブハジアの「反乱平定」期間に大規模な「民族浄化」を行い、現地の平民に対し暴行を加え、絶対多数のアブハジア人がグルジア政府に反対の立場に立つ結果をもたらした。

(頑住吉注:これより2ページ目)

ロシア軍が密かに介入

グルジア軍の進攻に抵抗するため、アブハジアはロシアの民間武装勢力(特にコサック)、アルメニア、甚だしきに至ってはバサイェフが指導するチェチェン反乱勢力を招いて尽力させた。9月5日、アブハジア人はブチブ河付近で重機関銃を用いて1機のグルジアヘリを撃墜することに成功したが、当時グルジアには合計でも12機のヘリしかなかった。

損失は小さくなかったが、グルジア国民防衛隊司令シグアは依然部隊の進攻継続を強く命令し、その兵力は直接アブハジアの首都スフミを目指し、このことは直接的に衝突のさらに一歩のエスカレートをもたらした。シュワルナゼが指導する親西側のグルジア政府に不満だったため、元駐アブハジアソ連軍部隊を引き継いだロシアも能動的に衝突に巻き込まれていった。9月10日、モスクワは「現地のロシア人のアブハジア撤収を助ける」を理由に、ロシア軍を営地から出動させ、黒海海岸に沿って挺身させ、途中の道路と衝突地域の重要拠点を占領し、グルジア国民防衛隊の進攻に困難をもたらした。この他、駐アブハジアロシア軍は密かに「半ば販売、半ばプレゼント」の形式でアブハジア人に武器弾薬を提供した。

1992年10月、グルジア軍はついにスフミに進攻し、アブハジア国会議事堂を奪取した。だがアブハジア武装勢力と外国の志願兵は都市内のその他の建築物内で断固防衛し、双方に激烈な市街戦が発生した。戦闘の中で、バサイェフ指導下のチェチェン志願軍とアルメニア志願軍は非常な残忍さを見せ、ひとたびグルジア軍の捕虜を捕まえると肢体断裂を行った。

1ヶ月余りの膠着を経て、シグアは彼の国民防衛隊がスフミの全部の街区を攻撃占領する能力がないことに気づいた。そしてグルジア軍は市街戦の中で非常に多くのロシアの傭兵を捕虜にし、さらにシグアにすこぶる厄介だと感じさせた。

当時ロシア国内世論もどんどんアブハジア寄りの傾向になり、モスクワのいくつかの新聞は「スフミ:現代のスターリングラード」の題でアブハジアで発生した武装衝突に対する報道を行うことさえした。

(頑住吉注:これより3ページ目)

グルジア軍、スフミから追い出される

1992年の最後の何週間かのうちに、グルジア軍はついにアブハジア人の首都スフミ市区における抵抗を瓦解させた。だがこの勝利は一時的なものに過ぎなかった。

1993年1月中旬、ロシアの援助下で国際的兵器商の手中から大量の戦車、装甲車、大砲を購入したアブハジア武装勢力はスフミに向け反撃を発起し、ほとんどスフミを占領するグルジア軍を全滅させそうになった。グルジア国民防衛隊はスフミ市区において無理矢理いくつかの孤立した拠点を維持できただけで、彼らは何度か反撃を行ったが、いずれも効を奏さなかった。

危機的局面に直面し、シュワルナゼはスフミを失うことは「グルジアの独立を失う」ことに等しいと公然と態度表明し、かつロシア駐留軍が密かにアブハジア武装勢力を支持していることを非難した。だが当時ロシア大統領の任にあったエリツィンは真っ向から、ロシア軍はアブハジア国内に居続け、「もって黒海地域の戦略的利益を防衛する」と表明した。

残酷な戦闘はスフミ市区で展開し続け、1993年3月16日の戦闘中、アブハジア武装勢力は50人の敵を射殺したと言明し、一方グルジア軍は20人の敵を射殺したと言明した。時間が1993年夏に入ると、スフミの市街戦はグルジア軍にもアブハジア武装勢力にも悲惨、重大な損失をもたらした。

1993年7月、コーカサス山地の村落と国際傭兵集団の全力の支持の下に、アブハジア武装勢力は決死の総攻撃を発起し、彼らは航空機を持ち、グルジア人の陣地を爆撃することさえできた。

当初グルジア部隊はまだスフミを死守し、たびたび自らが何らかの戦果を挙げたと言明した。これにはスフミ上空で撃墜した1機のスホーイー25攻撃機、1機のヤクー52偵察機、1機のミル-8Tヘリが含まれた。しかし、アブハジア武装勢力が1回の新たな攻勢を発起するたびに、グルジア軍の守備力は少しずつ弱まっていった。ついにアブハジア軍はグルジアの首都トビリシからスフミに向かう2本の補給路を占領し、スフミに対する包囲の勢いを形成した後、防衛するグルジア軍にパニックが発生し、彼らは陣地を捨てて逃げ始め、スフミは最終的にアブハジア武装勢力の手中に落ちた。

続く何週間かのうちに、アブハジア武装勢力は南に向け攻撃を継続し、不断に撤退中のグルジア国民防衛隊を追撃殺傷した。ついに、グルジア軍は全てアブハジアから追い出された。

戦争開始前、アブハジア国内の人口の半分はグルジア人だった。そしてアブハジア人は現地の人口の1/5を占めるだけで、その他はアルメニア人とロシア人だった。戦争中、多数のグルジア人と一部のロシア人がグルジアのその他の地域に逃げた。戦争終結時になると、この「独立国家」は完全に5万人のアブハジア人によって取り仕切られるようになった。

その後、各方は停戦した。グルジア人の心はこれをよしとしなかったが止むを得なかった。一方アブハジアは共通の利害を持つ者がいなくなれば自身も危なくなるという道理を深く知り、もう1つのグルジアを離脱した地域である南オセチアと攻守同盟を結成し、ロシアはアブハジア民族と政治安定の唯一の保障者となった。


 私の子供の頃、「ソ連のシュワルナゼ外相」という呼び名はよく耳にしましたが、その後こういう立場になったというのは全く知りませんでした。たぶんロシア人にとってスターリングラードの戦いは日本人にとっての日本海大海戦と同等かそれ以上に思い入れがあると思われ、「現代のスターリングラード」というフレーズはそれ自体に守る側のアブハジアに強く肩入れし、グルジアをナチ扱いする強烈なメッセージ性を含んでいたんでしょうね。ちなみにソ連崩壊を見た同じ巨大な多民族国家である中国は、たがを緩めたら同じ道をたどる、という強い恐怖感を持っているようです。















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