ドイツ語版「Wikipedia」によるV2ミサイルの説明
ドイツ語版「Wikipedia」による風船爆弾に関するあまりに詳細な説明を見て、あまりに技術レベルが違いすぎますけどドイツにおけるこれと比較すべき兵器、V2に関する内容はどうなのかと思い、読んでみました。
http://de.wikipedia.org/wiki/A4_%28Rakete%29
A4(ロケット)
Aggregat 4(A4 頑住吉注:「集合体」、「ユニット」などの意)は完全な機能性を持つ最初の大型ロケットだった。このロケットはJoseph
Goebbelsによって1944年10月に与えられた、Vergeltungswaffe
2(頑住吉注:報復兵器)、縮めて「V2」のプロパガンダ名称の下に知られるようになった。当時の国防軍およびSSの発射部隊はこのロケットを簡素に「das
Gerat」(頑住吉注:「a」はウムラウト。「器具」、ただしここを読んでいる方はご存じでしょうが非常に広い範囲の兵器をも指す語です)と呼んだ。A4ロケットはナチ政権によって長射程の弾道学的砲兵ロケットとして立案され、第二次大戦終戦頃多数が実戦使用された。その上このロケットは、人間によってコントロールされ、世界空間を突き通す初の物体に該当する。
(頑住吉注:目次省略します。なお原ページには右に「ペーネミュンデ所在の歴史的技術情報センターにある実物大の模造品」とのキャプションがつけられた画像があります)
開発
Aggregat 4はペーネミュンデ陸軍実験施設のテクニカルディレクターだったウェルナー フォン ブラウンを中心とする科学者および技術者グループによって開発された。彼らの前任モデル群は部分的成功しか収めていなかった。すなわち、A1(西Kummersdorfにおける燃焼実験の際に爆発)、A2(1934年、Borkum島から2回の成功裏の発進)、A3(1937年12月に4回の発進失敗)である。A3は1938年にA5として初めて成功した。A4ロケットは1942年3月に初めてテストされたが、成功裏の発進は10月3日になって初めてうまくいった。このテスト飛行の際、このロケットはほとんどマッハ5(4824km/h)の最高速度と最高高度84.5kmを達成した(頑住吉注:当時の最新鋭戦闘機の最高速度は時速600km代、上昇限度は1万mちょっとくらいですから、これは驚異的な数値です)。
1944年5月20日、墜落したA4がポーランド祖国陸軍によって回収され、同年7月25日から26日にかけての夜にTarnowの近くに着陸していたイギリス航空機によってイギリスに運ばれた(「Most
III」作戦)。
1943年8月17日のペーネミュンデへの初空襲後、多くのA4のテスト発進(特にロケット部隊訓練のため)はBliznaやTucheler
Heideで実施された。これとならんで、ペーネミュンデでも(Greifswalder
Oieも含む 頑住吉注:島の名前らしいです)実験ロケットの発進が1945年2月21日まで続けられた。
構造
A4ロケットは高さ14mで重量13.5トンだった。胴体部は薄いスチール板で覆われた肋材と線状材からなっていた。この機械設備は次の4つの構造グループからなっていた。
●ロケットエンジン、推力ノズル、操縦および安定用翼を持つ部分。
●2つの燃料タンクを含む推進剤部分。
●操縦装置を収容する器具キャリア。
●先端にある弾頭。分離不可能。
操縦
4枚のグラファイト製噴流舵がガス噴流内にダイレクトに位置し、また4枚の補助翼が飛行中の安定に役立った。これらはサーボモーターによって動き、このサーボモーターはその操縦情報をロケット中央部の2つのジャイロスコープから得た。1つのジャイロスコープは補助翼軸を、もう1つはサイドおよび高さ舵の軸を担当した(頑住吉注:この説明はあまり知識が豊富でないドイツ人が読んでも分からんと思います。尾翼には通常の飛行機のような舵、つまり補助翼があり、これとは別に噴流の方向を微調節するフィンもあります。ジャイロスコープの1つは前者、1つは後者用であるという意味だと思います。問題は「サイドおよび高さ舵の軸」という他と統一されていない表現ですね)。ロケットがセットされたコースから逸れた時は、ジャイロスコープによってこれが感知され、サーボモーターがコース修正のため噴流舵と補助翼の舵を切った。
発進時にセットされるタイマーは、ターゲット上空での傾斜角を変更し、これによりロケットを落下させることに役立った。
(頑住吉注:原ページにはここに4つ並んだ画像があり、クリックすると拡大表示されます。キャプションは左から、
「コースの逸れを感知する2つのうちの1つのジャイロスコープ。」
「A4のタイマー」
「補助翼をあやつるための4つのサーボモーターのうち1つ」
「燃料ポンプ(カッタウェイ)。スチーム(赤)、アルコール/酸素(青)」
です)
駆動装置
A4は液体燃料ロケットであり、アルコールと酸素によって駆動された。このロケットは燃焼時間約60秒後にその最高速度約5500km/h(約マッハ5)に達した。このため、また射程250〜300kmの場合全飛行が5分しか継続しないため、この兵器に対する防御可能性は存在しなかった。
(頑住吉注:原ページにはここに2つの画像があり、クリックすると拡大表示されます。キャプションは左右とも同じで「ドイツ博物館における駆動装置の展示物」となっています。同じ展示物の違う角度からの画像です)
爆薬
Amatol混合物の爆薬1000kgはロケット先端に収納された。これは飛行の間、摩擦熱によって加熱されるので、点火温度が200度C以上の爆薬混合物しか使えなかった(情報源:Roger
Ford著「第二次大戦におけるドイツの秘密兵器」)。(頑住吉注:爆薬とは違いますが、「G3の歴史」の項目には「(コックオフ防止のため特別に高められたG11用発射薬の)自然発火ポイントは260度だった。これと比べ、ニトロパウダーは160度ですでに発火する。」との記述がありました。また、 http://nazca2.web.fc2.com/expdata2.htm こんなページもありました)
製造 (頑住吉注:原ページには右に画像があり、キャプションは「Meillerwagenに載ったA4」となっています。「Meillerwagen」はV2専用の運搬車らしいです。 http://www.cloudster.com/RealHardware/V2/V2meillerwagenIndex.htm こんなページもありました)
A4ロケットは1944年以後、Nordhausen近くのKohnstein所在の地下の組み立て複合施設で組み立てられた(Dora
Mittelbauの項目を見よ 頑住吉注:原ページにはこの施設に関する独立したページへのリンクがあります
)。第二次大戦中、合わせて5,975発のロケットが、強制労働者およびドイツの民間人従業員によって何千もの個別部品から組み立てられた。このハイテクプロジェクトのため、拘留中の専門労働者および技術者が、全帝国領域および占領された国々から狙いを定められて選び出され、専門化された。多くは自発的に手作業のテストを受け、その後で初めてKohnsteinnに連れていかれたにもかかわらず、そこでは他の強制収容所におけるよりも良い労働および拘留条件が与えられなかった。
反対にむしろ、彼らは国家機密の中を知ったがゆえに、もはや解放されないことを確認し得た。時として民間人の技術者によるものも含め、待遇がいかに非人道的なものであったかは、例えば「拘留者がミスを犯した際はもはやこの先端的対象物に関与させないこと」との書面による命令が示している(頑住吉注:話の流れから言って仕事はさせない、解放もされない、要するに処刑したということでしょう)。それにもかかわらず再三にわたってサボタージュ行為が起こった。しかしこれはロケットの製造を決して重大に妨げなかった。最終検査の際、2基のうち1基のロケットは完全な機能性を持たないことが判明し、手を加えねばならなかったが、この理由は第1には、技術者たちがほとんど毎日ペーネミュンデからの指示で構造的変更を行ったことにあった。これは継続する生産プロセスをかなり妨げた。
SSの書類の中の公式な計算によれば、Kohnsteinの拡張、そしてこれに引き続いてのA4ロケット、および飛行爆弾V1、ジェット戦闘機の部品製造の関係において、約12,000人の強制労働者が死んだ。これに対しこの兵器の実戦使用によって死んだのは約8,000人だった。Dora
Mittelbau強制収容所記念施設の長、Jens-Christien
Wegner博士によれば、「この兵器の実戦投入の際の「他の犠牲」よりも多数の拘留者が兵器の生産の際に死んだ。すでに生産においてこれほど多くの人命が要求されたことは、他の兵器に例を見ない異常なことであると私は思う。」
A4の部品のための生産場所は全ドイツおよびオーストリアに分散していた。Dernau
an der Ahr(頑住吉注:こういう長い地名です)近郊のRebstock収容所ではかつての鉄道トンネル内でロケットの基部施設と運搬車が製造された。さらなる例はLudenscheid(頑住吉注:「u」はウムラウト)所在のGustav
Schmale社だった。ここでは燃焼チャンバーの部品が製造された。またHagener蓄電池工場株式会社では特殊蓄電池が製造された。1944年初めにはNebenlager
Redl-Zipf強制収容所で駆動装置テスト場の操業が開始された。
ペーネミュンデにおけるテスト発進のリスト
No. | 日付 | 燃焼時間(秒) | 到達距離(km) | 注釈 |
1 | 1942年3月16日 | - | - | 点火の際に爆発。 |
2 | 1942年6月13日 | 36 | 1.3 | 約4,900m上昇したが燃料ポンプ破損までのことで、さらに飛行中に回転、墜落。 |
3 | 1942年8月16日 | 45 | 8.7 | 音速の壁を突破したが、その後先端が脱落。飛行時間194秒。 |
4 | 1942年10月3日 | 58 | 190 | 最初の成功裏の飛行。296秒の飛行後、海に墜落。 |
5 | 1942年10月21日 | 84 | 147 | 蒸気発生炉に伴う問題発生。飛行時間256秒。 |
6 | 1942年11月9日 | 54 | 14 | 67km飛行後垂直に上昇。 |
7 | 1942年11月28日 | 37 | 8.6 | 安定板を失い、よろめく。 |
9 | 1942年12月12日 | 4 | 0.1 | 爆発。 |
10 | 1943年1月7日 | - | 0 | 点火の際爆発。 |
11 | 1943年1月25日 | 64.5 | 105 | 急角度過ぎ、飛行中回転。 |
12 | 1943年2月17日 | 61 | 196 | 浅すぎる角度での上昇。 |
13 | 1943年2月19日 | 18 | 4.8 | 尾部から炎上。 |
16 | 1943年3月3日 | 33 | 1.0 | 垂直に上昇し、尾部が爆発。 |
18 | 1943年3月18日 | 60 | 133 | 急角度過ぎ、飛行中回転。 |
19 | 1943年3月25日 | 28 | 1.2 | よろめき、爆発。 |
20 | 1943年4月14日 | 66 | 287 | Pommernに墜落。(頑住吉注: http://www.din.or.jp/~a_ohno/Polen/Pomerania.htm ) |
21 | 1943年4月22日 | 59 | 252 | Pommernに墜落。 |
22 | 1943年5月14日 | 62 | 250 | スイッチオフが働かず。(頑住吉注:タイマーのことでしょう) |
26 | 1943年5月26日 | 66.5 | 265 | 成功。飛行時間349秒。 |
25 | 1943年5月26日 | 40 | 27 | 40秒後に燃焼終了。 |
24 | 1943年5月27日 | 55 | 138 | - |
23 | 1943年6月1日 | 62 | 235 | 早すぎる燃焼終了。 |
29 | 1943年6月11日 | 63.5 | 238 | 成功裏の発進。 |
31 | 1943年6月16日 | 60.5 | 221 | 早すぎる燃焼終了。 |
28 | 1943年6月22日 | 62.5 | 75 | 70病後に爆発。 |
30 | 1943年6月24日 | 65.1 | 287 | 第10テスト場からの初の発進。スイッチオフが働かず。 |
36 | 1943年6月26日 | 64.9 | 235 | 成功裏の発進。 |
38 | 1943年6月29日 | 15 | 3 | 飛行場に墜落。 |
40 | 1943年6月29日 | 63.6 | 236 | 着弾観測されず。 |
33 | 1943年7月1日 | - | - | 浮上後燃焼終了。爆発。 |
41 | 1943年7月9日 | - | - | 第7テスト場のポンプハウスに墜落。 |
34 | 1943年7月9日 | - | - | 浮上後燃焼終了。爆発。 |
- | 1943年8月12日 | 64 | ? | 成功裏の発進。 |
- | 1943年10月6日 | 68 | ? | 成功裏の発進。272秒継続。1943年8月17日の空襲後初の発進。 |
- | 1943年10月21日 | 63 | ? | 成功裏の発進。飛行時間286秒。 |
- | 1943年12月4日 | 63 | - | 成功裏の発進。飛行時間286秒(頑住吉注:1つ上の数値と秒単位まで一致しているのは不自然で、記入ミスかも知れません)。 |
- | 1943年12月10日 | 69 | ? | 成功裏の発進。飛行時間247秒。 |
- | 1943年12月21日 | 33 | - | 一部のみの成功。早すぎる燃料喪失。飛行時間104秒。 |
- | 1944年1月7日 | 43 | ? | 発進後43秒で爆発。 |
- | 1944年1月27日 | ? | ? | Mittelwerkで作られたロケットの初のテスト飛行。失敗。 |
- | 1944年3月2日 | ? | ? | 爆発 |
- | 1944年3月11日 | 59 | ? | 成功裏の発進。飛行時間282秒。 |
特に言及がない限り、発進は第7テスト場から行われた。
1943年7月から1945年2月までの期間のコンプリートな発進リストはない。1944年6月13日における対空防御ロケットWasserfallのコンポーネントの実験のためのテスト発進の際、1基のペーネミュンデから発進したA4ロケットが南スウェーデンに墜落した。
(頑住吉注:原ページには右に断面図イラストがあり、部分名称は次の通りです
1=弾頭、2=ジャイロスコープ操縦装置、3=操縦装置および無線コントロール装置、4=燃料タンク(アルコール)、5=ロケット本体、6=酸素タンク、7=過酸化水素タンク、8=冷却剤タンク(窒素)、9=過酸化水素モーター、10=ターボポンプ、11=アルコール/酸素バーナー、12=駆動装置本体、13=主燃焼チャンバー、14=安定翼、15=アルコール噴射器、16=ガス用舵、17=空気用舵)
実戦使用
炸裂弾頭を装備したこのロケットを使って1944年9月6日以後、イギリスおよびベルギーの都市が爆撃された。特にロンドンとアントワープが移動式発進設備から攻撃された。命中精度は低かったが、事前の警告なしの突然の着弾は一般大衆に特に精神的効果を持った。それがV1よりおそらく低かったにしても。V1の攻撃の際には空襲警報があり、この飛行物体を補足するのが非常に困難であると皆が知っていた一方、A4の場合はその超音速ゆえにただ突然に爆発が起き、その後になって初めて飛来音が聞こえた。合わせて約3,200基のロケットが実戦使用された。これは次のように分類される。
イギリスへのV2攻撃
●ロンドン 1358発
●Norwich/Ipswich 44発
フランスへのV2攻撃
●Lille 25発
●パリ 22発
●Tourcoing 19発
●Arras 6発
●カンブレー 4発
ベルギーへのV2攻撃
●アントワープ 1,610発
●リエージュ 27発
●Hasselt 13発
●Tournai 9発
●Mons 3発
●Diest 2発
オランダへのV2攻撃
●Maastricht 19発
ドイツ国内のターゲットへのV2攻撃
●レマゲン 11発(レマゲン橋が連合軍に占領された後 頑住吉注: http://www3.plala.or.jp/Last-Kampf/Remagen.htm )
ハーグから1,039基のロケットが発射され、これらは主にロンドンに向けられた。1945年3月3日の連合軍による発射設備への空襲の際には510人が死んだ。
戦闘に使用された最後のロケットは1945年3月27日にドイツからアントワープに向け発射された。だが目撃者はVerdan地方の第444訓練砲兵中隊が1945年4月5日になってもなお多数のA4ロケットを北海方向に発射していたと報告している。
A4ロケットの実戦使用は8,000人以上の人命(主に民間人)を要求した。
(頑住吉注:原ページには右に、「1944年11月27日のアントワープへのV2攻撃後の戦死したアメリカ兵」とのキャプションがつけられた画像がありますが、生々しい死体画像なのでクリックして拡大表示する場合は注意してください)
発展開発
ウェルナー フォン ブラウンは、300kmの射程を持ち、約1トンの爆発力を持つ兵器を作る注文を軍から得ていた。彼はこのためだけに資金と人員を軍、そして後にはSSから得た。彼はまたナチ党に入党し、SSのメンバーにもなった。
1945年1月24日、ペーネミュンデにおいてA4ロケットの翼付きバージョンであるA4bが初めて成功裏の発進を行った。このロケットはA4の倍の射程を達成する予定だったが、翼の破壊によって早すぎる墜落をとげた。この飛行物体のさらなる発進はもはや行われなかった(頑住吉注: http://www.bernd-leitenberger.de/a4-2.shtml ここにA4bのイラストがありました)。
戦後(頑住吉注:原ページには右に「1950年7月24日におけるケープ カナベラルからのモデファイされたA4の発進」とのキャプションがつけられた画像があります)
1945年5月2日、フォン ブラウンはアメリカ陸軍に出頭し、彼のチームの他の科学者たちと共にアメリカに送られた(Paperclip作戦)。
イギリスは1945年10月に多数のA4ロケットを当時のドイツ発射部隊出身の戦時捕虜の手でCuxhavenの近くで発進させた。連合軍の占領軍代表者に「ワンダーウェポンV2」の発進をデモンストレーションするためである(「Backfire」作戦)。この際当初秘密だったドキュメンタリーフィルムも撮影され、これは今日ペーネミュンデ博物館で上映されている。
まだ赤軍が進駐してくる前、約100基の鹵獲されたA4がアメリカ部隊によってNordhausenでデモンストレーションされ、またアメリカに貨物として送られた。これらはアメリカにおける宇宙開発の基礎となった。これらのうち1基はワシントンDCのナショナル エア アンド スペース ミュージアムで見学できる(頑住吉注:右にこの展示物の画像があります)。他の1基は1950年代末、映画撮影の機会にドイツに戻り、最終的にミュンヘンのドイツ博物館に収まった。1945年夏以後のアメリカへの主導的ロケット技術者の移動は、Overcast秘密作戦の枠内で行われた。
アメリカにおける鹵獲されたA4ロケットのテスト発進は、特に1948年3月にニューメキシコ州所在のWhite
Sandsミサイルレンジから行われた。WACコーポラルロケットを持つ2段式のA4モデファイ版はBumperと名付けられた。フロリダ州のCape
Canaveralからの初のロケット発進は1950年にBumperロケットを使って実施された。(頑住吉注:次の1文は辞書にない単語があり意味不明です)
アラバマ州Huntsvilleでは新たなロケットセンターが建設された。そしてドイツ人科学者と共にこの地のテスト場で合計67基のA4ロケットが発射された。これらは後のRedstoneロケットやいくつかの似た兵器の発展開発のための基礎となったが、それだけでなくサターンV-月ロケットの基礎ともなった。
全く同様に多数のドイツ人科学者やロケット技術の残りがソ連にももたらされ、そこでも同様に後の開発品の基礎となった。ソ連のR-1ロケットはA4のダイレクトな模造品だった。それらは1947年に初めてKapustin
Jarテスト場から発射された。
カナディアン アロー社はAnsari X-Prizeの枠内で(2m延長された)A4ロケットを模造し、これは観光用とする意図だった。
(頑住吉注:以下参考文献等省略します)
うーん、V2より風船爆弾に関する記述の方が詳細かつ豊富な内容というのはやっぱり不思議です。
V2と言えば第二次大戦時に使用された兵器の中でも特に時代の先を行った驚異的なハイテク兵器であり、その後の宇宙開発への貢献によって人類の歴史に大きなプラス方向の影響を与えたこと、あの大戦争の中では比較的小さな犠牲者しか出さなかったことなどから、ややもすれば明るいイメージで受け取られがちな兵器ですが、その生産が強制労働などによって行われ、非人道的扱いによって兵器の使用による犠牲者よりも多数の死者を出すという暗部もはらんでいたわけです。またV2は当然使い捨て兵器でありながら非常に大きなコストがかかりました。それでいて攻撃によって出した死者の数は1基あたり約2.5人ですから、(風船爆弾よりずっとましとは言え)明らかに割に合わない兵器でもありました。No.41までの大部分揃ったテスト発進の記録を見ると、少なくとも初期は成功率が極端に低かったことにも驚かされます。