中国におけるMP18サブマシンガン

 久々の小火器関連、しかも歴史ものです。

http://military.china.com/history4/62/20121115/17530874.html


中国におけるドイツのMP18サブマシンガン:田舎の村の地方有力者もこの銃を作ることができた

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「MP18サブマシンガン」)

これらの銃に関して言えば、市街戦はその主戦場ではなかった。例えば映画、「金陵十三釵」の国民党軍の手にあるのがこの1918年型、ドイツのセオドール ベルグマン兵器工場製のMP18サブマシンガンである(頑住吉注:古典映画かなと思ったら2011年の作品でした)。

その出現は第一次大戦時期のフーディーという名のドイツ軍の将軍と関係がある。堅固で攻略し難い塹壕が至る所にある戦場はフーディー将軍の頭を痛めさせ、それらは戦場の死角となり、死角をとどめないほどに戦場をきれいに掃除するためには非常に大きな代価を払う必要があった。

ある人は焦慮が最も創造を生む感情だと言うが、この言葉はフーディー将軍にぴったりだった。彼は初めて歩兵浸透戦術を作り出し、塹壕戦専門家となった。

浸透戦は12人前後の小分隊を要求し(これはほぼ特殊部隊の雛形である)、敵軍の防衛ラインの薄弱なところから浸透し、堅固な要塞を避け、守備軍に乱戦を許さず、疾風怒濤の勢いで縦方向に深く入り込み、敵軍の本部めがけ直接攻め入る。

新戦術は突撃隊員が良好な機動性と猛烈な火力を持つことを要求し、皆が持っていたモーゼル小銃は明らかに基準に達しなかった。この銃は精度は高いがかさばり過ぎ、重すぎ、呼吸を整え心を落ち着けて静かに伏せて狙撃を行うためのものだった。

この矛盾の解決には新たな武器を必要とした。

有名な兵器設計者シュマイザーがこの挑戦を受けて立った。そこで、重量が軽く、火力が猛烈で、拳銃弾薬が共用できるMP18が機運に乗じて誕生したのである。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは、「『花機関』は地域を超えたこの銃の俗称である。これらあだ名は皆この銃の銃身の周りの多孔式放熱ジャケットから来ている」です。本文から切り取ってキャプションにしているんで「これら」、「皆」が意味不明になってますが後で分かります)

ドイツ軍が最後にほとんどパリを攻略した「ルーデンドルフ攻勢」の中で、3,000挺のMP18サブマシンガンが大きな戦果を挙げ、このためドイツの敗戦後「ベルサイユ条約」の中にわざわざ「ドイツ軍がMP18を持つことを禁止する」との条項が記された。この銃はヨーロッパの伝説に登場したばかりですぐ姿を消した。

だが中国では始まったばかりだった。

1924年、第二次奉直戦争が勃発した(頑住吉注:この戦争で張作霖が政権を取得)。奉天派(頑住吉注:張作霖サイド)軍組織の決死隊員はMP18を手にし、このサブマシンガンを掃射しながら直隷派軍陣地を急襲した。雨のような弾丸は直隷派軍を極度の恐怖に陥れ、これによりこの銃はこの上ない物となった。

直隷派軍は大敗し、第二軍のトップ李景林は戦勝を知らせる時、「迫撃砲と手提げ機関銃こそ山岳戦の利器です‥‥早く前方へお願いします。この利器さえ充足すれば敵に勝つのは容易です!」

これがこの銃の初めての中国におけるデビューである。

手提げ機関銃はこの銃の多くのあだ名の1つに過ぎない。川軍(頑住吉注:四川地方の国民党軍の一派)はこれを「ノミかご」、広東の兵は「豚の檻機関銃」と呼んだが、「花機関」は地域を超えたこの銃の俗称である。これらあだ名は皆この銃の銃身の周りの多孔式放熱ジャケットから来ている。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「この銃と中国人は一度かの苦難の歳月を越えた」です)

この銃の工作機械の精密性に対する要求は最低レベルに達していたので、パクリは容易だった。このため中国にやって来てからの10年間で、10余りの兵器工場が生産した。四川のある手持ちの兵が1個師団に過ぎないポケット軍閥だった羅沢洲は意外にも工場を設けて大量生産し、さらに極端な例では○南(頑住吉注:日本語にない漢字。門構えの中に虫)のある田舎の村の地方有力者である高為国もMP18を作った!

このため、我々がこうした歴史の情景の中に頻繁にこの銃の姿を見るのも怪しむに足りないのである‥‥

西安事変で張学良のスパイはこの銃を使って蒋介石の護衛隊と交戦さえした。○定橋(頑住吉注:日本語にない漢字で説明も無理です)急襲奪取では、赤軍はこの銃と刀を使って死地の中で橋を奪取した。朱徳の警護隊はこの銃を主戦装備としたことがある。800人の戦士が四行倉庫を守備した戦い、台児荘の血戦、喜望口大戦‥‥この銃と中国人は一度かの苦難の歳月を越えた。

この銃の主戦場は都市にはなかったが、映画の中では(頑住吉注:ごめんなさい。何か感動的な文にしようとして凝った表現を使っているようで訳せないんですが、「金陵十三釵」は南京事件を背景にした映画で、虐殺を行う日本軍にわずかに残った中国兵が決死の反撃をする時にもこの銃が威力を発揮した、というような意味らしいです)。

MP18サブマシンガン、モーゼル銃、映画の中で中国軍人はこの2挺の銃で1つの都市を守り、1つの国家の尊厳をも守ったのである。


 ってまあフィクションですからな。中国でこの銃が広く使われコピー生産されていたのは全く知りませんでした。確かにモーゼルミリタリーピストルよりはるかにコピーしやすかったはずです。おまけに関連性がなくもない小ネタです。

http://military.china.com/history4/62/20121117/17535190.html


中国共産党抗日武装勢力、40発の弾薬で1人の敵を殺傷 世界の奇跡を創造

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「八路軍」)

国力 全面抗戦開始前、中国政府統治区の鋼鉄は年産4万トンに過ぎず、日本は580万トンに達していた。1936年、国民政府の財政収入は4万ドルに相当し、同年日本政府の財政収入は30億アメリカドルに相当した。

敵を殲滅 1931年の九一八事変(頑住吉注:満州事変)から1945年の敗戦までに死亡した日本の軍人は全部で213万人で、このうち中国の関内の戦場で死亡したのは45万人、東北で死亡したのは9万人(圧倒的多数はソ連軍との戦闘で死亡)、ビルマの戦場で18万人が死亡(このうち3万人が中国軍との戦闘によって死亡)、さらに120万人が太平洋の戦場で死亡した。中国の抗日軍民が射殺した日本兵は50万人前後、さらに銃創を負わせた日本兵は100万人前後であり、このため、抗戦によって殲滅した日本兵の総数は150万人余りと言える。

消耗 国民党軍は対日作戦期間に全部で17億発の弾薬を消耗し、殺傷した日本兵は85万人で、平均2,000発の弾薬で1人の敵を殺傷した。共産党が指導する抗日武装抗戦では消耗した弾薬は4000万発に足りず、殺傷した日本兵は52万、そして傀儡軍約50万で、平均40発の弾薬で1人の敵を殺傷し、世界の奇跡を創造した。第一次大戦では1人の敵を殺傷するのに平均2,000発以上の弾薬の消耗を必要とし、一方第二次大戦のヨーロッパの戦場では1人の敵を殺傷するのに5,000発の弾薬の消耗を必要とした。

鹵獲 八路軍の抗日前線に出た3万余りの部隊には、1万挺余りの鹵獲したいろいろな形式の銃しかなく、各銃に平均30発の弾薬しかなかった。人民の支援と戦場での鹵獲に頼った八路軍、新四軍の不断の発展は壮大で、1945年夏までにすでに93万人に発展し、37万挺の銃があり、敵の後方の1億の人口の地域を解放した。


 現代になって敵を倒すのに多数の弾薬が必要になっているのは射程が長くなり、命中精度も上がり、このため以前なら撃たなかった遠距離から発砲するようになったからであり、また銃の発射速度が上がったからでもあります。極度の弾薬不足にあり、練度も低かった八路軍の兵士はたぶん充分ひきつけてから撃つよう指導されていたんだろうと思いますが、ちょっとこの数字は極端すぎて信じ難いです。



















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