ドイツ語版「Wikipedia」による「風船爆弾」の説明

 ドイツ語版「Wikipedia」に「風船爆弾」の詳細な説明があったので内容を紹介します。

http://de.wikipedia.org/wiki/Ballonbombe


Ballonbombe
(頑住吉注:「風船爆弾」。そのまんまです。ただしドイツ語では「風船」も「気球」も「Ballon」呼ばれ、ニュアンス的には「気球爆弾」の方が近い感じです。ちなみに「男爵」は「Baron」です)

 Ballonbombe別名Brandballone(頑住吉注:焼夷風船)は一定の時間後に投下または分離される焼夷剤または爆薬を積んだ無人の、操縦されない風船である。これに応じて命中率は低く、このため風船爆弾は軍事的対決の中で決して大きな役割を演じなかった。

 風船爆弾は1849年に初めてオーストリア部隊によってイタリアでの反乱鎮圧のために実戦投入された。第二次大戦中、日本陸軍はFUGU-Ballone(日本語では風船爆弾 fusen bakudan、逐語的にはLiftschiffbombe、英語では「fire ballon」、または「fu-go ballon」)を実戦使用し(頑住吉注:このドイツ語への逐語訳と称するものは「風」、「船」、「爆弾」をそれぞれ訳して並べたもので、「眼鏡」を「アイミラー」と英訳するくらい見当違いです。ちなみに日本側の名称「ふ号」のドイツ式表記も英語式より実際の発音から遠いはずです)、これは爆弾を日本から太平洋を越えてアメリカに運んだ。約9000のそのような風船が日本の本州島東海岸から発進させられた。6人の人間が風船爆弾によって不慮の死を遂げた。

 これと似た、しかしより荒削りな風船がイギリスによって1942年から1944年まで、Outward作戦の間に実戦使用された。これらは(日本の試みとは違い)イギリスに利益をもたらし、ドイツルフトバッフェの活動を成功裏に妨げた。

 冷戦の初め頃にアメリカサイドによってある程度の成功をもって投入された風船に運ばれるスパイカメラと偵察および防空用係留気球、あるいは初期の運搬手段としての使用は、軍事的風船原理のさらなる使用である。

(頑住吉注:目次省略します。右に画像があり、「日本の風船爆弾。発表および撮影、アメリカ海軍」とあります)

オーストリアの風船爆弾

 最初の風船爆弾は1848年〜1849年にオーストリアの砲兵隊将校FranzおよびJosef Uchatius(頑住吉注:兄弟でしょう)によってGeneralmajor von Hauslabの指揮下で開発された。この風船には水素が充填され、爆薬の投下はゆっくり燃焼する導火線によって行われた。

 オーストリア部隊が1849年夏にベネチアを包囲した時、この都市に降伏を強いることが不可能であることが判明した。この島々を本土から砲撃するために充分な射程のある火砲がなかったからである。このためRadetzky元帥は1849年6月2日に最初の14の風船を要求した。

 最初の攻撃は失敗に終わった。風船が絶えず方向の変わる風によって都市から運び去られたからである。1849年7月2日、ついに最初の風船がMurano(頑住吉注:ベネチアングラスの生産地として有名な島だそうです)で爆発した。これにより勢いづけられ、次の8週間の間に継続的にさらなる攻撃が実施された。引き起こされた損害は非常にわずかだったが、精神的効果はかなりのものだった。1849年8月2日、ベネチアは降伏した。全体での命中率は低く、この結果オーストリア・ハンガリー帝国は風船爆弾のさらなる実戦使用を断念した。

日本の風船爆弾

 アメリカの将軍Jimmy Doolittleが1942年春に彼のB-25ミッチェル爆撃機によって、いわゆるドゥーリットル奇襲において日本を驚かせた時、彼は第二次大戦で最も風変わりな歴史の1つである一連の事件を作動させた。すなわち爆弾を運ぶ風船を使ってアメリカ本土を攻撃するという日本の試みである。

 ドゥーリットル奇襲では、中型双発のB-25が日本の産業施設を攻撃するために発進した。この攻撃はまさに大胆な行為だった。この爆撃機の航空母艦からの初の実戦使用であり、長い飛行距離と燃料不足ゆえの多数の緊急着水にもかかわらず日本の指導部と民衆を驚きで飛び上がらせた。日本は回答を迫られた。

 1944年晩秋から1945年春までに日本陸軍は9,000以上の風船爆弾を発進させた。この発進はアメリカが行ったことに対抗してアメリカの海岸手前の艦艇や潜水艦からではなく、日本本土から行われた。水素を充填した風船には高度調節を目的としたバラストの投下やガス放出のための自動装置が備えられていた。最後の「バラスト」として多数の焼夷弾からなる爆弾という積み荷、あるいは炸裂爆弾が投下され、引き続き焼夷剤によって水素を充填した風船に点火された。

 約9,000の発進させられた兵器のうち300がアメリカ合衆国内で発見され、あるいは渡っていくのが観測された。アメリカの、そしてこれと一致する日本の見積もりによれば、約1,000の風船がターゲット地域である北アメリカに到達した。この兵器に設定された高い期待値にもかかわらず、この風船は兵器として比較的無価値であった。5人(頑住吉注:6人の誤りです)の死者を伴う1件の事故を除けば何の犠牲も要求せず、ほとんど被害を引き起こさなかったからである。

 この風船は秋と冬にのみ実戦使用された。しかし意図された、そして結局ほとんど達成されなかった森林火災は夏における実戦使用でのみ生じるはずだった。生物兵器を持つ風船を実戦使用した場合の効果は壊滅的だったはずだが、計算不能でもあった。最大の成果はマンハッタン計画の原子炉への電力供給中断だった。だが緊急電力供給が機能し、炉心溶融は起こらなかった。

 大幅に分散的に、手作業で紙から作られた風船は安価な兵器だった。しかしその効力は強い疑念を持ち得るものだった。この兵器は今日むしろ珍奇な独創的仕事と評価される。またその潜在的能力にもかかわらず、兵器としてはほとんど生かされなかった。

 最初の風船爆弾は1944年11月3日に発進させられた。最終的に風船爆弾はアラスカ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ、アイダホ、モンタナ、ユタ、ワイオミング、コロラド、テキサス、カンサス、ネブラスカ、サウスダコタ、ノースダコタ、ミシガン、アイオワ各州およびメキシコとカナダで発見された。最後の風船は1945年4月に発進させられた。最後のシャープな(頑住吉注:爆発可能な)風船爆弾は1955年に、10年後にもなお爆発性の積載された爆弾とともに北アメリカで発見された。風化によってシャープでなくなった爆弾は1992年にアラスカで発見された。

 風船爆弾はわずかな損害しか引き起こさなかったが、破壊および(森林)火災のための潜在的能力は強力だった。その上風船爆弾はアメリカ民衆にある種の不安を投げかける心理的効果を持った。アメリカの対抗戦略は、日本がこの兵器の効果度をいくらかでも知ることを妨げるというものだった。必要だったわずかの検閲を度外視すれば、報道は自分からこの爆弾についてほとんど報道しなかった。結果として日本人は、単一の不発の爆弾がワイオミングに落下したのを聞いた後、彼らのアイデアが機能していないと思った。その上、あまり意図したことではないが、アメリカの日本への空襲によって、水素ガスの2つの供給源が破壊された。このためこのプロジェクト「風船爆弾」は終了した。

起源と開始

 この風船作戦は日本人がアメリカ本土を攻撃した初回ではなかった。それは実際には4回目の攻撃だった。1942年2月(つまりドゥーリットル奇襲の前)、U-ボート伊-17がサンタ バーバラ(カリフォルニア)の近くにある油田を攻撃し、ポンプ施設を損傷させた。続いて6月には伊-25がオレゴン州海岸の防御施設を攻撃した(そして野球場をひどい有様にした)。そして9月には同じボートの乗組員が搭載されていた小型の水上機を組み立て、この機がその後焼夷弾によっていくつもの小規模な森林火災を引き起こした。

 しかし風船爆弾の実戦投入はこうしたアメリカ本土への攻撃全ての中で最も重大なものだった。このアイデアは技術少将スエヨシ クサバ(頑住吉注:草葉季喜)指揮下で、技術少佐テイジ タカダとその仲間たちが働いていた日本陸軍第九技術研究所に由来している。彼らの主要な考察は、日本空軍によって発見された強い冬季の風を利用するというところにあった。この風は今日ジェットストリームと呼ばれている。

 このジェットストリームは9,150mを越える高度で吹き、大きな風船を3日以内に太平洋を越えて運ぶ能力がある。……8,000kmを越える道程をである。そのような風船は焼夷弾や他の爆薬をアメリカに運び、そこの人々を殺し、建物を破壊し、あるいは森林火災を引き起こすことができた。

 このプロジェクトの準備には長い時間がかかった。大きな技術的問題が存在したからである。ガス風船は太陽に照らされている時は膨張し、そしてそのため上昇する。夜間に冷却されると風船は収縮し、沈下する。研究所の技術者は高度計に接続されたコントロールシステムを開発した。風船が9,000mより下を行くと、高度計にあやつられた自動装置が砂袋を落下させた。この結果風船はより小さい重量によって再び上昇した。

 風船は11,600mより高く走った際も似た方法であやつられた。すなわち、高度計が水素を風船から放出するために弁を開いた。ガスは危機的な超過圧(破裂の危険のある高さ)の際も放出された。

 このあやつる器具は風船を3日の飛行の間誘導した。この時間の後、風船はアメリカ上空にいる可能性が高く、また風船は2回の夜の後ではもはやバラストも持たなかった。飛行の終わりにガス風船の上の小さな炸裂体に点火され、これが風船を破壊した。本来の目的である重量15kgの爆弾は投下され、この結果爆弾は地上で爆発した。

 風船は約500kgの重量を積載可能でなければならなかった。これは風船が10mの直径と約540立方mの体積を持たねばならないことを意味した。当初通常のゴム引き絹で風船が作られた。しかし後には、それでもなおよりガス機密性の高いある製法が発見された。陸軍指導部は「washi」(桑の木で作られた、密で強靭な紙)で作られた風船10,000個を発注した(頑住吉注:ん? 和紙って楮とか三椏とかから作るのでは? と思いましたが、楮は桑科だそうです)。このwashiは地図大の長方形でのみ入手可能だった。このため3または4層に、食べられるkonnyakuペースト(頑住吉注:こんなこと書かれてもドイツ人にゃ分からんでしょ、と思いましたがドイツ語版「Wikipedia」にはコンニャクの項目がちゃんとありました)で接着された。空腹な従業員は再三にわたってこのペーストを盗み、食べた。多くの手作業労働者は若年の娘だったが、その華奢な指は自分のものではなかった。彼女らには手袋を着用し、爪は短い状態に保ち、ヘアピンを使用しないべきことが命じられた。娘たちは日本の多くの場所で風船を組み立て、この構造物の目的に関し知識を持たなかった。この風船はアメリカに向けて飛び、そこで火災を発生させる意図であるとの噂が広まった時、女子労働者たちの多くはこれをばかばかしいと思った。Sumo施設(頑住吉注:国技館)、コンサートホール、劇場のような大きな建物には、その中で風船を作るための要請がなされた。しかしこの風船プロジェクトはそれにもかかわらず実に成功裏に秘密保持された。

攻撃

 風船の最初のテストは1944年9月に行われ、これは満足させるものだった。しかし準備作業が終了する前にアメリカのB-29機が日本の主要な島々を攻撃した。この攻撃は、ドゥーリットル奇襲に復讐しなければという日本人の願望を強めた。

 1944年11月の早い時期、最初の風船が放された。Takade少佐はこの風船が海の上を高く登っていくのを観測した(頑住吉注:前の部分では「タカダ」になっているのにここでは「タカデ」になってしまっています)。

 「風船の姿が視認できたのは発進から何分でもなく、昼間の星のように天の斑点として消え去った。」(頑住吉注:出展が明記されてませんが何かからの引用らしいです。ちょっと詩的な表現がされていてうまく訳せていません)

 1945年の初め頃、アメリカ人はいくらか奇妙なことが進行していることに気付かされ、知ることになった。風船が目撃され、爆発音が聞かれた。‥‥カリフォルニアからアラスカまでで。落下傘に似た物体がワイオミング州の都市Thermopolisに落下した。破片爆弾に点火され、クレーターの周りに破片が発見された。1機のP-38ライトニングがカリフォルニア州Santa Rosa近くで1つの風船を撃ち落とした。他の1つは同じくカリフォルニア州のサンタモニカで目撃された。washiペーパーの切れ端はロサンゼルスのストリートで発見された。

 2つの風船爆弾が同じ日にShasta山の東のModoc国有林で発見された。1つの爆弾はオレゴン州Medford付近で猛烈な炎を上げて爆発した。アメリカ海軍は海洋の上で複数の風船を発見した。風船の外皮と設備はモンタナ、アリゾナ州、カナダのサスカチュワン州、北西準州、ユーコン準州で発見された。ついには陸軍航空隊のあるパイロットが1つの風船を捕獲して無傷で地上にもたらすことに成功した(頑住吉注:機体にひっかけたりしたら失速してしまうと思うんですが、風圧でうまく誘導したということでしょうか)。風船は地上で調査され、写真撮影された。

一般大衆の反応

 雑誌ニューズウィークは1945年1月1日付け号で「バルーンミステリー」との題を持つ記事を発表し、似たストーリーが翌日のある新聞に現れた。検閲担当官庁(「Office of Censorship」)は全ての新聞社とラジオ局に通知を出し、風船と風船爆弾による事件にもはや言及しないよう要請した。この結果日本人は彼らの飛行器具の効果度に関する情報を得なかった。

 風船が秋から春までしか発進させられなかったことは、軍事的見地からすれば賢明でなかった。爆弾は完全に森林火災を起こすことができるはずだった。だが爆弾が発進させられた季節は森林が炎に捕らえられるには湿りすぎていた。アメリカが森林火災の危険に支配される夏には風船は発進させられなかった(頑住吉注:これはこの季節にはジェット気流の状態が適していなかったためとされています)。

 だが官庁は風船ゆえに心配させられた。‥‥つまり日本人が偶然より大きな損害を引き起こす可能性があったからである。さらに悪いことも考えられた。アメリカ人は、日本陸軍が占領された満州内の都市ハルビンで、悪名高い「731部隊」によって生物兵器の研究を行っていることを知っていた。高感染性の病原体を持つ風船はゆゆしき結果を引き起こすはずだった。

 アメリカの一般大衆の間では、誰も風船がダイレクトに日本から由来したものだと信じなかった。むしろ風船がU-ボートを使ってアメリカの海岸に上陸した日本の特殊部隊によって発進させられたと推測された。風船がドイツによって戦時捕虜施設から発進させられたとの途方もない論が語られ、あるいはアメリカ国内に住む全ての日本人市民が閉じ込められていた収容所から発進させられたとさえ言われた。

 「風船爆弾」から投下されたいくつかのバラスト砂袋は合衆国地質調査所によって調査された。陸軍情報局のSidman Poole大佐との共同作業の中で、砂は顕微鏡により、そして化学的に分析された。同様にそれに含まれていた海の微生物の残骸(珪藻など)、そしてミネラルの組成が検査された。この調査は、砂がアメリカの浜由来でも太平洋の島々由来でもあり得ず、日本から来たに違いないという結果になった。

 この間に風船はオレゴン、カンサス、アイオワ州、マニトバ、アルベルタ州、北西準州(頑住吉注:以上3つはカナダ)、ワシントン、アイダホ、サウスダコタ、ネバダ、コロラド、テキサス州、北部メキシコ、デトロイトの近くのミシガンにも到着した。戦闘機は風船の捕獲を試みたが、成功例は少なかった。と言うのは、風船が非常に高い高度を飛び、そして驚くほど高速だったからである。撃ち落とされたものは20に満たなかった。

 地質学者たちは砂の調査を続行し、その砂が日本のどの浜から由来したかさえ特定することができた。この結果は最終的なものだったが重要ではなかった。すでに春であり、風船攻撃はすぐに終了したからである。

犠牲者 6人の民間人

 1945年5月5日、5人の子供と1人の婦人、Elsie Mitchellはオレゴン州レイクビュー付近で風船爆弾によって殺された。この犠牲者はその日本の器具を森から引き出そうと試みており、その時に爆発が起こった。夫のReverend Archie Mitchellは、何人かの子供とのハイキングの途中にこの事故に居合わせた。11歳から13歳までの5人の子供とこの婦人は唯一知られている日本の風船攻撃の犠牲者である。だがこれまでまだ発見されていない風船爆弾が存在し、これが何十年後にもなお危険であるということが事実だということを計算に入れなければならない。

 日本のプロパガンダは、アメリカ国内で大規模な火災が、そして民衆の間にパニックが起きていると主張した。ラジオ放送では10,000人の死亡が報じられた。

 致死的な突発事故の後、報道の検閲は解除され、これにより大衆は風船の危険性に関し警告を受けることができるようになった。しかし検閲なしでも日本は、軍事的観点から何がしかを達成したであろうと考えるための根拠を手にしなかったはずである。

使用とコスト

 Kusaba将軍の部下たちは9,000を越える風船を旅に出した。このうち約300がアメリカ国内で発見され、あるいは観測された。日本の見積もりによれば風船の約10%がこの距離を克服した。そして事実としても約1,000の風船がこの距離を進んだ。2つは戻って来て、損害を引き起こさずに日本国内に落下した。

 日本サイドにおける出費は大きく、そしてこの間にB-29スーパーフォートレス爆撃機が風船プロジェクトの3つの水素工場のうち2つの破壊に成功した。この企ての効率に関する何らかのヒントを手にすることなく、Kusaba将軍は1945年4月に風船の発進を中止せざるを得なかった。

 1945年3月10日、最後の風船爆弾がハートフォード原子施設(アメリカ製原子爆弾を作るマンハッタン計画に使用されていた)の近くの電線にひっかかった。これは原子炉の冷却に電力を供給していたので、決定的なショートが考えられ、チェルノブイリにおけるような破局的な結果があり得た。非常ユニットが作動しなかったならば。これに関してはこの記事の14節も見よ(頑住吉注:原ページには英語のページへのリンクがあり、風船爆弾による民間人の死者、マンハッタン計画への影響などについて触れられています http://www.triplenickle.com/smjprs.html )。

イギリスにおけるOutward作戦

 Outward作戦は、第二次大戦中にドイツを自由飛行する風船を用いて攻撃したイギリスの計画の名称である。

 (頑住吉注:日本の風船爆弾が手間とコストのかかる複雑なものだった)一方「Outward」は水素を充填した安価で単純なガス風船だった。この風船は2種類の積み荷を持っていた。すなわち、

●電線に当たって電気的なショートを引き起こす目的を持ったスチール製ザイル、または
●森林や乾燥した草原を炎上させるための各2.7kgの焼夷弾3発

 合計99,142の風船がOutward作戦の間に発進させられた。53,343は焼夷剤を、45,599はスチールザイルを積んでいた。

 有名な日本の風船爆弾と比較するとOutward風船はずっと単純に作られていた。だがこの風船はずっと短い飛行距離を克服する必要があっただけで、より低く飛ぶ(11,500mの代わりに4,900m)という事情もあった。そして高度調節のための自動装置も持たなかった。大量生産は非常に簡単で、1つにつき35シリングのコストしかかからなかった。

歴史

 1940年9月17日の夜、嵐が吹き荒れて一連のイギリスの係留気球が引き離されて北海を越えて東に運ばれた。いくつかの気球はスウェーデンおよびデンマークに到達し、そこで電線に損傷を与え、鉄道を遮断し、スウェーデンのラジオ局のアンテナを破壊した。5つの気球は最終的にフィンランドにさえ到達した。

 当該の国々における損害と動揺に関するレポートはイギリス政府に届いた。9月23日、ウィンストン チャーチルはドイツに対する風船の実戦使用をテストすべしと命じた。

 航空省は当初拒否するレポートを作成した。航空機製造を管轄する省が、風船は非効率な兵器であり、その製造が多くのマンパワーを拘束すると考えたためらしい。海軍本部はこのアイデアをより肯定的に見た。彼らは風船がとてもとても安い飛行物体であり、その実戦使用がイギリスの人命をいかなる方法でも危険にさらさないことを見いだした。ドイツの電線網の形態はショートに対して敏感でもあり、大きな森林は焼夷弾のターゲットとして適しているはずだった。その上、4,900mより上の風はたいてい西から東へと吹き、このことはドイツに自分の風船を兵器として実戦使用することを不可能にするはずだった。

 航空省と海軍本部の間の長い官僚的闘争の後、1941年9月に参謀本部はこのプロジェクトを開始すべしとの決定を下した。最初の発進場はHarwichに建設され、最初の風船飛行は1942年3月に開始された。何日もしないうちにイギリス人は東プロシア内のベルリンおよびTilsitにおける森林火災に関するレポートを手にした。

 イギリスによって奪われたドイツ空軍の通知書は、ドイツの戦闘機が風船の撃墜を試みていることをすぐに示した。この事実はイギリス軍指導部に「Outward作戦」の続行を力づけた。最終的にドイツ空軍にとって風船1つを破壊することは、イギリス人がそれを作るよりいくらかコストがかかった。

 Outward作戦最大の成果は1942年7月12日に達成された。すなわち、スチールザイルを吊り下げた1つの風船がライプチヒ近くの110,000ボルト電線に当った。発電所における不適切な過剰負荷状況が角材を発火させ、これが施設全体を破壊した。

 風船の発進は続けられた。大規模空襲の間連合軍爆撃機をを妨害しないために時々中断されたにせよ。ノルマンディーへの侵攻準備段階で風船発進数は減少した。最後の風船は1944年9月4日に発進させられた。


 何より驚くのは内容の豊富さです。当事者たちの、と言っていい日本語版、英語版よりずっと詳しく、日本人の軍事マニアの端くれである頑住吉が知らない内容もたくさん含まれていました。ドイツ語版「Wikipedia」の日本の兵器に関係する内容が一般的に詳しいわけでは決してありません、以前内容を紹介した零戦に関するページ

http://de.wikipedia.org/wiki/Mitsubishi_A6M

 こんなもんですし、戦艦大和に関するページは

http://de.wikipedia.org/wiki/Yamato_%281941%29

 九七式中戦車に関するページは

http://de.wikipedia.org/wiki/Typ_97_Chi-Ha

 十四年式拳銃に関するページは

http://de.wikipedia.org/wiki/Pistole_Typ_14

 この程度の内容しかありません。風船爆弾ってドイツ人にとってそんなに興味深い兵器なのか、と思ったんですが、「Ballonbomben」で検索してもあまりたくさんヒットしないので、ごく少数風船爆弾に強い興味を持つ変人がいるだけでしょう。ひょっとしてドイツ語に堪能な日本人が書いたのか、とも思いましたが、日本語版より詳しいこと、視点がどうも日本人のものとは思えないこと、「風」+「船」+「爆弾」の珍「逐語訳」から見てまずドイツ人、少なくともドイツ語圏の人間が書いたものと見て間違いないでしょう。

 最初に風船爆弾を実戦使用したのはオーストリア軍だったという事実は全く知りませんでした。これはイタリア統一をめぐる戦いでのことのようです( http://www.geocities.jp/timeway/kougi-91.html )また「Outward作戦」についても知りませんでした。

 風船爆弾がマンハッタン計画に関係する原子炉のチェルノブイリ級の致命的事故を誘発する可能性があったことも知りませんでした。もしこうなればアメリカの一般民間人に被害が出る一方で計画は遅れ、原爆投下はなかったかも知れません。現代に至るアメリカ人の核に対する危機意識にも少なからず影響があったはずです。不謹慎ですが先日の「原爆しょうがない」発言問題とも関係して興味深い歴史上の「if」であります。

 地質学と言うと戦争や軍事には縁遠いイメージですが、アメリカの地質学者はビン ラディンのプロパガンダ映像の背景の砂を見ただけでどこで撮影されたかを特定したと言われていますし、砂の分析で風船爆弾の発進地を特定するなど意外な力を発揮していますね。









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