エジプトと北朝鮮の深い関係

 注目を浴びているエジプトと北朝鮮に関連した「歴史秘話」ものです。朝鮮戦争以後北朝鮮空軍には実戦経験はないと思っていましたが。

http://military.china.com/history4/62/20130520/17841278.html


1973年、北朝鮮が秘密のうちに派兵しエジプトを助けイスラエルを攻撃 完全勝利を獲得

北朝鮮が12日(頑住吉注:記事は5月20日付ですが、昨年12月12日のことでしょう。たぶん元々は去年12月の刊行物の記事だと思われます)に衛星を発射したことは国際的に強烈な反応を引き起こし、米日韓は北朝鮮がこの機を借りて弾道ミサイル技術をテストしたと考えている。北朝鮮のミサイル技術研究開発に関し、少なからぬ国際メディアは1970年代にエジプトが北朝鮮に譲った2発のソ連製スカッド短距離ミサイルにまでさかのぼる必要があると考えている。はるか遠く離れた北朝鮮・エジプト両国はどのようにして一緒に歩むようになったのか? この功はかの「冷戦の中の熱戦」、すなわち中東戦争に帰す必要がある。

1973年8月15日、イスラエルは突然、北朝鮮軍人がエジプトに出現し、かつ反イスラエル行動の中に投入されている、と言明し、国際社会にセンセーションを巻き起こした。エジプトと北朝鮮がいずれもあくまで否認したため、外界は一時真偽を見分け難かったが、ほどなく発生した「贖罪日戦争」(頑住吉注:第四次中東戦争)はイスラエル人の説が事実であると証明した。

1967年、イスラエルは「六日間戦争」(頑住吉注:第三次中東戦争)で敵であるエジプトなどの国を打ちのめした。1970年、復讐を心に誓ったエジプト大統領ナセルは恨みを含んだまま世を去り、後継者サダトは失地奪回の誓いを立てた。再三訴えてもソ連が回答せず、当初は許諾したエジプトへの武器提供の約束を果たさなかったことに不満を持ったため、1972年、サダトは「あらゆるソ連の顧問とソ連部隊のエジプトにおいて担当する任務の終結」を厳粛に宣言した。

ソ連人の撤収後、エジプト空軍は困った状況に陥り、サダトと空軍司令ムバラクは援助を提供できる国を探し求め始めた。この時北朝鮮が彼らの視線に入った。エジプト人は、北朝鮮が1968年にアメリカの「プエブロ」号偵察船を抑留したことと、1969年にアメリカのEC-121偵察機を撃墜したことに対して敬服して止まなかった。北朝鮮人民軍もソ連から先進武器を輸入しており、特に空軍建設に重点を置き、志願飛行員をベトナムに派遣して参戦させていたからなおさらだった。韓国の「独立ニュース」の報道によれば、1973年3月、北朝鮮人民武装部の部長張正恒が招待に応じてエジプトを訪問し、ムバラクおよびエジプト武装力量総参謀長シャドリが付き添ってスエズ運河の前線を視察し、この機を借りて北朝鮮飛行員をエジプトに派遣する問題を提出した。

参戦が双方いずれに対しても有利であり、エジプト空軍が強化されると同時に北朝鮮飛行員も貴重な戦闘経験を獲得できることを考慮し、北朝鮮国家主席金日成は原則同意を表明した。協議を経て、張正恒とシャドリは軍事援助協議書に署名した。同年4月、ムバラクは北朝鮮を訪問し、金日成に面会し、双方は飛行員派遣の具体的計画を詳細に討論し、金日成はさらにエジプトに軍事顧問団を派遣してもよいと提示した。

1973年6月、1,500人からなる北朝鮮軍事顧問団が秘密のうちにエジプトに赴き、エジプト防空軍が西カイロ基地にある地対空ミサイルを操作するのを助けた。これらの人は私服を身につけ、海外に赴いて出稼ぎし、外貨獲得を行う北朝鮮労働者に偽装していたので、一度はアメリカ、韓国、イスラエルの情報機関もだまされた。一方この大規模な顧問団の出発前、北朝鮮空軍援助団一行39人はとっくにエジプトで戦闘に投入されていた。彼らの中には20名の飛行員、8名の地上勤務誘導員、5名の通訳、3名の行政人員、1名の政治委員、1名の軍医、1名の炊事員がいて、隊を率いたのは当時北朝鮮空軍参謀長の任にあった趙明禄だった。この事前にエジプトに赴いた北朝鮮飛行員らは大部分が2,000時間余りの飛行時間を持つ強者で、作戦経験が豊富だった。彼らは前線に到着するやすぐにエジプト友軍の訓練展開を指導し始め、かつスエズ運河の防衛線に沿って戦備飛行を行った。

シナイ半島を取り戻す「バドル」作戦制定時、趙明禄およびサダト、ムバラクは何度もの連席会議を行い、優勢を占めるイスラエル空軍を制圧する方案を研究した。趙明禄は、かつて「六日間戦争」の時、イスラエル空軍が用いたことのある奇襲方案を参考にすることを提案した。すなわちエジプト戦闘機は直接スエズ運河東岸に向かって飛ばず、まず北上し地中海を迂回して海上から低空飛行してシナイの内地に向かって浸透するのである。こうすればイスラエル軍の防衛線の正面を避けることができ、まさにいわゆる「その人の方法をもってその人を退治する」である。細心の準備を経て、1973年10月6日、「贖罪日戦争」初日、北朝鮮顧問団の援助の下、エジプト空軍は200機の実戦機からなる攻撃編隊を出動させ、計画通りのルートで成功裏にイスラエル軍基地に浸透して爆撃し、不意を突かれて対応できないイスラエル軍の損失は甚大だった。韓国の「京郷ニュース」はイスラエル国防省の公報を引用し、駐エジプト北朝鮮飛行員はさらに8機のミグー21戦闘機を操縦して、イスラエル軍の多数のF-4E戦闘機を撃墜した、とした。

「贖罪日戦争」は最終的にアラブ諸国とイスラエルが引き分けることで終わりを告げたが、これを契機にエジプトと北朝鮮の関係は「血盟」の程度にまで上昇し、ムバラクはさらに金日成と深いよしみを通じた。「贖罪日戦争」後、エジプトはアメリカ一辺倒の方向に向かい、かつイスラエルと単独で講和し、ソ連の怒りを買ったが、北朝鮮は依然忠実にエジプト空軍建設のために援助を提供した。感謝として、1977年にエジプトは北朝鮮に2発のR-17E(スカッドーB)ミサイルと少なくとも1両の9P117発射車両を譲った。こうした武器は全てかつてソ連がエジプトに援助したものだった。エジプトのプレゼントは北朝鮮の貨物船によって南浦港に持ち帰られ、第二経済委員会の下に属する平壌「1月25日機械工場」(対外的名称は「平壌養豚工場」)に引き渡されてコピー生産が行われた。コピー生産されたミサイルは「華城-5号」と命名され、最初の6発のサンプル弾は1984年4〜9月に操作演習が行われ、成功と失敗各3回だった。

1981年にサダトが暗殺された後、ムバラクは跡を継いで大統領となった。中東においてエジプトはアメリカの確固たる盟友となったが、朝鮮半島問題ではエジプトはアメリカの盟友である韓国を拒否し承認しなかった。ムバラクはかつて北朝鮮当局者に対し、「私は金日成主席との盟約を堅く守る必要がある。命に賭けても韓国と国交樹立はしないと誓う」とした。1983年4月6日、エジプト大統領ムバラクの北朝鮮訪問歓迎式において、金日成主席は、「1973年の戦争の時、北朝鮮とエジプトは兄弟のように肩を並べて戦った。」とした。金日成没後2年目、すなわち1995年になって、北朝鮮最大のパートナーである中国が韓国と国交を樹立したのを待って、ムバラクは北朝鮮の新指導者金正日と意志疎通した後、やっと韓国と外交関係を樹立したのである。


 全然知らない話だったので興味深かったです。ちなみにその後ですが、2011年の民主化運動によって長期にわたるムバラク独裁政権は崩壊してムバラクも収監され、このことは同年末に死んだ金正日にも強いショックを与えたと思われます。

















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