M1909べネット・メルシェ軽機関銃

 ごく短期間アメリカ軍が使用したホチキス系機関銃です。

貝内特梅西軽机槍


アメリカ軍軽機関銃「第1号」 M1909べネット・メルシェ軽機関銃

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「M1909べネット・メルシェ軽機関銃の設計図面」)

この銃はアメリカ軍が採用した初めての軽機関銃である。この銃の原型はフランスのホチキスM1909軽機関銃だった。この銃は同時代の武器の中で多くのメリットを持っていたが、故障が頻発し、特に夜間の操作時にしょっちゅう使用不能になった。このため兵士らはこの銃に非常にぴったりなニックネームを付け、「日光の下の銃」(頑住吉注:英語版Wikipediaによれば「daylight gun」)と呼んだ。この銃こそM1909べネット・メルシェ軽機関銃である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「アメリカ軍が使用したハンドブックに掲載されているM1909べネット・メルシェ軽機関銃の正しい操作姿勢」)

20世紀初期、アメリカ軍は機関銃の開発および調達方面において、他の工業化の進んだ国々といい勝負をしていた。1895年、アメリカ軍はその歴史上第1号となる真正の機関銃を採用した。すなわち銃器設計の大家ジョン ブローニングによって開発された俗称「ポテトディガー」、M1895重機関銃である。この銃はいち早く空冷式を採用していたが、構造は複雑で、故障が起きやすかった。この後約10年も経って、アメリカ軍はマキシム重機関銃の最新型も採用し、M1904重機関銃と命名した。空冷式のM1895重機関銃と水冷式のM1904重機関銃はいずれもベルト給弾を採用し、火力持続性が比較的高かったが、両者の最大の欠点は重量が過大なことだった。このうちM1895重機関銃はトライポッドを含めた総重量約41kgだった。一方M1904重機関銃は水冷式構造を採用していたので、冷却水をいっぱいに満たした放熱筒やトライポッドを含めた総重量は69kgにも達した。この2機種の重機関銃は戦場において非常に重要な役割を果たしたものの、これらの過大な重量はその戦場における機動性を非常に大きく制限し、多くの不便をもたらした。このためアメリカ軍は、充分な火力があり、同時に便利に輸送および携行できる自動火器を持ち、重機関銃およびガトリング機関銃とライフルの間の火力の空白を埋めることに迫られた。

アメリカ軍第1号軽機関銃の誕生

このような武器を探すため、アメリカ陸軍武器部は当時の国内外の多くの機種の自動火器設計に対する評価を行い、最終的にフランスのホチキスM1909軽機関銃を最高のものとして選んた。この銃はホチキス社の2人の社員、アメリカ国籍の銃器設計者ローレンス べネットと、同社の総試験工程師ヘンリー メルシェによって設計されたものだった。この銃はガスオペレーション式自動方式を採用し、30連鉄製保弾板によって給弾し、発射速度は毎分約400発だった。この銃の全長は1,232mm、銃身長635mm、マズル近くに軽便型バイポッドが付属し、ストック下には伸縮可能な支持架が設けられていた。リアサイトは折りたたみ式で、不使用時は折りたたんで倒された。使用しなければならない時は起こされ、リアサイト上には射程による移動目盛り(照門)があった。携行に便利なように、銃にはスリングが設けられ、スリングはトリガーガード内を通り、両端はそれぞれバイポッドのそれぞれの脚につながれていた。これがバイポッドの折りたたみ、展開に影響することはなかった。最も重要だったのは、この銃にさらに当時としては非常に斬新な特徴があることだった。それはすなわち破損した、あるいは射撃して加熱したバレルが容易に交換できることだった。ホチキス社が以前に生産していた機関銃と比べ、この銃は体積が小さく、非常に軽便だった。重量は13.6kgしかなく、また銃全体で25点の主要部品しかなく、このためこの銃は「携帯簡単なホチキス」との愛称で呼ばれた。

アメリカ軍がこの銃に対し好感を示す前、これはすでにフランス軍およびイギリス軍によって採用されていた。この内フランス軍が採用したのは8mmレベル口径で、一方イギリス軍が採用したのは0.303インチ口径だった。

アメリカ軍がこの銃を選定しても依然として部隊で使用することはない状態が続き、この銃に対しいくつかのアメリカ式改造が行われた。例えば口径は当時アメリカ軍の標準だった0.30-06インチスプリングフィールド口径に改められたし、しかも当時M1903スプリングフィールドスナイパーライフルに使用されていたM1908 Warner & Swasey望遠式照準鏡が採用された。改造後のこの銃はアメリカによってM1909べネット・メルシェ軽機関銃と命名された。

M1909べネット・メルシェ軽機関銃はスプリングフィールド兵器工場とコルト社の2カ所でそれぞれ生産が開始されたが、両メーカーの総生産量はたった670挺だった。数量は多くなかったが、これはアメリカ軍が装備した第1号の軽機関銃である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「M1909べネット・メルシェ軽機関銃はガスオペレーション式構造を採用し、30連保弾板によって給弾した。マズルに近い部分にバイポッドが設けられ、ストック下方には伸縮式支持架が設けられた。リアサイトは折りたたみ式で、使用時には起こす必要があった。スプリングフィールド兵器工場とコルト社は全部で670挺この銃を生産した。」)

「日光の下の銃」としてあざけられる

M1909べネット・メルシェ軽機関銃がアメリカ陸軍に配備された後、初めて本当に戦火の洗礼を受けたのは1916年にアメリカがメキシコに侵入した戦争でのことだった(頑住吉注:パンチョ ビラがアメリカを攻撃した報復にウィルソン大統領がパーシング将軍指揮下の軍をメキシコに派遣した事件)。実戦において、この銃は一定の火力支援能力を提供することができたものの、同時にいくつかの問題を露呈した。すなわちこの銃の保弾板は容易に挿し間違い、特に夜間作戦時の状況ではさらに容易に起こった。保弾板を抜き、改めて正確に挿入しない限り、正常な給弾はできなかった。この他、この銃のエキストラクターとファイアリングピンはきわめて破損しやすく、しかもこれらの部品を交換する際、この銃の分解および改めての組み立ては非常に困難であり、特に夜間戦闘時は実施がさらに困難さを加えた。以上2つの非常に大きな欠陥が存在したため、多くの人にM1909べネット・メルシェ軽機関銃は夜間には全く使用でいないと考えさせ、このためこの銃はすぐにアメリカ軍兵士から「日光の下の銃」とあざけられもした。まさにかくのごときため、M1909べネット・メルシェ軽機関銃はいくつかの場合一定の作用を果たすこともできたが、全体的に言えばこの銃は理想的機関銃ではなかった。

M1909べネット・メルシェ軽機関銃の問題に関し、アメリカのある小火器の権威はかつて回想した。「私ははっきり覚えている。ある寒い朝、私と1人の政府検査員は努力して1挺のコルト社が生産したM1909べネット・メルシェ軽機関銃を搬出し、テスト場に置いてこの銃に対するテストを行おうとした。我々は共に非常に熟練した、技巧豊富なベテランだったのだが、この銃は20発の弾丸発射後、エキストラクターとファイアリングピンの故障を起こした。我々がエキストラクターとファイアリングピンを交換したまさに直後でさえ、この銃はまた壊れた。寒い天候の中では、凍結した部品はさらにもろくなり、砕けやすくなるからだった。」

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「2層に分かれ、全部で10の保弾板が入った木製弾薬箱。この中に全部で300発の弾薬が収納できる。」)

短い現役生活

アメリカ軍がM1909べネット・メルシェ軽機関銃を採用して2年目は、1917年に第一時大戦に参戦したその年であり、当時アメリカ陸軍が装備していた標準装備の機関銃はM1904マキシム重機関銃とM1909べネット・メルシェ軽機関銃だった。ただし両者の数量はいずれも多くなかった。当時アメリカ陸軍初の機関銃部隊がフランスに配置された時、M1909べネット・メルシェ軽機関銃を携帯していたが、この銃は訓練時に使用されたことがあるだけで、第一時大戦においていかなる戦闘にも使用されなかった。

その後、M1909べネット・メルシェ軽機関銃は急速にその他のより先進的な軽機関銃に取って代わられた。これにはブローニングM1918 BAR自動小銃(通常軽機関銃として使われた)やルイスM1917軽機関銃が含まれた。第一時大戦停戦前、M1909べネット・メルシェ軽機関銃は早くもすでにアメリカ軍の装備目録の中から消失していた。

M1909べネット・メルシェ軽機関銃には明らかな設計上の欠陥が存在したが、当時の多くのアメリカの機関銃初心者はこの銃を使って訓練し、このことは彼らが戦闘中その他の自動火器を使用するための良好な基礎を築いた。

M1909べネット・メルシェ軽機関銃はアメリカ陸軍が初めて装備した真正の軽機関銃だっただけではなく、一定の期間内においてこの銃はそれでもアメリカ軍内に装備された唯一の軽機関銃ですらあった。その時間は短かったが。この銃はアメリカ軍小火器史上忘れ去られてはならない武器である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「アメリカ軍兵士がM1909べネット・メルシェ軽機関銃を使用して訓練しているところ。銃にスリングが装備され、スリングがトリガーガード内を通っているのが分かる。両端はそれぞれバイポッドの脚につながれ、バイポッドの展開しての使用に影響しない。」)


 旧日本陸軍がホチキス系の重機関銃を使用していたのは有名ですが、アメリカ軍がホチキス系を制式採用したことがあるとは知りませんでした。

 アメリカは1889年にクラグ・ヨルゲンセンライフルを、モーゼルなど世界一流の軍用ライフルと比較した上で採用しましたが、威力が弱すぎ、構造上閉鎖機構を強化することも難しいということで短期間で次のスプリングフィールドM1903に換えなければなりませんでした。また1892年、コルトニューアーミーリボルバーを採用しましたが、威力不足でごく短期間のうちに別の銃に換えなければなりませんでした。そしてこのM1909軽機関銃も明らかな失敗だったわけで、どうも19世紀末から20世紀初めにかけて小火器の選定ミスが目立つ気がします。何か特別な原因があったんでしょうか。

http://en.wikipedia.org/wiki/Hotchkiss_M1909_Benet-Mercie_machine_gun

 英語版「Wikipedia」のこの銃に関するページです。










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