歴史もの小ネタをまとめて

独立した項目を設けるまでもない歴史ものの記事を訳し、優先順位が低いので後回しにしていたらたまってきたのでまとめて紹介します。

http://tuku.military.china.com/military/html/2013-05-02/215411_2343537.htm#pic


中国の日本「爆撃」第一号の人は誰か

画像は徐煥升

1937年12月、南京は失陥し、日本の侵略者の気炎は非常にみなぎっており、至る所で狂ったように爆撃が行われていた。当時ある人は日本を爆撃し、血は血で償わせることを要求した。ある人は日本に飛行機を派遣して宣伝ビラを散布し、日本人民に軍国主義狂信者に欺瞞され中国侵略の道具となってはならない旨覚醒を促すことを主張した。国民政府最高当局はこの提案を受けるや、日本に対する「政治空襲」を行い、これにより日本当局に警告することを決定した。

(頑住吉注:2ページ目)中国空軍は「空軍の敵国内地に対する襲撃計画」を制定し、空襲の時期は1938年5月下旬に、目標は九州の長崎、福岡などの都市と定められた。この時の空襲では爆弾を投弾することはなく、「紙爆弾」だけを投下し、仁愛精神をもって日本国民に共同で軍閥のみだりに武力を用いる妄想を粉砕するよう目覚めさせ、かつ日本当局に中国空軍には日本本土を攻撃する能力が完全にあるのだと戒めを与えるものだった。画像は抗日戦前に中国空軍がアメリカから購入したバルティVー11軽爆撃機。

(頑住吉注:3ページ目)日本反戦同盟(頑住吉注:捕虜から共産主義に賛同し八路軍に参加した元日本兵の団体)も「反戦同盟が日本兵士に告げる書」を執筆した。宣伝ビラの総印刷数は200万枚に達した。当時航空委員会秘書長の任にあった宋美齢はこの時の遠征を「人道遠征」と称した。画像は空軍第14中隊の第3号マーティン139WC爆撃機で、徐煥升が日本に遠征した時に搭乗した機である。

(頑住吉注:4ページ目)100万枚の宣伝ビラを搭載した編隊はニンポーから海に出た後まず南に転じ、その後日本の九州に向け飛行した。機クルーの通信員陳光斗と呉積沖は直ちにそれぞれ機の尾部にぎっしり詰まった宣伝ビラの麻袋を運び出し、機の高度が3,500mまで降りた時、1枚1枚の宣伝ビラは白色の爆弾のように機の床の下の四角い投下穴から投げ出され、ひらひらと日本の領土へと舞い散っていった。画像は孔祥熙(一番左)などが自ら漢口ワンジャードゥン飛行場に出向いて遠征した機クルーらの凱旋を出迎えたところ。

(頑住吉注:5ページ目)5月22日、中国共産党、八路軍駐武漢事務所代表周恩来、王明、呉玉章、羅炳輝は航空委員会に赴き、それぞれ中国共産党と八路軍を代表して、徐煥昇ら空軍の勇士を慰問し、錦の旗を贈った。中共駐武漢事務所が贈った錦の旗には、「徳と威を併用し、知勇共に揃う」、八路軍駐武漢事務所が贈った錦の旗には「三島を気呑し、九州を威震す」と書かれていた。周恩来はさらにコメントを発表し、空軍の勇士たちの英雄的行動を賞賛し、かつ徐煥昇およびトンヤンボーと記念撮影を行った。

(頑住吉注:6ページ目)画像の左から3人めが徐煥昇。1949年に台湾に赴き、かつて蒋介石の侍従室主任、「空軍」総本部主任、参謀長、副総司令官などの任にあった。1963年「空軍」総司令の任につき、4年後に解任され、その後中華航空社理事長、国民党中央評議委員の任についた。1984年3月4日台北で病死した。

(頑住吉注:7ページ目)中国空軍の日本本土「爆撃」は極めて大きく全国人民の士気を鼓舞した。全国のそれぞれの大メディアは続々とこれに関する報道を行った。有名な「抗戦」三日刊(頑住吉注:たぶん3日ごとに発行される刊行物だと思います)は5月23日第74期に鄒韜奮の「空軍の日本遠征と新たな抗戦力量」という文章を掲載し、この中では有名な評論家ゾウタオフェンも「戦局の動向」欄で「日本に宣伝ビラを与えたのは1つの警告であり、百万枚の宣伝ビラは百万トンの爆弾に変わり得る!」と指摘した。

(頑住吉注:8ページ目)徐煥昇(1906〜1984)、上海市崇明の人。江蘇医学院で履修(頑住吉注:卒業していない、という意味を含むそうです)、黄埔軍校第四期、中央航空学校第一期卒業、かつてドイツに赴き、その意図は航空学校を深く研究することだった。

(頑住吉注:9ページ目)画像の左から3番目が徐煥昇。


 「百万枚の宣伝ビラは百万トンの爆弾に変わり得る」というのは恐らくビラを読んだ日本人が軍国主義の洗脳から醒め、大きな政治的動きを引き起こして中国侵略が終わることを期待したんでしょう。正直すごく複雑な気持ちになります。

http://military.china.com/history4/62/20130502/17810771.html


第二次大戦時のドイツは宇宙兵器製造を欲した 太陽光を使って敵の都市を破壊

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「ドイツの『宇宙神槍』構想」)

イギリスの「デイリーメール」4月2日の報道による。巨大な拡大鏡を利用して太陽光線を集め、このエネルギーを軍事攻撃に使うというのはやや007映画の中の悪役たちに似た狂気の発想のようである。しかし、この計画は第二次大戦の時期に本当に存在した。アメリカの「ライフ」誌1945年の報道は、ナチスドイツは拡大鏡で太陽光線を集めるという原理を利用してカバー範囲1マイル(約1.6km)に達し得る「太陽神槍」を作り出し、敵サイドの都市を燃やしたり一部の海洋を沸騰させたりするのに用いることを望んだ、とした。

「ライフ」誌のこの文章は、この計画はヨーロッパのロケットの父ヘルマン オーベルトによって1923年に提出され、初志は地球のいかなるところで生活する人にも必要な日光を提供するためだった。

オーベルトは設計方案の中で次のように書いている。「子供たちは屋根の上に登って拡大鏡を持ち光線を屈折させる遊びをするが、私が設計した宇宙鏡面は彼らが手に持つ拡大鏡と同じである。」 宇宙鏡面を作る工程には15年かかり、資金は300万マルク(約1217.53万人民元)を費やしてやっと完成するとされた。

「ライフ」誌は、連合国が1945年に第二次大戦に勝利した後、ナチスの作戦計画の中からグレードアップ版のオーベルトの計画を発見し、しかもナチスがすでに関連の研究の展開を開始し、当時のドイツにはこの「鏡面武器」を地球からの距離22,236マイル(約33,785km)の高い軌道上に到達させる能力があるか否か検討していたことに気付いた、としていた。

文章はさらに、「太陽神槍」製造の具体的ステップを詳細に推測した。この巨大な鏡を軌道に乗せるには、まず有人宇宙ステーションを作り出し、そのために直径30ヤード(約9.14m)(頑住吉注:それだと10ヤードでは)の穴を設けて運搬ロケット停泊に供し、さらに酸素を供給するのに用いる水耕ガーデン、および太陽エネルギー発電機を作り出す必要がある、としていた。


 いやどう考えても当時は無理でしょう。しかし現在ならあるいは強化した太陽光を地上に届けて発電に使うなんてことも可能かもしれません。しかしまあコストに見合わんでしょうな。

http://tuku.military.china.com/military/html/2013-05-22/216036_2351961.htm#pic


1つの裏切り逃亡がソ連空軍を10年後退させた

これまで明らかにされたことがなかった最新の秘密解除文書は次のことを明らかにする。1976年9月6日、ソ連防空軍第11独立集団軍第23軍第513戦闘機航空連隊の軍事飛行員ヴィクター ベレンコ上尉は、当時最も先進的だったミグー25戦闘機を操縦してソコロフカ飛行場から発進し、計画された飛行任務を執行する期間に裏切って日本に逃げ、元々の計画では日本の北海道の軍事飛行場に着陸し、あらかじめ待っている西側スパイと秘密のうちに連絡を取ることになっていたが、真相不明の日本戦闘機の迎撃をかわすため航路を迷うという結果がもたらされ、また機の燃料がまもなく尽きるなどの原因から、日本の函館の民間用飛行場への着陸が迫られた。

(頑住吉注:2ページ目)ひとまずの調査で、ベレンコが裏切って逃げたのは前々から企んでの行為だったことが分かった。深く突っ込んでの調査は、1976年9月6日の少し前、ベレンコは毎年の療養休暇の時モスクワ、キエフ、トビリシ、タシケントなどの地に行き、出費が比較的多く、行動は謎めいてよく分からなかった。明らかに、ベレンコはとっくに西側のスパイ機関に取り込まれていたのである。

(頑住吉注:3ページ目)ベレンコが操縦する機は日本の函館の民間用飛行場に強制着陸させられた。

(頑住吉注:4ページ目)函館空港で滑走路から飛び出たミグー25

(頑住吉注:5ページ目)ソ連があくまで主張した中で、1976年11月12日、日本サイドは戦闘機を返還した。この時、アメリカの専門家はとっくにミグー25を全面的に研究しており、分解を行い、カギとなる重要部品のサンプルを手に入れ、その後改めて塗装し、溶接していた。多くの英語で「良い」、「非常に良い」と表記された部分は塗装によって消すことが全く間に合わなかった。照準機とレーダー設備を除き、アメリカ人のミグー25に対する全体的評価は非常に高く、高空迎撃機としては相手になるものがなく、性能はずば抜け、構造は簡単、堅固で、信頼性が高く、維持メンテナンスが便利で、操作は簡単だとした。

(頑住吉注:6ページ目)画像は箱に入れられてソ連に返還されたミグー25。

ベレンコの操縦する機が裏切って逃げたことはソ連軍に極めて大きな損失をもたらした。当時最も先進的なミグー25戦闘機の他、敵方はさらに「硅-2」敵味方識別システムの部品や機載レーダー照準機を手に入れ、ソ連軍は緊急に研究開発を行って新型照準機に換装すること、「口令」敵味方識別システムへの交換を迫られた。

(頑住吉注:7ページ目)ベレンコが顔を隠してニュース現場に出現

(頑住吉注:8ページ目)ミグ-25戦闘機

(頑住吉注:9ページ目)今のベレンコの体はすでに恰幅がよくなっている。


 これ私が小学生の頃の事件なんで記憶がありますが、機はアメリカに運ばれたんだと思っていました。事前に西側のスパイ組織に取り込まれていたというのは本当なんですかね。

http://military.china.com/history4/62/20130522/17846891.html


第1発目の原子爆弾はソ連が製造した? 実験後ソ連は研究を中断

戦争史には、硝煙と死傷以外に、さらに非常に多くの知る人の少ない、しかも今に至るもなお人を不可解にさせる軍事の謎がある。

これらの軍隊は何故突然失踪したのか

1945年12月5日、アメリカのフロリダ州の空軍基地のテイラー中尉は、一個中隊の戦闘機を率いてフロリダ海岸まで飛び、訓練飛行任務を執行した。ほどなく、管制塔はテイラー中尉の緊急の叫びをキャッチした。「我々は迷った‥‥異常を発見‥‥まるで神秘の力が我々を導いているようだ‥‥我々は海に突入する、オーバー‥‥」 その後連続して数週間、アメリカは300機の余りの飛行機、4隻の軍艦と何隻かの潜水艦を動員して絨毯式の捜索を展開したが、生存者を捜し当てることがなかっただけでなく、機の残骸ひとかけらも、1点の油の跡も発見しなかった。

これだけではない。他の国でもかつて軍隊の集団失踪案件が発生したことがある。1711年、4,000名のスペイン兵士がパリャンニ山上に駐屯し援軍を待っていた。翌早朝援軍が到着した時、野営地内では炉の火が燃えさかり、馬匹、大砲は元のまま動かされていなかったが、4,000名の兵士は全て影も形もなかった。1915年、トルコのガリポリで、一個連隊のアメリカ軍が小さな山を越えている時、彼らは山頂の雲と霧の中に入ってゆき、それが晴れた時、全連隊の将兵は影も形もなかった。人々は数ヶ月捜索したが、終始何の結果もなかった。

第1発目の原子爆弾は誰が研究開発したか

軍事史界では皆、アメリカが1945年7月に実験した原子爆弾が人類史上第1発目の原子爆弾であると考えている。だが近年、ある専門家は秘密解除されてほどない保存書類を根拠に、ソ連こそ第1発目の原子爆弾の製造国だと考えている。

1938年、スターリンはドイツが原子爆弾を試作しているところだと知り、シベリアの荒れ野の中に原子爆弾実験基地を設置するよう命令を下した。1943年9月、彼は基地からの緊急電話を受けた。9月10日にある無人島で第1発目の原子爆弾の実験が行われた、というのである。スターリンは直ちにマレンコフ率いる高級将校を派遣した。この原子爆弾はアメリカが広島に投下した原子爆弾の1/10の規模でしかなかった。物理学者のビデーサクはその威力を過小評価し、爆発時コンクリートの掩体に入らず、原子爆弾爆発の被害者第1号となった。後に、ソ連は一度研究開発を中断し、1949年になってやっと2万トンのTNTに相当する原子爆弾を爆発させたのである。

スターリンは何故後にもはや原子爆弾の研究開発を急がなくなったのか? あの時の核爆発前にソ連軍は何故ずっと秘して言わなかったのか? 現在まだ知ることはできない。(「合肥夕刊」から抜粋)


 何と申しますか、余りにも陳腐な与太話である「バミューダトライアングルの謎」云々がない方が、「もしかしたら本当かも」と思わせる記事になったと思われます。最後にあるように、せっかく成功した原子爆弾をいったん放棄するのも、初めての原爆実験を事前にスターリンに知らせずに行うのも不自然すぎる気がします。しかし威力を過小評価した物理学者が掩体に入らなかったため死んだというあたりには妙なリアリティがありますね。














戻るボタン