中国におけるモーゼルミリタリーピストル その2

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駁殻ファミリーの「三国志演義」

我が国が歴史上使用した駁殻槍は主にドイツ、スペイン、中国によって生産された。

1927年、スペインのウンセタ社は中国の7.65mmブローニング拳銃や7.63mmモーゼルマシンピストルに対する需要量が非常に大きいことに気づいた。そこで、彼らはドイツのモーゼルM1896式拳銃を手本に、全自動射撃できる拳銃を研究開発し、かつ市場に登場させた。この拳銃は組立、分解を便利にするため、銃本体左後ろ側に側面カバー(頑住吉注:サイドプレートですね)が取り付けられていたため、我が国は戦争の年代に通常それを「旁開門」と称した。この銃の特徴は2つのグリップフレームを貫通する大きなネジがあることで、内部部品の固定と動作運転の作用を果たした。ひとたびこうなるや、拳銃のコストはずっと節約され、価格もずっと安くなった。この銃の左側に全部で7本のネジが見えるため(グリップ上の1本含む)、通常「七釘拳銃」あるいは「七釘盒子」と呼ばれた。

ドイツ製のモーゼル拳銃は1930年までは全て半自動で、すなわち1回トリガーを引くと1発の弾丸が発射される種類だった。スペイン人がドイツ人に先んじて全自動拳銃を中国に販売し、市場を奪い占めたため、ドイツ人も急ぎ全自動モーゼル拳銃を研究開発した。ドイツがまず生産したのはM1930式と呼ばれ、生産数はおよそ4,000挺で、ほとんど全部中国に販売された。羅瑞卿大将は革命戦争の年代にかつてこの拳銃を使用したことがある。現在現存するこの拳銃は多くなく、非常に貴重である。

駁殻槍は中国では終始供給が求めに応じられない状況にあり、しかもドイツオリジナル工場の製品の価格は安くなかった。そこで中国の各兵器工場は次々にコピー生産し、名称と様式の変化も比較的多かった。1921年、上海兵器工場と漢陽兵器工場はそれぞれM1896モーゼル拳銃をコピー生産し、構造はM1896と同様であり、銃の下面に各自の工場のマークを刻印しただけだった。

太原兵器工場は1927年に7.63mmモーゼル拳銃をコピー生産し、かつ銃の左側に「自来得」の文字を刻印し、右側には「太原兵器工場」の文字を刻印した。1928年、この工場はまた11.43mmトンプソンサブマシンガンの弾薬をコピー生産し、この弾薬を発射するモーゼル拳銃を生産した。民国17年だったため、「一七式」と定められ、人々はそれを「山西造」と称し、非常に良くコピー生産されており、8,000挺が生産された。

国民政府兵工署もかつて「自来得」をコピー生産した。天津の大沽海軍造船所はモーゼル拳銃をコピー生産しただけでなく、さらに銃身の延長、小銃状のストックを装備することにより、「カービン銃」に改造した。

「舶来の棄銃」の中国での物語

ドイツ人はモーゼル拳銃の設計と加工を極致に到達させ、威力と射程はいずれも非常に優秀だったが、それには全体としてやはりいくつかの欠点が存在した。例えばマズルジャンプが深刻で、構造が複雑で、価格が高すぎるなどだった。このため、ヨーロッパでこれが購入されることは非常に多くなはなかった。もし故郷のドイツでも、この銃は冷遇を受け、第二次世界大戦中一部武装親衛隊と空軍に装備されたことがあるだけで、軍用拳銃不足時の代用品としてだった。

西方が明るくなければ東方が明るいものである。駁殻槍は中国では逆に春を迎え、大いに異彩を放った。統計によれば、1925〜1935年の期間、中国向けに投げ売りされた各種駁殻槍は40万挺あまりに達した。旧中国の軍閥の混戦から始まり、西方は中国向け兵器輸出を制限したが、駁殻槍は拳銃であり禁輸リストにはなかった。だからこそ駁殻槍が大規模に中国に進軍する現象があったのである。

駁殻槍の威力と射程は一般の拳銃に比べ大きく、さらに木製箱型ストックがあり、加えて半自動あるいは全自動射撃方式だったため、多人数が同時に一斉射撃すれば、短時間内に非常に猛烈な制圧火力を形成し、このため突撃に非常に適した。それは拳銃とすることも小銃の機能を果たすこともでき、中国軍人の歓迎を大いに受けた。「平原遊撃隊」の中の李向陽、「紅色娘子軍」の中の呉瓊花、「回民支隊」の中の馬本齋、「亮剣」の中の李雲竜が使用したのは全てこの出演率最高の「爆款神槍」だった。

構造的原因ゆえに、駁殻槍の射撃精度は決して充分高くはなかった。だが、中国軍人は実戦の中でこの欠点を克服し、そのメリットを極致まで発揮させ、一種独特の射撃方式を発明した。射撃時本体を寝かせ、弾頭に水平面上の散布を形成させるのである。ひとたびこうなるや、放出される薬莢が自らを傷つけるのを避けることもできれば、また地平面上の目標に対する命中率を向上させることもできた。この射撃方式は広く流れ伝わりもし、今に至るも依然多くの映画やテレビドラマの中での古典的シーンである。

中国の歴史上編成された駁殻槍部隊も非常に多く、例えば馮玉祥西北軍の拳銃連隊、我紅二十五軍の拳銃連隊である。赤軍の長征の時、各級の指揮官や精鋭突撃部隊にも駁殻槍が多く配置され、例えば飛奪滬定橋の二十二勇士である。八路軍と新四軍武工隊員の標準装備も盒子砲で、毛沢東さえ「一般民には我々がよく分かる。我々は盒子砲を背負っているものが多いから。」とふざけて言った。

我が軍の各級の指揮官は皆駁殻槍を非常に好んだ。井岡山における闘争の時期、戦闘が最も緊張した時に遭遇するたび、朱徳は往々にして駁殻槍を持ち自ら隊を率いて突撃し敵を殺した。新四軍軍長の叶挺も皖南事変の包囲突破の戦闘中、駁殻槍を手に持ち自ら敵兵を射殺した。徐向前は駁殻槍を使用し八路軍第129師団の将兵たちを率いて抗日の戦場を疾駆した。

軍事博物館の中には朱徳、任弼時、徐向前、聶栄臻、許光達、呂正操、滕代遠、譚震林、劉華清などの将官が革命戦争の年代に使用した駁殻槍が保存されている。今、朱徳が使用したこの駁殻槍はすでに国の重器として軍事博物館内に収蔵され、一級文物と定められ、我が軍の建軍の重要な象徴的符号の1つとなり、人々の敬愛と見学に供されている。


 それ自体は決して成功作ではなかった銃ですがやはり独特の魅力がありますね。「功臣号」戦車に関する記事も読んでみたいです。













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