中国とモーゼルミリタリーピストル

 中国で多用されたモーゼルミリタリーピストルに関するページの内容の紹介です。

http://blog.163.com/dandandang2010@126/blog/static/140949716201071131336904/


駁殻槍の逸話(頑住吉注:後で詳しく説明されますが、「駁殻槍」とはモーゼルミリタリーピストルおよびコピーのことで、発音は「ボーコーチャン」といった感じです)

(頑住吉注:原ページの最初の画像のキャプションです。「標準型M1896駁殻槍。このタイプはドイツで1930年までずっと生産された。銃本体左側後部にモーゼル社の商標が刻印されている」)

駁殻槍ほど中国の近現代史においてかくのごとき深い痕跡を残し得た銃器はない。20世紀の前半50年の中で、この銃はずっと中国の軍事、甚だしきに至っては政治の舞台上で活躍し、一幕の手に汗握る歴史上の事件の中で不可欠な役割を演じてきた。この銃は中国でこのように普及し、さらに相当長い一定の時間の中でこの銃はかつて一度拳銃の代名詞になった。

「名前」が最も多い拳銃

駁殻槍がいつ最初に中国に出現したのかは、現在になってはすでに考証することはできない。ある説では十月革命(頑住吉注:1917年、二月革命後のケレンスキー政権をボルシェビキが打倒して権力を握った革命)後に中国に亡命した白系ロシア人が最初にこの銃を国内に持ち込んだと考える。当時の軍閥である張宗昌、張作霖は軍内に白系ロシア人を雇用していたが、その中の多くの人が駁殻槍を携帯していた。だが実際にはこれ以前に駁殻槍は国内ですでに使用されていた。1912年9月には早くも北洋政府陸軍部はドイツの会社Carlowitz & Co.との契約にサインし、「モーゼル製の拳銃200挺」を購入した。500発の弾薬と付属品フルセット込みで、1挺ごとの価格は純銀58両であり、これは中華民国元年に中国に早くもこの価格安からぬ舶来品が出現したことを証明している。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「モーゼル社がロシアのために特注生産した「Bolo」(ボルシェビキの略称)駁殻槍。この銃はショートバレルの警察用タイプを基礎に発展してできたもので、かつて相当数が中国に亡命した白系ロシア人と共に中国に入り、最も早く中国に入ったモーゼル拳銃の一つである。」)

駁殻槍の名前はいつもモーゼルと密接に関連している。多くの場合この銃は「モーゼル拳銃」と呼ばれる(頑住吉注:原文では「毛瑟」、発音は「マオサー」に近いです)。関連する資料による証拠は乏しいが、一般に考えられているところによれば、この銃はモーゼルの発明ではなく、ドイツの銃器技師Feederle兄弟が1893年に設計し、翌年ドイツのオベルンドルフモーゼル兵器工場でサンプル銃が作られ、相次いでドイツ、イギリス、ベルギー、フランス等の国でパテントが獲得され(パテントの申請人はモーゼル)、1897年になって初めてM1896拳銃として定型に至ったもので、C96とも称される。

外来の事物に対し一貫して敏感な中国人は、素早く駁殻槍というこの新式武器を受け入れた。だが昔の中国人たちの文化レベルが普遍的に高くなかった状況下で、駁殻槍のような長い横文字の名前は口にし難かった。だが中国人には独自の方法があった。彼らは各種の駁殻槍の間の差異に基づき、それぞれそれらに簡単なあだ名をつけた。こうすればすらすらと口に出せるし、覚えるのも簡単だった。ヨーロッパ人もかつてモーゼル拳銃を「箒の柄」(Broom Handle)と呼んだが、中国人がこの銃につけたあだ名に比べれば、種類でも想像力の豊富さでも遠く及ばない。これらのあだ名は広く伝わり、多くの場合人々がこれらの俗称だけを使用するに至ったのである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「駁殻槍および盒子砲という名称はいずれも銃に装備される木製ホルスターから来ている。画像の国民政府兵器工業署のマークがある駁殻槍はアメリカマーケット輸出専用に、既存の部品を使って組み立てられたものであり、口径はすでに9mmに改められ、木製ホルスターは新たに制作されたものである。」 フレーム側面の重量軽減のための削りが少し雑な感じです)

外国人は駁殻槍を「箒の柄」と呼ぶ。これは大部分この銃に付属する木製ホルスターの形状を指している。これをグリップ後端に接続した時、間違いなく少しホウキに似て見える(頑住吉注:日本の定説でも、英語版「Wikipedia」の説明でも、グリップの形状が箒の柄に似ているからだとされています)。これもこの武器の中国において最も大衆化した呼称であるが、「盒子砲」、「匣子槍」(頑住吉注:それぞれ「ハーズパオ」、「シアズチャン」)の中の「盒子」と「匣子」(頑住吉注:いずれも箱の意)の由来についてである。最もよく見られる口径7.63mmの駁殻槍に関して言うと、その弾頭の初速は425m/sに達し得た。これは当時の各種拳銃の中で比較的高いと言え、旧式の鉛弾頭を使うリボルバーの弾頭の2倍近く、弾頭は1000m以上飛んでもまだ殺傷力がある。このため往々にして「盒子」の後にさらに加えられる「砲」の字はその威力の巨大さを形容している。一方、「駁殻槍」の名前の由来は音訳とも関係があり、その名がつけられたのもあの木製ホルスターゆえにである。「駁殻」(かつて早い時期には「卜殻」(頑住吉注:「ブーコー」)と音訳された)はまさに英文の「box」の音訳なのである。他の説では、駁殻槍の表面は比較的平滑であり、鉄製の駁船(頑住吉注:はしけ)用鋼板そっくりだったために「駁殻」と称されたという。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「国内でコピー生産された駁殻槍。銃本体の右後部に「自来得手槍」の文字と太極図のマークが刻印されている。」)

駁殻槍の、昔の中国における最も「公式化」された呼称は「自来得」(頑住吉注:「ズーライダ」)である。当時政府の文書や兵器工業の資料の中も含め多くの正式な場合にこの名称が使用されている。「自来得」の「得」はドイツ(頑住吉注:中国語では「徳国」)の「徳」ではないが(頑住吉注:中国語では「徳」と「得」の発音が同じ)、この名称は間違いなく元々ドイツ語から来ており、ドイツ文の「自動装填」(Selbstlade)の音訳なのである。「来得」はすなわちladeで、英語のloadに相当する。弾薬をチャンバーに入れるという意味である。「自来得」という語はこのように響きがよいので、当時国内にはわざわざその製品の片側にこの漢字を刻印したメーカーがあった。

この銃自体の種類はすでに多く、各種の変形やコピー品を加えれば直ちにもっと複雑さを加える。ドイツのモーゼルオリジナル工場が生産したのは5種類で、それぞれM1898、M1912、M1916、M1930、そしてM1932である。この中でM1898とM1916の口径は9mmであり、後者の多くは7.63mm口径から改造してできたものである。その他の口径と区別するため、グリップに大きなアラビア数字の「9」が刻まれ、しかも鮮やかな赤色に塗られている。このためこのタイプは「大紅九」(頑住吉注:「ダーホンジュウ」)とも称される。9mm口径にはパラべラム弾薬仕様以外に、9mmモーゼル拳銃弾薬や9mmラルゴ弾薬仕様の2種があり、この3者は薬莢の長さが異なり、威力にも差があり、互換性はない。このうち9mmパラべラムと9mmモーゼル口径の駁殻槍は中国でも使用されたが、数量は多くなかった。中国で最もよく見られたのは、やはり7.63mm口径の各タイプの駁殻槍である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「M1916式「大紅九」駁殻槍。7.63mmモーゼル拳銃弾薬と9mmパラべラム拳銃弾薬のリムの寸法は近いので、装弾用ストリップクリップは共用できる。」)

「快慢機」(頑住吉注:「クヮイマンジー」、中国語のセレクター)あるいは「20響」(頑住吉注:「アルシーシャン」)と呼ばれたM1932を除き、上述のそれぞれの銃は全て半自動タイプで、10連固定弾倉(頑住吉注:中国語では固定マガジンをこう呼び、着脱ボックスマガジンは「弾匣」と呼びます)によって給弾する(極めて少数は6連あるいは20連の弾倉)。装弾時はまずボルトを後方で保持し、その後弾薬をフル装填したクリップ(このクリップは一般に「梭子」と呼ばれる)をバレルエクステンション真上の切り欠きの中に挿入し、その後下に向け力を入れて弾薬を弾倉内に押し込む。押し込み終わったら空になったクリップを抜き取る。映画「平原遊撃隊」の最後で射殺した敵の首領松井に関する一連のシーンにこの方面の詳細が描かれている(頑住吉注:1943年を舞台にした古典的戦争映画で、松井というのは日本軍の隊長です。原ページの簡体字で検察すると動画も出てきます)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「三号警察用タイプの駁殻槍。ショートバレルと小型グリップが装備されている。画像に示すこの三号駁殻槍は朱徳同志が南昌で武装蜂起した時に使用したもの。銃本体の右側に、「南昌暴動記念、朱徳自ら使用」の文字が刻印されている。」 朱徳は人民共和国「健軍の父」ともされる人物です。私以前「勝てば革命、負ければ暴動」ということわざをでっち上げたことがありますが、中国語の暴動にはマイナスのニュアンスはないんでしょうかね)

駁殻槍の中国人の眼中にある分類方式は非常に奇妙で具体的なものである。それらはサイズの大小によって区分され「〜号」、あるいは「〜把盒子」と称される。「1号」はすなわち「頭把盒子」であり(頑住吉注:この「頭」は日本語の「初代」の「初」のように「一」の代わりに使われてます)、フルサイズのバレル(140mm、スペイン製品にはバレルが180mmを超えるタイプもあった)とフルサイズのグリップを採用し、バレルが細長いため「長苗盒子」とも称された(「苗」はバレルを指す)。「烈火金剛」の中の偵察員肖飛が用いたのがまさにこの種類の銃だった。「2号」はすなわち「二把盒子」で、やや短いバレル(132mm)とフルサイズのグリップを採用し、軍用モーゼル拳銃のうちこのタイプが最もよく見られる。「3号」はすなわち「三把盒子」で、ショートバレル(97mm)と寸法の小さいグリップを採用した警察用タイプである。朱徳同志が南昌で武装蜂起した時に使用したのがまさにこのタイプの拳銃だった。その理由は朱徳が当時まだ南昌市公安局長の職を兼ねていたことである。「二把」、「三把」に対してはまだ別の理解がある。「二把」は革製ホルスターを採用し肩付け射撃できない「2号盒子」を指し、「三把」は木製ホルスターが追加された駁殻槍のみを指す。ここでの「把」は銃の数量を指すのではなく(頑住吉注:中国の数量詞は非常に多くて複雑ですが、取っ手のあるものなどを「一把」、「二把」と数えます。ただし銃の数量詞には「支」が使われることが多いです)、銃の握って保持できる部分を指す。延長型で下から挿入する方式のマガジン(M1932型)とグリップは「一把」と「二把」であり、また木製ホルスターの基部も手で握ることができ、ゆえに「三把」と称する。注意に値するのは、この種の「号」や「把」という分類は口径によるものではないということだ。もし口径を論じるなら9mmのタイプも「頭把」と称することはできない。なぜなら11.43mm口径の駁殻槍もあるからで、このため上述の分類は同じ口径のみを指すものである。同時に、駁殻槍のタイプは数多く、もし口径で分けず、全て長短で分類して一列に並べれば、「七把、八把」になってもまだ並びきれない。

「駁殻槍の国」


駁殻槍はヨーロッパでの使用は多くなく、普及の程度はルガー拳銃にさえ及ばなかった(頑住吉注:「さえ」って、大国ドイツと、決して小国ではないスイスで軍制式になってるんですから)。ロシアが第一次大戦前後に部分的に使用しただけで、この銃の最も主要な顧客は万里も離れた中国だった。昔の中国は貧困で遅れていたが、ドイツが生産した150万挺の駁殻槍のうち1/4近くが中国に販売された。実際のところ、もし中国の発注という支えがなかったら、モーゼル社はとっくに倒産さえしていたかもしれないのである(頑住吉注:いやライフルの方が主力製品でしょうしそれはないでしょう)。

何故中国人は駁殻槍を選択したのか? その品質、威力等の要素の他、これは主に中華民国初期の何年にもわたる内戦のためである。国際連盟は中国に対し十年の長きにわたる「武器禁輸」を実行したが、駁殻槍等の各種拳銃は禁輸リストになく、公然と大量に輸入できたのである。1927年3月におけるスペインのアストラ社の販売担当者アーネスト ボーツァイの記述によれば、当時神戸にあったある日本の貿易会社が、毎月中国に向け1000〜1500挺の駁殻槍を投げ売りしていた。一方中国のそれぞれの軍閥たちはこの拳銃を十二分に歓迎した。なぜならこの銃の発射速度は速く、精度が良く、威力が大で、加えて短小軽便であり、警護隊や突撃隊の装備として非常に適しており、その他の拳銃がこれらを同時に達成することは難しかったからである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「国民党政府は1930年代前後にドイツ等の国から大量の各形式の駁殻槍を輸入した。画像は駁殻槍とZB26軽機関銃を装備した国民党の軍隊。駁殻槍にいずれもフル装填のストリップクリップが挿入されていることに注意。」 4人全員この状態っていうのは不自然な感じがしますが、この状態から合図があったら一気に装填して射撃を開始するという訓練のルールでもあったんでしょうか)

駁殻槍の広範な装備は、中国独特の「拳銃旅団」、「拳銃連隊」といった部隊編成を生み出すに至った(頑住吉注:そりゃ確かに非常に珍しいですね)。その中で最も有名なものは西北軍に属す馮玉祥の拳銃旅団である。ここから分化してできた韓復、呉化文部隊は、抗戦期間になってもなおずっと拳銃旅団の編成を保持していた。数千人の部隊が全て駁殻槍を装備したが、これは世界の軍事史上でも前代未聞のことだった。。中国農工赤軍の中にも類似の編成があり、その中でも湖北河南安徽の国境地域において戦闘を行った紅二十五軍拳銃連隊が最も有名である。この部隊は相前後して韓先楚、劉震、陳先端等の一連の共和国の高級将校を輩出した。この連隊は百人余しかいなかったが、駁殻槍一色に装備され、弾薬は充足し、戦闘力は強く、特に奇襲等の特殊作戦の得意さは敵に聞いただけで肝を潰させた。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「淞滬抗戦中、駁殻槍を装備する19路軍決死隊。彼らの駁殻槍は弾薬携行具と体の間に挿し込まれており、これは銃を素早く抜くために便利な携行方式だった。」)

この他、スペインが生産した「皇家」等各種ブランドのモーゼル拳銃コピー品が国内でもよく見られた(頑住吉注:「皇家」って何でしょう。発音的にも意味的にもスター、アストラ、ラーマ、いずれにも当てはまらない気がしますが)。スペイン製品の品質は高いものと低いものがあったが、価格はドイツ製品と比べてずっと安く、その中でもMM31とアストラ900系列等の機種は中国で非常に売れ行きが良く、1920年代末から30年代初めには中国マーケットの相当の部分を占めた。これらの拳銃も同様に駁殻槍と称された。上海公安博物館には今でもまだ孫中山氏が使用したことのあるアストラ工藝型駁殻槍が保存されている。スペイン製品とドイツ製品は外観が大体似ていたが、内部構造には差異があった。外観から見ると、スペイン製拳銃の表面には7つの四角い固定ピンがあり、一方ドイツ製にはなく、ゆえに前者を「七釘拳銃」とも称した(頑住吉注: http://askmisterscience.com/1896mauserbackup/astradisassembly.htm 基本的にコピーかと思ってましたが結構違いますね)。

駁殻槍は中国において終始供給が需要に追いつかない状態にあり、しかもドイツオリジナル工場の製品の価格は安くなかった。このため1918年から国内の四川兵器工場でこの銃のコピー生産が開始された。これは駁殻槍の種類を大いに豊富にした。不完全な統計によれば、1940年までに国内の全部で11の兵器工場がこの系列の拳銃を生産していた。M1932型をコピー生産したメーカーは5つあり、さらにこの他いくつかの地方軍閥の工場、甚だしきに至っては手作業による作業場もこの種の製品をコピー生産した。コピー製品の中で最も有名なものに属するのは、山西軍閥の閻錫山統制下の太原兵器工場が1929年に製造を開始した.45口径の民国17年式駁殻槍である(頑住吉注: http://bbs.tiexue.net/post2_3819213_1.html )。この銃は全長が300mmに達し、全体重量1.8kgで、主に鉄道護送隊に装備された。別の延長型モーゼル拳銃は大沽造船所が製造したもので、大沽の製品はレアなモーゼルM1917式カービン銃に外形が似ていた。M1917はM1896式拳銃を基礎に改良してできたもので、オリジナルの銃と比較すると400mmの延長型バレルと20連着脱マガジンに換えられ、しかも固定式ストックとフォアグリップが装備されている。この銃はドイツが第一次大戦末期に塹壕戦のために研究開発したもので、半自動射撃のみできる。だがこの銃の精密な構造は泥まみれの野戦環境には適せず、後にはやむを得ずベルグマン社のMP18サブマシンガンに地位を譲り、大量生産はされなかった。だが大沽の製品は全自動で、一般にサブマシンガンに分類される。これらのコピー生産品は、大小、口径、内部構造、加工グレードにいずれもばらつきがあったが、全て統一して駁殻槍の外形を備えていた。当時の人々はモーゼルオリジナル工場製品に対して普遍的に信頼していたため、これらの国内コピー製品にも頻繁に偽のモーゼルのマークが入れられた(頑住吉注:いまだに中国にはパクリ商品が氾濫しており、商標までパクる例も珍しくありませんが、年季の入った伝統芸ですね)。また一部の公的な貿易ルートで中国に輸入された駁殻槍には「徳国造」の三つの漢字が刻印され、この銃が中国の顧客の注文生産品であることを表していたが、国内の多くのコピー生産品にも同様にこの三文字が刻印された。さらに極端な例では、一部の単発の手作り拳銃もわざわざ駁殻槍の形状に作られることがあり、モーゼル系列拳銃の中国における影響力の一端をここに見ることができる(頑住吉注: http://img6.itiexue.net/714/7145298.jpg フロントサイト意味ないすね)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「太原兵器工場でコピー生産された.45(11.43mm)口径の「民17式」駁殻槍。この銃は全部で7,000挺生産され、国外の銃器コレクターが競って求めるレアアイテムである。」)

「盒子」槍のランヤードと「明套」(頑住吉注:後で説明されますが、「明套」とはガバメントのベルトクリップに似たものです)

駁殻槍の外観上最大の特徴の一つはあの木製ホルスターに他ならない。平時は銃を収納し保護する役割をし、ホルスターの先端部には連結部品が設計され、木製ホルスターを拳銃のグリップ後部に固定することができる。銃とホルスターを接合すると、駁殻槍は手で持って射撃する拳銃から肩付け射撃できる小型カービン銃に変身し、敵の手榴弾投擲距離の外から敵の死体の山を楽に作ることができる。だがこの種の木製ホルスターは駁殻槍の専売特許ではなく、19世紀末から20世紀初め、この種の拳銃で肩付け射撃できる木製ホルスターストックは普及していた。例を挙げれば、ルガーP08、ブローニングM1903、南部1904年式等の拳銃には皆この種のホルスターが付属したタイプがあった。これは主に当時の拳銃には皆長射程を追求する傾向があったからで、M1986駁殻槍のリアサイト上の最大射程は1,000mに達していた。だが、駁殻槍にホルスターを接続して肩付け射撃した時の精度はある程度向上するものの、そのバレルは比較的短いため、実際の有効射程はやはり100m前後である。ただし一般の片手射撃時の50mと比べればやはり大きく向上する。M1932等フルオート機能のあるタイプなら、肩付け射撃時の有効射程は50mに達し得る。手で持っての射撃時の25m〜30mと比べるとやはり差が縮まっている。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「大沽造船工場が生産した延長型駁殻槍。この銃はフルオート射撃しか出来ず、実際上サブマシンガンあるいはマシンカービンとして使用された。」)

駁殻槍の木製ホルスターのサイズは一般に統一されており、「〜号」あるいは「〜把」の駁殻槍であろうと同じサイズの木製ホルスターに対応する。この木製ホルスターは簡単なように見えるが、詳細設計上すこぶる周到であり、例えば蓋の開閉は必ず体に密着した内側から外側に向かって開くようになっており、これにより匍匐前進の時に意図せず蓋が開いて銃を紛失することが防止されている。この木製ホルスターの特徴は大きく重いことで、作戦時は除き平時にも好んでこれを身につける人は少なかった。加えて価格も安くなく、このため実際の使用では往々にして革製ホルスターに取って代わられた。駁殻槍のこの種のホルスターの設計の影響力が大きいことの1つの証明は、数十年後に国内で設計された80式マシンピストルに他ならない。この銃は依然この種の銃の保管もでき、ストックにもなる多用途ホルスターを使用していた。異なるのはより先進的なスチールフレームの外に皮革あるいはキャンバスをかぶせた形式に改良されていたことだけである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「駁殻槍の木製(上)、革製(下)ホルスターおよび2種の典型的な弾薬携行具」)

「盒子」だけでなく駁殻槍のランヤードにも特徴がある。これは1本の長く幅の狭い革ベルトで、牛革あるいは豚革で作られ、片方の端は活結(頑住吉注:絞首刑のロープもこう呼ぶようですが、要するに輪の大きさが調節できるやつですね)が付属した革リングで、平時は長い束になってグリップ下方の鉄製リングに付属した装飾となっている。実戦では駁殻槍の使用者は一般に自分の首をこの革リングに通した。その機能は、戦闘中万一拳銃をうっかり手から放してしまった時に素早く革ベルトをたぐって銃を取り戻すことである。この地味な革ベルトを過小評価してはいけない。この革ベルトは近距離戦や夜戦において、時に生死を分ける作用をすることさえあるのだ。「南征北戦」等の古い映画の中には、頻繁にランヤードのこの種の用法が見られる。一方多くの状況下で革命の先輩たちが使用した駁殻槍では、鮮明な中国の特色がある赤い布や赤いシルクがこの革製ランヤードに取って代わっていることがあった。銃を手に持っていようと腰に挿していようと、赤いシルクは赤旗や火炎のようであり、銃を持つ者の格別の勇ましさ、活力を際立たせた。

革製の駁殻槍ホルスターの外側には2つの弾薬ポケットがあり、肩かけベルト上にも連なった4つの弾薬袋があった。これはバラの弾薬を入れるのに使い、一方フル装填したストリップクリップあるいはマガジンは革製の専用携行具の中に収納した。この種の携行具にもすこぶる中国の特色があり、一般に革製で、肩ベルトを使って腰や胸の前に固定した。8〜15、あるいはもっと多い皮格(頑住吉注:マガジンポウチ?)があり、場合によっては皮格はさらに長短2種に分かれて異なる種類のマガジンに適合した。これも当時の中国軍の将校の警護兵などの標準装備の1つだった。

駁殻槍の携行も同様に興味深い。よく見る銃を木製や革製のホルスターに入れてからたすき掛けにして身につけて携行する方式の他に、中国人にはさらに独特の駁殻槍の携帯方法があった。遊撃隊、武装工作隊の隊員たちは突発状況に対処するためと軽装にするため、一般にホルスターは使用せず、直接銃を腰に巻いた幅広い革ベルトに挿し、その後衣服で身につけた武器を見えないようにした。駁殻槍は比較的長いので垂直に腰に挿すと馬に乗ったり腰を屈めるのに不便なので、一般に斜めに挿す方式が採用された。このようにすれば銃を抜く時にも比較的スムーズだった。もしあなたが充分に注意深ければ、「平原遊撃隊」の中の李向陽の二挺拳銃のうち片方はわざわざフロントサイトが挽き落とされていることに気付くはずだ。このような状況は当時相当よく見られ、その目的は銃を抜く時フロントサイトが腰のベルトにひっかかって銃を抜いて撃つ速度に影響するのを避けるためである。近距離内で速射する時、フロントサイトは間違いなくさしたる役割を果たさない。当然この種の方式にも一定の弊害があり、特に拳銃の前部の表面の磨損が起きやすかった。このため聡明な中国人はさらに「明套」(「快套」とも言う)を発明した。この「明套」は通常の意味でのホルスターではなく、スチール片あるいは銅片で作った簡単な装置で、しかも多くは使用者が自分で製作したものである。その片側は金属片を湾曲させた一定の形状をしており、銃本体表面の突起にある窪みと組み合わさって「明套」と銃本体を一体化する。他方の側は長い金属片を湾曲させたクリップで、革ベルトにひっかけるのに使う。「明套」を持つ拳銃はこのクリップにより直接革ベルトの外側に吊り下げられ、同時に銃の正常な使用にも影響しない。これも中国人の駁殻槍使用過程における別の「発明創造」と言えよう(頑住吉注:ガバメントのベルトクリップって当時はまだなかったでしょうね)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「延長された20連固定マガジンを採用した変形駁殻槍。大型化した専用木製ホルスターを使用している。駁殻槍にはさらに6連、12連固定マガジンを採用したタイプもある。」 20連マガジンごと収納できる木製ホルスターとしては、マガジン部分を切り欠いて革製のカバーをつけたものがポピュラーですが、木製ホルスター自体を大型化したものは珍しいですね。まあ普通のタイプの方が使いやすいと思いますが。)

「快慢機」と「20響」

最初のフルオート型駁殻槍はドイツ製ではなく、スペインが1927年に生産した。モーゼルは当然落伍に甘んじることなく、素早くM1932式フルオート型拳銃を登場させた。この型は「M712速射型」(Schnellfeuer)とも呼ばれる。「M712」は通常思われているようなモーゼル工場内部の通し番号ではなく、カタログの中の番号である。この銃にはセミ・フルオートがコントロールできる機構が増設されている。銃本体左側後部に選択スイッチがあり、このためよく「快慢機」(「快」はフルオートを指し、この時選択スイッチは「R」を指す。「慢」はセミオートを指し、選択スイッチは「N」を指す)(頑住吉注:中国語の「快」は速い、「慢」は遅いという意味です)とも呼ばれる。この銃は下方から挿入するボックスマガジンによる給弾に改められており、装弾数には10発と20発の2種がある。このうち10連マガジンはより短く、その下端とマガジンハウジング下端とがツライチになる。20連マガジンはより長く、グリップ下端とほぼ同じ長さである。普通のホルスターでは入らず、短いマガジンに換えることが必須で、これでやっとホルスターに入れることができる。この種の20連マガジン付きM1932に木製ホルスターストックを装着すると、外形と火力はいずれもサブマシンガンに近くなり、トリガーを一引きすれば直ちに20発の弾丸が連射でき、近距離内での威力が大きかった。このため「20響」あるいは「大肚匣子」(頑住吉注:「肚」は腹という意味です)とも称された。実際の戦闘でも間違いなくこの銃はサブマシンガンとして使用された。遊撃戦あるいは小分隊の作戦環境の中では、M1932の強大な火力は特別に歓迎された。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「M1932型駁殻槍および付属品フルセット。この銃には長(20連)短(10連)2つのマガジンが付属し、木製ホルスターは標準型で短いマガジンに交換しなければホルスターに入らない。上にあるのは木製ホルスターの革ケースで、その上にマガジンポウチやクリーニングロッドなどが設置されている。グリップ下部の鉄製リングには巻かれた革製スリングがつながっている。」)

独特の客観的環境は中国軍の接近戦火力に対する要求を非常に強烈なものにさせた。だが昔の中国の工業的基礎は貧弱で、軍隊のために大量のサブマシンガンや対応する弾薬を供給することはできなかった。加えて駁殻槍を使用する伝統的習慣があり、このためひとたび出現するや、中国はM1932に対し強烈な興味を示した。M1932型量産後最初の1,000挺は中国に販売されたし、統計によればドイツ製のこの銃のうち4,000挺余りが国内に流入した。中国に提供されたこれらの製品の中には、さらにナチスの鷹の紋章やオーベルンドルフ工場の刻印があるものもあるとされる。これらは本来ナチス党親衛隊のために生産された銃であるが、中国という主要な顧客の切迫した需要を考慮して優先的に中国に提供されたものである。

1936年の国民政府財務部の支払いのリストの中に、「二十響モーゼル拳銃二万挺と付属の弾薬二千万発」の項目があり、時価法で280万人民元である。1938年3月、蒋介石は中国の駐独商務参事官譚伯羽に電報を発し、彼にドイツで「20響卜殻拳銃2万挺と、銃ごとに弾薬2,000発」を購入することを要求した。しかも「早ければ早いほど良い」だった。当時の各種文献資料から見て、抗日戦前夜から抗日戦初期にかけ、中国がドイツなどの国から購入した駁殻槍の半分以上は20連発のM1932型で、当然10連発のM1896やスペイン製などのその他のタイプもあった。国民政府は巨資をもって駁殻槍を含む大量の軍用物資を輸入した。これは日本の侵略に抵抗するための需要だったが、もっと多くは宿敵を殲滅するためだった‥‥紅軍である。このためこれらのM1932型はその他の輸入された駁殻槍同様、多数が紅軍を包囲し討伐するそれぞれの国民党の軍隊に支給され、決して中央軍だけに装備されたわけではなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「飛奪瀘定橋の戦闘の情景を描写した油絵。当時橋攻略戦闘に参加した紅軍突撃隊員は皆M1932型「快慢機」駁殻槍を装備していた。」 これは1935年、長征途中の紅軍と蒋介石の国民政府軍との間で起こった戦闘だそうです)

アメリカにいた記者Salisburyが書いた「長征ー前代未聞の物語」の中で、余秋里将軍の回想が引用されている。「長征の途中、紅六軍団18連隊政治委員を務める余秋里率いる部隊が貴州章○付近で国民党の万燿煌の部隊と遭遇した時、戦闘中彼は敵兵が、火力が軽機関銃に似た20響拳銃を使用しているのに気付いた。戦闘は非常に悲惨だったが、紅軍は最後にはやはり重大な犠牲を代価に、敵の8挺の自動型駁殻槍を鹵獲した。」 余秋里がここで言っているのは、彼が初めて見たこの新型武器である。当時、紅六軍団は真ん中から敵の縦隊に突入して真っ二つに分断したのだが、18連隊がちょうどぶつかったのが敵の25軍指揮部だった。万燿煌の部隊は完全な中央直系部隊というわけではなかったが、敵指揮部の警護部隊はやはり相当数のM1932のたぐいの速射武器を配備していた。指揮機関が使用した駁殻槍は比較的多く、これは当時の中国の軍隊の1つの顕著な特徴だった(頑住吉注:「○」は日本語にない漢字で土偏に貝です。万燿煌は国民党の高級将校で、後に陸軍大学教育長、総統府戦略顧問などを歴任、1949年に台湾に渡っています)。

紅軍は長征の途中でこの1回だけでなく「20響」を相手にし、毎回の戦闘中に鹵獲したこの種の拳銃は実際上紅軍の重要な突撃装備の1つになった。しかも飛奪瀘定橋等カギとなる重要な戦闘の中で何度も戦功を立てた。紅四方面軍は和胡宗南部および青海「二馬」の戦闘で何度も「快慢機」を鹵獲し、これらの装備は後に西路軍の倪家営子、石窩等の一連の悲壮な戦闘の中で重要な作用を発揮した。時任紅30軍の代理軍長である程世才は後に回想した。1937年4月、祁連山を出た後、西路軍の歴史上最後の大規模戦闘が発生した。すなわち白○血戦である(頑住吉注:○は土偏に敦煌の「敦」)。当時西路軍の残存部分は2個旅団の馬匪騎兵に分割包囲されていた。敵の騎馬隊がすでに30m以内に突撃してきたまさに危急の時、程世才と警護員硬是凭は7挺の「快慢機」の火力により、1700人の敵騎兵の挟み討ちの中から血路を切り開き、最終的に生き残った500人を連れて厳重な包囲網から脱出した。まさにこれはこの拳銃がカギとなる重要な時に何度にもわたって貴重な功績を挙げたからである。このためかつて西路軍総指揮官の任にあった徐向前元帥は抗日戦の期間、ずっとM1932型拳銃を身に着けていた。これは当時の我が軍の高級指導者の中では稀にしか見られないことだった。

「白玉」の傷

駁殻槍には多くの長所があったが、百年余り前に設計された製品として、初期の拳銃には避けられないいくつかの欠点もある。1つは構造が複雑なことだ。標準型は銃全体でざっと40点近い部品があり、しかも形状が特殊で、多くは機械加工部品である。材料の損耗や加工の難易度がいずれも比較的高く、コストが終始高いままだった。2つ目は設計上いくつかの欠陥があり、安全性が充分良好ではないことだ。ボルトに挿入され、後退を制限するボルトストッパーがひとたび磨損あるいは疲労すると、付け根が破断する可能性があり、こうなれば射撃時にボルトが後方に向け飛び出し、射手を負傷させることになる。3つ目は弾薬を混用すると危険が発生しやすいことだ。駁殻槍には一般にモーゼル7.63mm弾薬を使用する。旧ソ連のTT用弾薬あるいは国産51式7.62mm拳銃弾薬はいずれもモーゼル7.63mm弾薬を改良してできたものだ。外形寸法は基本的に同じだが、装薬量がより多く、チャンバー圧力がより高く、これら2種の弾薬を使用すると、駁殻槍の相対的に弱い構造がより容易に危険を発生させる。一部の数十年の風雨にさらされてきた古い銃に関して言えば特にそうである。4つ目は何号の盒子でもブローニングやコルト拳銃と比べるとサイズや重量が相当に大きく、携帯と使用が便利でない。これはかなりの程度この銃の使用を制限した。

駁殻槍の設計と加工はドイツの機械の一貫した伝統を踏襲している。工程が細緻で、フィットはタイトであるが、これは同時にいくつかの弊害ももたらしている。特に劣悪で変化の多い戦場条件下では、機械部品の作動が時として不調になることがある。頻繁なことではないが、これはそれでも使用者に大きな危険をもたらす可能性がある。偵察英雄楊子栄はまさにこれによる犠牲者である。1947年2月23日夜、匪賊の状況を偵察中だった楊子栄と彼の戦友たちは海林県梨樹溝のある小屋の周囲に残存する匪賊の痕跡を発見した。彼は真っ先に馬を駆って小屋に突進し、匪賊に正確に向け引き金を引いた。だが手にした駁殻槍からは銃声はせず、逆に匪賊の撃ち返した1発が左胸に命中し、名誉の犠牲となった。こういう結果になった原因は駁殻槍が寒冷な室外から屋内に入った後、空気中の水蒸気が温度の比較的低い銃の上で凝結し、再び室外に持ち出されて水分が霜となって固まり、最も精密なボルト部分が堅く凍りつき、肝心な時に撃発が不能になった。このため偵察英雄に永遠に遺憾な出来事が起きたのである。

李向陽と「功臣の銃」


駁殻槍あるいは「盒子砲」と言えば、多くの人はすぐにこの銃と李向陽、郭建光などの威風堂々たる英雄のイメージを結び付けるだろう。駁殻槍はかつて中国人民の反帝反封建の革命闘争の中で戦功を立て、多くの物語を残した。同時に、駁殻槍は国産映画の中で出現する率が最も高い拳銃の一つでもあり、革命戦争時代の生活を描写した多くの映画、テレビ、文学作品の中で触れられている。これも駁殻槍の名称とイメージが人の心に深く入り込んでいる1つの重要な原因である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「駁殻槍は革命戦争時代の生活を描写した国産映画の中に登場する率が最高の拳銃の1つである。画像は「紅色娘子軍」のスチール写真。」 まあ美人っちゃ美人ですけど顔が怖すぎです)

駁殻槍が中国で広範に使用されたことは、中国人にこの拳銃の使用に関する独特の経験ももたらした。もしあなたが「鉄道遊撃隊」を原作に映画化された映画「飛虎隊」を見たことがあれば、きっと映画の中で長々と火を吐く「快慢機」の強い印象が残っているだろう。だが映画の中のような垂直に拳銃を保持するスタイルが実際に使用されることは極めて珍しかった。何故ならフルオート時、前の弾丸の後座がマズルを跳ね上げ、次の弾道をどんどん高くし、結果として当時極めて貴重だった弾薬をいたずらに浪費することになるからだった。また駁殻槍のバレル下方にはハンドガードがなく、直接バレル部分を握って銃の安定を図ることはできない。このため中国人がフルオート型駁殻槍を連フルオート射撃する時は、一般に手をひねって銃を水平状態にし、マズルの上下に跳ねる動きを横方向の掃射に変えた。これは中国人特有の使用経験である。この種の方法の採用は中国の特殊な戦闘環境のためでもあり、屋内外の接近戦、待ち伏せや対待ち伏せ、および夜戦の状況が比較的多かったことが原因だった。駁殻槍を自由に操る者は、一群の敵に相対した時、往々にしてまずセレクターをフルオート状態に回し、1マガジン分横薙ぎに掃射し、敵を逃げ散らせ、その後セミオート状態で(時間があればさらに木製ホルスターを接続して)残った敵を1人1人倒していった(頑住吉注:うわ、むっちゃカッコいい。映像化したいですね)。

実際のところセミオート射撃ならば、経験ある射手は駁殻槍を一定の角度横に傾け、マズルが自然に目標に向くようにし、大雑把な照準で大胆に発射した。すなわち通常言うところの「○手一槍」(頑住吉注:意味不明。○は日本語にない漢字で、「振るう」、「(重荷を)下ろす」、また「(仕事ぶりが)大雑把である」などの意味があります)である。このようにした理由の1つは、モーゼル拳銃のグリップは短くて丸く、また銃本体と113度という独特の角度で、通常の片手照準の姿勢をとって速射を行う時に比較的困難だったことだ。2つ目は真上に放出された薬莢がエジェクションポートに戻ってきて意外なジャムが起きること(こうした状況が極端な偶然であるにせよ)、あるいは使用者の頭上に落ちて注意力が分散することを防止するためである。駁殻槍のバレルは細長く、指向性が比較的良好で、しかも両手に銃を持ち、左右で発射できる。これも射手が銃を傾けて撃つ方式を好んで採用した重要な原因である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「抗日戦の期間に新四軍兵器工場が独自に生産した単発拳銃。外形はわざわざ駁殻槍の形状に似せてある。その目的はより大きな威嚇力を持たせるためである。」 上で紹介した画像のよりオリジナルに似ており、10mも離れたら本物に見えるかもしれませんが、やっぱりフロントサイトは意味なしです。エジェクションポートにあたる部分をカバーしている変な部品は、あるいは後方になびいているのが正常な形で、タンジェントサイトに似せたものではないでしょうか)

駁殻槍は無数の神様レベルの名手の物語を生んだ。李向陽はまさにその典型である。実際の生活の中で、片手で10m以内の針金を撃って切断し、30m以内の雀を撃ち落とす神様レベルの銃の腕を確実に持っており、多くの革命の先輩たちに類似の経歴があった(頑住吉注:まあ将軍様のホールインワン連発みたいな偶像化のための作り話もあると思いますけど)。当然「指さすように撃ち、百発百中」のレベルを達成し得るためには、長い時間をかけての模索と多くの日常的訓練が必要で、それでやっとこの種の「人銃一体」の境地に達することができるのである。

駁殻槍は人民の軍隊の主要装備の1つであり、「功臣の銃」と称されるのは絶対にオーバーではない。この銃はかつて人民の軍隊の一歩一歩を目撃した証人である。この銃はかつて南昌蜂起の火蓋を切り、長征の隊伍に随伴して険しく遠い道を行った。抗日戦争ののろし上がる歳月を経験し、蒋介石王朝の滅亡を目撃し、朝鮮の戦場でアメリカの侵略者を打撃した‥‥。1950年代後期、わが軍が装備した各種の駁殻槍は徐々にコピー生産された旧ソ連のTT系列拳銃に取って代わられたが、一部は依然公安、司法警察、末端の民兵の装備として、1980年代までずっと装備され続けた。


 全ての銃の中で一番好きな銃を1つだけ選べと言われたらモーゼルM712を選ぶくらい私この銃好きです。今の銃、特にプラスチックフレームのピストルとは全く違うデザインの味わい、ロマンがありますよね。

 モーゼルミリタリーピストルが中国で多用されたというのは有名ですが、私はその理由まではっきり理解していませんでした。かつてここで、「ロシアや中国などでは広く使われたが、どちらかというと広大な国土を持ちながらあまり豊かでない国において、ライフルがわりにならなくもない拳銃という、やや貧乏くさい理由で重宝されたのではという気がする」なんて書いたことがあり、まあ全く見当外れではないと思いますが、最も大きな理由は拳銃が禁輸対象に含まれていなかったことのようです。どうしても拳銃をメインウェポンに使わざるを得ないなら、確かに当時これ以上の選択はなかったでしょう。拳銃だけで装備された大規模な部隊が存在したというのも非常に意外でした。

 本文の後、読者による書き込みが続いており、ドイツ語の時もそうでしたがきちんとした評論文と違ってくだけた文体は外国人には意味が分かりにくいです。「zhendema」なんて書き込みもあり、これは「本当?」という中国語をふざけて発音を表すピンインで書いたもので、「まじですか」にニュアンスが近いと思われます。「学習了」という書き込みもいくつかありますが、「勉強になった」という意味ですね。それはさておき、いくつか興味深いと思われる内容を補足します。

「楊子榮が犠牲となった原因は氷結説の他に、基準に適合しない潤滑油が低温下で凝固し自動機構が失調したという説があるが?」旨の質問があり、筆者が「知らないけどあの状況では適合する潤滑用がないことは充分考えられるね」旨答えています。ちなみに質問者のハンドルネームは「takaminami」となっていますが、中国人女性らしいです。

「駁殻槍の製造コストはあまりにも高すぎた。漢陽兵器工場から1920年代初めに出荷された駁殻槍の価格は120元余りで、同工場製の小銃のほとんど3倍だった。」という指摘があり、いくら何でもそこまで高かったとは驚きです。

「1960年代に台湾の飛行機が我々の県に駁殻槍を投下したことがある。銃1挺と20発の弾薬が包装されていた。だが当時の民衆の覚悟は固く、拾ったものは全てお上に提出された。」という筆者の記述があります。1949年に中華人民共和国が成立、国民党政府が台湾に渡ってから10年以上たっているのにもかかわらず、抵抗運動援助の意図で武器が投下されたということのようです。

「子供の頃木を削って作った。」旨の書き込みに、「私も」という反応があります。実は私も銃に興味を持ったばかりの頃モーゼルミリタリーを木で作った覚えがあります。

「この銃を何故駁殻槍と呼ぶのかというと、銃声が「駁殻駁殻」(頑住吉注:ボコボコ)だからだ。抗日時期を題材にした映画をどれでもいいから見てごらん、みんなこの音だよ。」という書き込みに対し、筆者が「この銃は正統的なバンという銃声だよ。ボコというような尾音がつくのは小銃、特に三八式小銃で、尾音が非常に長いよ。」と答えています。










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