ポーランド製アンダーグラウンドサブマシンガン「ブリッツ」

 今回は国内には詳細を知る人が非常に少ないであろう、第二次大戦中にナチス占領下のポーランドで密かに作られたサブマシンガン「ブリッツ」に関するページの内容を紹介します。このページもURLをコピーして貼っても何故か表示されないので直接リンクします。

波蘭閃電沖鋒槍


暗黒の夜空を切り裂く ポーランドのブリッツサブマシンガン

(頑住吉注:最初の画像のキャプションです:「ワルシャワ蜂起の期間、ブリッツサブマシンガンを手に持つ救国軍戦士。そのアルミ製バレルジャケットが目を引く。」)

ブリッツ(Blyskawica)(頑住吉注:ちなみに中国語では「閃電」)サブマシンガンは第二次大戦期にポーランドの地下抵抗組織「救国軍(Home Army)」が秘密のうちに設計、生産したサブマシンガンであり、ポーランド史において比較的早い時期のサブマシンガンの1つである‥‥

ポーランド陸軍は第二次大戦前、サブマシンガンを装備していなかった(頑住吉注:ポーランドは第一次大戦で活躍したドイツの兵器を参考に対戦車ライフルは開発、装備していたのに、サブマシンガンは持っていなかったというのはちょっと興味深いところです)。1939年9月、ドイツは「電撃戦」(頑住吉注:中国語では「閃撃戦」)によってポーランドを占領し、ポーランド政府要人はイギリスに渡って亡命政府を樹立した。その後の1カ月のうちに亡命政府は国内にいる人々に、ポーランド救国軍という名の武装抵抗組織を作ることを指示した、ドイツとのゲリラ戦においてポーランド救国軍は、サブマシンガンは携帯に便利で、火力が猛烈で、非常に優れたゲリラ戦兵器であることに気付いた。だが、ドイツ軍のパトロール隊から鹵獲したサブマシンガンだけに頼るのでは、往々にして生命を代価とする必要があった。供給問題解決のため、救国軍は独自にサブマシンガンを研究開発することを決定した。

MP40とステンの長所を兼ね備える

1942年9月、2人の若い技術者Waclaw ZawrotnyとSeweryn Wielanierは救国軍ワルシャワ地区司令部に自ら名乗りを上げ、サブマシンガン研究開発に責任を負うことを願い出た。2人が最初に思いついたのは、外国の成熟した設計を模倣することだった。だがドイツのMP40サブマシンガンと、イギリスのステンサブマシンガンについて考察した後、彼らはこれら2機種のサブマシンガンはいずれも不適合であると気付いた。すなわち折りたたみ式ストックを採用したMP40の製造工程の複雑さ(大幅にプレスおよびスポット溶接技術を使用する必要がある)は、加工機械を少ししか持たない救国軍に危惧を抱かせた。一方ステンサブマシンガンは充分に単純で、簡単な設備さえあればすぐに生産開始できた。ただしそのコントロール性はよくなく、しかも側面から突き出たマガジンと固定式ストックは銃のコンシールドキャリーを難しくさせ、変装して突然に襲撃を行う必要がある救国軍にとってあまりに目立ち過ぎるものだった。

2人は最終的に、両者の長所を兼ね備え、同時に複雑な技術も必要としない新型サブマシンガンを独自設計することを決定した。1943年4月、半年近い改修のくり返しを経て、彼らの設計したブリッツサブマシンガンの元となる図面が完成し、後は時間をかけて地下ネットワークを作り、手分けして部品を作り、組み立てるだけになった。ただし占領下のポーランドに関して言えば、これは簡単な作業ではなかった。何故ならドイツ人はポーランド地域内の機械工場全てに対し、厳格な統制を実行していたからである。機械工具に対しても厳格な配給制が実施され、武器製造に使うことができるあらゆる材料は全て「制限供給物」リストに挙げられた。救国軍はあらゆる手段を考え尽くし、物資を調達した。1943年9月、Wielanierの家で、2人の技術者はついに第1号の原型銃を製造することに成功した。正確に言えば、彼らはバレルとマガジンは作っておらず、直接ステンサブマシンガンから借用する予定だった。

ブリッツサブマシンガンの名称は、アルミ製バットプレートに刻まれた3本の稲妻状の矢印から来ている。バットプレート上にこのような図案が刻まれたのには2つの原因があるとされる。すなわち1つ目には滑り止め、2つ目には一種の偽装としてである。図面上、バットプレートの設計図には「電気ストーブのハンドル」と注釈があった。この3本の稲妻状の矢印はすなわちその印であり、生産過程でドイツ人に破壊されることを免れるためだったのである。

この原型銃は加工が済むとテストが行われた。この作業の責任を負ったエミール フィオドフ大佐は、正式に生産に入る前にもう1度実戦テストを行う必要があると考えた。

ブリッツサブマシンガンの初陣は非常に素晴らしかったと言ってよい。1943年9月27日昼、ドイツ軍が市庁舎前のワルシャワ大劇場広場で年度の祝賀活動を挙行していた。3人の救国軍兵士がレインコートを着て広場の人ごみの中に紛れ込んでいた。祝賀儀式が最高潮に達した時、1人がレインコートの中から1挺の銀色に光る(当時サンプル銃の表面には処理が行われておらず、金属自体の色を呈していた)ブリッツサブマシンガンを取り出し、人ごみの中からドイツ軍将校に向けて発砲した‥‥。(頑住吉注:って、これで終わり? 何人の死者が出て、3人のうち脱出に成功した者はいたのかとか説明ないんすか?)

この実戦テストを経て、救国軍総司令部はついに量産を進めることに同意した。1943年11月、第一号の銃がポーランド国防軍兵器部に交付され、正式にブリッツサブマシンガンと命名された。

(頑住吉注:これより2ページ目。一番上は単なる右面図なので省略。2つ目の画像のキャプション:「ピープ式リアサイトの特写。連結ナットの丸穴はスリング用に使える」 3つ目の画像のキャプション:「閉鎖状態にあるボルト。コッキングハンドルはネジでボルトに固定されている」)

ブリッツサブマシンガン主要諸元

口径:9mmx19

自動方式:ストレートブローバック

銃全長:556/730mm(ストックたたみ/伸ばし)

銃身長:197mm

全体重量:3.22/3.83kg(空虚/フル装填)

発射速度:450〜500発/分

マガジン容量:32発

初速:630m/s


困難だった生産過程

リスクを回避し、生産スピードを上げるため、ブリッツサブマシンガンの部品はワルシャワ市街区域の20ヶ所近くの地下工場に分散されて供給され、組み立てと試射を担当する秘密工場はGrzybowski 広場の貯蔵用の穴蔵に置かれた。貯蔵用の穴蔵の上は亜鉛メッキ金網を生産する目くらまし用工場だった。試射を行うため、貯蔵用の穴蔵の中にさらに特別に、2層の泥水の壁で包まれた地下射撃場が掘削されて作られた。2層の泥水の壁の間は中空とされ、銃声を隔絶することができた。射撃場の行きどまりの壁には鉄道の枕木がいっぱいに並べられ、枕木の後ろは1層の非常に厚い砂袋だった。地下工場では一般に5人がサブマシンガンの組立と試射を担当していた。試射の時間は通勤のピーク時に厳格に限定され、これにより街の騒音を利用し、これをかくれみのとした。試射の期間、地上の目くらまし用工場は警戒のための見張りを置き、ひとたび疑わしい人員が接近すると、見張りはただちに地下につながる電灯を点灯して警告を発した。さらに貯蔵用の穴蔵の中には大量の爆薬が埋められ、もし地下工場の入り口がドイツ人の突発的な検査で発見されたら、工場の責任者は地下工場を爆破し、銃製造計画全体に危機を及ぼすいかなる手がかりも残さないようになっていた。

ブリッツサブマシンガンの第1次ロットは5挺だけで、試験的な性格を帯びていた。この5挺の銃が検査され、引き取られた後、救国軍総司令部は地下工場に1,000挺のブリッツサブマシンガンを生産する要求を提出し、後でさらに300挺が追加された。1944年7月、1,000挺のサブマシンガンの組み立てに使う大部分の部品の生産が終わり、約600挺のブリッツサブマシンガンが組み立てられて救国軍兵器部に交付された。1944年8月1日、ワルシャワ蜂起後、組立工場は市中心部のさらに大きな兵器工場に移り、地下から地上へと転じた。しかし、地上に出たにもかかわらず、この兵器工場は蜂起の期間たった40挺のブリッツサブマシンガンしか生産しなかった。

地下工場が戦争期間全体を通じて一体どのくらいのブリッツサブマシンガンを生産したのかについては、第二次大戦を研究する歴史学者の意見は一致しないままである。ポーランド救国軍の軍需記録に基づけば、その数は755挺である。だが、組立工場の工員がきわめて危険な作業環境の中で、一部の銃器を自分用、あるいは同じ戦線の仲間に送るために私的に隠したかもしれず、ブリッツサブマシンガンの総数はこれよりさらに少し多いかもしれない。

(頑住吉注:これより3ページ目)

しかし軍需記録上の755挺のサブマシンガンだけにしても、これは1つのすごい業績である。考えてみて欲しい、ドイツ軍に完全に占領された市街の中で、ポーランド救国軍は極度の材料欠乏、粗末な工具しかない状況にあったのだ。地下工場は極秘のうちにサブマシンガンの設計、定型、量産、試射という全部の作業を完成させた。これは絶対に、きわめてすぐれた組織性を必要とする難易度の高い任務であった。

構造の説明

ブリッツサブマシンガンはストレートブローバック作動原理、オープンボルトファイアを採用し、垂直のマガジンは32発の9mmx19パラベラム拳銃弾薬を収容でき、ストックは下方向に折りたためる。設計上、この銃は複雑な技術を放棄し、大部分の部品は加工が容易な旋盤技術を採用している。各部品の連結はねじ込みやネジ止めを採用している。この銃の銃身長は197mmで、ステンサブマシンガンのバレルを複製したものであり、両者には完全な互換性がある。バレルはレシーバー前端のバレル固定カバーによってレシーバーに連結され、連結部はさらにアルミ製バレルジャケットで補強されている。

レシーバーはシームレス鋼管から作られ、コッキングハンドル用のスリット、エジェクションポート、マガジンハウジング、シア用の切り欠きが加工して作られた。レシーバー前端にはバレル固定カバーがねじ込みで連結され、後端にはレシーバー尾部カバーがねじ込みで連結された。

ボルトの重量は720gで、中空な後部にはリコイルスプリングとリコイルスプリングガイドが収納された。ボルトはソリッドの鋼棒から切削されて作られた。レシーバーはシームレス鋼管から作られており、シームレス鋼管の硬度はきわめて高かったため、内部の表面にミゾを加工することはほとんど不可能だった。この問題を解決するため、2人の設計者は最も頭を使った。最終的にWielanierは代替方案を提出した。すなわちボルトの表面にミゾを加工するというもので、この技術はMP40のものに比べずっと簡単だった。ボルト表面の数本の縦方向の浅いミゾは主に摩擦を軽減し、埃を排出するのにも使われた。ブリッツサブマシンガンのボルトの設計は実際上MP40の構造を参考にしているが、MP40のボルトは円柱状で、レシーバー内部表面に埃などの汚物を排出するためのミゾがある。

この銃のリコイルスプリングの中にはさらにバッファースプリングが入れられている。主に発射速度を低下させ、射撃精度を高めるためである。この種の設計もまたM'P40の設計を参考にしたものである。ただしMP40と異なるのは、そのバッファースプリングの位置がリコイルスプリングの前端から後端に移されていることで、リコイルスプリング、バッファースプリングの組み込みの構造も簡略化されている。

トリガーまわりはユニット式構造を採用しており、全体が発射機構ベースの中に置かれ、構造は非常に簡単である。トリガーユニットの中にはトリガーオートマチックセーフティが装備され、セーフティレバーはトリガー前方、トリガーガード内に位置している。通常はスプリングの作用下でセーフティレバー上端(レシーバー内に位置する)は自動的にトリガーの窪みにはまっており、トリガーを引けなくしている。トリガーセーフティ状態を解除するのは非常に簡単で、指をトリガーとセーフティレバーの間に挿入するだけで良い。セーフティレバーを前に押せば、すなわちセーフティレバーの下端が前方に回転することになり、その上端は自動的にトリガーの窪みから離脱する。ただし、ボルトが最前部にあっても最後部にあっても、これ以上の安全措置は何もない。後の実戦において、ストックに衝撃を受けた時、頻繁に暴発、負傷事故を起こした。

折りたたみ式ストックは発射機構ベースの後端に装着されている。ストックはレシーバー下方に折りたたむことができ、材質は厚い鋼板であるが、バットプレートはアルミ合金で作られている。折りたたむと銃全体はコンシールドキャリーに便利だが、下向きの折りたたみなのでその長さはレシーバーの長さに制約され、伸ばしても一般的な射手にとっては比較的短く、使用は快適でなかった。この種の折りたたみ式ストックも明らかにMP40の影響を受けている。

マガジンハウジングは2本のネジでレシーバーに固定されている。マガジンハウジングはツーピースの材料を溶接して作っており、そこにネジでマガジンキャッチが固定されている。マガジンキャッチの一端はレシーバーまで延長され、エジェクターの作用もする。

機械式サイトはピープ式リアサイトと逆V字型フロントサイトで、加工は比較的荒く、正確に射撃できる距離は27mを超えない。リアサイトは外観上ステンサブマシンガンの影響が見られるが、細部を見ると決して設計者がステンの設計をコピーしたのではないことがはっきり分かる。ピープの開口が大きすぎ、かつ逆V字型フロントサイトのポストも小さすぎる。これに加え明らかに短すぎるストックであるから、射手はほとんど正確に照準する構えを取れない。しかも、レシーバー尾部カバーの上にあるリアサイトと、バレル固定カバーの上にあるフロントサイトはいずれも位置が固定されていないので、組立時に精度上の問題から照準線とバレル軸線が平行でなくなる可能性が常にあり、これはサイトをいくらかおまけ的なものに見せている。ただし、ピープ式リアサイトの採用はポーランド軍にとっては初めてのことでもあり、これきりのことでもあった。ポーランドが設計するサブマシンガンにピープ式リアサイトが採用されることは二度となかったのである。

マガジンはステンサブマシンガンのマガジン、あるいはコピー品で、その主な特徴は、マガジン内の弾薬が互い違いの2列で進むが、マガジンの内壁は開口部で収縮し、1発の弾薬のみ通過させるようになっていることで、すなわちダブルカアラムシングルフィードマガジンである。マガジン内にはマガジンフォーロワとマガジンスプリングがある。信頼性の高いマガジンスプリング素材の欠乏により、ポーランド国産マガジンの品質は劣った。

(頑住吉注:このページ1枚目の画像のキャプション:「バットプレートには3本の稲妻状の矢印が刻まれている。ブリッツサブマシンガンの由来である」 2枚目の画像のキャプション:「ブリッツサブマシンガンのマガジンハウジング。マガジンキャッチユニットの上向きに突出した部分はエジェクターを兼ねている」 3枚目の画像のキャプション:「ストックは伸ばし、あるいはたたんだ後、ネジによって固定される」 ひょっとして手で回すネジをいちいち緩めたり締めたりしなければならなかったということでしょうか)

(頑住吉注:これより4ページ目 このページ1枚目の画像のキャプション:「トリガーとセーフティレバーの特写」 2枚目の画像のキャプション:「ボルトの特写。その表面には縦方向の浅い溝が刻まれ、射撃信頼性向上の助けになっている。この設計は非常に巧妙なものである」)

非常時における独創的設計

時代と環境の産物として、ブリッツサブマシンガンは戦術性能上完全なものではなかった。その主要な欠点は分解時に多くの細かいネジを抜かなければならないことで、時間と手間がかかった。しかも市街戦の環境下では埃が比較的多く、分解やメンテナンスも少なくするわけにはいかなかった。結果的に抜いたネジを紛失しやすく、ネジ穴の細かく小さい、脆弱なネジ山が分解過程で埃で汚れて埋まりやすく、また分解組み立て中の力が強すぎることにより、ネジがバカになりやすかった。

この他、ブリッツサブマシンガンの銀色にピカピカに光るアルミ製バレルジャケットも1つの欠点だった。理論上この設計は射撃中のバレルの放熱を助けることになる。しかし実際には、主に地下活動に携わる救国軍戦士にとって、そのように多くの弾薬を使ってバレルに放熱させることなど全く不可能だった。それだけでなく、アルミ製バレルジャケットには逆に多くの不利になる点があった。まず、バレルジャケットに何の処理もされていないため、アルミ素材本来の質感を呈し、結果的に非常に遠くからでもそのピカピカの銀色の光を見ることができた。すなわち過早に射手の位置が敵に暴露された。次にアルミ製バレルジャケットは破損しやすく、しかもこれがひとたび破損すれば、ただちにこの銃は基本的に使用不能になった。

当然、2人の銃器製造の経験のない若者に対して言えば、あのような極端に劣悪な生産環境下において彼らの初の作品に現れた独創性や長所に感服せざるを得ない。筆者は幸いにも1挺のブリッツサブマシンガンを試射したが(この銃はワルシャワのポーランド警察本部法医学実験室に保存されている)、銃全体のバランスがよく、射撃体験は相当に素晴らしいもので、距離15mからの着弾点も相当に密集したものだった。銃も弾薬もきわめて乏しかったポーランド救国軍にとって、これでもすでに相当に完璧に近い武器だったと信じる。

 ブリッツサブマシンガンの不完全分解


 マガジンキャッチがエジェクターを兼ねる、指先をトリガーとセーフティの間に割り込ませることで解除されるオートマチックセーフティなど興味深い点もありますが、それよりこの銃に関し最も興味を引かれるのは作られた環境でしょう。占領下で密かに作られた、まさにアンダーグラウンドウェポンの典型です。不恰好で見るからに粗末な銃ですが、当時の抵抗戦士にとってはきわめて貴重なものだったでしょう。ドイツ軍が至る所にいるのでは作っても試射できないじゃないか、と思いながら読み進めたらちゃんと解決策が示されていて感心しました。

















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