ブレン軽機関銃

 「Visier」2004年7月号に、非常に有名な割にはよく知られていない(少なくとも私は詳しくは知らなかった)ブレン軽機関銃に関する記事が掲載されていました。


一時は世界中に
モダンなユニバーサルマシンガンへの道の途上で、イギリスのブレンガンは重要な位置を占める。その開発の道はプラハに始まり、カナダのトロントを経てインドのIshaporeとオーストラリアのリスゴーに至る。

私にとって「ブレン」という言葉の語感は、若かりし日のSaskatchewanにおける10月の日々、ショットガンを持って身を隠したイグサの茂みから少し身を乗り出し、飛来するハイイロガンの群れへの狩りに成功したのと同じ種類の興奮に満ちている。ブレンのフルオート射撃にガンガン叩かれることで、私の肩は規則的に振動した。敵の潜むブッシュの手前で着弾が土埃を吹き上げ、そして着弾はブッシュの中央に入った。私はフルオートで撃って撃ちまくった。ボルトが前方の空のチャンバーでパチッと鳴り、銃の激しい反動が静まるまで…。

 カナダ軍の中尉、Farley Mowatはそう描写している。これは彼がブレン軽機関銃を持ち、その小隊が初めてシシリアに進攻してMG42陣地に投入された時のものだ。銃器技術史の中で、そして第二次世界大戦史の中で、イギリスのブレンは全く特別な地位を占めている。それは大規模な陸軍改革の中心である、英連邦部隊の全歩兵戦術転換の支点および軸点を形作った。そしてそれは連合軍側で最も成功した軽機関銃であり、ガス圧利用式であるという点において反動利用式のドイツ製MG34および43と反対の存在である。

 しかしブレンはそれを超えて、第二次世界大戦後もさらに影響を及ぼし続けた。1955年以後、.303から7.62mmx51NATO用に改造されたいくつかのL4バージョンが現われた。これらは1980年代まで北アイルランドなどの紛争、あるいはフォークランド戦争で現役を務めた後、今日もなおイギリスの兵器庫の一部を占めている。かつてイギリスの影響範囲だったいろいろな地域、すなわちインド、パキスタン、アフリカ各地では、近代化改修されたブレンが今日もなお現役である。そしてかつての国営銃器工場エンフィールドは1980年代まで外国の顧客のため古い.303のブレンを7.62mmNATO弾薬仕様に改造し続けていた。とりわけブレンはプルーフされたガス圧作動方式と、1958年に登場し現在最も成功したユニバーサルマシンガンであるベルギー製FN MAGの原型となったそのバレル交換方法によって印象的である。ブレンの祖国チェコでは1945年以後、銃器工場ブルーノの軽機関銃生産はブレンの発明者Holekの基本原理によるシリーズVZ52、52/57、59に統一された。

80年以上前
 イギリスではなく、プラハで全ては始まった。そしてそれは第一次大戦後の混乱の年月におけるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊の余波でもあった。オーストリア=ハンガリー帝国において、プラハとその近郊は技術開発の中心地だった。1918年10月、新しいチェコスロバキア共和国(CSR)が建国され、そしてこのため新しい国軍の武装のために大量の兵器採用も可能になり、これを経験豊かな鉄鋼業、軍需工業に任せることになった。

 1919年の早い時期、すでにプラハの国防省は参謀本部長Mittelhauserの指揮の下に、旧式化し、しかも重いシュワルツローゼなどのオーストリア製品のあとをついで陸軍が装備することを希望する新マシンガンに関する審議を開始した。1920年、外国製軽機関銃のテストが開始された。このテストに参加したのは例えばアメリカのBAR、フランス-イギリスのビッカース-Berthier、ドイツ陸軍の制式軽機関銃でもあったデンマークのマドセンだった。1921年以後、この競争選択にチェコの銃器工場も参加した。この銃は例えばRudolf Jelen、Josef Netsch、Karel Krnkaといったチェコの努力家たちが独自に開発したものだった。彼らにはいろいろなアイデアがあった。

 1923年4月、プラハのNowotny所在の銃器製造工場Praga Zbrojovkaは、ある新マシンガンを発表した。この銃はベルト給弾で、マズル領域に作動サイクルを起こすためのガス導入穴があった。開発者はVaclav Holekで、彼はすでに工場長として先に挙げたJelenのプロトタイプに関与した経験があった。テストの進行の中でどんどん具体的になってゆく国防省の要求リストの影響を受け、そして外国製のライバルを横目で見ながら、Holekは一歩一歩デザインに改良を加えていった。銃架に乗せたベルト給弾のマシンガンは、1924年半ばまでに二脚を持ち、レシーバー上部にセットされた20発の弾薬を保持するボックスマガジンから給弾を行う軽量なオートマチック火器になった。1924年秋、この銃は競争選択に勝利し、発注が行われた。だが、生産はブルーノの国営工場で行われた。Pragaの銃器工場が破産同然の状態だったためである。

 この銃、M24の外国製ライバルたちに対する長所はガス圧作動システムの信頼性の高い機能と、バレル冷却方法にあった。2つの簡単な操作によって射撃によって過熱したバレルのレシーバーとのロックを解除し、キャリングハンドルを持って銃から取り去ることができた。そしてその後予備バレルがセットできた。バレル交換に必要なのは50秒未満で、工具は全く不要だった。

 マガジンを上部にセットするというのは新しいアイデアではなかった。ルイス、マドセン、1924年のフランスChatellerault工場製ホチキスデザインもその弾薬を上に配置していた。この方式には長所がある。マガジンスプリングが弱ったり、フォーロワが異物やその他の破損によってマガジン本体に固着された場合、給弾が重力によっても行われる。一方欠点もある。上にセットしたマガジンはサイトライン上に位置し、このためサイトを左にオフセットせざるを得なかった。射手の右方向の視野がマガジンに遮られて制約されるという問題もあった。この問題は「射手ナンバー2」が監視に務めることで切り抜けられた。彼はマガジン交換と予備バレルの用意も担当した。

 Holekの軽機関銃の量産は1926年にブルーノ工場でやっと開始され、この銃、ZB Vzor(モデルの意)26のチェコスロバキア陸軍での制式としての使用が開始された。この間に充分な変更も行われたので、新しいモデル名には正当な根拠があると思われる(頑住吉注:こうした場合競争選択に勝った年を取ったM24という名称が使われるのが普通だが、その後それに充分な変更があったから「26」に変わってもおかしくない、という意味のようです)。さらに、この軽機関銃は国際的にも関心を集めた。努力家Holekとブルーノにおけるそのチームはさらに粘り強く仕事に取り組んだ。こうしてバレル、ボルト、ガス圧システムが少々変更されたことに基き、ZB27が生まれた。そして後にリトアニア、中国、ユーゴスラビアに供給するために作られたZB1930はすでにバレルの半分の長さに短縮されたガスパイプを備えていた。(頑住吉注:ZB1927のガスパイプはフラッシュハイダー直後の下からありますが、ブレンはバレル中央あたりの下からです)。この他にもエジプト、ブラジル、ボリビア、チリ、エクアドル、イラク、ペルー、ペルシャ、ルーマニア、スペイン、トルコから注文があった。

大英帝国の注文で
 1930年以後、ロンドンの「戦争省」(頑住吉注:直訳では「国防省」ではなくこうなります)もチェコのガス圧作動銃に真剣な関心を持ち始めた。イギリスのプラハ駐在大使館つき専門武官がこの銃に熱狂し、それにふさわしい内容を議会に打電していたからである。そこで(頑住吉注:当時の大英帝国の規模や実力からすればあまりにもセコい、たった)1挺のVzor1927がテスト用に注文された。これはイギリスが1922年以来、BAR、スイスのFurrer、マドセン、ホッチキスといったいくつかの軽機関銃にすでに長い一連のテストを実施していたからである。さらにチェコから来た最初のテスト銃はかの地のスタンダード弾薬である7.92mmx57モーゼルを発射するものだという問題もあった。この銃は充分なテストにおいて成功を収めたので、イギリス陸軍は.303ブリティッシュに適合し、これ用の20発入り湾曲マガジンが付属するバリエーションをロンドンに(頑住吉注:というかロンドンの政府を通じてチェコに)注文した。このタイプは1932年6月に改めてテストに参加した。続く2年のうちにブルーノはイギリスの注文に応じてテスト銃にさらに変更を行った。すなわちバレルの冷却フィンがなくなったこと、マガジンが30発入りに増量されたこと、バイポッドが補強されたことである(頑住注:たぶん冷却フィンは実際上効果が薄く、バレル交換メカもあるのだから少なくともコストアップに見合わないという判断でしょう)。この他ガスシールドが大型化され、コッキングハンドルが関節式になった(頑住吉注:英語に直訳すると「ガスシールド」になる単語が使われていますが、これが何を指すのか分かりません)。

 多くの部隊テストの後、1935年春に準備は整った。すなわち、ブルーノのZGB1933モデル4の第二のバージョンが正式に「ブレン マークT」としてイギリス陸軍に採用されたのである。「ブレン」は、「Brno 」と「Royal small arms factory in Enfield」の頭文字を取ったものである。Holekのデザインからの明確な変更に関してはパテントが取得された。ロンドンの政権とブルーノの国営銃器工場の間で、この機関銃をイギリス、イギリスの自治領、イギリスの保護下の国々でライセンス生産する契約が結ばれた。

システムと生産
 基本設計からもそうだったし、イギリスが練り上げたバージョンの「ブレンガン」は頑丈で、信頼性が高い銃だった。ガスはマズルから245mmの場所からパイプに分岐して流れ、調節可能な弁から一定量がバレル下のオペレーティングロッドに導かれた。オペレーティングロッドは長めのボルトキャリアと一体をなしていた。ボルトはボルトキャリアに削り加工されたカム(頑住吉注:直訳すると「あやつるカーブ」という感じで、Cz75などのチャンバー下にあるティルトのための曲がった穴もこう呼びます)によってティルト運動することで閉鎖、解除が行われた。空薬莢はフライス加工で開けられたボルトキャリアの縦長の穴を突き抜けてレシーバー下方向へ飛んだ。

 特別なバッファースプリングが軸線に配置され、射手にはっきり感じられる程度リコイルを軽減した。このためフルオート時の弾丸の散布は比較的小さくなり、500〜600mでも高い命中確率が得られた。全ては最高品質のクロームニッケルスチールから作られ、ボルトはフライス加工されていた。バレルとレシーバーには高い発射速度に耐えるように1%のタングステン添加が行われた。戦争勃発前、エンフィールドは政権に対して1セット(銃の他バレルと付属品)あたりの生産価格を40英ポンドと算出した。

 最初の量産は1937年9月3日にエンフィールドでスタートした。戦争勃発時、エンフィールドは1週間に約300挺のブレンガンを生産した。1943年にはこれが1週間に1000挺に引き上げられた。エンフィールドは終戦までに約22万挺のマークTを完成させた。戦争開始時、イギリスの兵器調達組織は1挺につき40個のマガジンが必要と計算していた。
 
 1940年以後、「Monotype企業連合」(頑住吉注:意味がよく分かりません。たぶん戦時下のイギリスで複数の会社が兵器生産のため協力したようなものを指すんだと思います)およびトロント、オタワに所在するカナダの会社John Inglisが生産を開始した。エンフィールドと合わせた3つの供給源から、1945年までにマークT、モデファイされたマークT、そしていくぶん単純化されたマークUがひっくるめて416,658丁送り出された。さらに126,000の三脚銃架が加えられ、全体量のまる60%はカナダが供給した。オーストラリアのリスゴー(NSW)、インドIshaporeのライフル工場SAFでも、主に単純化された戦時バージョンのマークVが生産された。

 戦時下の圧力下で原型のマークTの単純化が実行され、1941年6月にマークUが制式採用された。このバリエーションはレシーバーの削り加工を単純化し、バイポッドの伸縮機能を省略し、ドラム式調節サイトの代わりにタンジェントサイトを装備したものだった。ストックに設置されていた第二の木製グリップも起倒式ショルダーレストも廃止された(頑住吉注:いずれもMMCがモデルアップしたことがあり日本のトイガンマニアにもおなじみの現代英軍の支援火器であるL86A1ライトサポートウェポンに装備されていたものなんで想像つくと思います。ちなみに前者はL86A1とは違って折りたたみ式です)。さらに1943年6月にはマークVが加わった。このタイプは特に7cm短縮されたバレルが特徴的である(この際マークTのレシーバーが維持された)。いろいろなメーカーに分散していたため、1943年にはさらにマークWが生じた。これは短いバレルと単純化されたマークUのレシーバーを組み合わせたものだった。

実際の使用で
 定義により、ブレンは「軽機関銃」クラスに属する。空虚重量が10kgを超えているためやや疑義があるが。重量は重いが、歩兵の役割において戦闘部隊のオートマチック銃としてバイポッドから射撃される限り、この銃は1人の兵で操作、移動可能である。その上ブレンは当然三脚から支援射撃を行うこともできたし、車載銃として使うための銃架も提供された。中重量機関銃および防空使用といった役割のためには、100発入りドラムマガジンとならんで連装銃架もあった。多くの観点から、ブレン軽機関銃は手本となり、しかし大戦間には交代が望まれた第一次大戦時のルイスマシンガンの跡を引き継いでいた。
 
 ルイスも特に歩兵の移動火器ベースとしての役割を果たしたが、ブレンもまた実戦においてその役割における卓越した実力を証明した。この銃の信頼性は伝説的である。無数の戦闘レポート、戦史に描写された戦争の進行においてブレン軽機関銃の重要性は際立っている。多数のブレンガンナーは勇敢な兵士に授与される英連邦最高の勲章である「Victoria Cross」を得ているという事実もある。これはこの銃が全ての前線において決定的な役割を果たした証拠である。そうした兵士の中にはスコットランドの海兵隊コマンドThomas Hunter、ロンドンのSidney Bates、オーストラリアのTed Kenna、Roy Ratteyらがいる。4人だけを例として挙げたが、全てのマシンガン射手の重要さは同じであり、そのうちの一部はブレンを腰だめにして敵陣に突撃し、敵を釘付けにしたのである。
 
 1960年代にブレンは7.62mmx51弾薬に適合するよう改修されてL4となり、全部で6つのバリエーション(A1〜A6)が使用された。これに加え2、30年後になおインドバリエーションが生まれた。特にイギリス海兵隊コマンドは熱帯地域、北アイルランドなどでのパトロールにマガジン給弾のブレンを使用した。ノーマルなFNアサルトライフルより火力を必要とし、しかしベルト給弾のMAGでは過剰と思われる全ての場所で。Holekは自伝の中で中国に輸出されたブレンデザインの銃はVZ26およびVZ30のみでなく、43,000丁のイギリス製マークT(口径7.92mmモーゼル)もあったとしている。これらは日本人たちに対する戦争中、中国国民党軍に武器援助として送られたものである。このため後の朝鮮戦争において前線の両サイドがブレンを撃つということがまれではなかった。中国共産党が政権を掌握した後には地方の銃器工場がVZ26と同様にブレンも新しいスタンダード弾薬7.62mmx39に転換した。

 その歴史が多方面にわたるため、ブレンは第二次大戦における最も興味深い軽機関銃に属する。この銃は機能を殺したデコガンとして入手可能である。ここで撮影目的に使用したイギリス製マークTはヴォルムスのトランスアームズ社のデコガンである。

全長:1156mm
バレル:635mm(マークV、Wは572mm)
空虚重量:10.04kg
バレル重量:2850g
空マガジン重量:490g(30発装填時1330g)
発射速度:マークT 500発/分、マークU 540発/分、マークV 480発/分、マークW 520発/分 





メーカー プラハからブルーノへ(囲み記事)
 チェコのVaclav Holek(1886〜1954)はヨーロッパの銃器製造史においてきわめて大きな存在に属するとともに、ブレン開発の背後における原動力のひとつであった。彼は3人兄弟の長兄(他に1894年生まれのFrantisek、1899年生まれのEmanuel)であり、Pisekの手作業による銃器製作所で学び、見習い期間を終えた職人としてウィーンに行き、1910年以後はプラハの会社Nowotnyで働いた。この社は第一次大戦時は37mm塹壕砲を製造していた。戦後Holek三兄弟はプラガ銃器工場で警察ピストルやポケットピストルを製造する仕事をしていた。ここではKarel KrnkasとRudolf Jelensデザインによるマシンガンのプロトタイプも作られた。これはチェコの陸軍武装競争選択に参加するためのものだった。Vaclav Holekは弟のEmanuelとともにプラガ銃器工場のために1921年からガス圧作動式のマシンガンのデザインを行った。これが後のモデルシリーズZB24、26、27、30、33の出発点となった。Vaclv Holekは1926年にプラガからチェコスロバキアの国営銃器工場(後のゾブロジョブカ ブルーノ)に移り、ブルーノではマシンガンプロジェクトのさらなる発展と外国への紹介を担当する開発室のリーダーとなった。弟のEmanuelはプラガ銃器工場を去った後、アーミーピストルとオートマチックライフルを製造していたStrakoniceからチェスカ ゾブロジョブカに行った。第二次大戦後彼はハンティングおよびスポーツ銃を製造するための自分の会社を設立した。Frantisek Holekもチェコにおける銃器製造で大きな利益を得た。彼はプラガ銃器工場において量産のための機械製造を専門にし、1931年以後はブルーノにおける「より重いマシン銃」(頑住吉注:M2重機関銃クラスのものか、それとも航空機関砲か何かでしょうか、よく分かりません)開発研究チームのディレクターを務めた。兄Vaclavがそうであったように、Frantisek Holekも1954年にソ連邦の国家表彰を受けた。

戦闘部隊(Kampfgruppe)の火力(囲み記事)
 第一次大戦終了時、イギリスの歩兵大隊(Bataillon)の火力は過半数が約700丁の連発ライフルに基礎を置いていた。1大隊は戦闘においてそれぞれ200人の兵で構成される3つの「ライフル中隊(Companies)」と、似たような規模のマシンガン中隊(ビッカース機関銃を装備)を率いた。「射手中隊」(頑住吉注:これは前出の「ライフル中隊」と同じものでしょう)のそれぞれは4個小隊(Zug)を保持し、各小隊は2丁のルイス軽機関銃を装備していた。

 大戦間においては1914〜18年の第一次世界大戦で得た戦術的知識に基づき、イギリス陸軍にある根本的変更が起こった。ビッカース機関銃は特別な「機関銃大隊」に集められた。歩兵大隊は4つの「射手中隊」から構成されることになった。各「ライフル中隊」(中隊長は少佐か大尉)は3個小隊(Platoon)を持つことになった。小隊長は中尉で、その指令下に4つのグループ(イギリス英語ではsection、アメリカ英語ではsquad)が置かれた。これに加え5〜6人規模の統率部隊(Fuhrungstrupp、「u」はウムラウト 英語ではHQ section)が1門の2インチ塹壕迫撃砲、1丁の対戦車ライフルまたはPIAT投射器とともに小隊に加わった。1人の下士官(英語ではcorporal)が10人規模のグループを指揮した。通常グループは下士官の他6人の射手(ライフルマン)と3人からなる「ブレングループ」からなっていた。カナダ陸軍では4人からなる「ブレン部隊」(Trupp)が5人の射手と伍長(Korporal)からなる機動作戦グループ(Manover-Gruppe)とひとまとまりにされた。「軽機関銃部隊」(頑住吉注:これは前出の「ブレン部隊」と同じものでしょう)は2人の軽機関銃射手(ブレンガンナー)とそれぞれのアシスタント(No.2)が一種の上等兵である伍長代理上等兵(Lance Corporal)に率いられていた。ブレンに分配する弾薬荷物は全分隊(Korporalschaft)に振り分けられた。グループ長は例外としてたいていサブマシンガンを装備していたが、各射手はM37「革ベルト道具」(Koppelzeug)の両方の「前バッグ」(Fronttaschen)に2個のブレンマガジンを入れて携行した。この結果ブレンガンナーは4個のマガジンを携行したが、伍長代理上等兵も4〜8個、「射手No.2」も自分のライフルと予備バレルに加えて同様にさらに4〜8個携行した。「4〜8個」というのは、「ブレン部隊」用にはいわゆる「Utility pouches」があったからである。これは2つのいくらか大きな弾薬バッグであり、「革ベルト道具」に加えて首にかけるか雑嚢(Haversack)の後ろに固定することができた。これにはそれぞれ2〜3個のブレンマガジンが適合した。そういうわけで純計算上は全セクションで30〜32のマガジン(約900発)が戦闘に使用できたことになる。

 歩兵の各戦術的行動における、射撃して移動するという古典的な機動作戦は、ブレン部隊を右または左に前進させる側面ポジションをとり、そこから分隊の射手部隊の行動を遮蔽物からの射撃で支援できるようにする、という方法が想定されていた。実際には第二次大戦におけるイギリス軍の大隊では、個人規模は半分に減らされたが、24ではなく36丁の軽機関銃が使われた。

ミニ戦車:ブレンキャリア(囲み記事)
 第一次大戦による損失の印象と塹壕戦における手詰まり状況の下、1920年始めに歩兵を軽装甲のキャタピラ車内で守り、より移動しやすくするという発想が生まれた。Carden-Loyd社は一連のより軽量な装甲車両(タンケッテ)をデザインした。1926〜1928年にはこの中から「ユニバーサルキャリア」(UC)タイプが生まれた。1930年代、これらタンケッテは「マシンガンキャリアNo.1」として制式の座を手に入れ、イギリスおよびカナダ軍にはマークTとして登場した。No.2型は始めビッカースマシンガンを装備することを意図していた。しかし後には大部分にブレン軽機関銃が装備され、結局「ブレンキャリア」として有名になった。

 オープントップで全長375cm、全幅210cmしかないキャタピラ車は周囲がぐるりと厚さ12mmの装甲板で囲まれ、全高は160cmだった。8気筒フォードエンジンが乗員室の中央にあり、85馬力によって不整地における最高速度は50km/hを越え、航続距離は250kmに達した。ドライバーの横の特別な「出窓」の中にキャリアの車長がマシンガンとともに座った。これはユニバーサルキャリアが主に歩兵の攻撃を支援する、移動可能なマシンガンプラットホームとして構想されたからである。後にはボーイズ対戦車ライフルも「出窓」内に、そしてブレンが戦闘ルーム後方に対空用として搭載された。戦闘ではブレンキャリアは4〜5人の兵員を乗せたが、6人の射手を後部に受け入れることができる「キャバルリーキャリア」もあった。ユニバーサルキャリアで不整地を走る際の乗りごこちは非常に悪かった。その制約にもかかわらずブレンキャリアは前線で使われ、戦車としてではなく歩兵の支援車両として使用された。1945年までに10,000台が製造された。ほとんど29,000台がカナダOntarioのフォード工場のみで作られた(頑住吉注:「10,000台中ほとんど29,000台がカナダで作られた」って明らかにおかしいです。前者が10万台の間違いかなとも思いますがよく分かりません)。1945年以後にもなおこれらの装甲車両は1956年までの2回のイスラエル-アラビア戦争、ギリシャ内戦、インド亜大陸のポスト植民地紛争で非常に多数使用されているのが見られた。


 ドイツでも一般の人はブレンをデコガンとしてしか持てないわけで、この点では我々と全く同じ立場ですね。

 初期の軽機関銃は水冷式の重機関銃を無理矢理軽量化したような、充分軽くなく、扱いにくいものでした。天才ジョン・ブローニングの作ったBARは当時フルオート射撃ができる火器としては非常に軽量で扱いやすいものでしたが、迅速にバレル交換はできず、長時間の持続射撃は行えませんでした。Holekのデザインはいくつかの点ではBARに近いですが、迅速なバレル交換方式を導入し、長時間持続射撃を可能にしたところが画期的でした。そしてこれにベルト給弾方式を加えてもう少し軽量化すれば三脚に載せれば重機関銃、バイポッドのみなら軽機関銃として使えるGPMG(ゼネラルパーパスマシンガン)と言っていいものになります。記事の冒頭で述べられている「GPMG(ここではユニバーサルマシンガンという用語が使われていますが)への道において重要な地位を占める」というのはこういうことを指しているわけですね。そしてブレンのバレル交換システムは現在米軍も使用している「最も成功したGPMG」、FN MAGの原型になったという歴史的意義もあるわけです。ちなみに私はこれもはっきり知らなかったんですが、FN MAGは1958年登場と意外なほど古い銃だったんですね。

 よく旧日本軍の軽機関銃はベルト給弾方式でなくマガジン給弾方式だったために持続射撃能力が低く、劣った存在だったという評価がありますが、「連合軍側で最も成功した軽機関銃」であるブレンもマガジン給弾方式だったので必ずしもそうは言えませんね。記事にあるようにブレンの場合は必要に応じて100発入りドラムマガジンも使えましたが、旧日本軍では戦車に搭載する機関銃にすら小容量のマガジンが使われ、結果的にバズーカにたやすくやられてしまったケースも多かったようです。しかし旧日本軍の機関銃が充分に活躍できなかった場合、その最大の理由は給弾方式云々ではなく弾薬自体が充分になかったことでしょう。マガジン給弾方式でもマガジンがたくさん供給されればブレンのように高い評価を受け、大きな不満が生じずに長年にわたって大活躍することも可能だったということです。

 ブレンの原型になったチェコの機関銃は大陸で「チェコの無故障機銃」として旧日本軍にうらやまれた非常に優秀な銃でした。故障が非常に多かったとして悪評の高い旧日本軍の十一年式軽機関銃は制式採用年が大正十一年、すなわち1922年で、Holekのデザインが採用された1924年と近い時期です。満州事変において十一年式はダメということになって九六式軽機関銃の開発が始まったのが昭和七年、すなわち1932年であり、Holekの機関銃がイギリスのトライアルに参加したのと同じ年です。ブレンの採用は1935年、九六式は1938年とややずれがありますが、銃としてほぼ同世代と言っていいでしょう。内容的にも九六式はHolekデザインの大きな影響を受けています。

 ブレンは非常に有名な銃なので検索したらいくらでも詳しいサイトが見つかるだろうと思いきや、意外にないもんです。例えばこんなサイトが見つかりましたが「詳しい」には程遠いです。

http://ww2photo.mimerswell.com/vapen/gb/mg/brengun.htm

 ちなみにブレンよりも記事でも取り上げられているブレンガンキャリアの方が情報としては豊富のようです。また旧日本軍との比較の話になりますけど、旧日本軍の戦車に対する思想が古かったと言いますが、採用年は古いものの第二次世界大戦初期に多用されたブレンガンキャリアを見ればイギリスのそれも相当に古臭かったことが明らかです。日本もイギリスも新しい世代の優秀な戦車を開発しながら間に合わなかった(日本は全く、イギリスはほとんど)点もやや似ているようです。ただ、さすが乗員の防御を重視するイギリス「戦車」だけあって、こんなちっぽけなタンケッテでも全周が12mmの装甲で守られていたというのは意外でした。なんとなく8mmとか申し訳程度の装甲を想像していました。多くの戦場で実質的な旧日本軍の主力戦車として活躍した九五式軽戦車の車体の装甲は前、側面がブレンガンキャリアと同じ12mm、後面はそれより薄い8mmだったということです。防弾鋼板の質からしても単純に弾丸を通しにくいという点ではブレンガンキャリアの方が上だったでしょう。もちろんオープントップで軽機関銃しか積んでいないブレンガンキャリアと九五式軽戦車が撃ち合った場合の結果は明らかですが。





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