ジョン ブローニングとその銃

 ブローニングといえば銃器に興味を持つ人なら知らない人はいない、近代以降の銃器発達史に最も大きな影響を与えた大天才ですが、少なくとも私は細かいことまでは知らなかったりします。新刊が手に入らず時間ができたので、長いため当時読むのを敬遠していた、ブローニングに関する「DWJ」2003年9月号の記事を読んでみました。


125年前、ジョン モーゼス ブローニングはユタ州Ogdenで彼の最初の銃を設計した

世界ブランド

125年前の1878年、若きジョン モーゼス ブローニングは彼の最初の銃を設計した。これはフォーリングブロック閉鎖機構を持つ単発ライフルだった。これにより彼は1879年8月7日、U.S.パテントナンバー220,271を手にした。これにより彼は設計者としてのその偉大なキャリアを開始した。彼の名はブランドとなり、今日でも依然として銃器製造において全く偉大なものと見なされている。

「もしもドイツ空軍がブローニング重機関銃を持っていたら、バトル・オブ・ブリテンは違う結果になっていた。」 アメリカの風評によれば、ゲーリング元帥は不成功に終わった第二次大戦におけるこの帝国への攻撃後に語っていたという。これはほとんど信じられないが、ジョン モーゼス ブローニングは世界の歴史にその銃器開発をもって影響を与えてきた‥‥少なくとも多くのアメリカ人はそう見ている。この天才設計者が彼のマシンガン、航空機関砲、対空機関砲によって軍の関心を引きつける前、彼はすでにHandwaffen(頑住吉注:「手+銃」、で手で持って撃つ銃、すなわちハンドガンからライフルまでを指し、機関銃は含まれないようです。日本語には該当する言葉がありませんよね)製造において技術史を描いていた。

 1855年、ユタ州Ogdenにおいてジョナサン ブローニングの22人の子供の1人として生まれたジョン モーゼス ブローニングは、ゆりかごの中にいるときから銃器設計者になることを運命づけられていた(頑住吉注:ブローニングが生まれた1855年はパナマ運河が開通した年です。ちなみにペリーが日本に来たのは1853年、南北戦争は1861〜1865年、サミュエル コルトは1862年に死んでいます。また、22人兄弟というのはあまりにも多すぎるように思えますが、モルモン教徒のことですから一夫多妻だったんでしょう)。しかし少なくともそのゆりかごは家族に囲まれていた。というのは、1840年頃、彼の家族と共に「Kirche der Heiligen der letzten Tage」(頑住吉注:「最後の日の聖者の教会」)、いわゆるモルモン教会に改宗していた彼の父も、教区の信者たちと共に中西部から、ロッキー山脈の向こうのやせた土地(今日ユタとして知られるアメリカ連邦構成州)への集団脱出に参加したのである。Ogdenの町にあるその地で、彼は小さな銃砲店を開いた。父ジョナサンも同様に青少年期から銃器を作ってきていたし、この能力だけのために荒涼とした環境の中の新しいモルモン教徒の入植地の真っ只中において売れっ子となっていた。

 物語は、ジョン モーゼスがすでに6歳のとき父の仕事場の中に小さな作業台をもらっており、非常に早くから銃器製造所のど真ん中で成長したということから始められるべきである。彼が後に23歳にして彼の最初の銃を設計したのも父の仕事場でのことだった。これは単発のフォーリングブロックライフル、モデル1878であり、彼はこれのために1879年にU.S.パテント220,271を手にした。これにより彼がフォーリングブロック閉鎖機構の発明者だったというわけではないが、彼はこのシステムがマーケットでさらに大きく成功したキャリアになることに力を貸した。このライフルは33の異なる弾薬仕様(リムファイア、センターファイア含め)で製造された。1920年に生産中止されるまで、140,000挺が生産された。

 兄弟の助けを得てジョン モーゼス ブローニングは1880年以後Ogdenに自分の銃器製造所を建てた。彼は1882年にはレバーアクション手動連発ライフルを設計した。この銃は後にウィンチェスターモデル86として世界的に有名になる。彼は1884年にはこれに関しU.S.パテントナンバー306,577を手にした。

ブローニングのウィンチェスターとの結びつき
 1883年春、コネチカット州New Havenのウィンチェスター リピーティングアームスカンパニーの副社長T.G.Bennettは、ユタ州のワイルドな地域を訪れた。そしてこのことによって設計者ブローニングとこの東海岸の企業との共同事業の基礎を築いた。この共同事業は19年続くことになる。

 Bennettはまず8,000ドルで単発のモデル1878の権利を買い取った。そしてウィンチェスターの、ブローニングの新しい連発ライフルに対する交渉権も確保した。ウィンチェスターは、ブローニングモデル1878をウィンチェスターモデル1885としてマーケットに持ち込んだ。

 ウィンチェスターとの結びつきは、ブローニングを自分の企業を指揮しなくてはならない負担から解放し、彼に開発作業のための時間を与えた。そしてブローニングは設計に設計を重ねた‥‥実際上当時のウィンチェスターの銃器全てはジョン モーゼス ブローニングの開発品だった。この中にはモデル1894も含まれる。この銃はニトロパウダー(頑住吉注:無煙火薬)をロードした弾薬用に設定された初めてのアメリカ製ハンティングライフルである。同様に、ボックスマガジンを持つ初めてのレバーアクションモデルであるウィンチェスター1895もブローニングに由来する。この銃はハンティングライフルとしても、軍用銃としても生産された。

 ブローニングの発明の才能の豊かさゆえ、1900年において全てのハンティング用レバーアクションおよびポンプアクションライフルの75パーセントがブローニングの製図板から生じたものだった。

 ウィンチェスターはジョン モーゼス ブローニングに固定給は支払わず、それぞれの新しい設計に彼から要求された代価を支払った。そしてこれは、この設計をマーケットに導入するつもりが全くないときでもだった。この時代のブローニングによる34の開発品は決して量産されなかったし、そのため広範には知られないままである。この手法により、ウィンチェスターはこのプランがライバルたちの手に落ち、マーケットにおいて競合製品となる可能性を妨げたのである。

 しかし1902年、このブローニングとウィンチェスターの間の実り豊かな共同事業は終わりに至った。この間に社長に昇格していたT.G.Bennettは、ブローニングから要求された、彼の設計によるセルフローディングショットガンの直接の売り上げ配分を支払うつもりがなかった(頑住吉注:それまで設計自体をウィンチェスターに売って代価を得てきたブローニングが、このときになって売り上げの一部を配分することを要求し、ウィンチェスターがこれを拒否した、ということのようです)。これはすぐにはっきり示されることになるように、経営者としての重大な誤りであった。これに関するウィンチェスターの腹立ちは54年間続かざるを得なかった。新しい開発品と交代するまで、1902年におけるブローニングの設計は非常に長くマーケットで成功したのである(頑住吉注:ブローニングと決裂した結果ウィンチェスターが生産できなかったこのオートマチックショットガンが大ヒットかつロングセラー商品となってウィンチェスターは長期間悔しい思いをしなくてはならなかったということです。この銃、すなわちオート5については後でまた記述があります)。

ブローニングの初めてのオートマチック銃
 ジョン モーゼス ブローニングはすでに1889年にオートマチックショットガン、ライフル、ピストルの設計に向けた最初のインパルスを得ており、これが思いがけない考察につながることになる。すなわち、彼がある射撃競技会を見学していたとき、彼の兄弟の銃のマズル近くの草が各射撃に際して横に吹き動かされたのである。これは無駄にはかなく消えるエネルギーだが、使用可能であるはずだとこの発明家は考えた。この伝承によれば、彼はこの時点から、弾薬を持つ限り長時間射撃できるオートマチック銃器を作るアイデアを持っていたことになる。

 すでに1890年、ブローニングの兄弟たちは、ハートフォードのコルト社に、テストで成功していたフルオート銃のレポートを送っている。

 ブローニングがフルオートマチックライフル用に申請した最初のパテントも、1890年の日付となっている。これは1892年3月29日にU.S.パテントナンバー417,782として認められた。このライフルは.44-40のブラックパウダーカートリッジを射撃し、理論上の発射速度は毎分960発に達した(頑住吉注:以前も出てきましたが、この「理論上」というのは実際にはその速度に達しなかったという意味ではなく、1分間に960発を実際に発射できるわけではないが、その速度、すなわち毎秒16発で発射した、という意味のようです)。

 ブローニングの最初のフルオートマチックマシンガンは、口径.45-70でベルト給弾システムを持つガス圧ローダーであり、発射速度は毎分600発だった。一方ガトリングのそれは理論上毎分1000発発射できた。しかし連発メカニズムは構造上進行の中で回転による制約を受けざるを得なかった。

 1895年、ブローニングの開発品は大きな突破口を切り開いた。すなわち、アメリカ海軍がこのマシンガンを制式採用したのである。

 だが、ブローニングはガス圧駆動のマシンガンのみを研究していたわけではない。火薬ガスの一部の助けでセルフローディングピストルをも駆動できるということは、ブローニングにとって掌の上のことであったし、当時もはや新しいことでもなかった。ブローニングによる最初のセルフローディングピストルに該当するのは、.38口径でハンマーセーフティ、5と3/4インチバレル、固定サイトを持つモデルであり、彼はこれを1894および95年に設計した。しかしこれは決して商業目的で作られたものではなかった。1897年に設計されたモデルM1900は違った。ブローニングはベルギーのリエージュに所在するファブリック ナショナルと、このベルギー人たちに口径7.65mmブローニング(.32ACP)のこのセルフローディングピストルを、アメリカ国外の全てのマーケット向けに製造することを許す契約を結んだ。このモデル1900として知られるピストルの製造は(頑住吉注:その名に反して前年の)1899年に始まり、彼は1897年春には設計を行っていた。FNは1909年までに500,000挺を製造した。ベルギー陸軍は1900年にはすでにこのピストルを正式採用した。

ブローニングとファブリックナショナル
 ブローニングとFNの間の共同事業はピストルに限られなかった。前述のウィンチェスター社長Bennettとの争いを理由に、ベルギー人の最初のブローニングとのコンタクトは、長い、1926年のブローニングの死まで続く緊密な共同事業の始まりとなった。

 1902年、この設計者は(頑住吉注:FNのある)Herstalに旅し、そこであるセルフローディングショットガンのプロトタイプをプレゼンテーションした(頑住吉注:ウィンチェスターとの決裂のきっかけになったオート5のことです)。ライセンス契約に署名がなされ、ブローニングは同型の10,000挺を注文した。それらを新しい会社ブローニング ファイアーアームズ カンパニーで販売できるようにである。そのとき以来FNは300万挺をはるかに越えるセルフローディングショットガンを製造してきている(頑住吉注:これはこの機種に限らずオートマチックショットガン全てを合わせてということです)。

 この共同事業は非常に急速に深まっていった。ブローニングはこのベルギー人たちの、「ブローニング」の名前を彼らの銃のブランドとして導入したいという希望を承認した。非常に広範に普及した、今日まで効果的な決定であった。‥‥このときよりブローニングは、銃器製造においてワールドワイドに知られるブランドとなったのである。

ブローニングのマシンガン
 前述のフルオートマチックマシンガンの初期開発品の後、一連のさらなるモデルが続いた。これは会戦のみならず戦争の決着をつけるものだった(頑住吉注:戦術的のみならず戦略的意味のある兵器だった、というような意味でしょう)。これには始めは水冷式、後に空冷式になった、口径.30-06スプリングフィールドのモデル1917が含まれる。このモデルは両大戦および朝鮮戦争の歴史の中で書き記されてきた。このモデルはその初めての実戦投入を1918年9月、第79師団においてフランスで体験した。このときの銃は水冷式だった。後にブローニングはモデル1917から空冷バージョンを開発し、これは「U.S.Luftwaffe」における最初の航空機銃となった(頑住吉注:鉤括弧内は普通アメリカ空軍と訳したくなるところですが、アメリカ陸軍航空隊が空軍として独立したのは第二次大戦後のことで、ここではアメリカの航空兵科とするべきでしょう)。(頑住吉注:後部座席の兵が旋回機銃として発射するなどの形ではなく)パイロットはこの銃を自分で操作し、その際飛行方向に発射を行った。このためマシンガンがプロペラを撃ち抜かないように、フルオート射撃は常に回転翼の間を通って発射されるように、プロペラの回転とシンクロされねばならなかった(頑住吉注:分かりにくいですが航空機銃の話はここで終わっているようです)。Westinghouse、レミントン、コルト各社はアメリカ軍のためにこのマシンガンを製造した。アメリカ軍は1917年、この銃を制式採用した。後継モデルのブローニング.30M2は100万挺以上が作られた。結果として数え切れない国々がこの銃を模倣して作った。
 
 ブローニングによって開発された口径.50BMGのリコイルローダーである重機関銃は、大きな軍事的重要性を勝ち取った。この銃は最初は水冷式で、後には空冷のバリエーションとして製造された。ブローニングは1917年にすでに設計を始めていたが、パテントは1927年になって初めて、ジョン モーゼス ブローニングの死の1年後に得られた。このマシンガンはアメリカ軍において第二次大戦および朝鮮戦争で.50M2として非常に重要な役割を果した。第二次大戦中は多くのメーカーによって製造され、この中にはコルト、サベージ、ゼネラルモータースがあった。

 ひっくるめてブローニングは多数のマシンガンを設計したが、一部は試作段階を出なかった。中でも37mm航空機関砲は特別な意味を獲得した。ブローニングは1921年にこのための開発作業を始めた。テストの成功裏の終了の後、彼はこれに関する3つのパテントを1925年2月3日に得た。後にこの機関砲はアメリカ陸軍航空隊においてM9バリエーションで第二次大戦を経験した‥‥ただし比較的少数でである。なぜならこの重い航空武装は非実用的で不必要と見られたのである。

 しかしこの銃は当時のアメリカの同盟国において重要な役割を果した。すなわちロシアである。ロシアはアメリカからこの機関砲が装備されたベルP-39エアラコブラ機を手に入れた。‥‥これはドイツ戦車に対する防御戦闘において非常に効果的な兵器だった。

ブローニングのピストル
 ブローニングの広範囲な才能および発明に関する豊かさは多くのピストル開発をもたらした。そのうち多数はマーケットに導入されなかったが、他は歴史を刻んだ。コルトは、彼の最初のピストルである1897年にパテントが取得された.38口径のガス圧ローダー製造のためのライセンスを手に入れたが、これはマーケットにもたらされなかった。しかしこのブローニングの開発品は特に、彼のコルトとの出会い、そして共同事業の基礎としての意味を持った。

 ロックされたスライドを持つブローニングの最初のピストルは同様に1897年にパテントが取得された。この銃はブローニングによって商業的な生産はされなかった。しかしこのパテントはコルトモデル1900として重要性を獲得した。すなわちこのリコイルローダーはアメリカにおいて初めてマーケットに登場したセルフローディングピストルだったのである。

 口径.45ACPのモデル1911ガバメントは歴史を書き綴った。ブローニングはこのリコイルローダーをすでに1905年に設計していた。このためのパテントは1911年2月14日および1913年8月19日に、ナンバー984,519および1,070,582として得られた。このモデルは間違いなくブローニングによる最も有名な開発品である。

 コルトは1905年に生産を始め、1906年に最初の銃がマーケットに登場した。1909および1910年にはいくつかの本質的でない変更が構造に加えられた。続く1911年3月29日は、非常に注目すべき日付である。すなわち、アメリカ政府がこの1911ガバメントを軍に制式採用したのである。

 1911年から第一次大戦開始までに、約100,000挺が製造された。戦時中にはコルトおよびレミントンが510,126挺を製造したが、大部分はコルトによった。第二次大戦中、約180万挺のコルト1911ガバメントが製造された。メーカーは特にコルト、イサカ、レミントン-ランド、ユニオン スイッチ アンド シグナル カンパニーだった(頑住吉注:「レミントン-ランド」というのは銃器メーカーのレミントンとは別の会社だそうです http://www.shootingtips.com/NewFiles/article/Remington%20M51/Remington%20M51.html
)。1945年までにひっくるめて約270万挺が製造されることになる。1923年からこのモデルは、いくつかの小さな変更が導入された後、1911A1という名前になった。このうちグリップフレーム後部にある変更されたメインスプリングハウジングは外から見ることができる。

 数多くの彼による開発品の中でも、特にモデル1910、1910/22、そして有名な口径6.35mmのブローニングベビーもワールドワイドに知られるようになった。.22口径のコルトウッズマンも有名なブローニングによる設計である。ブローニングはコンシールドハンマーおよび10連マガジンを持つこのピストルを1914年には開発していた。コルトは1915年に生産を開始し、1927年にこの銃は「ウッズマン」という名を得た。1933年には4.5インチバレルつきのスポーツモデルがマーケットに登場し、1938年にはエクストラヘビー6.5インチバレルつきのマッチターゲットウッズマンが続いた。生産は1940年に中止された。

 後の1947年には新しい「ウッズマン」が、1950年には1955年以後「ハンツマン」と改称されるいわゆる「チャレンジャー」が誕生した。これらのモデルはジョン モーゼス ブローニングの死後ずっと後で誕生したものである。他の全てのモダンなブローニングピストル同様にである。

 1935年には口径9mmルガーの有名なセルフローディングピストル、ハイパワーがマーケットに登場した。このピストルで注目に値するのは13連マガジン、外装ハンマー、単純化された、当時としては未来的な閉鎖システムである(頑住吉注:閉鎖システムは現在主流のリンクを持たないタイプのティルトバレルのことでしょうが、外装ハンマーが何故注目に値するのかは不明です。ハイパワーは試作初期段階ではストライカー式であり、それと関連しているのかもしれません)。

 1945年以後も、FNからブローニングシステムに基礎を置いた数多くのピストルがなお登場した。その中でいくつかはマーケットにおいて成功し、他はわずかの成功しか収めなかった。例えばシューターに有名なものにはGP Practicalがある(頑住吉注:ハイパワーベースのマッチガンです)。

ブローニングのハンティングガン
 すでに述べたレバーアクション連発諸モデルとならんで、ジョン モーゼス ブローニングはモデル1887によってレバーアクションショットガンも開発した。この銃はモデル1901としてニトロ弾薬用に設定されてマーケットに登場した。

 ポンプアクションショットガン1897はアメリカで非常にポピュラーになった。この銃はモデル1893のモデファイされた形だった。この銃は常に新しいバリエーションで1957年まで製造された。総生産数は124万挺を越えていると思われる。

 世界初の成功したセルフローディングショットガンは、オート5の名の下に有名になった。すでにその最初の年に10,000挺がマーケットにおいて売りさばかれた。ブローニングはこの構造で4つのパテントを取得した。この銃は口径12、16、20、そして12番マグナムで製造された。メーカーに含まれるのは特にFN、ブローニング、レミントンである。この銃は今もなお製造されている。

 1906年、レミントンからブローニングによって設計された最初のセルフローディングライフルであるモデル8が、当時強力な弾薬だった.35レミントンまたは.32レミントン仕様で登場した。この銃は1910年からはリエージュのFNでも製造された。

 上下2連ショットガンがブローニングの1926年11月26日における死の前の最後の開発品となった。このパテントは1926年3月30日に得られた。FNが初めてこのブローニング上下2連ショットガンを製造したのは1930年のことだった。この銃はまだダブルトリガーを装備していた。ブローニングの息子Valは後に切り替え可能な単一トリガーを設計した。今日まで数多くのモデルバリエーションがハンターおよびスポーツショットガンシューター用にマーケットにもたらされた。再三にわたってスペシャルエディションも提供された。B25、GTS、Supreme Sporting、あるいは(まさに最新流行の)B525のようなモデル群は、スポーツおよびハンティング上のショットガン射撃においてクオリティが際立っている。

 今日もハンティング用には最新流行のセルフローディングショットガンがFusionおよびGoldバリエーションで入手可能である。これらの銃は技術的に見て、伝説的なオート5の直接の後継者を形成している。

 セミオートマチックライフルのBARは同様にハンターの間で有名であり、ドイツ国内でも好まれている。このガス圧ローダーは.270ウィンチェスター、.308ウィンチェスター、.30-06スプリングフィールド弾薬仕様で提供されている。マグナム弾薬用バリエーションも入手できる。このモデルは1967/69年から製造されている(頑住吉注:このBARというのは有名なフルオート自動小銃ではなく、 http://www.browning.com/products/catalog/firearms/category.asp?value=002B こんなのです。「1967/69年から製造されている」というのは前者がノーマル弾薬用、後者がマグナム弾薬用の製造開始年だと思うんですが確かではありません)。

 年間30,000挺以上生産されることで、ブローニングはボルトアクションショットガンマーケットでも重要な役割を演じている。モデルA-ボルトにはさまざまなバリエーションがあり、その中ではヨーロッパにおける好みに合わせて作られたバージョンであるユーロボルトも提供されている。ストレートプル閉鎖機構の愛好家向けにはモデルAceraが提供品の中に存在する(頑住吉注:「モデルA-ボルト」というのはこんなのです。 http://www.chuckhawks.com/a-bolt.htm 「Eurobolt」で検索するとどういうわけかロシア語のサイトばかりヒットするんですが、 http://www.kolchuga.ru/production/rifled/Browning/index.htm こんなのです。「Acera」というのは http://www.hikercentral.com/gear/brands/Browning.html こんなのです)。

今日のブローニング
 ブローニングというブランドと結びついた企業の歴史は、過去数十年の間に大きな変革によって特徴づけられてきた。今日、ブローニングはファブリックナショナル同様Wallonien地域に属しており、何年か前にはフランスの兵器コンツェルンGIATに買収された。

 FNはこの企業グループ内で軍用兵器、ブローニングは民間用銃器の製造を担当している。一方このブローニングという企業はユタ州Ogdenに所在するBrowning U.S., Inc.およびウィンチェスターの後継企業と見ることができ、「ウィンチェスター」というブランドネームの持ち主であるコネチカット州New Havenに所在するU.S. Repeating Arms Companyのオーナーである。ドイツ国内におけるブローニング銃器の販売はWurzburg(頑住吉注:「u」はウムラウト)のフランコニア ヤークトが引き受けている。


 ドイツ語ではいわゆるバトル・オブ・ブリテンを「Schlacht um England」、直訳すれば「英国をめぐる戦い」と言うようです。日本では「もしドイツがバトル・オブ・ブリテンのとき零戦を持っていたら勝っていた」なんてことが言われることがあります。実際にはこの時期に大量の零戦をドイツに供給することはまったく不可能であり、またドイツ空軍が零戦を高く評価することも、生産はもちろん使いこなすこともありえなかったと思われ、外国には通用しない身びいきと考えるべきでしょう。自国の製品を過大に評価する傾向はまあどこの国にもあるもので、全然知りませんでしたがアメリカには「ゲーリングは『もしドイツがバトル・オブ・ブリテンのときブローニング重機関銃を持っていたら勝っていた』と言った」という一種似たような話があるということです。バトル・オブ・ブリテンの敗因を考えると、「零戦があったら勝っていた」の方がまだましのような気もしますが、実際ドイツ爆撃機には当時主に防御火器として初速の小さい20mm機関砲と低威力の7.92mm機銃しかなく、これが爆撃機の損害をより大きくしたこと、そしてバトル・オブ・ブリテンの教訓から13mm機銃が開発されたことは事実のようで、「勝っていた」ことはありえないにしても少なくともある程度の影響はあったと思われます。まあドイツ人に言わせればそのゲーリング発言自体信憑性が低いということですが。

 この部分で言っているのは、「ブローニングの開発品は歴史に影響を与えた」ということであり、それは確かなことでしょう。前回も出てきた第一次大戦の引き金になったサラエボ事件にしても、M1910が使われたというのが事実だとすると、コンシールドキャリーしやすく、発射準備を素早く行え、信頼性、命中精度が高いこの銃が使われていなかったら別の結果になり、歴史に大きな影響が出ていた可能性だってあるわけです。また太平洋戦争時にもしM2重機関銃がなかったら、もちろん勝敗に影響はないにしても戦局にかなりの影響が出ていたと思われます。

 この記事を読んで、不勉強を改めて反省しました。ブローニングの開発品のうち、FNのM1900、M1910、ハイパワー、ベビー、コルトの初期オートからガバメントまで、M1917マシンガン、M2重機関銃、オート5などは名称に「ブローニング」がついていたりして彼の設計であると知っていましたが、M1894、M1897も含め提携時代のウィンチェスター製銃器のほとんど全て、ウッズマン、ベルP-39エアラコブラ戦闘機の最大の特徴である37mm機関砲もブローニングによるものであったこと、ブローニング設計によるボルトアクションライフルや上下2連ショットガンが存在することなどは恥ずかしながら知りませんでした。

 ちなみにベルP-39エアラコブラ戦闘機は太平洋戦線では日本軍相手に大苦戦し、日本からもアメリカからも低い評価しか受けていませんが、どういうわけかソ連では高く評価され、またこれを読むと攻撃される側のドイツからも恐れられる強力な兵器だったことが分かります。ただし対戦闘機、爆撃機用戦闘機としてではなく対地攻撃機としてですが。

 非常に興味深い記事だったんですが、やはり広範な内容をこれだけの記事にまとめたためか、例えばコルトに関する記事に見られたような、ブローニングという人物の人間臭い側面とか、天才にありがちな奇矯さといった立体的な人物像が見えてくるような記事になっていなかったのが残念です。ウィンチェスターとの決裂も特別な頑固さを感じさせるものではないですしね。まああるいは彼は天才には珍しい(?)常識的な人物だったのかも知れませんが。

 










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