尖閣に航空降下しようとした台湾活動家のインタビュー

 「『航空降下釣魚台』著者インタビュー」には、自分が本を書いたのは、「主に私のアメリカにおける友人魯国明の啓発を受けてのことです。」という内容がありました。今回紹介するのはその魯国明のインタビュー記事です。なお、速報性はないので後回しになっていたものを、「端午節」の休みで新しい記事が少なくなったために訳したもので、記事のアップは約1か月前です。

http://military.china.com/important/11132797/20130516/17836348.html


台湾の勇士:釣魚島航空降下を後悔せず 大陸の釣魚島防衛活動は人を鼓舞する (頑住吉注:後悔しないって結局降下はしてないんですけどね)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1997年、7名の釣魚島への航空降下を計画した台湾の勇士は機に搭乗して出発する前、フィリピンのスービック湾飛行場で集合写真を撮影した。」)

【グローバル時報記者 呉薇】 最近、「航空降下釣魚台」(台湾は釣魚島を釣魚台と称する)という題名の小説が台湾において非常に大きな関心を引き起こしている。小説の中には両岸が釣魚島のために日本と開戦する虚構の内容もあるし、台湾の勇士たちが釣魚島に航空降下しようとした史実もある。当時のあの航空降下行動の組織者魯国明は「グローバル時報」記者の独占インタビューを受けた。記者の質問に対し魯国明は、もし機会があれば自分はもう一度やりたい、と語った。

前後して3機の飛行機を購入 (頑住吉注:これも読んでみると1機目と2機目は検討したものの最終的に購入には至らず、3機目を買ったということらしいです)

グローバル時報:個人的背景について話していただけますか?

魯国明:私は1952年に台南で生まれました。父は沈陽の人で、「九・一八事変」(頑住吉注:満州事変)後に故郷を離れ、学生決死隊に加入し、後に東北軍に入りました。西安に着くとまた学校に戻って高校で学び、後に軍事委員会調査統計局に加入しました。

グローバル時報:あなたはいつ釣魚島問題に触れ始めたのですか? またいつ飛行機を買って航空降下するという考え方が生じたのですか?

魯国明:1970年代、アメリカは釣魚台の行政権を日本に与えました。私が釣魚台を理解したのは大学1年生以後で、当時釣魚台防衛運動は基本的にアメリカにおいてであり、ワシントンでもニューヨークでも大規模な学生運動が勃発しました。1978年、私はアメリカのカリフォルニア大学に入って勉強し、ずっと釣魚台の問題に強い関心を持ち、これを中国人に再び抱擁させることを希望したのです。

1996年の夏休み、私はアメリカのカリフォルニア州のシリコンバレーで仕事をしていました。当時台北県(現在の新北市)の議員だった金介寿は漁船を用いて釣魚台に強行上陸する行動を発起し、メディアの強い関心を集めました。私は当時あらゆるテレビ報道を録画しました。私は当時自分で会社をやっていて、経済条件はまあまあでした。1994年、台湾空軍中佐王仲年は1機の単発機を用いて太平洋を越え、私は特別に彼に注目し、2人はいい友達になりました。1996年9月18日、私は釣魚台に航空降下する件を決心しました。当時の基本的な構想は、単発機を使ってフィリピンあるいは香港から飛び立ち、これには1人の操縦員と1人の航空降下員を必要とし、上陸し旗を立てる任務を完成させる、というものでした。その日の夜、私はすぐ王仲年に電話をかけました。その内容は1つ目に私の基本構想は実行可能か否か、2つ目はもし実行可能なら彼がこの飛行をしたいか否か、を問うことでした。彼は電話の仲で即答しました。それにすぐ続いて私はさらに元落下傘兵の友達と、電話で何度も航空降下の実行可能性について討論しました。それは主に落下傘兵の空中での速度、滞空時間、飛行機が空中で投下を行う高度などでした。

グローバル時報:飛行機購入の過程を話していただけますか?

魯国明:この過程は相当に複雑でした。最初私は飛行機を賃借することだけ考えていました。このため王仲年に電話為替2,000アメリカドルを送り、彼に直ちにマニラに行ってもらいました。彼は後に私に電話し、飛行機が借りられる可能性は高くない、と話しました。何故ならフィリピンから釣魚台までの航行距離は7、800海里あり、飛行機に対する改装が必須で、最後にはさらにFAA(アメリカ連邦航空局)の検査を経る必要があり、ただし他人が私に改装を許すことはあり得ないからだというのです。後に王仲年は私に、飛行機を買う可能性の有無を質問してきました。そしてさらに一隊の人を選別して釣魚台に到達させる構想を提出した時、私はぶっ飛びました。自動車を買うことにさえ問題があるのに、まして飛行機を買うのか? と。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「早い時期における台湾人の釣魚島防衛デモの古い写真」です。)

私はにはあの時さらにもう1人のいい友達、張重和がいました。彼はアメリカコンチネンタル航空の機長でした。張重和は、飛行機を買うことは不可能ではないと考えました。当時はネットが未発達だったので、彼は私を助けて多くの飛行機販売の定期刊行物を探してくれました。私は前後して全部で3機の飛行機を買いました。第1機目はカリフォルニア州サンノゼ付近のある小型飛行場で買った、セスナ411輸送機でした。私は当時手付け金を払い、飛行機を検査もしましたが、問題は大きくなく、そこで保険をかけることに着手しました。さもないと飛行場は着陸させてくれないのです。ですが私を不思議がらせたのは、保険がかけられなかったことでした。後にある保険業者が私にある材料をファックスしてくれ、私はこれが重大なことだと気付きました。何故ならこの飛行機はおよそ300機余りが出荷され、8%に事故が起きていました。私、王仲年、張重和は緊急に協議し、最終的にこの飛行機の放棄を決定しました。あの時我々はすでに落下傘降下員を探し出してアメリカで訓練を受けさせていました。金に限りがあったため、彼らは訓練を受け始めて17日後に台湾に帰りました。

私は一方において金を調達し、一方において必要な飛行機の条件を全部列挙しました。そして最終的に1機のQUEEN BEECH65を探し当てました。私とボス(頑住吉注:誰?)は、あえて飛ぼうとしさえすれば飛べる、と話し、私はこれを買いました。しかし試験飛行過程はひどくスリリングでした。私は自分でも機を操縦することができました。元々は副操縦席に座ればいいと思っていたのですが、機に乗り込んでからやっと副操縦席がそもそもないことに気付いたのです。私は操縦員のそばに立って1本の鉄柱にしっかりつかまっているしかありませんでした。操縦員は半ズボンをはいて飛行機を離陸させました。機内には高度計のたぐいさえなく、エンジンが作動できるだけでしたが、我々の当時の要求は実際高くなかったと言えます。後に私が飛行機を見に行くと、相手方は新たなアイデアがあると言い、BEECH 18を推薦し、しかも専門家によってオハイオ州で1機を探し当てました。張重和も、これはとても信頼性の高い飛行機だ、と言いました。1997年2月、私は意見を変えBEECH 18を買い、後に「保釣精神号」と命名しました。その前に私はこの組織の名を「釣魚台前進実行委員会」と確定し、その主旨は非暴力、いかなる政党あるいは外部の組織にも介入させない、というものでした。2月25日、BEECH 18はついにカリフォルニア州に戻ってきましたが、途中12日の大風雪を経ました。

グローバル時報:飛行機を買う金はどのように調達したのですか?

魯国明:私は当初確かに家を抵当に入れることを考えました。後にいい友達と共同で金を借りようとしましたがうまく行きませんでした。そこで私はさらに人を探して金を借り、また寄付してもらい、最終的に13万アメリカドル調達しました。このうち4万は借り、9万は寄付です。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「両岸が協力しての釣魚島防衛に対し、台湾島内には強烈な願望がある」です。「引き出す小日本」って何ですかね)

台湾空軍、海軍、海兵隊退役メンバーこれに参加する

グローバル時報:飛行員と落下傘降下員はどうやって探し当てたのですか?

魯国明:飛行員は王仲年でした。彼は1994年に単発機を使って太平洋を越え、以前は台湾空軍作戦司令部の中佐でしたが、民間の飛行活動をとても喜んでいました。彼は台湾で長期休暇を願い出る時、長官に本当のことを話しました。台湾空軍は飛行機が落ちて軍の名誉を損なうことを非常に心配しました。しかも空軍の人員が島外でこの種の活動を行うのを許しませんでした。このことは彼に、もし本当に飛ぼうとするならば退役が必須だと自ら決断させたのです。王仲年はこのために退役を決心しました。

落下傘降下員も台湾で募集しましたが、その全過程には相当な曲折がありました。私はまず台湾の「神竜小組」(頑住吉注:台湾陸軍航空隊の中の航空降下などを行う特殊部隊)を探そうと考え、しかもこのうちの1人と知り合いでした。彼を探し回ったあげく見つけると、彼はすでにアメリカでドクターコースにいて、航空降下しようがないと言いました。私は王仲年と討論した後、最終的に若く、高空定点落下傘降下を学びたい人員を探すことを決定しました。第1陣は全部で3人で、これには王仲年の空軍士官学校の同級生李衛華、退役海軍少佐彭進基、さらに尹莉文という女性がいました。彼女はかつて飛行クラブのメンバーだったことがあり、当時大学を卒業したばかりで、22、3歳でした。後に機の保険問題ゆえに機が買えず、3人はしばらく解散し命令を待ちました。1997年2月、第2陣の落下傘降下人員がアメリカに赴いて訓練を行いましたが、彭進基は家族の反対が原因で抜け、李衛華には自動車事故が発生し膝に負傷し、尹莉文だけが残りました。我々は緊急にジャングオハオと王光華を探し出しました。王光華はかつて台湾海兵隊にいて、1996年には金介寿議員が発起した漁船で釣魚台に強行上陸する行動の中で泳いで島に上陸したことがありました。ほどなく尹莉文と王光華は訓練時に負傷し、このうち王光華は尾椎を折断し、苦痛の程度は一般の人ならとても忍び難いものでしたが、彼の特殊性は堅忍不抜で、我々を非常に感服させました。ジャングオハオは個人的原因で航空降下グループを抜け、もはや落下傘降下はしませんでした。この期間、王仲年もアメリカのカリフォルニア州で尾輪式飛行機の訓練を受けました。

(頑住吉注:これより4ページ目。画像のキャプションは「台湾の釣魚島防衛活動船が釣魚島に行って権利維持を行った結果得たのは逆に台湾当局のライセンス停止処分の文書だった」です。)

グローバル時報:航空降下計画の途中に変動はあったのですか?

魯国明:我々は機を改装し、3つの大小異なる燃料タンクを増加しました。当初の計画はアメリカからカナダに飛び、さらにアラスカに入り、その後機をロシアに到達させ、日本を南下し、韓国の済州島に達し、最後に釣魚台に飛ぶ、というものでした。ですが我々がロシア大使館に行ってビザを申請した時、相手方は機をロシアの領土に着陸させた後でしか申請できないと言いました(頑住吉注:そんなわきゃないと思うんですけど)。ロシアでとても長い時間を必要としてやっと離れられることに関しては、そんなことは知らないと彼らは言いました。また、ロシアの飛行場ではジェット燃料はごく容易に見つかりますが、我々のプロペラ機用のガソリンはなかなか見つかりません。このためこの計画は取り消され、カナダからハワイに飛び、さらにマーシャル群島に行き、途中2つの小島を経て、最後にフィリピンに入り、さらに釣魚台に飛ぶよう改めました。全体の航程はおよそ9,000海里でした。

1997年8月6日、我々の機はついにカリフォルニア州オークランド飛行場から飛び立ち、3名のアメリカの飛行員は交代で操縦しました。当時何の装備も搭載できず、機上には燃料しか積むことはできず、多すぎる重量は受け入れられなかったのです。航空降下グループの人員も台北で準備を整えました。8月19日、「保釣精神号」がマーシャル群島に到達したのを知った後、私は動員令を発し、王仲年は台北から出発しました。私とジャングオハオ(空中勤務担当)は全ての人員の装備、落下傘、航空投下物品などを携帯してフィリピンのスービック湾に行き、機の到着に備えました。尹莉文、王光華、李衛華は5日の準備の後フィリピンに到着しました。しかし「保釣精神号」はフィリピン進入前3つの台風に遭遇し、最終的にスービック湾に進入した時にはすでに8月25日になっていました。王仲年は直ちに太平洋を越えての機の輸送を担当した会社からの機の引き取りを終え、最大の燃料タンクを外し、余ったスペースにやっと人員と装備が搭載できるようになりました。私は27日に台北に戻りました。当時私は救援を担当していた他、さらに気象の報告、中正飛行場での記者会見の計画、台湾軍との連絡を担当する必要がありました。計画によれば、我々の人員は釣魚台に降下した後、ずっと王仲年が機を操縦して台湾に到着するのを待っていなければなりませんでした。台湾人はそれでやっと知ることになり、このため私はすぐに記者会見を開き、台湾海軍に軍艦の派遣を要求する必要がありました。万一日本人が知ったら、衝突や逮捕が発生するかもしれず、このため彼らの救援は必須でした。また、私はさらにフィリピンのスービック湾から韓国の済州島への飛行と着陸の許可申請も担当していました。途中で釣魚台に航空降下するのに便とするためです(頑住吉注:行動の意図を事前に悟られないため偽の目的地への着陸許可を取っておいた、ということでしょうか)。

この時またちょっとした状況が生じました。3名の落下傘降下員は本来全員スービック湾に着いているはずだったのに、8月31日に尹莉文が私に電話してきて、自分は台北のある国民小学校の臨時教師に選ばれ、教育界に入るチャンスを放棄したくなく、行動からの退出を決定した、というのです。このため最終的に航空降下行動を実施した時には機上には全部で7人いて、これには操縦員の王仲年、落下傘降下員の王光華、李衛華、空中勤務者のジャングオハオ、さらに台湾の「連合報」の2名の記者とグローバルテレビの1名の記者がいました。

(頑住吉注:これより5ページ目。画像のキャプションは「『台日漁業協議』の説明図。日本は1挺の銃、1発の弾も費やすことなく、広い目で見ての台湾当局の釣魚島防衛力量を低下させた。国家海洋局海洋発展戦略研究所による作図。」です。)

もし機会があればまたやる

グローバル時報:行動の最終的な実施過程はどうだったのですか?

魯国明:「保釣精神号」は9月2日早朝5時50分前後に出発しました。出発前、彼らは私と電話をしましたが、すぐに私はまた電話を受けました。飛行機に故障が発生し、すでに着陸を迫られたというのです。実は機が4,000フィート上空まで上昇した時、左エンジンがその前に長距離の飛行を経ていたために突然発火し、王仲年は直ちに左エンジンを停止し、火は消えました。機は降下し、ほとんど満載の状況下ではこれは非常に怖いことでした。王仲年は後に私に、機がスービック湾に入った時、ほとんど水面すれすれだった、と話しました。飛行場の滑走路に入るや、彼はすぐに脚を下し、瞬間的に強まった空気抵抗は脚の展開を間に合わなくさせ、機はどしんと胴体着陸し、滑走路全体に火花を散らせながら突進しました。運よく飛行場の消防員がすでにそこで待っていて、機は爆発せず、全員が生き延びました。

グローバル時報:あなたは当時どう感じましたか?

魯国明:当然非常に落胆しました。我々はこれらの人に非常に期待し、この非常に有意義なことをなすことを希望したのですが、最終的に天はついに人の思い通りにはならなかったのです。ですが少なくとも皆さんに言っておくと、もし爆発が発生していたら、非常に大きな悲劇になっていたのです。私と王仲年には1つの基本的共通認識がありました。我々の財力はごく限られており、いかなる政府の支持もなく、全体が秘密行動であり、最終的に皆がこの件をやり遂げるのは相当に難しい、と。王仲年の基本的信念は、機をオハイオ州からカリフォルニア州まで飛ばすことさえできたら、飛行機を釣魚台まで飛ばすことには自信がある、というものでした。万一いかなる事態が発生しようと、彼に何の後悔もありませんでした。全体の過程で、もし彼の信念の支えがなかったら、やり続けることは不可能でした。

グローバル時報:航空降下行動に参加したこうした人たちの現在の状況はどうですか? よく会うのですか?

魯国明:王仲年は現在台湾にいて、少し前には大陸で落下傘用風洞の仕事をしていました。尹莉文は台湾で教師をしています。私とジャングオハオはアメリカにいます。外国の操縦員の1人はすでに亡くなりました。「連合報」の章という名の撮影記者も亡くなりました。私と王仲年は先月会ったばかりです。その他の人は会ってはいませんが、毎年9月2日に私はいつも彼らに電話をかけています。

(頑住吉注:これより6ページ目。画像のキャプションは「現在中国大陸当局の釣魚島権利維持法執行は、すでに釣魚島の主権防衛闘争の核心となっており、また極めて大きく台湾の民間の釣魚島防衛活動家を鼓舞した。」です。)

グローバル時報:もし行動が成功していたら、日本の破壊に遭っていたかもしれません。あなたは行動の意義はどこにあると思いましたか?

魯国明:もしこの件が成功していたら、きっとただごとではありませんでした。我々の当時の予想は次のようなものでした。台湾の支持戦力が迅速に釣魚台に到達することはなく、日本人が先に島に上陸して彼らを逮捕する可能性があり、しかもひとたび逮捕されれば、全世界の中国人の圧力がない限り直ちに釈放することはないが、彼らが釈放されないほど実は我々に有利になっていきます。我々は皆の釣魚台に対する注意を引き起こす必要があるのです。

グローバル時報:もしあなたに再度選択のチャンスを与えたら、あなたはやはりああしますか?

魯国明:もしこのチャンスがあり、我々を支持したい人がいたら、私は当然やりたいです。しかも私は我々のこれらの人のうち絶対多数もやりたいと信じます。最近大陸政府は釣魚台防衛というこの方面にとても力を入れていて、非常に人を鼓舞します。私は両岸が共同で釣魚台を防衛するという事情が発生し得ることを希望しますが、台湾は国際政治の現実ゆえに気持ちはあっても無力かもしれません。また、釣魚台問題の起源はやはりアメリカであり、私は大陸はアメリカと、日本のいわゆる行政権は一体いつになったら期限を迎えるのか、期限が過ぎた後主権はいつ中国に返されるのか、話をするべきだと思います。

(頑住吉注:7ページ目)2008年、「全家福」号釣魚島防衛船が釣魚島海域に進入した情景。背後にいるのは日本当局の巡視船。

(頑住吉注:8ページ目)少し前、日本の海上保安庁の船舶は台湾の「全家福」号釣魚島防衛船を追い払った。


 途中で降りた人の名前は実名なんですかね。だとしたらちょっとどうかと思いますが。

 この件が実現しなかったのは単に偶然であり、いつでも同様の事態が実際に起き得るということは意識しておくべきでしょう。もちろん基本的には船の上陸と同じ対処になるんでしょうが。


















戻るボタン