99歳の老兵語る

 「抗日戦勝利70周年」関連ですが中国のものとしてはかなり異色な記事です。

http://military.china.com/important/11132797/20150815/20201047.html


99歳の川軍老兵:抗日戦ドラマは全て瞎編 日本軍の突撃は死を恐れなかった (頑住吉注:「瞎編」は事実に基づかず粗製乱造されたフィクションといった意味らしいです。)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「馬定新がバヨネット訓練科目をデモンストレーション」)

残忍、強力、近代化、中国軍は一体どのような敵に直面したのか?

2015年8月14日、四川省広漢のある農家の中で、99歳の馬定新はテレビで放映される抗日戦ドラマを見て、ため息をついて言った。「抗日戦がどこでこんなにも容易で、何人かでもう軽易に鬼子の一個連隊をやっつけただろうか? もし本当にこのようだったら、我々はあんなに多くの兄弟をさらに犠牲に用いて、苦しんで8年抗日戦をしただろうか?」

抗日戦勝利70周年記念日が近づくにつれ、抗日戦に関係する題材のテレビドラマが不断に上演されている。だが一部の抗日ドラマの中の主人公は神格化され、ひとたび手を出すや素手で鬼子を切り裂き、手榴弾で飛行中の飛行機を爆破し、甚だしきに至っては1人で日本軍一個連隊に戦いを挑んでいる‥‥

抗日戦は本当にこんなに容易だったのだろうか? 関連のデータ、統計では、「九一八」事変(頑住吉注:満州事変)開始から抗日戦終結まで、中国の抗日の歴史は14年の長きにわたり、3,000万あまりの軍民の生命を代償とし、やっと70年前の勝利と引き替えにしたのである。

成都で健在の抗日戦の老兵は、日本軍との対戦はいつも悲しみに満ちていた、と追憶する。鬼子との対戦で、ひとたびほんのわずかな手落ちがあればいつも致命的だった。華西都市報記者は抗日戦を自ら経た人および抗日戦史研究者への訪問、インタビューを通じ、当時の中国軍人は一体どのような敵に直面したのか、抗日戦は一体どのような苦しい歴史だったのかの真実に立ち戻った。

戦術編

偵察気球が上がると砲弾はまるで目がよくなったようだった

2015年4月、上海大場、高いビルが林立し、大いに繁栄し、全く戦争の痕跡は見いだせない。華西都市報記者は多くの日を費やして調査したが、昔川軍(頑住吉注:中華民国の軍閥の1つ)が血戦した頓悟寺、王爺廟などの建築物はとっくに影も形もなかった。当地の住民も大部分、ここでかつて大場防衛戦が発生したことを良く知らない。こうではあっても、ここが河川が突き当たって形成された平原で、周囲の地勢が非常に広く開け、無険可守(頑住吉注:意味不明。防御に適する?)だということは難なく見いだせる。

淞滬会戦で唯一健在の川軍老兵で96歳の張文治は回想して語った。1937年10月13日、楊森率いる川軍第20軍は上海の橋亭宅、頓悟寺、ウェンザオバン、陳家行の第一線陣地を防衛し、日本軍第3師団、第9師団と近衛師団を迎え撃った。

「あの時の大場は芦葦蕩連(頑住吉注:意味不明)した綿花の地で、何の援護も全くなかった。以前退却してきた友軍部隊が修築した工作物も非常に粗末だった。」 張文治は語った。ここで彼らは日本軍が戦術クラスの作戦で使用する「偵察気球」に遭遇した。「鬼子の砲弾はまるで目が良くなったように、我が陣地に撃ち込まれた。少なからぬ兵士は反応する機会すらなくたちまち爆死させられた。」

後に張文治はやっと知った。川軍をびっくり仰天させた奇怪な気球は、日本軍が放った偵察気球だったのだ、と。熱気球により、連動する吊り駕籠内の視察兵が空に上がり、川軍の全陣地の配置を俯瞰し、かつ無線電信などの方式により砲兵に攻撃位置を告知することができた。

資料の記載では、第二次世界大戦の期間、この種の軍用気球は早期警戒気球、宣伝気球、防空気球(頑住吉注:原文ママですが一般的な日本語では阻塞気球ですかね)、爆撃気球に分かれた。「申報」はかつて、南京、石家庄などの戦役の時、日本軍が偵察気球を利用してまず中国軍の配備状況を視察し、さらに攻撃を行った、と報道した。

張文治は、抗日戦初期、この種の相手を丸裸にする情報探知の方式は、往々にして中国軍に先んじるチャンスを失わせ、「特に広く開けた地帯では、あらゆる待ち伏せが全て鬼子によって見破られ、我々は受動的に反撃するしかなかった。」と語る。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「画家古月の油絵作品『鉄血長城-抗日戦争中の川軍』」です。)

電撃戦、迂回戦が中国軍に大きな痛手を与える

第二次世界大戦の時期、ファッショ国家の多くは電撃戦に長け、飛行機、戦車に頼り、機動性が極めて高い作戦部隊をもって迅速かつ猛烈な襲撃を発動し、相手方の防御力量を破壊した。

「日本軍は電撃戦を使用するだけでなく、さらに迂回戦の使用に長けていた。」 四川巴蜀抗日戦史研究院の専門家である何允中は、抗日戦の時期、日本軍は一般にいつもまず飛行機、戦車、重砲をもって中国軍に対し攻撃を行い、快速併呑を企図した、と語る。ひとたび膠着状況が出現すると、日本軍は直ちに迂回戦を使用し、「声東撃西(頑住吉注:陽動作戦)に似て猛烈に中国守備軍の一方を攻撃し、さらに部隊を派遣して後方に迂回させ、防御の薄弱な部分を攻撃し、突破口を開いた。」

この種の「グレードアップ版」電撃戦は一度中国軍の損失を重大にさせた。何允中は、1937年8月13日、淞滬会戦が勃発し、日本軍は猛烈な火力をもって上海北面を攻撃し、上海の快速併呑、中国の急速な滅亡を企図した、とする。だが日本軍を意外にさせたのは、中国軍が上海を死守し、戦場を血の海とし、日本軍の狂気じみた攻撃を防ぎ止めたことだった。

2ヶ月の膠着の後、日本軍は密かに艦隊を集め、上海南面に迂回させた。中国守備軍が北面の戦場を支援している時に乗じ、タイミングを正確に見て、広州湾で迅速に上陸し、上海に対し挟撃を行った。この後上海は陥落し、日本は死傷者4万人余りと宣言し、一方中国軍側の死傷者は30万人近かった。

「淞滬会戦だけではなく、山西東陽関戦役、嬢子関戦役など、日本軍は千変万化に電撃戦、迂回戦を使用し、各種戦術を密接にコンビネーションし、中国軍を攻撃した。」 何允中は、抗日戦初期、戦闘の経験が欠乏した川軍が直面したのは素早く戦術転換を行うことができる、練度の高い日本軍だったのだ、と感嘆する。このことが多大な犠牲を払うことを必要とし、やっと鬼子を防ぎ止めることができた原因だということは考えれば分かる。

補給編

物資空前の欠乏 何ヶ月も米や麺を食べず


2014年、華西都市報記者は成都の永豊路付近で、90歳の八路の老兵張文輝をインタビューした。張文輝は、自分が14歳の年に日本軍が山西長治を占領し、自分は迫られて故郷を離れ、八路軍に加入し抗日戦に参戦した、と語った。後に彼は部隊と共に百団大戦など多くの戦役に参加した。だが彼が言及すること最も多かったのは、八路軍が敵後方でゲリラ戦を行う苦しさだった。

「部隊は太岳山全体でゲリラ戦を行い、沁水県、陽城県、長子県など一帯の山の地域に分散し、群衆抗日を発動し、抗日革命根拠地を建立し、常に掃討を行う日本の傀儡軍と戦闘した。」 張文輝は、物資の補給は空前の欠乏で、困難な時期、ある時にはまる何ヶ月も米や麺を食べることができず、コウリャン、黒豆を食べ尽くし、主食は糠をまぶした焼きそばだった、と語った。「こうした粗食さえ武装援護し、4、50km離れた敵占領区に近い場所まで行って背負って戻ってくることに頼る必要があった。」

張文輝は、ある一定の時期、履き物の供給が問題となり、幹部は皆を召集して草履を作らせた、と語った。あの時に張文輝も草履作りの技術を体得した。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「建川博物館に展示される中国を侵略した日本軍の罪の証拠」です。)

川軍の装備は非常に劣悪 閻錫山の兵器庫を奪う

1937年9月、ケ錫侯率いる川軍第22集団軍は路費を自ら準備し、前線の抗日戦に駆けつけた。粗い布の衣服、菅笠に草履、川造あるいは漢陽造の小銃を加え、これこそ彼らの「標準」装備だった。またそれぞれの師団に数門の迫撃砲しかなく、山砲、野砲は1門もなかった。小銃も2発撃てばもう沈黙する清朝時代の「骨董」だった。

ケ錫侯はかつて部下に、自分たちは抗日隊伍であって、待遇のことはしばらくは口にするな、と教えたことがある。部隊が山西に到着してすぐ、ケ錫侯は上層からの指示に接し、嬢子関に駆けつけて日本軍に抵抗反撃したが、日本軍の兵力などの状況に対しては全く知らなかった。

川を出て国の戦いを行う川軍は、初めて飛行機、戦車、重砲の狂気じみた打撃に遭遇し、日本軍人の影さえまだ見ないうちにもうすでに損失が悲惨、重大だった。

何戦か行った後、ケ錫侯一行の糧食は急を告げ、馬の餌用の豆を食べるしかなかった。彼は蒋介石自ら書いた指令書を持って、中央軍の蒋鼎文を探し、装備を受領し、衣服を換えることを願ったが、蒋鼎文は認めなかった。後にまた閻錫山を探したが、閻錫山は壊れた古い装備をちょっと彼らに与えただけだった。

装備、食料と飼料の補給が得られず、さらに随時日本軍との対戦を準備する必要があった。迫られてやむなく、ケ錫侯は見て見ぬふりをし、部下が閻錫山の兵器庫から泥棒するのを黙認した。閻錫山は激怒し、直ちにこの川軍部隊を追跡した。

戦闘力編

日本軍の兵個人はものすごく、協同作戦能力が強かった


新四軍の老戦士である孔誠は、華西都市報記者に向けあるスリリングな待ち伏せ戦を語った。孔誠は、あの戦役で自分たちは日本軍に数倍する兵力を集中し、車橋の拠点を攻撃するのと同時に、日本軍の援軍を待ち伏せ攻撃した、と語った。

「当時我々は地理的優勢を占め、日本軍は我々のこんなにも多くの人が彼らのやってくるのを待っているとは全く思っていなかった。」 孔誠は、この戦闘は相手を袋の鼠とすることが運命づけられ、戦闘がひとたび始まるや、付近に駐留し守る日本軍は果たして車橋に救援に駆け付けた、と語った。日本軍が待ち伏せ圏内に入るのを待って、新四軍は直ちに砲火を浴びせ、直ちに多くの日本軍を死傷させた。

大兵力で待ち伏せし、また打撃したのは後方勤務部隊であり、戦闘は理の当然にすぐに終わった。しかし、孔誠ら新四軍戦士に思いもよらなくさせたのは、この何百人かの日本軍が猛烈な襲撃に遭った後、すぐに隠蔽ポイントを捜し当て、十字砲火の援護を形成して反撃を行ったことで、その速度の速さは人の舌を巻かせた。

その後、新四軍戦士と日本軍は激烈な白兵戦を行い、元々すぐに終えられるはずだった戦闘は何と午前からずっとその夜10時まで行われ、大量の戦士の生命を代償に、やっとこの部隊をやっつけた。ある日本軍の将校はその身に重傷を負っても依然狂ったように叫んでいた。捕虜となった日本軍の識別を経、この人は指揮官の山沢大佐だった。

戦役は終わり、統計を経て全部で日本軍400人あまりを殺し、24人を捕虜にした。日本軍の快速反応、および素早い反応能力に対し、孔誠は今に至るも印象が深く、これは非常に多くの中国軍人が戦争初期に持たないものだった。

(頑住吉注:これより4ページ目。)

日本軍の射撃術は正確で突撃すれば死を恐れなかった

大多数の健在な抗日老兵には、日本軍に対する評価にある共通点がある。すなわち、日本軍は死を恐れず、銃砲は不思議に正確だった、である。

山西中条山戦役に参加したことがある老兵の鄭維邦は、次のような詳細を口述した。当時小隊長の任にあった鄭維邦は、命令を奉じて部隊を率い中条山戦役の中の夏県文徳村戦役に参加した。鬼子の掃討に遭い、距離が鬼子から200mと遠かった時、彼は兵士を指揮して待ち伏せさせ、「鬼子がそばまで近づくのを待ってから撃て」との命令を下した。

しかしある若い兵士が緊張のため誤って1発を放った。銃が一鳴りするや、壁の後ろに隠れていた鄭維邦らの人は直ちに日本軍の砲火の攻撃に遭った。鄭維邦は急いで戦友に伏せろと言い、何名かの兵士は反撃したがったが、頭をひとたび出すやすぐ弾丸が急所に命中した。鄭維邦は涙を流しながら負傷者を移動させ、彼は帽子を石の上に固定して鬼子の火力を引きつけた。「帽子をかけるとすぐに何発かで撃ちとばされ、彼らの射撃がどれだけ正確だったか考えれば分かる。」

「鬼子はまるで死を恐れないかのように狂ったように突撃し、私はマキシム重機関銃を利用してどのくらい撃ち殺したか分からない。」 重機関銃手を担当していた馬定新は、重機関銃の狂ったような掃射はまさに鬼子の悪夢だった、と語る。まさにこうだから、機関銃手も狙撃手および砲兵の重点的掃討目標となり、「私が生き残れたのも幸運で、我々の中隊の重機関銃手がどれだけ撃ち殺され、爆死させられたか分からない。」

馬定新を驚愕させたものはまだあり、日本軍の自殺式突撃だった。「ひとたび突撃命令が下るや、鬼子は命がいらないかのようにずっと前に向け突撃した。」

「日本軍のこの点は人を敬服させざるを得ない。」 何允中は、日本軍はごく幼少な時にもう軍事訓練し、しかも武士道精神を尊び、「自分に対し冷酷になれ、相手に対してはさらに冷酷だった。」と語る。

訓練編

花槍刺法は役に立たず 日本軍のバヨネット技術を学ぶ


抗日戦の神劇を見ると、中国軍人は刀を手にし、技巧を凝らし華麗に鬼子を斬り殺しているが、かつて戦場で日本軍と直接戦った馬定新は頭を振って嘆息する。「全て瞎編だ。もし小鬼子に遭遇したら、このような刀法では命がいくつあったら足りるか分からない!」

「川軍の花槍刺法は、見世物としてならまだいいが、全く実用的ではなかった」 馬定新は語る。彼の部隊には1つ秘密があった。「その他の部隊の状況を私は知らないが、我々の部隊のバヨネット技術は全て日本のこところから学んできたものだ。彼らのバヨネット技術は最も直接的で、地に足の着いたものだった。」

何度もの白兵戦を経て、少なからぬ川軍の兄弟を犠牲にした後、馬定新のいた部隊は鬼子のバヨネット方式がより直接的で有効であると気付いた。ひとたび日本人を捕虜にできたら、彼らはすぐ買収を行い、日本人を教官とし、日本軍のバヨネット法を教授させた。

「バヨネット方式の他、我々はさらに彼らの『歩兵操典』を学習し、訓練を行った。」 馬定新が言及する「歩兵操典」とはまさに「国民」政府が日本軍の操典を根拠に編纂したものである。

70年後、馬定新は依然はっきりと当時のバヨネット戦を覚えている。彼は木の棒を取り上げて銃に見立て、デモンストレーションした。片手は「前護木」(頑住吉注:フォアグリップ)を握り、片手は槍託(頑住吉注:銃床)を握り、やや軸足側まで垂らし、かつ「剣先」をほぼ眉の高さにし、「殺」の一声と共に「バヨネット」は前方に突き出された。

(頑住吉注:これより5ページ目)

日本軍の軍事的な質は中国の兵士にはるかに勝っていた

第五戦区司令長官で、台児荘会戦の指揮官だった 李宗仁はかつて回想し、日本陸軍の訓練の優秀さと戦闘力の強さは世界に稀に見るものと言えた、とした。用兵行陣の時、上は将官から下は兵卒まで、戦術戦闘の原則に照らして作戦し、一糸乱れず、敵に乗じることのできる隙を容易に与えなかった。

兵個人の作戦能力、および軍事的質の優秀さは、日本軍の優良な兵源と厳しい訓練にルーツがあった。

資料は、1907年に日本の小学校就学率はすでに97.83%に達していたことをはっきり示している。1940年、日本は「歩兵操典」の規定を発布し、歩兵兵個人および大隊以下の歩兵部隊の訓練には兵個人教練、中隊教練、大隊教練が含まれた。新兵は入隊以後、毎月実弾射撃訓練の弾薬を用い、小銃は150発未満であってはならず、機関銃は300発未満であってはならず、毎年訓練に用いる歩兵の弾薬は1,800発だった(日本軍の実際の資源の逼迫により、弾薬の数はある程度減少したかもしれない)。

だが一部の抗日戦の老兵の回想によれば、多くの日本軍兵士は乗車しての行進時に銃を挙げて射撃しても、依然比較的正確に100m以内のマンターゲットに命中させることができ、増してや重砲などの技術兵器の操作、メンテナンスの水準は中国の兵士よりずっと優れていた。

歴史との隔たりを正視することこそ老英雄の尊重

去年から、華西都市報記者は100人近い健在な抗日戦の老兵を訪れインタビューした。こうした抗日戦を自ら経歴した者に直面すると、当時の普通の兵士であろうと高級将校であろうと、8年の戦火と硝煙を回想すると、彼らは皆抗日戦の勝利を喜ぶが、戦争の惨烈さに言及する時には沈黙も出現するのだった。

老兵は抗日戦史を語るのを好む。人に何度尋ねられても、彼らは皆一回一回我慢強く語る。「老兵にとって、彼らが抗日戦の物語を語るのを聞き、彼らの経歴した歴史を記録したい人がいさえすれば、老兵は皆興奮する。」 巴蜀抗日戦史研究院の専門家である何允中は語る。

だが現在の抗日戦神劇およびロジックに合わない小説は、いすれも当時の中国軍を神格化し、日本軍の軍事的質と実際の作戦能力を嘲り、けなし、もって一部の青年の娯楽を求める心理に迎合することによって、より多くの若い世代に歴史に対する誤った認識を生じさせている。

これに対し何允中は、どんな目的から出たことであっても、随意に抗日戦の歴史を戯画化し、誤った歴史を伝播する行為は、全て全民族の抗日戦に対する不尊重である、と語る。抗日戦勝利70周年で、社会の抗日戦の老兵に対する関心もどんどん高まっている。歴史を正視し、隔たりを正視することこそ、老英雄に対する最大の尊重なのである。


 昔中国の抗日戦映画を見た時、個々の戦闘では中国軍が滅茶苦茶に強くて日本軍をコテンパンにやっつけるのに、何故か全体としてはどんどん敗走していき、中国人はこれを見ておかしいと思わないのかな、と疑問を感じたことがありましたっけ。しかし注意を要するのは、初期の中国軍は確かに全体として弱く、いまだに「中国軍は弱いもの」というイメージになって残っていますが、後に経験を積みアメリカなどからの優秀な兵器の援助を受けた中国軍は相当に強くなり、増してや現在の教育、文化程度が上がり訓練水準の上がった中国の軍隊とでは同列に論じられないということでしょう。














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