「歴史秘話」関連2題

 まず朝鮮戦争関連です。

http://military.china.com/history4/62/20160201/21391020.html


スターリンは何故金日成の朝鮮戦争発動を支持したのか:毛沢東に報復

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1950年10月19日の黄昏、中国人民志願軍が鴨緑江を越え、朝鮮の戦場に駆けつける。(新華社発)」)

本文は元々「国家人文歴史」2013年第3期に掲載された。原題は「スターリンが金日成の朝鮮戦争発動を支持した動機」である

1950年1月以前、スターリンは極東でアメリカとの衝突に陥るのを避けるため、ずっと金日成が軍事手段を採って朝鮮半島統一問題を解決するのに反対していた。だが1月30日、彼は突然ソ連駐北朝鮮大使シェントコフに電報を発し、金日成が「南朝鮮に対しこのように大きな行動を取ろうと考えるには、充分な準備が必要だ。この挙はあまり大きなリスクを犯さないよう組織することが必須だ。もし彼が私とこの件で会談したいなら、私はいつでも彼に接見しかつ彼と語る準備がある。このことを金日成に伝え、かつ彼にこの件の上で私には彼を助ける準備があると教えてほしい。」と語った。金日成はこの情報を聞いて知った後非常に満足しまた感動し、スターリンはまたシェントコフに向け補充の指示を発した。「金日成同志に向け説明してほしい。現在の状況下で、彼が私とこの問題を討論したがっていることは終始機密にすべきだ。この件をその他のいかなる北朝鮮の指導者や中国の同志にも教えてはならず、増してや我々の敵に知らせてはならない。」 ならば、スターリンは何故1月末に突然朝鮮半島に対する政策を改変したのだろうか? さらに何故当時ちょうどモスクワを訪問していた毛沢東に隠そうとしたのだろうか? 別の言い方をすれば、金日成が軍事手段を採るのにスターリンが同意した真の動機はいったい何だったのだろうか?

この中ではある時間的な節目となるポイントが特別に注意に値する。1月26日、中国サイドは旅順口、大連港、中長路に関する協定の草案を提出し、2年内に中国の東北における全ての主権を取り戻すよう要求していた。1月28日、ソ連は改修を経た中国サイドの文書を返し、基本的に中国の要求を受け入れた。1月30日、スターリンはシェントコフに電報を発し、金日成の軍事計画に同意し、かつ援助を提供したいとした。これにより、筆者にはある推断がある。中ソ同盟条約の締結はソ連に太平洋に通じる唯一の出口と不凍港を失わせ、これは疑いなく戦略的利益の重大な損失であり、その結果ソ連がアジアにおいて戦略的依拠を失う結果をもたらすことになる。スターリンが金日成の南朝鮮に対する進攻の発動に同意したのは、この軍事行動によりソ連の極東地域におけるこの伝統的戦略の支えとなるポイントを再建あるいは保障することを望んだのである。

スターリンはずっと思考が緻密で、行動が慎重で、彼は当然、軍事進攻に2種類の結果があると思い至っていただろう。スムーズに行くかあるいはそうでないかである。戦争に勝利した状況下では、ソ連は全朝鮮半島を支配下に置き、仁川、釜山あるいはその他の南朝鮮の港は旅順口や大連港の作用に取って代わることになるだろう。もし戦争で利を失っても、ソ連は依然願いを達成して満足することができる。何故なら東北アジアの緊張した情勢は中国に、ソ連軍が旅順、大連に駐留するよう要求することを迫るだろうからである。しかも中ソ双方の協定に基づき、ひとたび戦争あるいは危急の局面が出現したら、ソ連の軍隊には中長鉄道を使用する権利がある。このため、スターリンは明らかにすでに予見していた。朝鮮半島に出現した武装衝突は、その結果がどうであろうとも、必ずソ連が極東に設定した戦略目標を保証することになると。すなわち太平洋への出口と不凍港の獲得である。後の事情の発展は果たしてスターリンの予測から出ることはなかった。朝鮮戦争の勃発により、中国は止むを得ず中長鉄道を開放し、かつソ連軍が継続して旅順基地に駐留するよう請求したのである。

要するに、スターリンは毛沢東との同盟を結ぶ中での経済的利益の衝突を解決する時、ソ連の極東における戦略的利益に対し緻密で全面的なな考慮があった。そしてこのような構想と計画の結果は、ソ連が軍事および政治的同盟によって中国をモスクワの東方集団に加入させることもできたし、またその極東における戦略的地位も保証できた。これはスターリンの毛沢東に対する報復と言わざるを得ない。すなわち、本来スターリンはまず中共が台湾問題を解決するのを助け、しかる後さらに朝鮮問題を考慮することに同意していた。後に突然秘密裏に金日成を呼んで会い、朝鮮半島統一問題を討論した。明らかにすでに中共の台湾進攻戦役は後回しにされていた。これにより展開し、アメリカの学者であるクリステンセンは別の角度からスターリンの朝鮮戦争発動に同意した行為に対し解釈を行ったが、これはより合理的でもある。「まさにスターリンが、毛沢東はチトー主義者あるいはアジアのレーニンになるかもしれないと疑ったからこそ、金日成が東アジアの共産主義運動をチャオドンする努力を可能にさせたのである。」(頑住吉注:「チャオドン」は日本語にない漢字を使った語で、梃子で動かす、少ない元手で大きな成果を上げる、といった意味らしいです。)

朝鮮の戦場の局面に逆転が出現した時、毛沢東と中共は間違いなく厳しい試練に直面した。一体アジアのチトーなのか、それともソ連の忠実な盟友か、全部の問題が一点に集中した。すなわち、中国は危急の時に出兵して北朝鮮を援助できるか否か、である。


 非常に面白いんですが北朝鮮が完敗する、東西の全面戦争に発展するといった可能性を考えると得られる利益に対してリスクが大きすぎないかという気もします。

 次は日中戦争での小火器関連です。

http://military.china.com/history4/62/20151022/20610581.html


中正式歩騎銃の秘密を明かす:作用が非常に限られた抗日戦の武器

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「中正式歩騎銃の側面図」)

近年来、映画やテレビドラマの影響を受け、人々はある錯覚を生じさせている。それは抗日戦の期間、中国の軍隊は決してさまざまな武器が人に及ばなかったわけではなく、例えば兵個人銃器は日本軍のそれに比べ使いやすかった、というもので、この根拠は中国軍が装備した中正式小銃は日本軍の三八式小銃より強かった、ということである。だが実際の状況は次の通りである。中正式小銃は抗日戦のために貢献をなしたが、それにもかかわらず中国の軍隊の主力小銃ではなく、かつ性能も全面的に日本の三八式に勝っていたわけではない。

「制式銃」の生産量不足

旧中国の軍隊の一大問題は「万国製」で、すなわち武器が多くの国から来ており、形式がそれぞれ異なり、互換できず、深刻に戦闘力に影響することだった。1932年、国民政府はドイツの1924年式モーゼル小銃を原型にコピー生産を展開し、かつそれを後日の中国軍の制式装備とすることを決定した。1935年、鞏県兵器工場は正式に生産に入り、新たな銃は「中正式歩騎銃」と定められた(一般には「中正式小銃」と略称される)。

この銃は全体重量約4kg(バヨネット含まず)、全長1.11mで、小銃および騎兵銃の用途を兼ねることができた。この銃はボルトアクション式手動ボルトを採用し、7.92mm尖頭弾を発射し、銃口初速は810m/s、照尺上の射程は2,000mだった。

1937年の抗日戦全面勃発後、中正式小銃の生産は比較的大きな影響を受けた。戦火を避けるため、鞏県兵器工場は何度も移転し、生産は時に中断し時に続けられ、加えて銃を作る材料が欠乏しまた品質管理が難関を突破せず、この銃の生産量は終始上っていかなかった。1943年になって、国民党兵器工業署はやっとこの銃の技術図面、製造に使う金型、検査基準の規範化を完成させ、3つの兵器工場が同時進行で生産できるよう手配した。こうであっても、中正式小銃は1935年から抗日戦終結時までの総生産量が40万挺前後でしかなく、この数は中国の軍隊の装備の需要を満足させられず、正真正銘の中国の「制式銃」とはなれなかった。

性能は「三八式」との比較に堪える

中正式小銃は当初主に国民党中央軍の調整師団に装備され、つまり多くのメディアが言うところの「独械師」である。実は、いわゆる「独械師」とは単に輸入されたドイツのM35ヘルメットをかぶり、ドイツの軍事顧問の訓練を受けた部隊というだけであって、こうした部隊の武器装備は国産コピー品がメインであった。このため厳密な意味から言って、それは「「独式師」と呼ぶのがよりぴったりである。

抗日戦全面勃発時、全部が中正式小銃を装備した中国の部隊は調整師団に属する第36師団、第87師団、第88師団および中央軍学校教育指導総隊だけで、一方同じく調整師団に属する第3師団、第6師団、第9師団、第14師団は中正式小銃をメインとし、別に少量の漢陽造小銃があった。

中正式小銃初の参戦は1937年の淞滬会戦の中でのことで、この銃が使用する7.92mm尖頭弾の初速が高く、弾道特性が良かったため、有効射程は1,000mに達し得、しかも尖頭弾は残存速度が高く、殺傷威力が大きく、人体の重要部位を撃てば死ななくても即重傷となった。比較すると、日本軍の三八式小銃はよく見られる200〜600mの距離での殺傷威力が中正式小銃に遜色あることはなはだ多かった。

戦場の実際の検証を経て、中正式小銃は操作が簡単、丈夫で耐久性が高い、火力が強大、戦術機動性が高いなどの多くのメリットをはっきり示した。日本人も中正式小銃の凄さに教えられ、すぐに九九式小銃を研究開発し、7.7mm口径の尖頭弾を使用するよう改めたが、この弾薬は弾道性能でも殺傷威力でも依然中正式小銃が使用する弾薬とでは比較にならなかった。

だが、中正式小銃は決して完全無欠ではなかった。まず、中正式小銃のボルトを動かすのには比較的力が要り、加えて持続射撃後はレシーバーとボルトが熱せられて膨張して張り付くため、ボルトはさらに動かし難くなった。次に、この銃の射撃精度は日本軍の三八式に及ばなかった。最後に、中正式小銃は比較的短く、非常に長いバヨネット(長さ575mm)を装着しても、依然バヨネットを追加装備した三八式よりやや短かく、このため中国の兵士は白兵格闘時にしてやられやすかった。


 材質や工作精度などの上では末期の九九式以下だったのではないですかね。




















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