1.17 ブローニングの貢献

 我々はリボルバーの技術的発展に対するコルトの貢献が全くたいしたことのないものであり、彼の功績が本質的には彼の銃の成功した普及の中にあることをすでに見てきた。連発ハンドガンのアイデアは浸透の中にあったのである(頑住吉注:びっくりしました。私はこの人が遠まわしに「コルトはたいしたことない」と匂わせているのかと思いましたが、これは私のドイツ語力不足から来る誤解で、はっきりそう主張していたわけです。要するにコルトはリボルバーのさまざまな基本的アイデアが浸透しつつあったときにタイミングよくそれを小器用にまとめて商業的に大成功しただけの人物にすぎない、ということです。私は特にアメリカ、およびそれに多くを依拠した日本の資料においてコルトの偉大さが過大に評価される傾向があることに注意すべきであるとは思いますが、ここまでの主張にはとうてい同意できません)。リボルバーの場合と違い、セルフローディングピストルの場合には2つの名前がその発展と緊密に結びついていた。すなわち、ブローニングとワルサーである(頑住吉注:つまりコルトのリボルバー発展に対する貢献度よりもワルサーのオートピストル発展に対する貢献度の方がずっと大きく、ワルサーの貢献はブローニングの貢献に比肩するものだというわけです。私は今までこの人がかなり公平な見方をする人だと思って読んできましたが、それは誰が見てもドイツ人の貢献度が低い分野に関する記述だったからであり、ドイツ人が大きく関与している分野に関してはドイツ万歳色が強まってしまうのかも知れません。以後ちょっと警戒しつつ読み進めましょう)。最初のセミオートマチックピストルはこれらの名前と結びつきがない。ブローニングとワルサー一族はセルフローディングピストルの最初ではなく、完璧化に関与した。我々はまずブローニングと彼の貢献に取り組みたい。

 John M. Browningは1855年にアメリカ、ユタ州のOgdenにおいてあるライフル工の息子として生まれた。彼は1926年、ブリュッセルで死んだ。ブローニングは近代の最も成功した銃器設計者に該当する。彼は1879年、ある単発ライフルに関し、彼の最初のパテントを手にした。このパテントはウィンチェスターによって買い取られた。彼はオートマチック銃器の分野において最大の成功を収めた。ブローニングが1891年頃から取り組んでいたセルフローディングピストルに関しては、我々は彼の名前を特にポケットピストルと結び付けている。ブローニングの場合も最初は軍用向けの銃器に関心の中心があった。このピストル(図1-64を見よ)はガス圧でオープンさせられるロックされたスライドを持っている(頑住吉注: http://www.sightm1911.com/ この銃が載っているページに直接行けないんですが、まず左のメニューの中の「M1911History」をクリックし、表示されたページの下の方にある「The History and Development of the M1911 Pistol」をクリックするとこの銃の画像があるページが見られます。はっきり言ってかなり不細工な銃ですね)。長さ15cmのバレルはチャンバーより10cm前方の上部に穴が開けられている。弾丸がこの位置を通過してしまうと、前上部に位置するレバーがほぼバレル中央にある回転軸を中心に上方にパタンと開く。これにより後端で長いレバーと関節結合されているスライドは後方に滑ることができる。空薬莢はこの際に投げ出される。スライドが作動する際に1発の弾薬がグリップ内に位置するマガジンからチャンバーに押し込まれる。前方に位置するロックレバーは閉鎖運動の最後に再びバレルの穴の上にかぶさり、スライドはロックされる。ブローニングは1895年にこのピストルをコルト社に提示した。だがこの銃は生産に移行しなかった。ブローニングがわずか後により単純な構造を製造に適するほどに発展させたからである。商業的な基準で製造された最初のブローニング・セルフローディングピストルであるモデル1900はFabrique Nationale des Armes de Guerre, Herstal, Belgien(略してFN)によって1899〜1912年に製造された(図1-65を見よ 頑住吉注: http://world.guns.ru/handguns/hg117-e.htm )。閉鎖スプリングはバレルの上側に位置し、レバーを介して同時にファイアリングピンとしても作用している。このスプリングの位置はこの銃が初期のものであることを示す唯一の配置上の特徴である(頑住吉注:要するにこの点を除けば後の銃と大きな差がない、ということでしょうが、私には必ずしもそうは思えません)。後には閉鎖スプリングがバレルの下に位置するかバレルにかぶせられ、このため同じ寸法で約1発大きなマガジンキャパシティを持つ構造がより好まれた。このモデル1900は7.65mmブローニング弾薬仕様で製造された。その重量(600g)、寸法(全長163mm、全高115mm、全幅22mm)、開口部の少ない構造はますますもってポケットピストルの指針に該当することができた。7発のマガジンキャパシティのみがよりモダンな構造より下に位置している。14年という短い製造継続期間の中で600,000挺が作られた。この極度の製造数は、その設計者であるブローニングの名前がセルフローディングポケットピストルの同義語になったことを我々に理解できる事柄にさせる。このM1900は歴史の不名誉な1章の中で(間違いなく副次的な)ある役割を演じた。(頑住吉注:何故か書いてませんが1914年)6月28日、セルビア人学生Princepがオーストリアの王位継承者Franz Ferdinand大公と彼の妻を射殺したのである。この結果がとうとう第一次世界大戦を引き起こした。

 その後FNによってさらにブローニング設計の、そして方向性を示すことになる一連のピストルが作られた。1905年にはある小型ピストルの製造が始められた。この銃は6.35mmブローニング弾薬用に作られ、そのマガジンは6発の弾薬を収容した(図1-66を見よ 頑住吉注:コルトポケットのFN版で、グリップのトレードマークと刻印のみ異なるものです)。その小さな寸法(全長114mm、全高76mm、重量350g)は快適な携帯を可能にする。そしてその必要があるときは、使用者はこの銃をベストのポケットの中に収めることもできる。すなわち、ベストポケットピストルが誕生したのである。このファイアリングピン点火機構を装備した銃はヒット商品となった。1932年におけるベビーモデルによる交代までに、FNは100万挺以上生産した。そしてコルトによってライセンスの下に同じ銃が1908年からその生産が中止された1946年までに50万挺以上作られた(頑住吉注:恥ずかしながら私はこの銃はM1910の後にいわば小型バージョンとして作られたのかと思ってました。また、FN製の方が約倍も多く作られたというのも知りませんでした)。モデル1905の成功は他メーカー(アルファベット順にアストラ、ベレッタ、モーゼル、ザウエル、ステアー、Tula O.Z.、ユニーク、ワルサー、ウェブリー)の関心を呼び起こしもした。こうした銃器タイプを作っておらず、作ったこともない有名銃器メーカーはほとんど見られない。

 ブローニングモデル1900および1905の大成功は弾薬の急速な標準化を導いた。多くのメーカーはそれまで彼らの銃用に独自の弾薬を設計していたが、この時以後彼らはその銃を口径7.65mmまたは6.35mmのブローニング弾薬用に作った。ブローニングピストルの広い普及ゆえに事実上至るところで入手できたからである。これに似た状況は抜きん出た重要性を手にした9mmパラベラム弾薬でも見られる。

 ポケットピストル(頑住吉注:日本ではポケットピストルと言うとベストポケットサイズを思い浮かべる人が多いと思いますが、ここでは中型を指しています。アメリカではラージサイズポケットピストルとも言うようです)のための市場は同様に他の銃器メーカーの興味を高まらせた。そしてM1900の導入から何年もたたないうちに、購入者はいろいろな製品の中から選択することができた。Sommerda(頑住吉注:「o」はウムラウト)に所在する「ライン川金属製品および機械工業」によって製造されたドライゼ モデル1907(頑住吉注: http://www.littlegun.be/arme%20allemande/a%20dreyse%20gb.htm 
)は、外観上ブローニングピストル(頑住吉注:M1900)にまだ非常に似ていたが、例えばワルサーによって1910年にマーケットに持ち込まれたポケットピストルであるモデル5および6はいろいろなブローニング設計の構造上の特徴を示してはいたが、より小さい寸法でより大きいマガジンキャパシティ(モデル6の場合8発)、そして改良された(ハンマー式)発火機構を持っていた。

 1912年、FNは口径7.65mmの新しいブローニングピストルであるモデル1910(この数字はベルギーにおけるパテント取得年による)をマーケットに持ち込んだ。図1-67はこの銃を示している(頑住吉注: http://world.guns.ru/handguns/hg95-e.htm ここにはこの銃の画像の他、後で登場するM1922の画像や断面図もあります)。この銃はファイアリングピン発火機構を備え、そのマガジンは6発の弾薬(9mmクルツ)、もしくは7発の弾薬(7.65mm)を収容する。このピストルの構造は図1-67で表現された断面図でも分かるように非常に開口部が少なく、しかもコンパクトだった。銃身長87mmで銃の全長は152mm、全高は99mm、重量は570gだった。セルフローディングピストルの場合しばしば安全設備に大きな要求がなされる。そういうわけでブローニングはこのモデル1910に3つのセーフティを備えた。すなわちトリガーメカニズムをブロックし、スライドを固定する(親指)回転セーフティ、グリップセーフティ、マガジンを抜き取った際グリップセーフティ同様トリガーメカニズムをブロックするマガジンセーフティである。

 このモデル1910は警察の実用目的には小さすぎた。このマーケットにも役立て得るようにするため、ブローニングはあるピストルを設計した。これは大幅にモデル1910に依拠しているが、より長いバレル(113mm)とより長いグリップフレームを持ち、この結果マガジンキャパシティが9mmクルツ口径の場合8発、7.65mm口径の場合9発となるものだった。約680gの重量を持つこの銃(図1-69を見よ)も商業的に成功した。口径9mmクルツ仕様はベルギー、フランス、オランダ、スウェーデン、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、ポーランドの警察および軍で使用された。口径7.65mm仕様はベルギー、デンマーク、フランス、オランダで将校用ピストルとして使われた。

 ヨーロッパにおけるブローニングのセルフローディングピストル普及における役割も大きかったが、彼の祖国では決定的な重要性を持った。すでに見たように、ブローニングはコルト社に彼の最初のロック機構付きセルフローディングピストルをすでに1895年に見せていた。だがこのピストルは生産に移行しなかった。ブローニングがわずか後により良い構造を提供することができたからである。この1897年にパテント取得されたピストルは同様にロック機構付きだったが、ロック解除は後座によって機械的になされた。この方法は後の方向性を示すことになる。1900年、口径.38コルトオートマチック仕様のこの銃の生産が始められた(等しい寸法だがより多いロードがなされた.38コルトスーパーオートマチックが1929年にブローニング由来の.38コルトオートマチックと交代した。これは本当は単なる名称変更だった。というのは.38コルトオートマチックにはすでに早くから後のスーパーオートマチックに似た強いロードがなされていたからである)。

 銃身長15cmでこの銃は全長ぎりぎり23cmであり、重量は約1030gだった。マガジンは8発の弾薬を収容し、ハンマーは外装式だった。閉鎖の原理は図1-70で表現されている。a)ではバレル(1)はスライド(2)とロックされている。スライドとバレルの結合は閉鎖突起によってなされている。この閉鎖突起はバレル上面、チャンバーよりやや前方に存在し、スライドの対応するノッチ内に適合する。バレルは2つの「スイングするもの」(Ketten 頑住吉注:鎖、戦車のキャタピラなども指す単語の複数形で、ここではリンクのことです)(3および4)によって回転軸上で可動式にフレームと結合されている。反動が生じた際、まずバレルとスライドは一緒に後方に動く。その際バレルが下方にも動くので、閉鎖突起はノッチから引き抜かれ、ロックは解除され、スライドは単独で動きを続行する。



   

図1-70 コルトピストル モデル1900の閉鎖システム。a)は閉鎖状態。b)は閉鎖解除状態。

 6年にわたる研究と多くの形状変更(コルトはほとんど200ものさまざまなテスト型を作ることになる)の後、1911年にアメリカ陸軍によって公用銃として採用された彼の次のロック機構付きピストルにおいて、閉鎖システムは些細な変更しか経験しなかった(頑住吉注:要するにM1900とガバメントは閉鎖システムの基本においてさしたる差がないということです。なお、ご存知のようにM1900とガバメントの間にはM1902、M1905等のバリエーションが存在し、「次の」という表現はちょっと乱暴すぎます)。そのバレルは前部がもはやパイプ内に導入されているだけであり、前のリンクはなくなっていた。こうした努力の結果、口径.45ACP仕様のコルトガバメントピストル(本来のバージョンの正式名称:「U.S.Pistol, Caliber 45, Model of 1911」。わずかな変更の後この銃は1921年にModel 1911-A1と改名された)はその優れた信頼性と抵抗力によって傑出し、そして疑いなく中断せずに最も長く製造されたピストルである。この銃はいまだに(1982年)アメリカ軍によって運用されている。しかし9mmパラベラム弾薬仕様のピストルによる交代は決定事項である(頑住吉注:M9採用は1985年初頭のことですが、1982年にはすでに前哨戦ともいえるトライアルが行われていました)。

 ここでもう一度ブローニングとFNの結びつきに話が戻ることになる。彼の生涯最後の年、彼はブリュッセルで過ごしたが、ロックされたスライドを持つさらなるミリタリーピストルを設計した。この銃は9mmパラベラム弾薬用に作られている。この弾薬はマガジン内で2列に重なり合っており、これがハンディなピストルとしては驚くほどの13発というマガジンキャパシティを可能にした。この銃はその後「Hochleistungs-Pistole」(頑住吉注:「高成績ピストル」。頭文字のHPが同じですし、ドイツではいわゆるハイパワーピストルがこう呼ばれているんでしょう)として1935年以後FNで製造され、第二次大戦中はカナダのInglisでも製造された。今日例えばイギリスなどいくつかのNATO加盟国陸軍がこの銃で装備されている。

 話はハートフォードのコルトに戻る。1915年、初の.22lfB(頑住吉注:LRのドイツ式表記)弾薬用セルフローディングピストルの生産が始まった。すなわち伝説的なウッズマンである(図1-71を見よ 頑住吉注: http://www.colt22.com/ ウッズマン専門のサイトで、ここにはモデル化されていないこのオールドモデルの他モデルガンで見慣れたマッチターゲット等の画像もあります)。この銃もブローニングの設計に由来していた。本来のウッズマンはまだ単純なサイトとスリムなバレルを持っていた。だがターゲットシューターの希望に応じ、コルトはすぐにシンプルなモデルとならんでアジャスタブルサイト、より太いバレル、大型化されたグリップを持つモデルも提供した。例えば図1-72に示されているモデル マッチターゲットのようにである。

 ウッズマンモデルの製造は1977年になって初めて中止された。今日まだ「鉛弾またはセミジャケット弾を持つ弾薬が装填されたセルフローディングピストルは完璧に作動しない。この場合問題のある作動は弾丸の方式に帰せられる」としばしば主張される。当時、.22lfB弾薬をセルフローディングピストルに使いたいというのは非常に馬鹿げたことに思えた。今日では弾薬供給部が正しく形成されている場合、弾丸のマテリアルと関係なく信頼性の高い作動が達成されると知られている。我々はこの証明に関しブローニングと彼の信頼できるウッズマンのおかげをこうむっている。

 ブローニングは批判的理解力を持った発明者および設計者だった。彼はその設計において最も多用な要素をいかなる装飾もなく用い、パーフェクトな銃にまとめあげた。彼のポケットピストルおよびミリタリーピストル、彼のベストポケットピストル、そして彼のスポーツピストルはその発生当時においてその方向性を示すものであったし、ある意味において今日においてもなおモダンである。彼の銃は最も重要なハンドガンメーカー群のうちの2つであるコルト社とFNにおいて製造され、大量に売りさばかれた。彼の創作物が良いものだったために、その製品は彼の死から長い年月が経つまで実際上変更なく生産続行されることができたのである。


 ブローニングが最初に作ったとされるオートピストルは、バレルに穴を開けてガスを他に導く点はP7等で使われるガスロックに近いですが、ガスロックの場合ガス圧をスライド後退に抵抗させるよう利用するものであるのに対し、この銃は機械的にスライドをロックしておき、これをガス圧で解除するというものでした。ガス圧で機関部を動かすわけではないのでガスオペレーションとは言えず、もちろんショートリコイルでもロングリコイルでもありません。遅延されてブローバックするわけですから分類的にはこれもディレードブローバックということになるんでしょうか。こういうシステムを使った銃は量産されていないはずですが、どこがダメなんでしょう。ピストンやシリンダーが不要ですからショートリコイルよりむしろシンプルな構造にできそうな気もしますし、ピストンやシリンダーを使う場合より工作精度上のハードルも低く、汚れによる問題も起きにくいはずです。バレルの穴を前方に移動していけばかなり強力な弾薬も使えそうな気がしますし。ちなみに、これが最初の構造とされることが多いですが、この構造とコルト、FNのM1900のベースとなった構造のパテントは同時に取得されています。

 第一次大戦の引き金となったセルビア事件(サラエボ事件)で使われた銃はM1900であるという説とM1910であるという説の両方があります。年代的にはどちらでも不自然ではありません。たぶん両者の名前が非常に誤植や書き間違いを起こしやすい紛らわしいものであるのが理由でしょう。間違っているのを良く見かけるAK74とAK47みたいなもんです。

 私は「ジョン ブローニングとその銃」の項目で、M1922の細部の処理がやっつけ仕事的で天才のセンスを感じないことからブローニングの設計ではないだろうと書きましたが、ここではブローニングの設計とされています。また、ブローニングM1910はモーゼルなど他メーカーのM1910と名のつく、あるいは1910年発売とされる銃と同年発売と思い込んできましたが、実は1912年発売でした。まあ他メーカーのM〜ピストルも本当に〜年発売かは確かめてみないと分かりませんね。












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