ギュンター バーンスタインの「エンジン火砲」

 戦車には興味ないという方ごめんなさい。もう1回このネタで行かせていただきます。

http://www.doppeladler.com/kuk/burstyn.htm

 おそらくオーストリア人によるものでしょうが、前回も紹介したこのページの内容を紹介します。


1911年由来のBurstynによるエンジン火砲

 ひょっとするとあなたはウィーンの陸軍史博物館においてすでにショーケースの中のこの戦車の模型に目を引かれたかもしれない。これは全世界で最初の近代的戦車設計である。すなわち1911年由来のGunter Burstynによるエンジン火砲。

 エンジン火砲は近代的な戦車の特徴をすでに全て先取りしていた。すなわち装甲された構造、キャタピラ駆動、旋回可能な砲塔に取り付けられたカノンである。Burstynの静的、動的に完全に計算された設計は第一次大戦の全ての装甲車両をしのいだはずであり、戦争に参加した両陣営の力のバランスを大きく変えたはずである。……もしそれが実現していたら。

あるアイデアの発展

 1903年、オーストリア・ハンガリー帝国陸軍工兵部隊に所属するBurstynは魚雷艇に乗っての走行を行った。その際彼は「陸上魚雷艇」のアイデアを思いついた。すなわち高速で、装甲によって守られ、自分のカノンを携えることができる車両である。試験の準備に気をそらされ、彼はこの考えを忘れた。

 1905年春、ウィ−ンにおける最初の自動車展示会においてBurstynはダイムラーの装甲された自動車の前に立った。この車両は彼に「陸上魚雷艇」を再び思い出させた。だが彼は車輪は不整地における走行のためには適していないと考えた。

(頑住吉注:原ページにはダイムラー製装甲車の画像があり、話の流れ的にはここに入るのでそのキャプションの内容を挿入します)オーストリア・ハンガリー帝国初の路上用装甲車はダイムラーによって1905年Wr.Neustadtで披露された。この車両は当時最も進歩的な設計に該当した。この車両が演習において真価を発揮したにもかかわらず、この計画は中断された。……何頭かの馬はこの車両を恐れた。皇帝は個人的に、「こんなものは軍による使用のためには必要ないだろう」と判定した。

 Burstynはホルト・トラクターを見た時、車輪の位置にキャタピラ駆動装置(あるいは彼自身の表現によれば「スライドバンド」)を使うことを思いついた。

 1904年11月24日にはすでに最初のトラクターがその「軌道状配置チェーン」によってカリフォルニアの野原を走っていた。これはベンジャミン・ホルトの開発品であり、彼によって「キャタピラ」と命名されていた。

 ハンガリーのいくつかの大規模な農業会社がすでに早くからそのようなトラクターを導入していた。1912年頃以後はオーストリア・ハンガリー帝国陸軍もホルト・トラクターを使ったテストを行っていた。それらは第1には要塞砲の牽引マシンとして使用される意図だった。

(頑住吉注:原ページにはここにホルト・トラクターの画像があり、次のようなキャプションがつけられています オーストリア・ハンガリー帝国初の装軌車輌。30.5cm臼砲用牽引マシーンとしてのホルト・トラクター)

 1911年になって初めてBurstynは彼の考えを紙に書き出すことを始めた。

 彼はこの年の末には早くも工兵部隊の中尉としてオーストリア・ハンガリー帝国国防省に彼の「エンジン火砲」の設計を提出した。提案から3カ月後、Burstynは却下の決定書を手にした。国防省はまず自動車部門の長にこの件を渡したが、彼にとって陸軍行政の予算を使ってのテストは思いもよらなかった。予算上の理由から、そして無関心から1台のプロトタイプを作ることすら望まれなかったのである。

 このためBurstynは彼の設計をドイツの国防省にも提出した。だがここでもプロトタイプのための財政援助は却下された。

詳細に見るエンジン火砲

 パテント書類252815より

 エンジンの自己動力により路上だけでなく通行困難な不整地を前進することにも適した装甲車両であり、スプリングのテンションがかけられた(頑住吉注:サスペンションがある)前進用無限軌道、路上走行用の上下可能な車輪、車両を幅広い壕も越えられるようにするアームによって特徴付けられる。

ドイツパテントのための図

 3人の搭乗員は次のように構成されている。

 前部右に車長兼装填手、前部左に砲手。興味深いことに操縦手は進行方向に背を向けて坐り、せいぜい砲塔後方の固定構造部に取り付けるはずだったのかもしれない潜望鏡を使うくらいだったらしい。……あるいは車長の指示のみによって操縦するはずだったのか?

テクニカルデータ

設計 Gunter Burstyn 1911年
全長 3.5m(アーム除く)
全幅 1.9m
全高 1.9m
戦闘重量 約7トン
動力 45馬力のLKWガソリンエンジン
速度 路上28.8km/s、不整地8km/s
装甲 前面8mm、後部および側面4mm、戦闘室には追加的に3mm。
武装 37mm速射砲1門、7mmマシンガン2挺(?)
搭乗員 3名(車長兼装填手、砲手、操縦手)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプション内容です エンジン火砲が塹壕を渡っている(模型))

●スライドバンド:後のフランス人とは異なり、Burstynはホルト・トラクターのシャーシを単純に引き継ぐことを望まなかった(頑住吉注:フランスが第一次大戦に投入したシュナイダー、サン・シャモン両戦車はホルト・トラクターのシャーシを流用し、箱型の戦闘室を載せたものでした)。彼は彼自身の無限軌道走行装置を設計した。ちなみにより遅い時期のドイツパテント用スケッチは最初の設計に比べて明らかなシャーシの改良を示している。

●上下可能な車輪:エンジン火砲は高速な路上走行のため上下可能な車輪ペア2組を持つはずだった。後輪は駆動用らしく、前輪は操縦可能とする意図だった。この車輪がシャーシの内部に取り付けられる意図だったのか、それとも外部に取り付けられる意図だったのかは不明である。これらがどの図にも描かれていないことは内蔵車輪を暗示している。そのような構造(Austro-Daimler、Saurer)の後の移設は外装車輪を暗示している(頑住吉注:これらのメーカーの装甲車の中に不整地で接地圧を下げるため通常持ち上げている車輪を下ろすことができるタイプがあり、当初内蔵だったものが外装に変更された、ということではないかと思うんですが知識不足で断言できません)。

(頑住吉注:原ページにはここにアニメーションがありますが、そのキャプション内容です。 「障害物を越えるための原動機付き車両用装置」を使って塹壕だけではない障害を克服することができる。このアニメーションはパテント内図面にならったものである)

●「障害物を越えるための原動機付き車両用装置」はオーストリア・ハンガリー帝国およびドイツにおいてパテントが取得された(オーストリア・ハンガリー帝国パテント53248、1912年4月25日)。ローラーを持つ4本のアームはエンジンの力で上下に動かすことができた。それぞれのためには戦闘室内に機械的連結装置があった。この装置の助けを得て幅広い塹壕、有刺鉄線、あるいは他の障害物を克服できるはずだった。このために各エンジン火砲は「組み込みジャッキ」も持つはずだった。これはぬかるみでスタックしたときやフィールドでの修理を行わねばならないときに有用なはずだった。似た設備は後に再三にわたって他の車両で実現された。1929年、イギリスの会社ビッカース・アームストロング社によってほとんど同じコンセプトが提出され、パテントが認められた。

●武装:Burstynのエンジン火砲は37mm速射砲を回転可能な砲塔に装備している。イギリスおよびフランスの戦車は軍艦用砲架内のより大口径の砲を使用した(ルノーFTを除く 頑住吉注:ドイツのA7V戦車も同様です)。

 ほとんど全ての情報源の中で2挺の7mmマシンガンが副武装として挙げられている。しかしこれに対応する図は見られない。砲塔内の砲手および車長兼装填手用に各1挺のマシンガンが想像できる。

評価

 Burstynのエンジン火砲は極度の開発上のリードを意味したはずであるだけでなく、根本から、極度に成功した設計でもあった。このことはエンジン火砲に似た戦車、すなわちルノーFT17が当時ベストの戦車設計に該当し、第二次大戦に入るまで実戦使用されたという事実によってすでに証明されている。

 エンジン火砲は小型で運動性が良かった。これにより限定的にカルスト地形(頑住吉注:石灰岩が水に侵食されてできた地形)の地域や山地でも実戦使用できた。だが森林ではアームが行動を制約しただろう。この車両は路上でも、不整地でも他全てのタイプよりも高速だった。
 
 回転砲塔内の37mm速射砲によりBurstynは高い連射性を持つ非常に運動性の良い砲を使用したことになる。これを使って砲兵陣地や装甲車両とも戦闘できた。より大口径の砲よりも弾薬のためのスペースの必要が少ないことは過小評価すべきでない(頑住吉注:ただし当然榴弾の爆発力、破片効果はイギリス戦車等が使った57mm砲よりずっと小さくなります)。ドイツ製対戦車防御砲の戦果は37mmカノンがイギリスおよびフランスの戦車に対しても使用可能だったことを示している。

 エンジン火砲は比較的弱く装甲されていたが、その代わり(頑住吉注:ターゲットとして小さく、運動性が良好なため)命中弾を与えることが難しかった。

 追加的車輪ペアも可動式アームも当時としては複雑な構造であり、その技術的現実性はプロトタイプなしには残念ながら証明され得ない。エンジン火砲はこうした設備なしでも卓越した設計だったことを確認するに留まる。

(頑住吉注:原ページにはここにオーストリアパテント用の図面があります。アーム基部のヒンジが後のドイツパテントのものより低い位置にあり、明らかに後の方が都合がよさそうです。キャプションは次の通りです。オーストリアパテント書類ナンバー53248 「障害を越えるための原動機付き車両用装置」 )

Gunter Burstyn

(頑住吉注:原ページにはここにバーンスタインの中尉時代の写真があります)

 Gunter Burstynは1879年7月6日にBad Aussee(Steiermark)で生まれた(頑住吉注:同じ年には大正天皇、スターリン、アインシュタインらが誕生しています)。彼は国営鉄道の官吏だった父から技術的理解力と興味を受け継いだ。彼は兵士の道を選び、工兵士官候補生学校(Hainburg)卒業後、士官候補生として鉄道および電信機連隊に配属された。
 短い開発時間の後に彼は工兵部隊の中尉として1911年末にオーストリア・ハンガリー帝国国防省に、そして後にはドイツ国防省に「エンジン火砲」の設計を提出した。オーストリア・ハンガリーおよびドイツにおいて彼は「障害を越えるための原動機付き車両用装置」、つまりエンジン火砲のアームのみパテント取得することができた。
 Burstynは大尉として第一次大戦に入り、終戦時は少佐だった。
 一次的に年金付きで退職した後、彼は1920年にドイツ・オーストリア連邦陸軍に加わった。
 1年後、彼は中佐となり、ウィーンの陸軍博物館の技術史的収集を指導し、その後国防省に移動した。
 1934年、彼は悪化する弱視を理由に建設局上級公務員として退職の身分に移された。目の手術後、彼は再び装甲兵器に取り組み、「戦車用罠」(後に広く普及する対戦車障害物の先駆)を開発し、彼の発明をパテント取得できた。その上彼は装甲兵器に関する多くの著作を執筆し、1940年、これに対し彼はグデーリアンから功績を認めた文書を与えられた。1944年、彼はウィーンの技術大学から名誉博士号を与えられた。

(頑住吉注:原ページのこの部分にある画像のキャプションです。 Gunter Burstyn(左)。1941年に勲章を授与された際)

 1945年、赤軍がウィーンに進駐した際、ほとんど完全に失明していたBurstynは強制連行されることを恐れ、4月15日にKorneuburg(ニーダーエーストライヒ州)に徒歩で行き、66歳で自殺した。

 オーストリア連邦陸軍はこの戦車のパイオニアの業績を彼らの方法で認めた。すなわち、Zwolfaximg(ニーダーエーストライヒ州 頑住吉注:「o」はウムラウト)にあるBurstyn兵舎内には第33戦車大隊(第3装甲歩兵旅団)とならんで戦車部隊学校も存在する(頑住吉注:以下略)。


(頑住吉注:原ページ右上にオーストリアの紋章である双頭の鷲がありますが、その下に3つメニューがあります。一番上は現在開かれているページですが、2番目をクリックすると開くページにも関連した内容があるので、そちらの内容もお知らせします)


第一次大戦の戦車タイプ

 このページでは最重要の戦車タイプ群を紹介する。Burstynのエンジン火砲と比較したテクニカルデータは「Technische Daten」にある。

イギリスの戦車

(頑住吉注:一番上の画像は1917年に登場したマークI戦車です)

 イギリスでも人々は最初の戦車設計者たちに対して当初非常に懐疑的な立場を取っていた。しかし当時のイギリス海軍大臣、かのウィンストン チャーチルが陸上軍艦に向けた希望を表明し、「ランドシップ」委員会を設置したとき、この状況は急速に変わった。彼自身は当初連結された蒸気機関車をイメージしていた。

 Swinton大佐とFuller少佐は当時のホルト・トラクターを基本にして彼らの戦車を開発した。当然この開発チームにとって、イギリスの通信員W. John Clarkがすでに前年、Burstynのパテント書類をいくつかの専門誌の記事と共に収集してイギリス政府に送っていたという事情も好都合だった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。 1915年、リトル ウィリーによって戦車を使った最初のテストが行われた。)

 1915年12月、「リトル ウィリー」が厳しい秘密保持の下にテストされた。その直後、後にマークIの名称を得た「ビッグ ウィリー」が続き、75輌の生産が行われた。両車輌は水タンクに全く似ていなかったが、この戦車計画は「Tanks」の秘匿名称を得た。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。 初陣直前のマークIタンク。)

初の戦車実戦投入

 1916年9月15日、それまで秘密にされていたマークIタンクがSommeの戦いにおいて初めて戦火の洗礼を受けた。イギリス陸軍第4軍ヘビーセクションの49輌のタンクのうち、その突撃開始位置に到達したのは32輌だけだった。戦車群は通行困難な、砲弾の穴だらけの戦場、天候、そして多くの技術的欠陥と戦った。それでもこれら戦車はいくつかの部分的成果を挙げ、この新兵器の可能性をはっきり示した。心理的効果も過小評価すべきでない。
 
 この最初の試練の直後、イギリスで大量生産が開始された。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。 1916年9月15日におけるC-中隊のマークIタンク(C. 19 "Clan Leslie") 頑住吉注:所属部隊の略称でしょうがよく分かりません)

 しかし決定的に戦車がブレイクに成功したのは1917年、Cambraiにおいて初めてだった。完全に意表を突いて、先立っての砲兵射撃なしで、378輌の戦車がドイツの前線を突破し、幅13km、深さ9kmにわたって突き進んだ。これはこの時点までは、およそ3ヶ月の血まみれの戦闘でのみ達成可能なことだった。歩兵たちは初めて進撃の際に鋼鉄の巨人の庇護を利用した。つまり歩兵たちは戦車の背後で前進したのである。

 この戦い以後戦車部隊の攻撃はますます強大になっていった。戦車は砲兵隊、そして航空機からの支援も受けた。このコンビネーションされた前進方法に対し、ドイツ軍はわずかな対抗策しか持たなかった。陣地戦はますます機動戦に変わって行った。

(頑住吉注:この項目最後の画像のキャプションです。 イギリス製タンクは第一次大戦中にマークVまで発展開発された。)

フランスの戦車

 フランスは決してイギリスに遅れを取っていたわけではない。すでに1915年以来シュナイダー社がシュナイダー突撃砲CA1(15.2トン)を開発していた。基本的にシュナイダー戦車はホルト・トラクターに強く依拠したシャーシであり、これに箱状構造を持ったものだった。武装は特別に大口径の75mm砲と8mmマシンガンからなっていた。この車輌は1917年4月16日に前線に到達した。

(頑住吉注:原ページにはここにシュナイダー戦車の画像が2つあります。そのキャプション内容は次の通りです。 シュナイダーCA1。右:キャタピラ駆動装置が明瞭に見える。これは基本的にホルト・トラクターのキャタピラシステムだった。 下:75mm砲は車輌右サイドに取り付けられていた。)

1916年、Saint Chamond のF.A.M.H(Compagnie des Forges et Acieries de la Marine et d'Homecourt)社は突撃戦車サン・シャモン モデル16(23トン)を開発した。この戦車も75mm砲と8mmマシンガンを装備しており、1917年5月5日に初の戦火の洗礼を受けた。

 両設計とものろく、鈍重で、克服すべき多くの技術的問題を抱えていた。生産はすぐ、決定的により小さいルノーFT17に有利なように中止された。

ルノーFT17 第一次大戦におけるベストの戦車設計

(頑住吉注:最初の画像のキャプション内容です。 この画像でルノーFT17のコンパクトな寸法が明瞭に分かる。)

 最初の設計はフランスの将軍Jean-Baptiste Estienne由来である。1916年7月、工業家ルイ ルノー(頑住吉注: http://www.renault.jp/about_renault/history.cfm )に軽量で運動性の高い戦車という彼のコンセプトを納得させた。1916年10月にはすでにEstienne将軍に木製のプロトタイプが提示された。だがこの提示は必要な資金を工面できなかった。それでもルノーはFT17の開発を続行した(頑住吉注:木製の試作品を見せて軍の開発資金援助を要請したが却下され、独自開発を続けた、ということのようです)。

 他の設計と比べ、FT17は軽装甲でしかなかったが、その代わり小型で運動性が高く、そしてそのため命中弾を与えるのが難しかった。この車輌は高速ではなかったが、良好な不整地走行性を持っていた。武装は初めての360度回転可能な砲塔に収められ、また37mmPuteaux砲または8mmホチキスマシンガンが選択できた。この「Char Mitrailleur」が1917年1月に正式にプレゼンテーションされる前、すでに100輌が注文された。1917年4月に入るまでテスト局面が続いた。

 FT17が初めて戦火の洗礼を受けたのは1918年5月31日だった。第501戦車連隊は陸軍第10軍を、ドイツ軍のパリへの進撃を食い止める試みの際に支援した。この戦車はすでに最初から真価を示し、「Auseinandersetzungen」の83%において「durchsetzen」することができた(頑住吉注:前者の単語には「論争」、「対決」、後者の単語には「自己を押し通す」、「普及する」、「世間に認められる」などの意味があり、いわゆるキルレシオのようなことを言っているのか、あるいは兵の間での支持率のようなことを言っているんだと思うんですがよく分かりません)。小さな車輌サイズはそれまで戦車の攻撃から守られていた森林での実戦使用も可能にした。使用開始直後からすでにFT17はもはやなくてはならない存在になった。

 すでに1918年10月までにルノーとそのパートナーに7820輌のFT17が注文された。実際には3530輌のFT17が作られ、3177輌が配備された。

 戦後この小型戦車は輸出用の人気商品となった。ルノーFTは第一次大戦における突出して最も成功した戦車設計であったが、それでも多くの車輌が敵の攻撃によるよりも技術的欠陥の犠牲となった。敵の攻撃によって落伍した440輌のFT17のうち、356輌は砲兵の犠牲となった。

(頑住吉注:原ページのこの部分にある画像のキャプションの内容です。 軽量な装甲車輌の長所の1つ。ルノーFTはトラックに載せて移動することができた。撮影された車輌は8mmマシンガンを装備している。)

ロシアの戦車

 ロシア陸軍は第一次大戦において戦車を持たなかった。

(頑住吉注:原ページのこの部分にある画像のキャプションの内容です。 ロシアの最も重要な戦車プロジェクトは「ツァー」だった。全く使い物にならない、脆弱な、しかし同時に注目する価値もある設計でもあった。ともかく(Burstynのエンジン火砲とは違い)1輌の試作車が作られた! 頑住吉注:これは珍兵器として有名な戦車で、こんなページもあります http://ho-to-.hp.infoseek.co.jp/tsarli.html )

 第一次大戦ではロシアサイドによって約200輌の装甲車が実戦投入された。大部分はイギリス-ロシア製のAustin-Putilov系列で、そのうちの鹵獲車輌1輌はオーストリア・ハンガリー帝国陸軍に配備されていた。

 1915年、Putilov工場は、フランス人設計者Francis A. Kegresseが設計したキャタピラ駆動装置を持つ少数の半装軌車輌製造の注文を得た。1916年8月以後この装甲車輌は成功裏にテストされ、60輌のAustin-Putilov半装軌装甲車輌が注文された。この車輌は前線で戦車のように使われた。

 この半装軌装甲車輌のうち不明数の車輌には注目する価値のある改造が施された。すなわち、「障害物を越えるための原動機付き車両用装置」である! この車輌は例えば車輌フロント部にローラーが付いた2本の可動式アームを得た。これは本質的にはBurstynのエンジン火砲のそれと同じものだった。当然そのパテントによる保護は考慮されなかった。

(頑住吉注:原ページのこの部分にある画像のキャプションの内容です。壕を越えるための設備を持つAustin-Putilov半装軌装甲車輌)

イタリアの戦車

 第一次大戦開戦時、イタリアには戦車の計画はなかった。1915年頃からイタリア人も戦車に取り組んだ‥‥しかし成果はなかった。

 フランスがイタリアにシュナイダーおよびルノーFT17各1輌を譲った時になって初めてイタリアンデザインの開発が真に前進した。

 1918年、フィアット2000最初の2輌が完成し、さらに4輌が続いた。注目する価値があるのは360度旋回可能な砲塔に収納された比較的大口径の65mm砲だった。しかしフィアット2000ものろく鈍重だった。1918年、フィアットは成功したルノーFT設計のモデファイされたバージョン生産の注文を得た。しかしフィアット3000と名付けられたこの車輌は1930年になって初めて配備された。

ドイツの戦車


(頑住吉注:この項目最初の画像のキャプションです。 その陣地を去るA.7V)

 1916年11月13日になって初めて、ドイツ国防省は不整地用装甲車輌の開発命令を出した。6週間後にはすでに主任技師Josef VollmerはA.7V計画を完成させていた(Allgemeines Kriegsdepartment, 7. Abteilung, Verkehrswesenの略)。

 1918年3月、最初の5輌の戦車が前線に到達した。それらは3月21日にSt. Quentinで成功裏に初めて実戦投入された。他タイプの製造が検討され、またU-ボート兵器がさらなる資源を強く要求したため、全部で20輌のA.7Vが製造されただけだった。これら独自の生産物に25輌の鹵獲されたイギリス製タンクが加わった。

 A.7Vはエンジン設備がベターであり、そしてそのためいくらかイギリス設計より高速で強かった(頑住吉注:車体強度のことなのか戦闘での強さのことなのかよく分かりません)。しかしこの車輌はその背の高い構造のためより容易な標的だった。また不整地走行性はずっと低く、転覆の危険に苦しんだ。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。 進撃するA.7V) 

 ここでもう一度思い出そう。Burstynのエンジン火砲(頑住吉注:の設計および計画書)がドイツ国防省にも提供されていたことを。それでも決定的により劣った設計のA.7Vが採用決定されたのである。オーストリア・ハンガリーの使節団(この中はフェルディナンド ポルシェもいた)はA.7Vに劣ったしろものだと文句をつけた(頑住吉注:すごく悔しい気持ちが伝わってきますが、この各国戦車の項目はここで終わっており、ということはオーストリア自身は戦車を全く持たなかったようで、ドイツ人のことはとやかく言えないでしょう。またA.7Vは安易な構造だからこそ曲がりなりにも20輌実戦に間に合ったわけで、あの時点になって技術的にずっと高度な「エンジン火砲」の詳細設計から開始していたらまず戦争には間に合わなかったでしょう)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。 興味深いディテール:A.7Vの後部には伝書鳩のカゴがあった!)

第一次大戦における戦車の生産数

イギリス フランス ドイツ イタリア アメリカ
1916 150 - - - -
1917 1277 800 - - -
1918 1391 4000 20 6 84

 フランスとイギリスだけで第一次大戦中に合わせて7,618輌の戦車を作った!

左:イギリス製タンクのための組み立て作業場


(頑住吉注:続いてページ右上のメニューのうち一番下をクリックすると表示されるテクニカルデータの表です)

名称 エンジン火砲 マークI(雄) ホイペット マークA A.7V サン・シャモン シュナイダーCA1 FT17 フィアット2000
オーストリア イギリス イギリス ドイツ フランス フランス フランス イタリア
メーカー -
Foster & Metropolitan Carriage and Wagon Company
Foster & Metropolitan Carriage and Wagon Company
ダイムラー
F.A.M.H.
(St. Chamond)
シュナイダー ルノー フィアット
設計 1911年 1915、16年 1918年 1918年 1916年 1915年 1917年 1917、18年
初の実戦使用 - 1916年の遅い時期 1918年3月 1917年5月 1917年4月 1918年5月
全長 3.5m(アーム除く) 8.05m 6.08m 7.3m 8.83m 6.30m 5.00m 7.40m
全幅 1.9m 4.19m 2.61m 3.05m 2.67m 2.13m 1.74m 3.10m
全高 1.9m 2.49m 2.75m 3.4m 2.36m 2.27m 2.14m 3.80m
戦闘重量 約7トン 28トン 14トン 30トン 23トン 15.2トン 6.5トン 40トン
動力 45馬力のLKWエンジン 106馬力のダイムラー6気筒 Taylor4気筒2基 各100馬力のダイムラーエンジン2基 Panhard4気筒 シュナイダー4気筒 ルノー4気筒 フィアット6気筒
速度 路上28.8km/h
不整地8km/h
路上5km/h 路上13.5km 路上10km/h
不整地5km/h
路上8.5km/h 路上6.7km/h 路上7.6km/h 路上6km/h
航続距離 - 40km(路上) 100km 30〜35km 60km(路上) 70km(路上) 60km(路上) 75km(路上)
装甲 前面8mm、後部および側面4mm、戦闘室+3mm 10mmまで 14mmまで 前面30mm、側面20mm、上面15mm 17mmまで 24mmまで 16mmまで 20mmまで
武装 37mm砲×1、7mmMG×2 57mm砲×2、7.62mmMG×4 7.62mmMG×3〜4 57mm砲×1、7.92mmMG×6 75mm砲×1、8mmMG×4 75mm砲×1、8mmMG×2 37mm砲または8mmMG×1 65mm砲×1、6.6mmMG×7
搭乗員 3人 8人 3人 18人 9人 7人 2人 10人

 バーンスタインの「エンジン火砲」が非常に先進的で優れた構想であったことは疑いの余地がありません。ただし「エンジン火砲」はそもそも実物が作られなかったわけですから、もし作られた場合技術的な壁にぶつかって失敗作になったり、他国の戦車より早く登場できなかったりといった可能性も考えられます。また前面装甲8mmというのはちょっと薄すぎる気がします。まして側面の4mmは近距離から直角に近い角度で命中したら歩兵用の小銃、機関銃弾すら貫通する可能性が高いと思われます。ルノーFTが高く評価された理由の一つは小型軽量でありながら当時としては比較的重装甲だったからです。もちろん戦訓によってイギリス製戦車の装甲が厚くなっていってから登場したルノーFTと、そもそも戦車が存在しなかった、また近く予想される大規模な戦争が前例のない塹壕をめぐる膠着戦になるなどと誰も予測していなかった頃に構想された「エンジン火砲」を単純に比較するのはフェアではありませんが。そして確かに「エンジン火砲」はイギリスのマークIよりずっと先進的な設計でしたが、初登場時の敵に対する驚き、威圧感は単純に性能だけではなくその巨大さ、形状の異様さにもよったと考えられ、当時広く知られていた装輪装甲車にキャタピラをはかせたような形状で大きさもその程度といった「エンジン火砲」が同程度のインパクトを与え得たかにはやや疑問もあります。もちろんそれでも「エンジン火砲」の構想自体が素晴らしいものだったことに変わりはありませんが。

 今回読んだ内容から、兵器の世界において先を見通すことの困難さを改めて感じました。信じられないくらい先進的な「エンジン火砲」の提案が却下されたことだけではありません。オーストリア・ハンガリー帝国で初めて装甲車が公開されたときの記述に、「この車両が演習において真価を発揮したにもかかわらず、この計画は中断された。……何頭かの馬はこの車両を恐れた。」という内容がありました。これは直訳ですが、話の流れからすれば明らかに「馬が怖がるからそんなものいらない」という意見が強く出されたと読めます。またフィアットはフランスからルノーFTを貰い、充分参考にできたはずなのに作ったものはどちらかと言えばA7Vに似た鈍重で異様に背の高い珍奇な車輌でした。私は歴史的大傑作ルノーFTの存在からルノーの先見性を評価していましたが、実際にはルノー自身の構想ではなく、他の資料によればこの構想を納得させるのにはかなり苦労したようですし、軍も当初は理解を示さなかったわけです。これらは今日の目で見れば苦笑を誘うような判断ですが、例えばグロックが登場したときこの銃が短時間でこれほどの他の銃に影響を与えるものになると予測できた人は少数だったでしょうし、10年後のアサルトライフルの主流がどんなものになっているのかは現在ほとんどの人には全然予測できないわけです。

 なお、「Waffen Revue」の記述ではあたかもBurstynが独自にキャタピラと同じものを発想し、たまたまパテント申請がわずかに遅かったかのような記述になっていましたが、彼を賞賛している今回のサイトの記述でも彼がホルト・トラクターを見て「エンジン火砲」への応用を思いついたとする説明になっており、他の資料等を見ても明らかにこちらが正しいと思われます。もちろんホルト・トラクターというベースがあってもイギリスやフランスは当初はああしたものしか作れなかったわけで、やはりBurstynの先見性は高く評価されるべきです。また、それが実際の戦車開発のヒントになったかどうかはさておき、イギリス人通信員が「エンジン火砲」の資料を本国に送っていたことは事実のようです。

 第一次大戦というかつてない総力戦の中でダイムラー、ルノー、フィアットといった現存する大自動車メーカーがそれぞれの戦車を作っていたことも興味深いですが、唐突にフェルディナンド ポルシェが登場したのに驚きました。自動車に興味のない私は彼がドイツ人だと思い込んでいましたが(考えてみればドイツ人らしくない名前ですよね)、実はチェコ出身で当時はオーストリアを活動基盤にしていたようです。まあそれにしても後にエレファントだのマウスだのといったもっと変なものを作った彼がA7Vをけなすのもおかしな話ですが。







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