中越戦争の内幕

 「歴史秘話」ものの記事です。

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埃に埋もれた歴史:中越自衛反撃戦の残酷な内幕を明らかに

1978年12月13日、中央軍事委員会は集結命令を下達し、中国人民解放軍20万の軍人は命令を受けて雲南から広西までの772マイルの国境防衛戦線上に集結し、25日我が軍は中越国境全線を完全に封鎖した。1979年2月17日早朝、我が軍の砲兵部隊の数十万発の砲弾がベトナム軍の表面陣地の生体戦力を破壊し、我が歩兵部隊は、我が軍が諒山を攻略し、ベトナムに40km余り深く入り込むまで全面的に進攻した。2月17日から3月5日の軍撤退宣言まで、たった17日で、双方の死傷者は合計10万人以上となり、1日平均6,000人である。血流河を成すとの表現を用いてこの国境戦争を描写するのは絶対に誇張ではない。

当時埃に埋もれた中越自衛反撃戦の残酷な戦事の内幕

1、初戦2日で死傷者4,000人余り

2月17日6時25分、我が広西から雲南の772マイルの国境防衛部隊陣地は、猛烈にして密集した砲戦をもってベトナム軍陣地の攻撃を開始し、1時間近い砲撃が続き、基本的にベトナム軍の表面陣地の生体戦力を破壊した。我が軍の戦車部隊は歩兵と共にベトナム軍陣地に向けた縦深推進を開始した。しかし、我が軍の猛烈な砲戦は決して戦火に久しく慣れたベトナム軍の主力に致命的打撃を与え殲滅してはいなかった。我が軍歩兵はベトナム軍の頑強な抵抗に遭遇した。我が軍は文化大革命で軍が混乱した影響を強く受けていたため、兵個人の素質はベトナム軍に遠く及ばなかった。加えて我が軍の大部隊のまずい作戦があり、死傷者数は膨大になった。17日、東前線の部隊は我が軍砲兵の猛烈な砲撃の後、友誼関(頑住吉注:地名)の突破を開始した。しかし、下層の指揮員も兵士も実戦経験が欠乏しており、兵士の突撃時の隊形は密集し過ぎ、ベトナム軍の砲火は当然のように我が軍兵士の体を貫き、死傷は悲惨、重大だった。17、18日、我が人民解放軍部隊の広西と雲南の戦場からは、2日で4,000人余り死傷という情報が伝えられ、しかも戦場の多数の死傷者の出現は、さらに我が軍の後方勤務部門に手をつけるのを間に合わなくさせ、全てを応急手当する力が無く、負傷者の死亡が非常に多く、教訓は深刻だった。我が軍の前線指揮機関と中央軍事委員会は驚愕し、中央軍事委員会と東前線指揮官許世友、西前線指揮官楊得志は、我が軍後方勤務部門に部隊を増加し負傷人員の急送という戦闘を強化し、戦場の負傷者を後方に運び戻して治療するよう命令した。我が軍の実戦突入初期、死亡率は間違いなく相当に高く、個別の中隊の死傷者は甚だしきに至っては90%に達し、一般に先頭となった中隊が最終的に帰国した時には十何人かしかおらず、1個分隊は1、2人にも足りなかった。我が軍の前線指揮機関は戦場の現実に直面し、ゲリラ戦を得意とする許世友(頑住吉注:抗日戦時代に手柄を立てて出世した人なので)は直ちに作戦配備を変え、2月末以後になってやっと我が軍の死傷者は徐々に減少したのである。

1983年のベトナム自衛反撃戦に関する保存書類を調べると、1979年2月17日から3月16日、我が軍はベトナム正規軍6万人近くを殲滅し、このうち殺した敵は42,000人余り、負傷させたのは10,000人余り、捕虜にしたのは2,000人余りである。我が軍の死傷は2.7万人で、このうち戦死した将兵は6,000人余り、負傷したのは2.1万人余りである。だがその他の資料は、中国とベトナムの死傷者総数は大体同じで、中国サイドは6万人余り、ベトナムサイドは8万人未満だと明示している。だが中国サイドの死傷者の中では負傷者が大多数を占め、死亡は6,000人余りしかいない。ベトナムサイドは死亡率が非常に高く、死亡者は5万人近い。

(頑住吉注:これより2ページ目)

2、500名余りの烈士は敵の銃口の下に死亡したのではなかった

1979年の対ベトナム自衛反撃戦での解放軍の戦死した将兵6,000人余りのうち、500名余りは敵の砲火の下で死んだのでは決してなく、当時の解放軍自身の質の劣った武器によって死んだ。文化大革命の時期、部隊は衝撃を受け、兵器工場の生産の品質が低下し、武器が低劣となった。そして戦場において深刻な最終的結果がもたらされた。対ベトナム自衛反撃戦時の先頭となった中隊では、我が軍兵士の手榴弾は投げても爆発せず、サブマシンガンは発砲して2発でもうジャムし、甚だしきに至っては砲弾が砲身内でもう爆発するという事情が非常に多く、多くの兵士がこれにより犠牲となった。負傷した兵士の中で、自身の武器の品質問題によって負傷した兵士も相当な率を占めた。

3、中越自衛反撃戦では何故ハノイに進攻しなかったのか

1979年2月17日、中国人民解放軍は20万人の兵力を動員し、772マイルの長い戦線上でベトナムに対する進攻を発動した。2週間の戦闘の中で、悲惨、重大な死傷者を出すことによってベトナムに向け約40km一方的に推進した。2月20日、西前線で大軍が老街、経朗多、封上を攻略し、3月4日には沙巴を攻略した。東前線の大軍は同日諒山を攻略し、ベトナム北部の各重要都市は解放軍に支配された。諒山以南は全て平原地帯で、中国装甲部隊の作戦に適しており、ベトナム軍はもう防御できない状況だった。だが、我が軍は文化大革命の破壊の中から走り出したばかりであり、兵個人の素質は劣り、指揮員の合成指揮能力は低下し、武器装備は立ち後れ、総合作戦能力は強くなかった。我が軍の戦車の質は非常に劣り、ごく容易にベトナム軍によって破壊され、発射される砲弾は爆発しなかった。ある砲兵部隊が戦闘初日に発射した砲弾の数は過去20年で発射した全てよりも多かった。一方ベトナムはアメリカとの戦争が終わったばかりで、作戦経験が豊富で、彼らが使用したのは鹵獲した米軍の装備、ソ連が援助した大量の兵器、そして中国が過去に支援した兵器だった。ベトナム軍兵士は普遍的にAKサブマシンガンを装備し、一方中国の兵士はまだ56式半自動小銃を使用していた。兵士はスチールヘルメットすら装備しておらず、我が軍の40mmロケット砲陣地がベトナム軍の砲撃に遭った時、砲弾の破片が班長李建国の右耳上縁から頭頂半分を削り去り、脳漿が流れ落ち、その場で犠牲となった(頑住吉注:いやそこまでリアルな描写いらんでしょう。それに話の流れからすればヘルメットがあったら助かった例を挙げるべきであって、これはヘルメットしてても助からなかったと思いますよ)。ベトナム軍砲兵は特に凄く、照準が非常に正確だったことは置いておいても、砲の口径が中国軍の使用したものより大きく、かつ射程が長く、威力が大だった。

1979年、我が軍はベトナム軍の遠距離火砲に大いにしてやられた。我が軍の通信指揮システムは極めて立ち後れ、依然1950〜60年代のレベルに留まっていた。東前線の軍区の前線指揮官許世友司令は命令を下した。だが「これを殲滅せよ!」の命令は下まで伝わると「元の場所を組織的に防御せよ」に変わり、殲滅の目標であるベトナム852連隊が釦屯以南の道路を経て厳重な包囲からこっそり逃げ出し、高平の敵の西側後方に迂回して深く入り込むという戦術的企図が失敗に帰す結果がもたらされ、これは1つの大きな笑い話である。空軍方面では、ソ連が援助したミグー21とミグー23戦闘機はすでにベトナム軍の制式装備であり、一方同時期に中国はまだ殲ー6、すなわちミグー19を使用していた。このため、諒山、老街その他辺境の都市の攻撃の時に支払った代価が非常に大きかった。このため、諒山攻略の後のさらなる一歩の行動は解放軍にとって非常に不利だった。中国軍が暴露した問題から見て、1979年当時の中国軍の作戦の方法は、まだ1950年代と大差がなかった。中国サイドは空軍を出動させず、何故なら当時の実戦機、特に戦闘機には全天候作戦能力がなく、日中は作戦行動できたが、その他の時間の作戦能力は強くなかった。近代化された戦争はこのようなものでは有り得ず、このため空軍がベトナムで何らかの貢献をすることは不可能だったのである。

(頑住吉注:3ページ目)

1979年の中越戦争の惨烈さの程度は朝鮮戦争に肉薄した。昆明軍区が対ベトナム自衛反撃戦を総括した時、次のように書いた。「1979年2月17日から3月16日、我が軍の犠牲者は6,900人余り、負傷者は14,800人余りであった。2月17、18日の2日、死傷者は4,000人余りに達し、後方勤務部門は処置が間に合わず、全員を応急手当して救うことはできず、負傷者が死亡することが非常に多かった。」 中国は今でもまだ、映画「高山下の花輪」の中で描写された血みどろの場面と革命の英雄主義精神を覚えているかもしれないが、その背後にあったのは無数の兵士の生命の代償だったのである。1984年の老山戦役(頑住吉注:これも中国とベトナムの戦争)の中で、中国軍では939人、前線を支援する軍属64人が犠牲となり、山頂は砲火で何kmかにわたって平らに削られ、地表の陣地は一面焦土となった。

西側メディアは中越戦争の報道の中で、中国解放軍は依然密集隊形の歩兵に頼り、「人海戦術」を用いてベトナムの敵陣に突撃して非常に大きな代価を支払った、と指摘した。我が軍の高級参謀人員は、個人は勇猛に善戦したが、年齢の老化により伝統的な防御戦を放棄したがらず、現代の戦争を行うことに対し全く準備がなく、大型武器装備と用兵理論方面においてベトナム人に比べ大いに遜色があった。我が軍の兵士は戦場において自分の指揮官しか知らず、作戦中ひとたび指揮官が戦死した後は、軍服にも階級の識別符号がなく、兵士は新たにやって来たよく知らない人が自分たちのの上官だと認めず、作戦単位もこれにつれ解体および混乱状態になり、我が軍に死傷者を出すことにつながった。

1979年の中越自衛反撃戦では、我が軍の装備は間違いなくベトナムに及ばなかった。さらに言えば我が軍は敵国に深く入り込み、補給が不便で、ベトナム軍は獲物を待っていればよく、後顧の憂は全くなかった。加えてソ連空軍偵察機がベトナムの我が軍陣地上空で頻繁に偵察を行い、北方の中ソ国境の事態が緊張し、国際社会の世論は中国がベトナムを侵略している、というものだった。このため、中国軍が諒山攻略の後、もはやハノイに進攻せず、直ちにベトナムから撤退したのは賢い行動だった。

1986年の年末、私は四川政府の新兵輸送団体と共に雲南の前線に到着した。主旨は老山、八裏河東山、者陰山の戦闘から戻ったばかりの部隊の将兵の慰問と新兵を部隊に送り届けることだった。私は開遠、建水、蒙自、屏辺、金平、文山、馬関、麻栗坡など国境防衛の第一線に来たことがあり、1つまた1つと作られている烈士の墓を見て、依然として立ちこめている戦火の硝煙を感じ、将兵たちの悲壮な英雄的事跡を拝聴し、我が軍将兵の多くのあまり知られていない英雄的壮挙を記録したが、文化大革命で混乱した軍の前線の将兵たちが鮮血と生命と引き替えに手にした悲痛な教訓も記録に残した。20年後の清明節前夜、私は再度雲南を訪れ、一部の南部国境の烈士の墓に参拝し、墓地で国のために肉体をなげうった英雄、烈士をしのび、いくつかの秘密解除された対ベトナム自衛反撃戦の残酷な軍事の内幕を拝聴した。今共和国建国60年の際に、こうしたすでに墓に静かに横たわって30年になる英霊たちの英雄的壮挙は、再度私にこの塵に埋もれてすでに久しい中越戦争の真実の残酷な戦況を明るみに出すよう促す。

老山防衛戦役の中の1個中隊の将兵は、1人両目を失明して生き残った者を除き、その他全部が犠牲となった。

我が軍の152mm榴弾砲群は最前線の作戦に対し非常に大きな作用を果たした。凶猛な火力はベトナム軍の大量の生体戦力を破壊した。だが、次のことも正視することが必須である。ベトナム軍の砲火も同様にもの凄く、我が軍の少なからぬ軍隊と人員がこのためにバラバラになって「消失」し、死体すら見つからなかった。


 これは中国人民解放軍最後の本格的実戦ともされ、つまり文革の影響で非常に問題ある戦いしかできなかった戦争以後、基本的に実戦経験がないわけで、これは実戦に対する大きな不安につながっているようです。






















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