中国軍の重大事故の歴史

 深い意味はありませんが翻訳はしたものの紹介しそびれていた古い記事を紹介します。というわけでこれは去年7月5日付の記事です。

http://military.china.com/history4/62/20130705/17929510.html


建国後最も深刻な軍事演習における事故:ミサイルが中央軍事委員会指導者に向かう

最近、1機の北海艦隊に属する水上機が膠州湾に墜落して破壊され、6名の機クルーが殉職した。これは今年中国軍で発生した第2の墜落事故である(頑住吉注:もう1つのスホーイ-27の事故に関しては去年4月2日、4月6日のコラムなどでお伝えしました)。事実として、軍事訓練を行う以上は、事故を避けることは不可能なのである。しかもずっと以前から中国軍は、軍事事故との「戦争」に勝利しようと努力しているところである。

粗製濫造されたロシア製飛行機 (頑住吉注:本文を読むとロシア式の中国国産機ですけど)

初期においては歴史的原因ゆえに中国の人民解放軍空軍の装備は立ち後れ、品質は不安定で、特に大躍進と「文化大革命」の期間飛行機の生産と維持メンテナンスの質はいずれも大幅に下降した。中国軍事工業企業はロシア製飛行機を導入し、かつコピー生産する過程で盲目的に技術を簡略化し、任意に工程を変更した。例えば、マグネシウム合金部品の熱処理の保温時間は、元々の工程では13〜14時間と規定されていた。だがコピー生産時、試験を経ず随意に8〜9時間に改められた。あるメーカーはエンジンを検査する時に発見した、技術的要求に符合しない問題のある部品が1.5万個余りに達した。

1960年代、中国は成功裏にソ連式の轟ー6爆撃機をコピー生産したが、この機もかつて何度も事故を発生させた。轟ー6が装備する射出座席の操作手順は煩雑で、信頼性が低く、特に一部の機クルーは下向きに射出され、ほとんど生還の可能性はなかった。ひとたび事故が起これば、機クルーはむしろ全力を尽くして機を飛行場に戻し、あるいは緊急着陸し、射出による脱出はしたがらなかった。だが大多数の事故に遭遇した飛行員には奇跡は訪れなかった。

1995年3月、空軍某部の轟ー6は離陸後ほどなくエンジンの作動が停止し、操縦不能の深刻な故障が発生した。指揮員は機クルーに落下傘降下を命令したが、その後連絡は途絶えた。機は墜落して破壊され、大部分の機クルーの射出による脱出は間に合わなかった。

事故が起きたのは単にソ連製をコピーした国産装備だけではなく、輸入されたアメリカ機もかつて連続して重大事故を発生させた。1984年から、中国軍はアメリカから全部で24機の「ブラックホーク」ヘリを導入し、高原における輸送に用いた。しかし1987年10月、このうちの1機がパノラマ記録写真を撮影していた時に機械の故障が発生し、3人の死亡、15人の負傷がもたらされた。事後に調査を経て、事故をもたらしたのは1本の伝動軸の断裂と判明した。

最大の災難は1991年に発生した。成都軍区の指令員張太恒、副指令員張徳福は作業チームを率いて中国とインドネシアのの国境沿いに調査研究を行っていた。ヘリに乗って帰還する時、第2機目のヘリが旋回の過程で突然下降気流に遭遇し、山に衝突して機は破壊され、機に乗っていた13人全員が難に遭った。これには成都軍区副司令員張徳福中将、チベット軍区参謀長毛海清大佐が含まれた。

対戦車ミサイルが主席の席に向かって飛ぶ

突発的な軍事事故に直面した時、装備の水準が限られているため、中国軍人が頼れるものとしては個人の意志の方がより大きい。

1978年春、砲兵が「紅箭-73」対戦車ミサイルの標的射撃定型審査報告会を行おうとしていた。徐向前元帥、当時中央軍事委員会事務局長の任にあった羅瑞卿、および各本部のトップが演壇に座っていた。指揮員が射撃開始の命令を下した後、最初の2発は正確に目標に命中したが、第3発目の射撃時、思いがけないことに何百mも飛ばないうちに弾体は180度身を翻し、「バン」という音と共に演壇の前面に衝突し、さらに跳ね返って演壇の上のひさしをこすって左側に落下し、地面に穴を開けた。シュウシュウと煙が吹き出し、まだ穴の中をぐるぐる回っていた。‥‥ある人が大声で「伏せろ」と叫び、演壇の下の人は皆地に伏せた。


検査を経て、研究開発人員は、これは故障弾だと報告した。羅瑞卿は激怒し、一時雰囲気が緊張した。だが徐向前は演壇の人たちにちょっと手招きし、皆を座らせた。その後、何でもない、ちょっとした事故が起こるのは正常なことだ、と言い、その後砲兵副司令に続けて撃つよう命令した。

軍事事故は減少中

改革解放以後も一定数の優秀な軍人が国防力の向上のために重大な犠牲を払った。

福州軍区の司令員皮定均は軍事事故の中で殉職した最高位の将校と言うことができる。彼は1976年に演習を指揮している時、ミルー8ヘリの事故により犠牲となった(頑住吉注:何故か書いてませんが中将でした)。事故の中で殉職した人にはさらに軍事工業科研人員もいた。

2006年6月3日、1機の運ー8から改装された早期警戒機が安徽で事故を起こし、乗っていた40名の人員全てが難に遭った。だが事実として中国の軍事事故はどんどん減少中である。飛行機事故を例にすると、統計によれば1984年以後の事故の数は明らかに低下している。その原因は、1985年に部隊が簡素化編成を行った後、人員の思想が安定し、技術レベルが向上したことにある。(本文は「老年生活報」2013年7月3日第6版より抜粋。筆者:呉久久)


 ミサイル事故に関してですが、豪胆なところを見せたかったんでしょうが普通原因を徹底究明するまで試験は中止でしょう。人命軽視の状況は現在では全体的に改善しているんでしょうかね。





















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