中国の兵器発達史

 中国共産党の蜂起から現在までの兵器発達の歴史です。

http://military.china.com/history4/62/20140515/18503790.html


中国軍武器進化史:「小米加小銃」から先端装備まで (頑住吉注:「小米加小銃」は本文に出てきませんが抗日戦時代の粗末な小銃らしいです。)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「2009年の大閲兵で大量の先進装備が展示された」)

国家の実力を象徴的に示すものの1つである軍事力は、平和な時期においては武器装備の発展レベルがその実力を体現する重要な方面である。80年余りの発展を経て、中国軍の武器装備の巨大な進歩は世界を注目させる。1927年の建軍以後の中国の武器装備の発展史を回顧することは、一定の意味から言って中国の国家の実力増長の歴史的過程を復習することに他ならない。

(1927〜1949年)

武器装備の品種は雑多、古臭く立ち後れ、数は限られた


1927年8月1日、南昌蜂起は中国共産党の独立した武装闘争の指導の開始であり、また革命軍創建の序幕だった。抗日戦争、解放戦争を経て、1949年の新中国建国前まで、中国人民解放軍の武器装備の品種は雑多、古臭く立ち後れ、例えば銃砲でもう110種、82種の口径、20カ国余り製で、あの時にも75mm野砲、105mm榴弾砲、37mmおよび57mm高射砲およびP-15型戦闘機(頑住吉注:検索してもヒットしません。P-51の間違い?)、「モスキート」式爆撃機、PT-19型練習機、L-5型通信偵察機など大型技術装備はあったが、こうした装備の多くは戦争中敵の手から鹵獲してきたものだったため、品種が雑多、古臭く立ち後れ、数が限られているなどの問題が存在した。

(1950〜1962年)

技術を導入、コピー生産し、国防工業の基礎を固める


1949年の全国解放の時、人口最大の大国中国の工業生産値は何と世界第26位だった。当時国内のいくつかの兵器工場、例えば沈陽兵器工場、太原兵器工場、重慶兵器工場などはいずれも少量の機関銃、小銃などの小火器しか生産できず、迫撃砲すらうまく作れず(頑住吉注:普通に考えれば機関銃より迫撃砲の方が簡単に作れるはずなんですけどね)、増してや機械化装備は生産できず、弾薬の年間生産能力も1万トンに到達し得るのみだった。これに比べ、第二次大戦の期間、アメリカ、ソ連、ドイツなどの国の年あたりの弾薬生産量はいずれも200万トン以上だった。当時先進国の軍隊はすでに機械化の時代に入っており、例えば1950年にはアメリカ軍はすでに1人あたり20馬力(平均3人に1両の機動車両)、ソ連軍は1人あたり5馬力(平均10人に1両の機動車両)だったが、中国軍は1人あたり0.2馬力で、550万の中国人民解放軍に1万両の戦争時期に鹵獲された自動車しかなかったのである(平均500人に1両の機動車両)。

当時の国内の工業基礎が薄弱すぎることにかんがみ、中国国防事業は「2つの道を行く」の方針を採用した。一方において応急的にソ連の先進装備を購入し、一方において独立の国防体系を建立する、というものである。1953年から徐々にソ連式武器装備のコピー生産が開始され、相次いで79か所の規模が比較的大きい軍事工場が新たに建設および拡張建設され、武器装備のコピー生産と試作の作業が開始された。1955年末までに、中国人民解放軍は輸入と国産の武器装備を利用し、陸海空三軍の師団級単位を換装および新たに装備した。ここに至り、海軍と空軍の装備はすでに初歩的に規模を備え、陸軍特殊兵の装備も急速に発展してきた。歩兵の古く雑多な形式の武器装備は圧倒的多数が淘汰され、基本的に武器装備の制式化が実現し、全軍の武器装備の戦術技術性能は建国前に比べ非常に大きく向上した。1956年7月19日、東北の沈陽で中国がコピー生産した初の戦闘機、すなわち殲ー5型の初飛行が成功した。これにより中国航空工業はコピー生産から自らによる研究開発へ、弱から強への奮闘の歴史的過程を歩み始めた。1959年、中国はまた自ら59式中戦車を研究開発し、中国が戦車を生産できなかった歴史の終わりが告げられた。

1950年代中期から60年代の初め、大量にコピー生産された武器装備が相次いで部隊に装備された。このうち火砲、通信、工程、化学兵器防御などの武器装備の進展が最も速かった。1962年末までに、部隊が必要とする品種と数は基本的に国内生産によって解決できるようになった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

(1962〜1978年)

両弾の研究開発に成功 国家のために戦略的威嚇力を提供した


1960年代初めにソ連の援助は断絶し、中国の武器発展は20年近い完全自主研究開発の段階に入ることになった。国内の科研人員と軍事工業企業はほとんど封鎖状態に近い中で自力更生に頼って武器装備を研究開発した。

1960年代に最も中国人を誇りに思わせた軍事的成就は「両弾」(ミサイルと核爆弾)の研究開発成功だった。中国は1960年に国産地対空ミサイルを研究開発し、1964年に初めて原子爆弾の爆発に成功し、1966年には原子爆弾とミサイルという「両弾」を結合しての発射に成功し、1967年水素爆弾の空中投下による爆発試験に成功し、1970年には人工衛星の発射に成功した。

1950年代中期から、ソ連式武器装備の輸入とコピー生産と同時に、中国軍事工業企業は武器装備の研究開発と改造作業に着手しており、1960年代中期になるとすでに一定数の新兵器、新装備を研究開発していた。統計によれば、1963年には中国が自ら研究開発を行った小火器、火砲、戦車、装甲車などの陸軍装備が相次いで定型に至り、かつ部隊に装備された。1964年全体を通じて定型が批准された武器装備は95項目で、このうち自ら設計を行ったものは52項目と55%を占めた。コピー生産は43項目で45%を占めた。自ら研究開発を行った武器装備の比重は年を追うごとに増加した。統計によれば、1975年末までに、全軍の武器装備の中で、国産戦車は71%を占め、飛行機は75%を占め、戦闘艦艇は89%を占め、工程機械は96%を占め、火砲は97%を占めた。銃器、通信、科学兵器防御装備、船や橋の渡河器材は全ての国産化を実現した。

(1979〜1990年代後期)

技術を蓄え、戦略を調整し、グレードアップ、時代をまたぐ実力を形成


1978年に召集された中国共産党中央第11回中央委員会第三次全体会議では、改革開放のプロセスが開始され、中国の武器装備発展も全く新しい局面を迎えた。全軍部隊と国防科研部門は近代化を中心とする正確な発展の方向を確立し、我が国の軍と国防科研、軍事工業部門も世界に向き合い、国を出て、視野を広めることによって、技術上の全面的な創新発展を迎えた。1987年になると、国民経済が徐々に好転するのと、科学技術が不断に発展するのと共に、一定数の新たに研究開発に成功した武器装備が相次いで就役し、解放軍武器装備の近代化レベルを新たな水準にまで高めた。

陸軍装備方面では、1977年に77式7.62mm拳銃の研究開発に成功し(頑住吉注:これそんな特筆すべき重要な兵器じゃないでしょう)、1982年には67-1式軽・重両用機関銃を基礎に67-2式重機関銃の研究開発に成功した。1985年には85式12.7mm高射機関銃の研究開発に成功し、全体性能は国際先進水準に到達した。1979年には「紅箭」73対戦車ミサイルの研究開発に成功し、かつ部隊への大量装備が開始された。

1980年代に入ると、新式100mm対戦車砲、105mm無反動砲、82mm無反動砲および新式152mmカノン砲、273mmロケット砲、新たな82mm迫撃砲などが相次いで研究開発に成功し、かつ部隊に装備された。1987年になると、中国陸軍の軍団・師団両級の装備する高射砲の数は1970年代に比べそれぞれ1.43倍および3倍に増加した。1984年になると、69式戦車、59式戦車の改良型と79式戦車が相次いで部隊に装備された。歩兵・戦車共同作戦の便のため、歩兵戦闘車両も一段と力を入れて研究開発中だった。

海軍装備方面では、この時期中国海軍の艦艇の発展は比較的速く、多種の新型艦艇が続々と部隊に装備され、艦艇の総合作戦能力には過去と比べて顕著な向上があった。1983年、初の弾道ミサイル原潜が海軍での就役を開始し、中国海軍の総合作戦能力に質的飛躍があったことを象徴的に示した。この期間、海軍はさらに相次いで改良型ミサイル快速艇、ミサイル駆逐艦、ミサイル護衛艦、海軍戦闘機/爆撃機、攻撃機、対潜哨戒機などを装備し、かつ多くの重大科学研究実験項目を完成させた。

空軍装備方面では、1985年に殲ー7型戦闘機が相次いで原型機を基礎に航空機関砲を追加装備し、技術が先進的な空中格闘ミサイルを追加搭載し、火力と空中格闘能力を増強した。

第二砲兵隊装備方面では、1980年代初め、大陸間弾道ミサイルが戦略ミサイル部隊の中で就役を開始した。ここに至り、人民解放軍の戦略ミサイル部隊はすでに一定の数を持ち、これは多数の機種の中距離、遠距離、大陸間ミサイルだった。こうした戦略ミサイルは固定の地上陣地や地下サイロからも発射できるし、機動発射もできた。

1990年代中、後期から始まり、中国軍は情報化を軍隊の建設の方向とし、装備の情報化も武器発展の重要中の重要に列せられた。湾岸戦争、コソボ戦争の実践は、現代の情報電子技術はすでに戦争の様式を改変しており、「シリコンチップの勝負」が「鋼鉄の全力の戦い」に比べさらに重要だ、ということを証明した。国家863高度科学技術発展計画が実行されたので、全体的な国家科学技術レベルの向上もまた軍用品研究開発の転化のための重要な前提条件を創造し、国内の電子、情報工業の発展も、国防科研と軍事工業生産を1段階アップさせた。

(頑住吉注:これより3ページ目)

(1990年代末から今まで)

技術創新、飛躍的発展、第2の黄金期に入る


新世紀に入ると、国内の科学技術のレベルが飛躍的に向上したのと国防への投資が増加したため、武器研究開発に急速な発展があった。もし1950年代から60年代前期を中国武器発展の第1の黄金期と評価するならば、新世紀に入ってからは第2の黄金期に入ったと言うことができる。相互に比較すると、第1の黄金期では中国軍の武器の急速な発展はやはり全面的にソ連の模倣だったが、第2の黄金期の発展の特徴は自主研究開発で、対外的な少量の武器購入は補充としてのものに過ぎず、これでこそ世界先進レベルに追いつく希望がある。

1990年代末以来、中国には毎年必ずいくつかの重大な軍事工業科研の突破があり、特に過去における基礎研究の多くの弱点だった項目を補い、航空、宇宙、船舶、兵器、軍用電子、工程物理など高度技術領域で多くの世界先進レベルを備えた成果を取得した。

解放軍陸軍第3世代戦車が部隊に大量装備され、先進的な野戦防空装備、遠距離火力突撃装備も量産された。国産第3世代戦闘機「殲ー10」などが航空隊に装備されると、第3世代戦闘機を中核とする空中武器装備体系が形成された。世界先進レベルの防空対ミサイル装備の研究開発に成功し、加えて先進的な空対空ミサイル、空対地ミサイルがあり、また空軍に徐々に攻防兼備の作戦能力を具備させた。国産新型ミサイル駆逐艦、ミサイル護衛艦が大量に装備され、海軍先進艦艇の数に一定の規模を持たせ、かつ各種先進艦載武器システムが配備され、極めて大きく防衛区域外打撃能力と艦隊防空能力を増強した。第二砲兵部隊は機動戦略核ミサイルの装備を開始し、すでに核・通常兼備、威嚇・戦争平行の作戦能力を具備している。解放軍の情報支援能力は日増しに高まり、電子戦レベルにも極めて大きな向上があった。

2011年1月11日、中国が新たに研究開発した第4世代戦闘機殲ー20が成都で試験飛行を行い、我が国をアメリカ、ロシアに次ぐ第3の、この世代の新たな戦闘機を研究開発できる国とした。2011年8月10日、中国空母プラットフォームが初の海に出ての航行試験を行い、中国が空母時代の新たな章に入ったことを象徴的に示した。2012年11月11日、国産ヘリ武直ー10が珠海航空展でデビューしデモンストレーションを行った。2012年11月24日、殲ー15艦載機が「遼寧艦」上での発着に成功した。2013年1月26日、我が国が自主的に研究開発した大型輸送機運ー20が初飛行に成功し、中国が戦略空軍になるまでの距離がもはや遙かに遠くはないということを象徴的に示した。ここたった6ヶ月で、神舟十号と天宮一号が成功裏に自動ランデブー、ドッキングを実現し、中国の宇宙開発が宇宙ステーション時代に入ることを象徴的に示した‥‥


 例えば戦略原潜は少なくともごく最近まで実際に戦闘配備できる状態ではなかったなど技術的限界や問題に全く触れられていない点は不満ですが、与えられた条件の中で全体的に非常に急速な進歩をしてきたことは認めざるを得ないでしょう。










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