韓国による金日成暗殺計画

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20130916/18050184.html


「684北派遣部隊」の秘密を明らかに:金日成暗殺の韓国特殊兵

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「これは一群の悲劇的人物である。彼らにはかつて各種各様の人に軽蔑される経歴があり、彼らが監獄の中で全く心配もされずゆっくりと人生を過ごす、あるいは永久に生命を剥奪されようという時に、ある歴史のめぐり合わせが、こうした多くの凡人たちに神秘的な金日成暗殺の任務を担わせたが、何年か後、また劇的に別の起伏に富んだ帰らずの道を行かせた。」)

ある映画が1つの歴史の真相を明らかにした

このような真実の物語は何と水も漏らさず隠され、35年後になって実写映画「実尾島風雲」の出現がやっと洗いざらい明るみに出したのである。壮大で残酷な映画の場面は、観衆にあの長年埋もれてきた惨烈な歴史の真相を真実味をもって感じ取らせた。

映画の中で、彼らは人生のやり直しの希望と国のために忠誠を尽くす信念を抱いて荒涼たる無人島で一日また一日の恐るべき訓練を喜んで受けた。そしてある日彼らの希望が水泡に帰し、人から忘れられた時、非常に大きな苦しみと憤怒が今度は彼らに公然と国家に対抗する道を行かせた。虚実の間に、韓国民衆は彼らが悲しい傍観者でもあり、この民族の悲劇の体験者でもあることに気付いた。

康仁燦(薛景求演じる)の父は北朝鮮に「裏切り逃亡」した「反乱軍」で、年少の康仁燦はこの巻き添えとなった。彼は韓国社会から全く受け入れられない苦しい状況の下に、一路よろめき歩き犯罪者となり、最後には故意に人を殺したため死刑判決を受けた。処刑の前ある将校が獄中に来て彼に問うた。「君は国のために再度このナイフが手に取れるかね?」 直後に彼と他の30名の死刑囚、無期懲役囚がKCIAによって強制的に徴兵され、韓国西海岸の無人の荒れた島、実尾島に連れて行かれた。当時は1968年で、彼らの訓練に責任を負う秘密基地の指揮官崔在賢中尉(安聖基演じる)は宣言した。「おまえたちの任務は平壌を直接攻撃し、金日成の首級を持ち帰ることだ。」

彼らは「684北派遣部隊」と呼ばれ、島の将校が監督と訓練に責任を負った。彼らの標語は、「落伍者は一律に殺す! 捕虜となった者は自爆する!」だった。実尾島には人類はおらず、一心に金日成を暗殺しようとする殺人ロボットだけがいた。囚人たちは非常に苦しい訓練を受けた後、秘密裏に準備が開始された周到な暗殺計画によって北朝鮮へと送られることになっていた。しかし3年後、韓国政府は突然政策を変え、「684北派遣部隊」計画は取り消された。

砂浜の鉄条網の下での訓練、堆積した土砂の中での格闘、死刑囚と教官との間の対立、そして死刑囚たちが改めて死に直面した時のあがきと困惑、団結と裏切りは、この死刑囚を描いた映画の魅力をことのほか際立たせる。特に監督は死刑囚の悲劇の色彩を加え、この映画に始めから終わりまで死の匂いをまとわせ、この純粋なアクション映画に人間性の啓示を発させている。

2003年の年末、この真実の歴史的事件に題材を取った、韓国の最も成功した監督康佑碩、国際的俳優と讃えられる安聖基、最高の演技派の巨星薛景求によって共に作られた映画は、上映されるとたちまち全韓国にセンセーションを巻き起こした。人々を引きつけたのは単に映画の壮大な視覚的衝撃と出演者たちの最高に巧みな演技だけではなく、むしろ映画の背後のかの30年余り真相が埋もれてきた韓国の現代史上最も悲惨で最も壮烈な事件に対する疑念と不可解さであり、「684北派遣部隊」の31人のメンバーの最後の3年の悲惨な生命の息吹と慟哭に対するものだった。

金日成暗殺の「アナグマ作戦」行動計画

では真実の事件はどうだったのか? 1960年代末、南北朝鮮間の情勢は緊張し、双方いずれも狂気じみたスパイと暗殺行動を展開した。1968年、南北朝鮮の緊張した対峙は沸点に達し、北朝鮮は軍隊内に31名の決死隊を成立させ、彼らを韓国のソウルに派遣して朴正煕大統領を暗殺させようとした。1968年1月21日深夜、31名の決死隊員は誰にも気付かれずに非常に厳重な防御の非武装地域を突破し、5日の非常に苦しい山中の山越えや渡河を経て、韓国大統領府のある青瓦台に肉薄した。まさに決死隊員が間もなく襲撃を発動しようという時、大統領府のミリタリーポリスによって気付かれ、双方に激烈な銃撃戦が発生した。5名の決死隊員がその場で射殺され、2人が捕虜となり、後に逃走した24人は1人が幸運にも生き延びたのを除き、その他はいずれも相次いで韓国ミリタリーポリス人員によって射殺された。韓国の現地警察局の局長もこの銃撃戦の中で死亡した。この青瓦台襲撃事件は韓国の上から下までを震撼させ、北朝鮮への報復を要求する声は不断に高まった。

まさに青瓦台襲撃事件発生の翌日、また北朝鮮による元山海域でのアメリカの「プエブロ」号電子偵察船拿捕事件が発生し、朝鮮半島情勢は一時起爆の状態を呈した。

韓国はついに北朝鮮襲撃専門の特殊部隊の建設を決定し、その人数は北朝鮮の決死隊と同じ31人だった。原計画ではこの部隊に北朝鮮特殊部隊の拠点を破壊させるというものだったが、仔細な比較判断を経て、最終的に任務は金日成暗殺と定められた。KCIAは詳細、周到な暗殺方案を制定し、空軍によって特殊隊員の募集、訓練と暗殺任務実施が担当された。これこそ外界に知る人の少ないコードネーム「アナグマ作戦」の金日成暗殺行動計画である。特殊訓練を受けた決死隊員は熱気球に乗って平壌の金日成の宮殿上空まで飛び、落下傘を用いて地上に降着した後、暗殺行動を実施するとされた。当時金日成の宮殿の構造と周囲の地形はとっくに沖縄に駐留するアメリカ空軍のSR-71高空偵察機によって撮影され、KCIAに渡されていた(頑住吉注:こういう用途に使うと言ったらアメリカは止めたでしょうけどね)。行動は極度の秘密で、空軍は訓練地点をほとんど荒れ果てて家もない実尾島に選定した。彼らは人員を派遣して島に1軒しかない人家の人を追い出し、金淳雄隊長をリーダーとする空軍特殊作戦部隊を派遣し、島に各種営舎および訓練施設を建設した。1968年4月下旬、31名の決死隊員は実尾島に到着した。大部分の決死隊員は事件を起こし逃亡したトラック運転手、ソウル駅のダフ屋、偽ブランド屋、流浪の歌手、詐欺犯、大酒飲み、サーカス団団長、落ちぶれたボクサー、トンネルの中で眠り帰る家のない者等々ごろつき、チンピラ的な人物だった。大犯罪者、極悪の犯人と言うことはできないが、警察の頭を極度に悩ませる始末の悪い連中でもあった。この他さらに5名の隊員は力づくで連行された普通の韓国人だった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

こうした前科のある決死隊員は「訓練兵」と呼ばれ、教育訓練を担当し島を守備するこの他30名の空軍特殊部隊将兵は「基幹兵」と呼ばれた。この特殊部隊は別名「684北派遣部隊」だったが、名目上は空軍2325部隊第209分隊に隷属し、金淳雄によって隊長が担当された。

最初から訓練兵と基幹兵の間には非常に深い対立と誤解があったが、この後3年の長きにわたる身体能力および軍事訓練の中で彼らは同じく国家に忠誠を尽くす心を持ち、ついに互いの間の矛盾を埋め、深い感情で結ばれた。実尾島で7ヶ月近い猛烈な訓練を受けた後、彼らは軍艦に乗って密かに北朝鮮に極めて近いバイリン島に移され、出撃命令を待った。しかし1969年3月前後、彼らは逆に作戦中止の命令に接した。当時朝鮮半島情勢には緩和の趨勢が出現しており、南北双方は分裂以来初の赤十字会談の根回しを行っているところだった。そしてついに1927年7月、「南北平和共同声明」への署名が行われた。この種の状況下で韓国政府は情勢の悪化を避けるため、金日成暗殺の計画停止を決定したのである。

乾坤一擲の「実尾島」反乱

暗殺中止の命令に対する極度の憤怒と不満にもかかわらず、決死隊員は改めて実尾島に引き返し、彼らの訓練を継続するしかなかった。だが、思いもよらない状況が出現した。実尾島に戻ってほどなく、島への供給が基本的に中断され、毎日の食事の質がどんどん悪くなり、麺類によって飢えをしのぐだけになった。冬に暖を取る燃料も補給されなかった。実尾島は徐々に人に忘れられた荒涼たる小島になっていった。2名の決死隊員は非人道的な待遇に耐えられず、隣のある小島に逃げたが、後に島民の女性を強姦したことにより極刑に処せられた。栄養、健康状況がどんどん悪くなるのに訓練は依然過酷で、5名の隊員が相次いで訓練中に死亡した。残る24名の隊員は絶望と孤独の中で苦しみながら持ち場を守り、ある日改めて国家に召喚されて使われ、この死んだ方がましだと思わせるまずい状況から脱し得ることを渇望した。

極めて少数の幹部しかこの部隊の存在を知らなかったため、KCIAと空軍上層部は1971年になってやっとこの部隊の存廃問題を討論し始めた。新たに着任した空軍参謀長は事情の前後の経緯を聞いた後、直ちにこの部隊の解散を命令した。だが問題の重要なカギはいかにすればこうした決死隊員たちに秘密を守らせることができるかにあった。最終的に、安全という見地から、韓国当局は「一切の痕跡を破壊せよ」との指示を出した。

この指示は決して明確に「全ての隊員を殺す」ことを示してはいなかったが、忍耐がすでに極限に達していた決死隊委員たちはやはり激怒させられた。自らの4年近く受けてきた非人道的待遇と残酷な苦しみ、休暇もなく、充分な食事もなく、何の娯楽もなく、女性の慰安もなく、ただ身元を隠し、人に知られない痛苦だけの地獄のような日々を回想した。しかるに今国家がもはや彼らを必要としない時になったら、すぐに彼らをポイ捨てしようというのである。彼らは自分が国家の政策と利益の犠牲になったと感じた。そこで暴動が不可避的に勃発した。

1971年8月23日早朝5時20分、営地の見張りをする基幹兵が便所に行っている隙に乗じて、訓練兵は突然基幹兵の宿舎を襲撃した。これらの基幹兵は前の夜に多くの蒸留酒を飲んでいたため依然熟睡中で、訓練兵はハンマーを金淳雄隊長の頭めがけて猛然と振り下ろし、金はその場で撲殺された。訓練兵は即時に転じてさらに通信室を破壊した。この場の基幹兵との闘争の中で訓練兵サイドは1人死亡し、基幹兵は12人死亡した。その他の18人はある者は理由があって臨時に外出しており、ある者は肥溜めや岩石の洞穴の中に身を隠したため幸運にも難を逃れた。

早朝の全くの静寂の中、訓練兵たちは実尾島を血で染めた。すぐ続けて残った23名の訓練兵は隣の舞衣島の漁民の漁船に飛び乗り、仁川の埠頭に直行した。仁川上陸後、彼らはまた相次いで数両のバスをジャックし、不断に乗り換え一路ソウル入口の永登浦区にやって来た。相次いで12人の一般市民と警察官を殺害した後、彼らは大通りに突入し、ソウルに向け出発し、中央政府と直接談判を行おうとした。だが軍隊に阻止されたため、双方に激烈な銃撃戦が発生した。午後2時40分になると、大部分の訓練兵は行き場をなくして自爆した。現場のバスの中では15名の訓練兵と3名の乗客の死体が見つかり、別に4人が逃走したが、後に軍事法廷で死刑判決を受けた。

今回の反乱に対し、韓国政府は当初対外的に、身分不明の武装分子の襲撃を受けたとし、今回の反乱を北朝鮮ゲリラ組織のせいと言おうとした。だが北朝鮮の反発を恐れたのか、3時間にもならず今度は「空軍の特殊部隊に反乱が発生」と訂正した。対外的に公然と金日成暗殺の秘密部隊に反乱が発生したと認めることはできないため、その代りに韓国国防大臣と空軍参謀総長が「引責辞任」するしかなかった。

小隊長、32年後に実尾島へ再び戻る

実尾島暴動発生の前日、金邦一小隊長は金淳雄隊長と一緒に仁川に公務のため出張したが、私用により当日の晩には親戚の家に泊まり、金淳雄と共に島に戻らなかったため難を逃れた。事件から32年たち、改めて実尾島に戻った金邦一は、眼前に群れを成した旅行客たちを見て、物はそのままなのに人は変わってしまったという無限の感慨を禁じ得なかった。面前のこのにぎやかな旅行者の天国が、32年前かつてどんなに荒涼とし凄惨な様子であったか、誰が想像することができるだろうか。また誰がかつてここでどんなに衝撃的な殺戮が発生したことがあるのか想像できるだろうか? だが、金小隊長はやはり一目ですぐに、当時爆破訓練の時に残された穴の痕跡と基幹兵が隠れた営区の便所の遺跡を探し当てた。

金小隊長は「月刊朝鮮」のインタビューを受けた時、実際の訓練は映画の中の残酷さの何倍もであり、隊員の胆力を鍛錬するため、彼らに死人の骨を浸した蒸留酒を飲むよう強要し、障害物突破訓練中にもし落伍したら、すぐ背後から彼らに向け発砲する者がいた等々を語った。現在、金小隊長は実尾島戦友会の会長である。彼は毎年必ず実尾島の幸運な生存者の島への訪問を組織する。ああした暴動の中で難に遭った基幹兵を偲ぶだけでなく、ああした前科を持ちここ一発の勝負に出た訓練兵を偲び、彼らがかつて共に過ごしたあの不屈の苦しい歳月をなつかしむためにもである。


 やはりそこここに独特の民族性が表れた何とも言い難い事件の経緯です。リアルバージョンで映画化してもいい作品になりそうですが。

















戻るボタン