コルトM1878シェリフスモデル

 古い記事になりますが、「DWJ」2004年1月号に掲載されていた、M1877ライトニングとほぼ同時期の製品であるM1878のシェリフスモデルに関するレポートの内容をお知らせします。


コルトのDAリボルバー モデル1878シェリフス、またはストアキーパーモデル

短く、シンプルな

ひっくるめて1213挺のコルトDAモデル1878がショートバレルのシェリフス、またはストアキーパーモデルとして製造された。‥‥総生産数51210挺においてである(頑住吉注:約2.4%)。つまり、これらはレア品目に属し、そういうわけでこのタイプにおける切望されるバリエーションにも属する。

の名前はぴったりである。テキサスレンジャーであり、後にはU.S.Deputy MarshalおよびWells-Fargo警備員、Jeff Miltonはこの銃をインナーポケットホルスターに入れて携帯していた。すなわち、コルトダブルアクションリボルバー モデル1878シェリフスモデル 口径.44-40、銃身長4インチ、シリアルナンバー18142をである(頑住吉注:こういう人が持っていた銃だから「シェリフスモデル」という名前はぴったりだ、ということですね)。

 だが、この重いダブルアクションリボルバーのショートバレルバージョンに、この法の番人の名称を与えたのはコルトではなかった(頑住吉注:「ライトニング」、「サンダラー」同様、「シェリフス」もコルトによる正式なネーミングではなかったということです)。ひょっとすると、さらなる一つの名称を思いついたのも、初期のコルトコレクターだったかもしれない。すなわち、「ストアキーパー」(商店主)モデルである。

 伝説的なコルト モデル1873シングルアクションアーミーの5年後、サイズと弾薬仕様の提供品において匹敵するコルトモデル1878ダブルアクションが登場した。両モデルのバレルとエジェクターは共通だった。これに対応し、両モデルともに銃身長4と3/4インチ以下でエジェクターのない、熱心なコルトコレクターの間では「シェリフス」、または「ストアキーパー」モデルとして知られるバリエーションも存在した。

 最も有名で、それに応じて最も欲しがられるシェリフスモデルがコルト モデル1873SAAをベースとしたものであることは疑いない。ただ、このSAAのショートバージョンは1882年になって初めて登場したものである。これに対応し、参考文献内で知られるショートバレルつきの最も早い銃は、シリアルナンバー領域73,000以降に登場している。コルトDAモデル1878をベースとした最初のシェリフスモデルは、すでに3年早く発売されていた。つまり、1879年7月21日にである。

 だが、ショートバレルつきバリエーションのためのアイデアはコルトモデル1878によって生じたのかといえばそれも違う。そうではなく、、その直接の前身であり、コルト社製の最初のダブルアクションリボルバーであるモデル1877によって生じたのである。この銃はその導入時、ショートバレルでエジェクターのないものと、より長いバレルでエジェクターのあるものが同時にマーケットに登場した。比較的強力な弾薬用でコンシールドキャリーできる銃は、寸法がこうした携帯方法を可能にする(特に銃身長によって)場合に有用であるということは確かに納得のいくことである。

不成功に終わった名称「Sport’s Pet」
 ショートバレルを持つ大型リボルバーは「シェリフス」とも「ストアキーパー」とも呼ばれることになるが、それにもかかわらずこうした銃はもう1つの名前を得ることになる。コルト社自身によってではなく、コロラド州デンバーの大規模取り扱い商John P.Lowerによってである。彼はこれによりオハイオ州シンシナティのコルトの大規模取り扱い商Benjamin Kittredge & Co.と肩を並べることを望んだ。つまり、(頑住吉注:Benjamin Kittredge & Co.は当時すでに).45ロングコルト仕様の「ノーマルな」コルトDAモデル1878に、ハードルの高い名称「オムニポテント」(「全能の」)を与えていた。コルト社はこの取り扱い会社のマーケットにおける状況をかんがみて(頑住吉注:大規模で利用価値があると判断した、といったことでしょう)、この種の小さな遊びに一役買い、この銃を対応する刻印つきで工場から出荷した。‥‥無償でではなく、「Omnipotent」というエッチング彫刻1つにつき1ドル50セントを請求してである(頑住吉注:話が飛んでしまい、非常に分かりにくいので補足します。この節の主役はあくまでJohn P.Lowerです。John P.LowerはM1878のショートバレルバージョンにタイトルにある「Sport’s Pet」という名称をつけました。これはJohn P.Lowerがライバル視していたBenjamin Kittredge & Co.がM1878ノーマルモデルに「オムニポテント」という名称をつけたことに対抗するものだった、ということです)。

 John P. LowerはデンバーのBlake Street Nr.377、後にNr.381にハンティング、フィッシング用品同様銃、弾薬も扱う自分の店を持っていた。1886年に市の中心地区にあるLarimer Streetに移転する前のことである。ここはCherry Creekの対岸で、この地は1850年代に金が発見されて沸きかえったところだった。最初の入植地は金が発見された場所の名でも、デンバーとも呼ばれず、Cherry Creekと呼ばれた。今日、Cherry Creekは大幅に運河化された川であり、デンバーの管轄区域内にあってSouth Platte Riverに流れ込んでいる。

 デンバーは鉄道接続駅として、そして金や幸運を探す無数の人々が直接ロッキーマウンテンの最初の鎖である「Front Range」に出かける際の入り口として、1870〜80年の間に急速に成長し、人口は4579人から33,000人に増加した。そしてさらにいくらか成長したものがあった。すなわち富である。Leadville、セントラルシティ、ブラックホークの間にある鉱山は、金および銀をそれぞれ年間100,000ドル〜250,000ドル分供給した。一方鉱山労働者は1880年、鉱山内における1日10時間の労働で3〜4ドルの賃金を手にした。

 例えば同じ時代(1878〜1890年)、.45口径のコルトDAモデル1878、ノーマル型は18〜25ドル25セントの値段だった。つまり、週給程度である。比較すると、コルトモデル1873シングルアクションアーミーは11〜12ドルだった。

 1879年10月21日、John P.Lowerはひっくるめて6挺の4インチバレルつきコルトDAモデル1878を手にした。それらは全て.45ロングコルト仕様だった。4挺(仕上げは記録されていない)はアイボリーグリップつきであり、2挺はブルーイング仕上げでハードラバーグリップつきだった。供給されたリボルバーはシリアルナンバー領域3000以降だった。この6挺のリボルバーのために、Lowerは初めて、彼がショートバレルのバリエーション向けに考え出した名称を宣伝した。すなわち「スポーツ ペット」である。

 この名称には説明が必要である。Pet(この言葉は単に「寵児」のことを言う)は今日好んで小型の愛玩犬に使われる。アメリカ旅行者は、多くのモーテルのドアに「No Pets」(「犬は不許可」)が見られるのを知っている。

 「Sports」という言葉を説明することはより困難である。つまりこのケースの場合(頑住吉注:ドイツ語の)「Sport」のこと、では済まない。デンバー(前述のように近隣における金および銀の発見の酔いの中で急速に成長した都市)は当時、「Sports Town」という評判を持っていた。これは非常に活気にあふれた都市ということである。そして「Sports」だが、これは冒険心と人生を楽しむ意欲に富んだ、自分の手ではなく「おつむ」で働く、つまり自分の金を遊びと賭け事(競馬からボクシングの結果に関する賭けまで)で稼ぐ当時の人々を指した。そのような「仕事」の成功が、衣服、時計、装身具のようなうわべから読み取れることは明らかなことだった。そしてまさにその人物がコンシールドキャリーする銃からもである。だからモダンなリボルバーの1つとしてのショートバレルつきコルトDAモデル1878(もちろん輝きのためできるだけニッケルフィニッシュが望ましかった)はよい選択だった。まさに「寵児」、「Sport’s Pet」である(頑住吉注:要するに「ギャンブラー(が見栄のために持ち歩く)お気に入りの銃」といったニュアンスだったというわけですね)。

 John P.Lowerによる提案はそれだけでちょっとしたものだったが、それにもかかわらず定着しなかった。John P.Lowerが残した唯一のものは、彼自身の刻印「J. P.Lower」を持つ彼の購入したリボルバーだけだった。これは普通フレーム左サイドに見られる(頑住吉注:「オムニポテント」と違い、「Sport’s Pet」という刻印を持つ銃は知られていない、ということでしょう)。ともあれ、彼自身は自分の考え出した名称を使い続けた。

 彼は1883年3月31日、コルト社に宛てた手紙の中で、ことさらに次のように記述している。 「私は次のコルト製銃器を倉庫に持っています。これは私が過去3年間に工場から直接得てきたものです。21挺の.45口径D.A. 4インチ『Sport’s Pets』〜

同じであり、同じでない
 「ノーマルな」コルトDAモデル1878、つまり銃身長4と3/4インチ以上、エジェクターつきのものと、「シェリフス」モデルとの間の違いは、単純に銃身長と、エジェクターがあるかないかだけでは尽きない。つまりこれらのモデルのフレームは異なっている。正確に言えば2つの異なるバリエーションがある。

1、フレーム前部両側にミゾつきのもの。実際上、右フレームサイド上のエジェクターケースのためのミゾは左右対称ということになる。左サイドも削られているからである。

2、ミゾなしのもの。つまり、両面ともフラットなフレーム。(頑住吉注:1、のタイプは文章だけでは分かりませんでしたが、検索して発見した画像によればこういうものです。



青い部分はバレルが通っているので外側に湾曲しています。黄緑の部分が削られた溝で、内側に湾曲しています。黄色い部分はフラットです。で、2、のタイプは黄緑の部分と黄色い部分が一体でフラットになっています。記事の写真も含め、手持ちの資料にあるほとんどの銃はこうなっているので、2、のタイプの方がメジャーだったのではあるまいかと思われます)

 その上「シェリフス」モデルはグリップフレーム下にランヤードリングなしで販売された。

 ひっくるめて、このモデル(頑住吉M1878シェリフス)は1と1/2から4と1/2インチまでの6つの銃身長で、そして.32-20から.45ロングコルトまでの6つの異なる弾薬仕様で存在した。一方、モデル1878全体では.22から.476までの13のいろいろな弾薬仕様で存在した。次の2つは他を引き離して「シェリフス」モデルにおける最も頻繁なコンビネーションだった。すなわち、口径.44-40と4インチバレル(638挺)、口径.45ロングコルトと4インチバレル(537挺)である(頑住吉注:どう読んでもこうしか読めないんですが、下の表によれば前者は539挺、後者は452挺です。文章で挙げられている数字は銃身長に関係なくその弾薬仕様の総計です)。

 これら両バリエーションは、総数1213挺生産された「シェリフス」モデルのうちすでに1175挺を占めている(頑住吉注:実際は991挺です)。次のページには生産された全ての銃の口径および銃身長に関する概観がある(頑住吉注:元の「DWJ」の記事では次のページに掲載されていますが、分かりにくくなるのでここに入れておきます)。

コルト1878D.A.-リボルバー、シェリフスモデル(Don Wilkersonにならった集計)

口径 銃身長1と1/2インチ 2と1/2 3と1/2 4と1/2
.32-20
.38Colt
.38-40 17 20
.41
.44-40 91 539 638
.45ロングコルト 78 452 537
12 79 96 1021 1213

(頑住吉注:あれ、枠が変になっちゃいました。どうしてだか分かりませんけど数値は合ってるんで勘弁してください)

バレル刻印に伴う謎
 すでに詳述したように(頑住吉注:してないしてない)、ここにあるシリアルナンバー7931を持つリボルバーは、1882年に製造され、ニューヨークの会社Hartley & Grahamに供給されたらしい。当時コルト社製の.44-40口径リボルバーは、シングルアクションであろうとダブルアクションであろうと等しく、バレル左サイドにエッチング彫刻がなされていた。すなわち、「COLT FRONTIER SIXSHOOTER」というものである。この特徴はニューヨークに所在する取り扱い会社John P. Moore’s Sonsの提案に由来する。彼らは1878年1月17日、コルトの財務理事Hugh Harbisonあてに書き送っている。 「どうかエッチング彫刻、『FRONTIER SIXSHOOTER』を持つ.44ウィンチェスターセンターファイア仕様のニューモデルをご用意下さい。我々はこれに関し、特別課金されないことを期待しています〜」 コルト側でこのアイデアが取り上げられ、ただし文言は「COLT」という言葉によって補完された。このエッチング彫刻を持つ最初のコルトDAモデル1878は、1880年10月9日にサンフランシスコのNathaniel Curry & Brothers社に供給された(頑住吉注:Benjamin Kittredge & Co.による「オムニポテント」という刻印は特別仕様としてこの社が手間賃を払ってコルトに打ってもらい、自分たちだけで販売したが、John P. Moore’s Sonsの提案による「(コルト)フロンティアシックスシューター」という刻印はコルトが全面的に取り入れ、無償で、ただし全ての製品に打つことにした、ということです。これらにひきかえ、John P.Lowerによる「Sport’s Pet」は全く普及しなかったから失敗だとされているわけです)。

 1889年以後、このエッチング彫刻は同じ文言のローラースタンプに交代した(頑住吉注:英語に直訳しましたが、知識不足でどういうものか分かりません。ローラーに凸の文字型があって、バレルに回転させながら押し付けることで刻印されるものではないかと思うんですが)。つまり、手元にあるシリアルナンバー7931を持つ(頑住吉注:1882年に製造されたはずの)リボルバーは、エッチング彫刻を持たねばならない。‥‥しかしそうなっていない。そうではなく、ロール彫刻を示し、そしてそれは全く特別なものである。この刻印の文言は、「COLT FRONTIER SIXSHOOTER 44-40」なのである。重要なのは「44-40」という補完である。

 現在、このように(頑住吉注:使用弾薬表示が)補完されたバレル刻印は、コルトリボルバー モデル1873シングルアクションアーミーの場合、およそ1923年以後にそれまでの(頑住吉注:使用弾薬表示のない)ロール彫刻と交代したことが知られている。興味深いのは、この補完分を持つロール彫刻の全長が長くなっていないことである。その長さは前のものと同様正確に2と9/16インチと計測された。つまり65mmである(頑住吉注:つまり、後で口径表示のみ追加されたことは考えられないわけです)。コルト モデル1873と1878のバレルおよびエジェクターは同一であるから、補完されたバレル刻印は問題なくモデル1878リボルバーにも当てはめることができる。だが、後加工および修理(頑住吉注:の際に後の時代の刻印が打たれた)という可能性しか残らない。このモデルの生産は(頑住吉注:こうしたタイプの刻印がSAAに打たれ始めた1923年頃より明らかに早い)1905年にはすでに終了しているからである。

 事実として、補完されたバレル刻印を持つ多くのDAモデル1878が知られている。自著「Colt’s Double Aktion Revolver Model of 1878」の中にこのモデルに関するこれまでの包括的研究をまとめたDon Wilkersonは、はっきりとこの珍奇さに取り組み、「1923年頃以後コルト社において、モデル1878リボルバーに、当時普通だったローラー刻印を示す新しいバレルが取り付けられた」と説明している。だが、手元にある銃はオリジナルバレルを持っている。このことは、様式と大きさが残りのナンバーリングと同一の、バレル下側にあるシリアルナンバーの3つの末尾数字が証明している。Don Wilkersonと詳細に同調を図るとするならば、次の推測が導かれる。「この銃は1923年頃コルトにおいて新しくニッケルメッキされた。その際エッチング彫刻は磨き去られ、新しいローラースタンプによって置き換えられた。」 しかし、この銃には他の場合普通である、工場サイドにおける後加工を示す刻印がない。ニッケルメッキもむしろオリジナルであるかのような印象を与える。だが、可能性としてありうるニッケルメッキのやり直しは何しろ75年前のことであり、今日における判定は困難である。

 筆者にとっての謎は、正確に同じ(頑住吉注:補完分のある)ロール彫刻を持つ2つのさらなるコルトDAモデル1878が浮上したとき、より大きくなった。筆者はテキサスにおける非常に有名なコレクションの中にそのような、5と1/2インチバレルを持ち同様にニッケルメッキされたリボルバーを発見した。シリアルナンバー領域は35,000台で、つまり1886年ごろ製造されたものである。この銃は全くのオリジナル、つまり後加工されていない印象を与えた。さらなるリボルバーがサンフランシスコにあるButterfieldのオークションカタログ(2001年11月のオークション用)内に見出された。そこに写真が掲載されていた銃は、7と1/2インチバレルを持ち、同様にニッケルメッキされていた。この銃は1896年12月16日にニューヨークのHartley & Grahamに供給された。このリボルバーは新品状態であり、そのためオークションハウスButterfieldの評価価格も12,000〜18,000ドルだった。その上この銃は1つの特別性を持っている。すなわちこの銃にはバレル刻印の上にプレゼント刻印「 FRIEND IN NEED/From your Wife 1908」がある。

 これにより、「『COLT FRONTIER SIX SHOOTER 44-40』というロール彫刻を持つバレルは1923年ごろ以降に工場サイドで改変されたものである」という推測はぐらつくことになる。1908年の日付を伴うプレゼント刻印はどのようにしてバレル上に生じたのか? 新品の、あるいは改変されたバレルは15年後になって初めて得られたのか? とにかく、モデル1878の場合、補完されたロール彫刻が1923年ごろになって初めて導入されたはずだというセオリーは疑わしくなる。

 つまり、これは解かれるべき謎に該当する(頑住吉注:現状では確かな答えは出せないということです)。だからこれはコルトの熱心なコレクターやエキスパートに求められる。ひょっとすると、コレクションの中になおさらなるこうした補完されたロール彫刻をバレルに持つ、熱く求められる.44-40仕様のコルト製リボルバーが存在するかもしれない。筆者は助言やヒントに感謝している。というのは、狩猟本能がひとたび呼び覚まされたとき、謎は休ませないからである(頑住吉注:たぶんこうした謎を好奇心を持って探求するのは私にとって楽しいことだ、と言うような意味だと思うんですが)。

 このコルトDAモデル1878「シェリフス」モデルは、ウェスタン アンティーク アームズ社(Ferdinand Verlaecke、ベルギーのBredene)が用立てたものである。

「シェリフス」モデル(囲み記事)
 このレポートの「主役」は1挺のコルトDAモデル1878「シェリフス」モデル(口径.44-40、4インチバレル、ニッケルフィニッシュ、ハードラバグリップ、シリアルナンバー7931)である。この弾薬仕様と銃身長のコンビネーションは、この銃を合計1213挺のショートバレルつきリボルバーのうち638挺という数の上で最大のグループの1例としている(頑住吉注:だから違うって、539挺でしょう)。シリアルナンバーによれば、このリボルバーは1882年に製造されている(頑住吉注:ん? さっきつっこんだ「すでに詳述したように」ってのはこれのこと? でも同じページですし、ひょっとしてドイツでは囲み記事を先に読むのがルールなんですかね)。有名な取り扱い会社Hartley & Graham(ニューヨーク)は、1882年4月に4インチバレルを持つ最初のモデル1878リボルバーを注文した。1882年の終わりまでに、彼らはひっくるめて154挺のこの銃身長のリボルバーを注文した。このうち62挺は.45ロングコルト仕様、そして92挺が.44-40仕様だった。そもそもHartley & Grahamは、この銃身長のひっくるめて260挺のリボルバーにより、1888年4月のそのような銃の最後の注文まで最大の顧客だった。1882年にはコルトDAモデル1878の全生産分の約1/3がHartley & Grahamに行き、これによりこの会社はこの年におけるコルトの最大の取り扱い商でもあった。

 手元にある銃は次の部分にシリアルナンバーの3つの最後の数字を示している。すなわち、バレル下面(通常バレルのナンバーリングはシリアルナンバー領域約500で終わっているため非常に稀である)、シリンダー後面(シリンダーの穴の間にそれぞれ1つずつ)、トリガーガード側面の平面部(トリガーガードが取り付けられているときはフレームで隠されている)。ローディングゲートのフタとフレームは19という数字を示している。これは部品ナンバーであり、これにより後の銃の組み立ての際、あらかじめ決められたフレームのための「正しい」ローディングゲートのフタを見つける。シリアルナンバー領域6000まで、ローディングゲートのフタはシリアルナンバーの末尾3数字をつけていた。部品ナンバーへの変更は、約6000以降、製造経過が変更されたことを証明している。つまりこの銃はローディングゲートのフタのマウント後になって初めてシリアルナンバーを得たのである。口径表示「44CF」はトリガーガード左サイドに打たれている。シリアルナンバー領域およそ17,000以降、この表示は「44CAL」に変えられた。


 そういえばこんなのがあったなと思い出して読んでみた、現在の製品M1877と同時期の銃のレポートですが、当時のいろいろな社会的状況、銃器業界の状況、そして例えば妻が夫に特別刻印入りの銃をプレゼントするケースもあったなど時代の空気みたいなものが伝わってきてなかなか興味深かったです。 

 本題と直接関係ありませんが、M1877は1876年から1909年までに166,849挺が生産されており、一方M1878は(たぶん1878年から)1905年までに51,210挺が生産されたとのことなので、私にとっては意外だったんですがM1877の方が3倍以上多く生産され、4年も遅い時期まで生産され続けたことになります。。










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