国民党政府が開発した幻のジェット戦闘機

 全く知りませんでしたが第二次大戦中にすでに計画が始動していたということです。

http://tuku.military.china.com/military/html/2014-05-09/223884_2491604.htm


中国が抗日戦の時期に研究開発したジェット戦闘機CXP-1001

中国の初期における比較的前衛的なXP-1研駆一式機に関する先の文章を見て、思わず中国航空工業初期のもう1つの試みを想起した。それは国民党政府航空工業局が抗日戦の期間に研究開発を開始した中国のジェット戦闘機CXP-1001である。この中のCは中国を意味し、XPは「研駆」を意味する(何故なら当時の戦闘機は駆逐機と呼ばれたからである)。

この文の主要な資料のソースは「中国近代航空史」と「航空世界」2005年第3期「中華初のジェット」との一文、および陸孝彭、李適彰などの回想録、そして台湾、戦場軍事コミュニティ、国外の関連のウェブサイトである。

中国の航空工業の建立は空中力量の建立から開始され、軍閥混戦の期間、当時の国民政府、各地の軍閥は作戦の需要のため次々と国外から飛行機を導入し、続いて所属のそれぞれの飛行機修理工場、組立工場を成立させた。例えば、辛亥革命後南京政府が成立させた交通連隊飛行営大隊は1913年に北京に移転し、小型の修理工場を付設した。福州海軍飛行機工程所(「寧海」偵察機を設計製造した)、広州飛行機修理工場(「楽士文」号を製造した)等々である。

国民政府が北伐を完成させた後、また各地にいくつかの飛行機製造工場、修理工場が成立し、これらの工場は抗日戦前および抗日戦の期間、およそ700機余りの各タイプの飛行機の研究開発、コピー生産、組み立てを行い、抗日戦に対し一定の貢献をした。例えば広州飛行機修理工場は相次いで韶関(ここで「復興」型練習機を研究開発した)、昆明(空軍第一飛行機製造工場と改名し、22機の「復興」甲初等練習機を生産し、かつ30機のソ連のI-15戦闘機をコピー生産した)、最後には貴陽に移転し、後にはさらに国産ヘリを生産したことがあり、現在の貴航(頑住吉注:検索すると無数にヒットするものの、何の略か書いてあるページは全く見つかりません)の前身となった。南昌中央飛行機製造工場は中国初の双発輸送機「中運1」を研究開発し、これは乗客8人で、さらに30機余りのI-16を生産し、これは洪都集団の前身でもある。成都第三飛行機製造工場は中国初の双発爆撃機「研轟3」を研究開発したことがあり、成都飛行機の前身である。さらに杭州飛行機製造工場、大定エンジン製造工場等々があった。

1939年には早くも、国民政府は成都に航空委員会航空研究所を成立させ、航空委員会副主任の黄光鋭によって所長が兼任され、ボーイング社初の(頑住吉注:中国人?)エンジニア王助が副所長を担当した。当時の任務は空軍が早急に必要とする機材の解決を図ることだった。相次いで木製、竹製の飛行機用ベニヤ板、竹製外部吊り下げサブタンクなどの研究開発に成功し、さらに練習機(研教1、2、3型)、輸送グライダーなどを研究開発した。

1939年8月27日、世界初のジェット機He178がドイツで試験飛行に成功し、この機はHeS3Bエンジンを採用していた。情報と少量の資料が後に、当時まだドイツと一定の関係を保持していた国民政府に伝えられた。だが抗日戦がすでに全面的に勃発している状況下で、中国政府と中国航空工業部門にはこの種の新興の機種に対し深入りした研究を行う時間は全くなかった。

抗日戦前期の9.13壁山空戦の中で、民国空軍のI-15、16が高速の零式に直面して全くやり返す力なく叩かれたことが中国空軍にもたらした震撼は、中国空軍に高速戦闘機の重要性を感じさせた。加えて太平洋戦争勃発後、中国に進駐した日本軍航空隊の主力は次々に太平洋のそれぞれの島嶼に派遣され、行きて帰らぬ太平洋の海空戦に投入された。この時中国空軍戦闘機部隊は仕事が楽になり始め、いくつかの普通の爆撃と対地攻撃任務を行うだけだった。それぞれの航空研究開発、製造機構の任務も相対的に楽になった。そこで国民党中央政府は1944年に航空工業局に向けジェット機研究開発課題を成立させる命令を下した。研究開発グループはエンジン研究開発グループ、機体およびエンジンレイアウト研究開発グループ、高速主翼研究開発グループ、脚研究開発グループ、システム研究開発グループに分かれた。1枚の非常に模糊としたHe178の写真を基礎に、中国初期のジェット機研究開発の探索が開始された。

資料が限られ、また国内航空技術が立ち後れていたため、国民党政府は国外技術の援助を探し求め始め、イギリス、アメリカなどの国との協力の可能性を探求した。1944年末、国民党航空工業局は一定数の人員をアメリカに飛行機設計の学習に選択派遣し、アメリカと協力してジェット戦闘機を設計することを望んだ。このうち陸孝彭(強5の総設計師)らはマグダネル飛行機社に派遣されて仕事をし、2年近く学習した。談判が失敗したため、中国政府は抗日戦勝利後にまたイギリスと談判を行い、最終的に談判は成功した(イギリス人の付けた値段はアメリカ人より低かった)。国民政府は1946年に作業チームをイギリスに派遣し、しかもこれはいくつかの小グループに分かれ、それぞれイギリス飛行機製造工場のターボジェット戦闘機設計チーム、ジェット式戦闘機設計チーム、ジェット式爆撃機設計チームに割り振られた。イギリスのグロスター飛行機社は中国と協力してジェット式戦闘機を設計する業務を引き受けた。陸孝彭を含む作業チームはグロスター飛行機社に3年近くいて、設計チームが提出した全体設計方案はイギリス人に選ばれ、XCP-1001ジェット戦闘機と命名された。すでに設計が行われ、少数の部品がすでに生産に投入されていた時、国内の解放戦争がどんどん勝利し、国民党政府がすでに崩壊に瀕していたため、協力停止命令が下され、設計チームは台湾に撤退しなければならなかった。

1949年末、国民政府は全面的に崩壊し、台湾に逃亡し、大陸に残されたXCP-1001の研究開発資料は全部損失し、いくつかの国外航空科研人員は大陸に留まることを選択し、同時にイギリスのグロスター飛行機社もまた国民政府との直接の関係を失い、資金は自らの「ジャベリン」戦闘機の研究開発の中に投入されることになった。そこでXCP-1001の研究開発は棚上げとなったのである。

台湾に逃げた国民党政府は落ち着いて以後、またXCP-1001の研究開発作業を継続し始めた。結局のところすでに大量の資金を投入済みだったのである。1949年、国民政府航空工業局はXCP-1001に装備されることが選択された「黒雁」遠心式ジェットエンジンの試作を独立して完成させ、かつ1952年には「黒雁2」エンジンの全ての設計図面および修正作業を完成させ、同時に完成させたものにはさらにエンジンの試運転台の設計と飛行機の燃料システムの試験設備の設計があった。XCP-1001機の一部の設計も同年完成した。だが大量の人員、資料、設備の損失、およびグロスター飛行機社の援助が失われたため、1953年にXCP-1001の研究開発作業は基本的に停頓に陥った。またこの時朝鮮戦争が勃発したためアメリカ政府が台湾の武装を開始し、台湾に向け当時世界で先進的だったF-86「セイバー」ジェット式戦闘機の輸出を開始し、国民党政府は正式にXCP-1001の研究開発計画を放棄した。中国初のジェット戦闘機はこのようにして夭折したのである。

XCP-1001の具体的設計方案および設計性能

XCP-1001は単座軽戦闘機で、1台のロールスロイス製「黒雁」(Nene)遠心式ジェットエンジンを採用し、1台あたりの推力は2,200kgだった。提示しておくのに値するのは、ミグー15の動力装置は「黒雁」のソ連によるコピー生産型だということである。

全長:13.28m 全幅:11.65m 

離陸重量:6,100s 最大速度:1058km/h 最大航続距離:1852km

武装:20mm機関砲4門あるいは30mm機関砲2門

この機は主翼下に2つのサブタンクが搭載でき、さらに機体腹部に「ライトニング」迎撃機に似た機体と一体化する形の燃料タンクが装備できた。


 「He178は世界初のジェット機ではない」という突っ込みもありそうですが、私は初のアサルトライフルはMP44、初のプラスチックフレームを持つピストルはグロックでよく、フェドロフとかVP70とか後の発達との継続性のない機種はこぼれ話的に取り上げれば充分だと考える方なので、ジェット機に関してもこれで問題ないと思います。ちなみに開発開始は日本の「橘花」とほぼ同時期ですが、この機は試作機すら作られなかったようで、第1ページ目の画像は想像図あるいは模型の写真でしょう。He178の情報が国民党政府に伝えられていたというのも良く考えればあり得ることですが、非常に意外に感じました。戦後イギリスの援助を受けて(ちなみに中国人はいつもこれを「協力した」と言いますね)設計を継続したわけですが、当時のイギリス戦闘機はF-86セイバーより劣っており、計画中止は当然の流れだったでしょう。














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