日中戦争における両軍戦力の比較

 ‥‥というと「またこのテーマ?」と思われそうですが、これは過去の日中戦争に関する歴史ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20131022/18103220.html


抗日戦争時の武器:国民党、空中の優勢を持つも負け戦

(頑住吉注:日本軍の用いた軽機関銃には主に人から「歪把子」と呼ばれる大正十一年(1926年)式があるが、性能はいずれも中国の各派軍隊の主要装備のチェコ式軽機関銃(ドイツ式7.9mm弾薬を共通使用する)に及ばなかった。)

1937年から1945年の間に中国で行われた8年の全面抗日戦争は、立ち後れた農業国と工業国の間の勝負であり、その中には遅れをとって殴られ、4億の国の人が何十万の倭寇にやられざるを得なかった悲惨で苦痛な経歴もあれば、旧式な銃、刀、矛で西洋式の銃、大砲と戦って勝ちを得た悲壮もある。当時の武器装備の総合的実力をもって論じれば、日本が強く中国が弱かったのは争いのない事実である。だが腐敗した権力者や一部の唯武器論者はまさにこの点をつかまえて、国民党当局の腐敗、無能、消極的防御のために弁解する。だが今の人々は正確に歴史を認識し、かつ未来を啓発する必要があり、全体概念に重点を置いた定性的分析の必要があるだけでなく、武器の数、質、配置、応用などの方面の定量的分析から着手すべきでもある。こうしてこそ非常に良好に抗戦期間の双方の装備方面の勝負の経験、教訓を総括し、「人・武器」結合のレベルを通じて軍隊の戦闘の素質を見いだすことができるのである。

中日両軍の武器の隔たりは主に系列化、標準化の程度にあった

人類が多軍兵種が協同する立体戦争の時代に入った後、武器の対抗は複雑なシステムの対抗となった。発達した国家の軍隊の装備の優勢の1つの重要な現れは、システムの互換、標準化の強さである。旧中国は科学技術が立ち後れていたが、結局のところ一定の経済総量を持つ大国だった。1937年、中国の工業生産値は13.6億アメリカドル、農業と手工業の生産値は約50億アメリカドルに相当した。日本の工業生産値は60億アメリカドル、農業、漁業および手工業の生産値は約40億アメリカドルだった。双方の国家の総財力をもっての対比では、隔たりは決してあまり大きくはなかったのである。国民政府は工業的基礎が欠乏していたため、国内の兵器工場は少量の軽迫撃砲、歩兵銃、機関銃および弾薬しか生産できず、多数の武器は国外から輸入する必要があった。抗日戦初期の国民党政府の多数の武器はドイツ、ソ連、イギリス、チェコなどの国から購入したもので、その多数の品種の質はまだ日本軍の装備をやや上回っていた。しかし、財力の不足ゆえに国外から購入する数は限られ、かつ互換性が非常に劣った。

蒋介石をトップとする南京政府は1928年の北伐終結時に「統一完成」を宣言したが、実際には国内は依然新たな軍閥が割拠する状態にあり、財源の多くは地方の豪強によって獲得された。1937年の全国抗日戦勃発前、南京政府の年財政収入はたった17億中華民国元(当時5億アメリカドルに相当)だったにもかかわらず、日本政府の年財政収入は50億円(15億アメリカドルに相当)あった。また、1931年に日本政府は国民政府の「不抵抗」政策を利用してやすやすと中国の経済が最も発達した東北地方を占領し、そこに偽の「満州国」を建立し、その毎年十何億円かの財政収入も日本の支配に帰し、このため全国抗日戦の初めにおいて、日本は中国に対し4倍の財政の優勢を持ち、かつ集中して使用できた(中国は財力の使用も各地に把握され統一できなかった)。双方の総合国力のシステムとしてのの対抗から見て、中国は大きいが無秩序で筋道がなく、日本は小さいが秩序だてられていた。ある人は一杯の砂が組織厳密な蜂の群の攻撃に対応することをもって形容した。

抗日戦の期間、中日双方は主に陸軍によって交戦し、空軍は補助的作用に過ぎなかった。当時中国内地の交通条件は劣り、陸戦の多くは徒歩とラバ部隊によって流動的に行われ、重砲の使用はごく少なく、双方は主に歩兵武器と小型火砲によって戦った。中国を侵略した日本軍歩兵の標準武器は、少なからぬ人が映画で見たことがある。兵士は「三八大蓋」、「歪把子機銃」を担ぎ、将校は「王八盒子」を下げていた。その性能は当時の世界ですでに、西方諸国やソ連の装備に立ち後れたものに属した。

日本軍の対中国作戦の兵個人装備では、主に6.5mm口径の明治三十八年(1905年)式小銃が使用された。この銃には精度が良い、射程が長い、銃身が長く白兵格闘に用いるのに有利というメリットがあったが、口径が小さい、殺傷力が劣るという弱点があった。軍閥閻錫山の太原兵器工場は1920年代にかつて一度この銃をコピー製造したが、部隊が手にした後、その殺傷力が小さいと報告され喜ばれなかった。清朝末期から、中国の軍事界の大部分はドイツ式7.9mm口径銃器を気に入り、最も早く大量装備された小銃はモーゼル銃の改良型、「漢陽造」だった。1935年、南京政府はドイツ顧問の提案に基づき、ドイツ式Kar98モーゼル小銃を標準として全軍を統一した。外国から購入した、また国内でコピー製造された「中正式」は除いてである(Kar98同様「七九」銃と俗称された)。この銃は第二次大戦中ずっとドイツ軍の主要装備でもあった。抗日戦に参加したことのある老人は大部分知っているが、「七九」銃の傷口は射入口は小さく、射出口は一塊の肉を持って行くことができた。一方6.5mmの「三八大蓋」は口径が小さいだけでなく、弾道設計の欠陥により「射入口は多大眼、射出口は多大眼」となる結果がもたらされた(頑住吉注:射入口も射出口も大きい、となりそうですがそれだと文脈に合いません)。当時人々はふざけて、「三八を用いて鬼子に命中弾を与えても、何日かたつと鬼子はまた戻ってくる。」、「三八銃が抗日戦士に命中しても、何日か傷の養生をすれば抗日戦が継続できる」と言われた。日本軍も三八銃の威力の小ささを深く感じ、1939年には7.7mm口径の九九式小銃を研究開発し、性能はドイツのKar98と同等だったが、生産能力が限られていたため、関東軍と後の南方軍の精鋭師団に優先装備されただけで、中国主要部の戦場の「支那派遣軍」はまだ多くが「三八」式を継続装備していた。

日本軍が使用した軽機関銃は主に人から「歪把子」と呼ばれた大正十一年(1926年)式で、後には中国人に「拐把子」と呼ばれた九十六年式(1936年)が装備された。このたぐいの機関銃は給弾がスムーズでなく、加えて汎用の6.5mm弾薬の殺傷力が不足で、性能はいずれも中国各派軍隊の主要装備だったチェコ式軽機関銃(ドイツ式7.9mm弾薬を汎用)に及ばなかった。日本軍は1939年に7.7mm口径の九九式軽機関銃を研究開発したが、これも生産能力不足ゆえに大量装備されなかった。戦時の日本軍の重機関銃は九二式で、7.7mm口径弾薬を使用し、耐寒性が良かった。欠点は保弾板の給弾操作が不便で、かつジャムしやすいことだった。当時中国軍の重機関銃は多くがマキシム式に属し、水冷というこの面倒を除き、信頼性は九二式より優れていた。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「抗日戦後期、国民党軍はアメリカ製60mm迫撃砲を大量装備し、性能と威力がやっと八九式擲弾筒よりはっきり優った。」です。)

中国を侵略した日本軍はサブマシンガンを装備しておらず、これは日露戦争の経験に拘泥し、「百発百中の砲1門は百発一中の砲百門に勝る」と考え、サブマシンガンの弾薬消耗の多さ、精度の悪さを感じ、また日本の武士の、最後はバヨネットをもって勝利を決するという観念にも符合しなかった。抗日戦の前、中国の各派軍隊はドイツ、アメリカの多種のサブマシンガンを購入し(当時の俗称は「花機関銃」)、後期にはまたアメリカ製トンプソン、イギリスのステンサブマシンガンを大量装備し、接近戦の時火力密度で優勢を占めた。特にインド・ビルマに遠征してのジャングル戦の中で、中国の兵士と日本兵が草むらや密林の中で遭遇した時、往々にして何十mかでやっと相手が発見でき、この時手に持ったサブマシンガンをもって「弾雨」を浴びせるのは大いに優位を占めた。

拳銃の対比から見ると、日本の南部十四年式拳銃(「王八盒子」)はスプリング鋼の品質が劣るため給弾にしばしば問題が出て、「第二次大戦中最も劣った拳銃」と呼ばれた(頑住吉注:そんなことはないと思いますが)。中国が輸入した拳銃の機種は乱雑で、多数はドイツ式モーゼル駁殻槍(頑住吉注:ミリタリーピストル)だった。ドイツが生産した世界で賞賛される拳銃100万挺余りのうち、多くは中国に販売され、将校や土地のボスは「二十響」を最も好んだ。この銃は当時世界で最も良い自動拳銃で、7.62mm拳銃弾薬を使用し、野戦拳銃に相当した。ドイツ、日本両国の軍隊はこの銃は野戦に用いるには威力が不充分で、また護身に用いるには大きすぎ、重すぎる、と考えた。ナチスドイツは後にこの型の拳銃を生産停止し、本国の軍隊の装備はごく少なく、日本がコピー製造した少量のこの型の銃(頑住吉注:そんな話聞いたことないです)は少数の特殊部門にしか装備されず、作戦部隊には支給されなかった。

抗日戦初期、日本軍の地上の大型武器の数は中国軍より多かったが、性能では決して優勢を占めなかった。日本軍の甲種一個師団の支援火砲には24門の四一式75mm山砲、12門の75mmカノン砲(野砲とも言う)、24門の三八式70mm歩兵砲があったが、性能は同時期に中国が購入したアメリカ、ソ連、ドイツなどの国の製品に及ばなかった。中国軍の山砲の口径は75mmが多く、このうちドイツのクルップ工場の製品が性能的に最も優れていた。迫撃砲方面では、中国の主要装備だった82mm砲と日本軍の同類装備の性能は同等だったが、日本軍は50mm口径の八九式擲弾筒(一個中隊に6門)を大量装備し、一定の近距離戦の火力の優勢を持っていた。抗日戦後期に国民党軍はアメリカ製60mm迫撃砲を大量装備し、性能と威力がやっと八九式擲弾筒よりはっきり優った。

航空隊方面では、抗日戦初期には中日双方の飛行機の質の差は大きくなかったが、日本サイドは数の優勢を占めた。中国サイドは主にアメリカ製ホークIII戦闘機(頑住吉注:カーチスP-36)を装備し、その後主にソ連製イ-15およびイ-16を補充した。日本軍の主力戦闘機は中島の九七、川崎の九一、三菱の九六で、双方の戦闘機の性能は基本的に同等だった。1937年夏、中国空軍は作戦機314機、飛行員700名しか持っていなかった。日本の陸海軍航空隊は作戦機2,100機、飛行員1万人近くを持ち、加えてその飛行機の多くは国内生産で、年産数千機に到達可能だった。中国サイドは開戦から1ヶ月後には人、機の損耗が補えず、制空権は完全に日本軍の手中に落ちた。この後の2年間、ソ連は「志願航空隊」の名目で2,000名余りの飛行員を派遣し、かつ中国に1,200機の飛行機を援助した。だが数は日本軍に及ばず制空権を奪回するには至らなかった。1940年、日本軍が当時世界で性能最良の零式戦闘機を装備すると、質でもイ-15、イ-16を圧倒し、中国空軍は戦闘を避け機を温存する策を採った。1941年末に太平洋戦争が勃発すると、アメリカは中国に対し性能が零式と同等なP-40戦闘機を提供した。1944年に入って以後は中国・アメリカ空軍はまた世界で最も先進的なピストン式戦闘機P-51「ムスタング」式を装備し、在中国日本軍航空隊の川崎式、零式戦闘機はすでに相手ではなく、大陸の戦場上空に日本機の姿が見られることはごく少なくなった。

抗日戦期間の日本陸軍の装備技術のレベルは高くなく、これは主に工業レベルが米英ソなどの国に立ち後れていたからである。戦前、日本の軍事工業生産は「重点主義」を実行し、飛行機、艦艇方面において国際先進レベルを追いかけ、地上装備はその次に発展が必要という位置に置かれた。1939年夏、日本の関東軍はノモンハンでジューコフが指揮するソ連軍と交戦し、その立ち後れた陸戦武器は機械化部隊を防ぎ止められず、第6軍は大敗し1.8万人が戦死した(死亡数はソ連軍の3倍)。その後日本陸軍は陸軍装備改良を提案したが、太平洋戦争期間に海空を保障する「超重点主義」が実行されたため、依然陸軍を併せ配慮することはできなかった。当時、数が国民党軍よりずっと少ない日本陸軍が、性能が決して優勢を占めない装備を用いて中国を横行できた、その重要な原因はそのシステム化の程度の高さにあった。

日本は日清戦争前夜から第一次大戦まで、完備されたワンセットの兵器工業を建立し、装備は基本的に国産だった。旧中国の腐敗と不統一の、武器方面における表れは自力生産能力の低さで、対外購入も混乱し無秩序だった。各派軍閥はそれぞれに兵器を購入し(政治の支持が得られるか否か、およびリベートの多寡で決まることがよく見られた)、銃だけでも十いくつかの国から来ており、「万国武器博覧会」の呼び名があった。この種の装備の混乱は後方勤務保障に対しては一種の災難であり、戦時にしばしば部品が銃に合わず、弾薬がチャンバーに合わず、さらに輸出国が適時に弾薬を供給できるか否かに制約を受けた。当時日本軍の銃器の性能は優勢を占めなかったが、標準化、系列化を実現し、火力を組織するのに便であり、しかも弾薬の供給が保障できた。

1937年の上海の「八一三」抗日戦(頑住吉注:第二次上海事変)の初め、中国の火力はまだ部分的に日本軍を圧倒できた。しかし蒋介石政権と関係が密接なヒトラーが盟友日本の抗議を憂慮したことにより、弾薬供給方面で故意に遅延させ、結果的に国民党中央軍は対日全面作戦一、二ヶ月後には弾薬不足を感じるようになり、装備された機種の乱雑ぶりも火力の組織に困難をもたらした。当時中日両軍の陣地での交戦の時間がひとたび長くなるや、日本サイドは比較的良好な武器供給システムと弾薬の充足に頼り、火力上はっきりした優勢を占めることができた。淞滬における抗日戦の時期、ある人は次のように総括した。交戦最初の1ヶ月、中国のドイツ製兵器を装備する4個師団は日本軍の一個師団を防ぎ止めることができた。3ヶ月目になると、ドイツ製兵器を装備する6個師団でも日本軍の一個師団を防ぎ止められなかった。

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「1944年に入って以後は中国・アメリカ空軍はまた世界で最も先進的なピストン式戦闘機P-51「ムスタング」式を装備し、在中国日本軍航空隊の川崎式、零式戦闘機はすでに相手ではなく、大陸の戦場上空に日本機の姿が見られることはごく少なくなった。」です。)

武器の配置と協同のレベルが戦闘力の発揮を決定する

現代の戦争の中の武器を使用しての対抗は、単一項目の性能の対比の他、さらに武器の配置に関し作戦上の要求に応じての最適化達成を勝ち取ることを要求する。日本は組織力精強をもって世界に雄を唱える工業国であり、中国侵略戦争前、すでに国際的な現代戦争発展の要求を追いかけて軍の装備に対し配置を行っており、その具体的な現れは、陸海軍の間、航空隊(当時日本の航空隊は陸海軍に分かれて隷属し、独立した空軍はなかった)と地上部隊および艦艇との間、陸軍の歩兵、砲兵、騎兵、装甲兵の間の武器使用が有機的結合を達成し得ていたことで、戦時に比較的良好な火力の協同があった。中国の近代軍閥部隊は構造的に立ち後れ、その重要な現れは内部にある多くが単一の歩兵、少数の砲兵で、機械化部隊と空軍の建設の計画性が劣り、かつ協同作戦の意識と訓練が欠乏していたことだった。このように数は多いが乱雑な部隊は、往々にして数は少ないが精強で秩序ある敵に破れるのである。

1937年夏の全面抗日戦開始時、国民政府は名目上中央軍の和川軍、ディアン軍、桂軍、粤軍、東北軍、西北軍など各派全国陸軍に対し整理、編成を行い、全部で178個師団を編成し(その中にはさらに共産党が指導する八路軍の3個師団が含まれた)、全部の作戦兵力は200万人以上で、中国を侵略した日本軍の3倍に相当し、いくつかの武器の単一項目の性能も劣っていなかった。だが全軍の総数の1/3を占める国民党中央系軍隊は比較的多くの火砲を持ち、銃器も最も精良だったが、その歩兵・砲兵の協同は非常に劣り、増してや地上部隊と空軍には戦術的コンビネーションはなかった。中国の多数の非正規軍はいくらの重火器も得られず、主に歩兵火器に頼って作戦を行った。また蒋介石の中央軍系統の一貫した作風は、内戦、対外戦を利用して異分子を殲滅するというもので、作戦時、故意に非正規軍を危険な場所に配置し、その損失に対してもごく少なくしか補充を与えなかった。こうした非正規軍もできる限り戦闘を避けて自らを保つことを図り、さらに一部の不良な将校は形勢が悪いと見ると投降して傀儡軍となった。抗日戦の期間、国民党の相次いで組織的に日本軍に投降し、傀儡軍に編成された軍隊の総数は全部で60万余りあり、このうち将官級将校は58人いた(共産党が指導する軍隊には抗日戦の中で一個大隊、一個中隊の組織的投降者もなかった)。中国には抗日戦時、この種の恥ずべき「投降する将校、毛の如し」、「投降する兵、潮の如し」の「売国奴」現象が出現し、これは抗日戦を回顧する人の回避できないものであり、その原因の分析も単純に武器の要素をもって解釈することはできない。

1937年夏、全面抗日戦が開始された。中国軍の全体的素質と武器供給はいずれも日本に及ばず、また軍内の派閥は乱雑だった。統一し難い状況下で、蒋介石はそれでも陣地防御方式を実行し、華北、上海など日本軍の進攻の重点地域において展開を行い、「堂々の陣」で正規戦を行ったが、日本軍の各兵種組織の秩序ある協力作戦はさらに優勢を発揮することができた。中国を侵略した日本軍の総司令官岡村寧次の総括によれば、日本軍は国民党中央軍との作戦時、一個連隊をもって一個師団を壊滅させるのに足り、非正規軍一個師団を壊滅させるには一個大隊しか必要としなかった。

1943年から1945年の期間、アメリカは中国の駐インド軍を装備し、また「ラクダのこぶ空輸」を行うことにより、国民党軍に全てアメリカ兵器で武装された39個師団を持たせた。また蒋介石は各師団に付加された1/3の予備武器装備を使ってアメリカ兵器装備師団18個半を装備することを決定した。当時中国駐インド軍一個師団には一個105mm榴弾砲大隊(12門)およびその他の口径の各種中、小型火砲があり、火力は日本軍の一個師団をはるかに超えていた。だがこうしたアメリカ兵器で装備された師団は大部分が大西南の後方に配置され、少数の参戦部隊の多くはビルマの戦場に用いられ、多数の部隊は後に国共内戦に用いられた。抗日戦後期、国民党軍は装備上すでに日本軍に対し全体的な優勢を占め、また制空権を掌握し、さらに兵力はずっと日本軍より多かった。しかし、ビルマ北西の反攻で全面的勝利を獲得した他は、国内の戦場において依然連敗の戦績だった。戦略的指導思想と後方人員の素質という病弊の他、国民党当局が全面的に、アメリカがその軍のために配備した武器に依存し、真似たことも、戦闘力の発揮に影響した重要な要素だった。アメリカの機械化された装備は、その発達した工業的基礎を保障としており、旧中国自身には工業的基礎がなく、万里離れた大洋の彼岸から運ばれてくる装備は往々にして、1個の部品が壊れても修理、交換ができず、多くの車両、装備が使い始めてすぐ「巣に横たわる」だけのものとなった。当時いくつかのアメリカ兵器化された部隊の作戦機能、特に機動能力は、逆に徒歩の軽便部隊に及ばず、このことはまさにアメリカの模式に照らして武器の配置を行うことが、決して完全に中国の戦場の特徴に適応しなかった、ということを反映している。

中国海軍は抗日戦の期間1回の海戦も行えなかった。敵との実力の差がかけ離れていた他、さらなる重要な原因は戦前の装備配置の不合理でもあった。1937年、日本の艦艇の総トン数は130万トンに達したのに、中国海軍は6万トンの旧式な水上艦艇しか持たなかった。1931年の「九一八事変」前、中国海軍は南北の内戦にしか用いられず、その後日本軍を主要な敵と見なしたが、海軍建設には依然有効な方針が欠乏していた。当時中国海軍が強敵に対抗するのに最も良い方法は、分散して攻撃し、かつ沿海に機雷を敷設することであり、このためには旧式な大型艦を放棄して小型快速艇、魚雷艇、機雷敷設艇、潜水艦を主力とすべきであり、国内の非常に長い海岸と多くの港にも小型艇を分散させて海上襲撃戦を行う条件があった。だが戦前の国民政府は潜水艦を購入せず、魚雷快速艇も15隻しか買わなかった。限られた海軍装備費は大部分敵国日本に行って中型水上艦艇を発注し、また清朝末期から残された旧式艦を維持修繕するのに用いられた。全面抗日戦勃発時、中国海軍はまさに大規模海戦を行う力量は足りず、小規模襲撃戦を行うにもまた準備が欠けているというどっちつかずの状態にあった。南京政府は艦艇を狭窄な江陰水域に集中させ、日本機が簡単に生きたターゲットを見つけ出せるようにさせ、開戦後すぐに全てが自沈あるいは撃沈されるという大悲劇が出現した。当時の中国海軍が、日本軍と1回の海戦も行わずにすぐ全部壊滅したことに対し、一部の国民党当局のために弁解を行う人は、この咎を装備の立ち後れだけに帰し、海軍建設と作戦の指導思想を反省しない。だが実は、立ち後れた装備で敵にあらがうには特殊な打撃方法があり得るのであって、これは世界の海戦史上どこにでもあり、海に出て自沈し、あるいは座して死を待ってはならないのである。このことこそ後の人に歴史をさかのぼるやすぐ大いに嘆息させる大悲劇なのである!

抗日戦後期に入ると、中国の空中の戦場の形勢には根本的な様相の変化があった。アメリカの援助下で、中国は空軍を再建し、8個大隊、900機余りの飛行機という規模を持ち、しかも爆撃機、戦闘機、偵察機、輸送機が有機的に結合した配置を実現し、非常に大きく戦闘力が向上した。アメリカ陸軍第14航空隊も中国にやってきて参戦し、戦闘機は最多の時で1,000機余りに達した。1943年秋の常徳会戦をもって象徴的に示すように、中米空軍はすでに制空権を掌握した。日本軍は実戦機の数と質いずれも絶対的劣勢の状況下において、それでも1944年に「一号作戦」など大規模な攻勢を発動した。アメリカ第14航空隊が言明するところによれば、その空中攻撃は全部で日本軍12万人を殺傷し、これには当然誇大化された成分があるが、1944年以後、日本軍は攻勢を発動する時間違いなく主に夜間の行軍に頼り、平漢、粤漢鉄道といった「大陸交通線」を打通しても、後には空襲が猛烈なため修復、開通できなかった。日本軍の戦史の記載によれば、衡陽包囲攻撃戦の時、その前線部隊は白昼ずっと「地鼠のように穴に潜っている必要があり」、供給が不調なため兵士に鉄兜で米をついて食べさせるしかなく、あやうくインパールでの一戦での供給断絶の轍を踏むところだった。惜しいことに当時の国民党軍の地上部隊は腐敗し無能で、7つの基地と36の飛行場を失い、中米空軍の作戦に深刻に影響しただけでなく、正面の戦場を貴州までずっと敗退させ、重慶の動揺をもたらした。

中国の対日抗戦ないしその他の戦争史は全て、戦前と戦争中の軍隊の武器の配置が合理的であるか否かに関する重要なカギは、国情、軍情の需要に適合し得るか否かであり、これはまた戦争指導者の戦略的指導のレベルを反映している、ということを証明している。国民党当局の封建的立ち後れの性質、および後のアメリカに依存する主体性のなさは、抗日戦の期間の武器輸入、配置と戦時の協同方面いずれにおいても完全に露呈し尽くしている。これと対照的なのは、中国共産党の事実に即するという原則であり、近代工業のない立ち後れた農村の根拠地という具体的条件から出発し、外部からの援助がなく、しかも先進的な武器を得難い状況下で、群衆を動員して地雷、手製銃など粗末なように見えるが簡便で使いやすいなどの武器を製造し、依然有効に強敵と持久的にゲリラ戦を行い得たのである。

(頑住吉注:これより4ページ目。画像のキャプションは「抗日戦の前、中国の各派軍隊はドイツ、アメリカの多種のサブマシンガンを購入し、後期にはまたアメリカ製トンプソン、イギリスのステンサブマシンガンを大量装備し、接近戦の時火力密度で優勢を占めた。」です。)

武器を操る戦闘員の素質が作戦に対する決定的作用を果たす

武器は戦争の重要な要素だが、戦争の中で最終的に決定的な作用を果たすのは武器の操縦者の素質でもある。全面抗日戦初期、中国の正面の戦場は台児荘の戦役で勝利を取得したのを除き、その他の会戦は全て利を失い撤退をもって終わりを告げ、1年の期間で人口2億に達する区域が陥落した。当時国民政府がその咎を武器の立ち後れに帰し、人民の一方的抗戦を発動せず回避した病弊がいかばかりであったかは、まだ国内外に対しいくつかの解釈ができる。1944年春から1945年の初め、すでに末期にあった日本軍が制空権を喪失し、かつ兵力、火力いずれも優勢を占めない状況下で豫湘桂に対し進攻し、何とまたしても国民党軍に千里を潰走させ、6,000万の人口の地域を陥落させ、40個師団の装備を失わせた。戦争勝利前夜に出現したこの種の、反ファッショ同盟国を不思議がらせ、国内人民の譴責を大いに受けた戦況に関し、国民党当局は二度と武器という原因に責任をかぶせることはできない。

当時共産党が指導する敵後方の戦場では、装備が最も立ち後れ、条件が最も苦しい状況下にも関わらず壮大な発展ができた。八路軍が抗日前線に出兵させた3万余りの部隊は、1万挺余りの過去に鹵獲された雑式銃しかなく、また銃1挺あたり平均30発の弾薬しかなかった。火砲に関しては、八路軍は山西において閻錫山軍が放棄した12門の75mm山砲を拾って唯一の砲兵連隊を成立させただけで、砲弾の出所がなかったためカギとなる重要な性質の戦闘の中で時たま使用できただけだった。1937年と1938年というこの2年間、国民党当局は毎年象徴的に八路軍、新四軍に何十万発かの弾薬を支給しただけで、1939年以後にはもう弾薬供給は停止された。当時、解放軍の銃器弾薬の出所は主に戦場での鹵獲に頼っており、まさしく「銃がない、砲がない、敵が我々に作ってくれる」状況だった。国民党の正面の戦場が同盟国の16億アメリカドルの外部援助を得てもまだ連敗という状況下で、八路軍、新四軍は人民の支援と戦場での鹵獲に頼って不断に壮大に発展し、1945年末までに93万人にまで発展し、37万挺の銃を持ち、かつ敵後方の人口1億人の地域を解放していた。

全面抗日戦の8年間、八路軍、新四軍の弾薬消耗は4,000万発に満たず、手榴弾約800万発(当時火砲は極めて少なく、軽視して計算に入れないことができる)で、52万の日本軍と同様の数の傀儡軍を殺傷したという統計によれば、1人の敵を殺傷するのに平均30発の弾薬、7発の手榴弾ということになる。この比率の低さは世界的に稀に見るものである。何故なら第一次大戦中は1人の敵を殺傷するのに平均で弾薬2,000発以上を消耗する必要があり、一方第二次大戦のヨーロッパの戦場では1人の敵を殺傷するのに平均で5,000発の弾薬の消耗を必要としたからである。8年の全面抗日戦で中国国民党軍は全部で弾薬17.09億発、砲弾959万発、手榴弾および小銃擲弾2,359万発を消耗した。蒋緯国の「抗日御侮」(頑住吉注:「御侮」は外敵に抗する、といった意味だそうです)という本の中の統計によれば、全部で日本軍85万人を殺傷し(国民党軍は基本的に傀儡軍に対する作戦は行っていない)、平均で弾薬2,000発、砲弾12発、手榴弾30発を消耗してやっと1人の敵を殺傷できた。

同じ中国人として、国共両党部隊の抗日戦におけるパフォーマンスはかくのごとく異なり、アメリカが中国の戦闘区域に派遣した参謀長スティルウェル中将ですら共産党を大いに賞賛し、かつ再三蒋介石集団の無能を非難し、中国を援助する武器を、「日本を打撃できる」部隊、すなわち八路軍の一部分に配給するよう主張した。1944年、米が延安に派遣した視察グループのレポートも、中国が未来において共産党に属することを予言した。アメリカ政府はそのグローバルな戦略から出発して、依然きっぱりと、腐敗しているが親米の国民政府を支持しただけである。

国民党の大部分の軍隊(インド・ビルマ遠征軍など少数の部隊は除く)の戦闘力低下を軍事的角度から論じれば、武器のシステム性、標準性が劣る以外の重要なカギは組織指導者の腐敗愚昧、武器を操縦する者の素質の低下にあった。国民党軍の将校への昇進は主に私人関係に頼り、軍事知識を重んじなかった。徴兵もまた主に壮丁を強制的に捕まえることに頼り、川軍、黔軍、ディアン軍部隊はさらに多くが阿片を吸うキセルを手から離さない「双槍兵」であり、その精神的面貌と軍事的素質のダメさは問わずとも分かることである。中国には人口は多いが財政は困窮しているという特色があり、これはまた権力者に購入する武器を大事にして人命を軽視する伝統的な心理をもたらさせ、加えて兵士はしばしば脱走し、いくらの弾薬を消耗して彼らに対して訓練を行うことも惜しかった。当時外国から中国に来た人員は非常に不思議なことを感じた。「国軍」の兵士の手中には先進的なドイツ、アメリカ製の銃があるが、裸足に草履を履き、極めて安い足を防護するゴム靴すら支給されていなかった。兵士はこのように大事にされておらず、訓練が欠乏し、また文盲だらけの部隊であり、武器使用の効果はきっと高いはずがなかったのである。

これに比べ、当時の日本軍は将校の作戦組織能力が比較的強かった他、兵士はまた「武士道」の薫陶と非常に厳しい訓練を受け、歩兵は出征前に少なくとも各種条件下の標的射撃で数百発の弾薬を消耗する必要があった。一部の抗日戦の老兵の回想によれば、多くの鬼子兵は乗車して行進する時に銃を挙げて射撃しても依然比較的正確に100m以内の人型目標に命中させることができ、増してや技術兵器に対する操作、メンテナンスのレベルは国民党軍よりはるかに優れていた。当時日本は侵略者だったが、まさに毛沢東が「持久戦を論ずる」の中で語ったように、日本軍の優れた技術はやはり非常に学習するに値する。

1945年8月15日、日本の天皇は詔書を発して連合国の「ポツダム宣言」の受諾を宣言した。その全編は「投降」の二字を避けて語らなかったが、事実としてその投降に要求される条件を受け入れた。中国の抗日戦争の勝利は、国際的な反ファッショ陣営が日本という侵略者に対し圧倒的優勢を持つという全体的形勢の下に取得された。例えば単に日本の投降時の中国の戦場の状況をもって論じれば、日本が強く中国が弱いという局面は決してまだ根本的に改変されてはおらず、国内の戦略的要地である北京、南京、上海、武漢および経済の発達した地域はまだ全て日本軍の占領下であり、日本降伏の情報は当時多くの国内の人にとってまだ大いに意外な驚きと喜びであった。後の非常に長い時間の中で、いくつかの対抗戦史の宣伝は人心を奮い立たせる宣伝の需要にのみ従い、科学的定量的分析を持つ研究成果は逆に比較的少ない。今全面的、客観的な、抗日戦の期間の中日双方の武器の対比の分析、回顧を通じ、人々はその中から、武器の立ち後れが必ずしも叩かれる必要があるのでは決してなく、立ち後れに腐敗が加ったことが叩かれるべきなのだということを感じ取ることができる。中国は立ち後れた姿を変える必要がある。装備レベルの向上が必要なだけでなく、旧社会の腐朽した遺風を消滅させることも必須なのであって、そうしてこそ真に世界の民族の林の中で自立できるのである!


 もちろん国民党軍の非難、共産党軍の称賛が過大になっている感はありますが、単に歴史を論じるのではなく現代に通じる装備論は興味深かったです。日本軍に対する評価もかなり客観的なものに感じました。当時の中国海軍に関しては全くといっていいほど意識したことがありませんでした。日清戦争当時大艦隊を持っていたんですし、考えてみれば全くないはずはないんですが、ある程度の規模はあってもほとんど役に立たなかったんですね。















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