ナチ・ドイツの多段ロケット
「Waffen Revue」82号に、ナチ・ドイツが計画していたという興味深いロケット兵器に関する記事が掲載されていました。
第二次大戦における50cmおよび85cmロケットランチャー
ドイツにおけるロケット兵器の開発は、始めから悪い星の下に立っていた(頑住吉注:「幸運に恵まれている」という表現の反対らしいです)。一部ではすでに1920年代以来、卓越した能力のある人がこれに取り組んでいたにもかかわらずである。少数のみの名前を挙げると、Gerhard Sander技師、Friedr. Wilh. Zucer技師、Reinhold Tiling技師、Rudolf Nebel技師、Walter Dornberger博士、Hermann Obert教授、Heinrich Klein教授、そして当然Wernher v. Braun教授らは歴史の中で不滅のものとされている(頑住吉注:うーん、私はヘルマン オーベルトという名前をおぼろに記憶していましたが、はっきり知っているのはフォン ブラウンだけでした。ちなみに、小橋良夫著「ナチ・ドイツの秘密兵器」という本によれば、「ドイツ・ロケットのパイオニアとしてよく知られるのは、ヘルマン・オーベルト教授である。 オーベルト教授は1917年に液体燃料ロケットが兵器に利用できることをドイツ陸軍に進言し、1930年には液体酸素と石油を燃料とするロケット実験に成功したことから、ロシアのチオルコフスキー、アメリカのゴッダートと共に、近代ロケット開発者3人の仲間入りをしている」ということだそうです)。
何故ロケット開発が我国において充分に正しく未来へと進まなかったかには、多くの理由がある。始めのうち設計者たちは多かれ少なかれ、Otto Willi Gail(頑住吉注:「ハンス月世界へ行く」という小説を書いた人だそうです http://homepage1.nifty.com/ta/sfg/gail.htm
)、Johannes Winkler(頑住吉注:この人は学者のようですがよく分かりません)、あるいはJules Verne(頑住吉注:ジュール ベルヌ)の夢の虜になり、月に降り立ちたいと望む「Spinner」(頑住吉注:「頭の変な奴」といった意味だそうです)として無視された。彼らは全て、彼らがその思考法において時代のはるか先を行っていたという理由だけで夢想家として無視されたのである。
最初の幸運なスタート(頑住吉注:具体的に書いておらず何のことか分かりませんが、あるいは先に引用したオーベルト教授による実験成功のことかもしれません)以後、彼らは重要視されたが、まだ依然としてロケットが軍事技術の中に占めることのできる価値は人々に理解されなかった。すでに多くの年月前にロケットがイギリスおよびオーストリアでこの目的用に成功裏に使用されていたにもかかわらずである(頑住吉注:これは中国でも使われていたらしい、巨大なロケット花火といったレベルの兵器のことでしょう)。
その後人々が最終的に、軍用ロケットの開発を促進する決心したとき、再び2つの障害がその道に立ちふさがった。それはまず火薬とロケットを駆り立てるための推進薬の非常な不足だったが、さらに決定的だったのはヒットラーの移り気だった。ドイツにおいてはヒットラーの同意なしではもはや事が進まなかったのである。かつて彼はここに登場する可能性に大いに熱中したが、その後すぐに彼は火薬の浪費に反対し、その後再びV兵器の生産を煽ったのである(頑住吉注:お分かりでしょうがV1、V2ミサイルのことです。ちなみにV1は簡易ジェットエンジンつきのミサイルでロケットではありませんが)。
個体そして液体燃料のようないろいろな駆動方法、および例えば対戦車防御、対空防御、遠距離ターゲット兵器、バラスト加速装置のような根本的に異なった種類、そして異なる性質を持ったロケット推進装置の方向性、そして結局設計者たちの間の激しい競争は、ロケット技術の育成に貢献しなかった(頑住吉注:この部分いまいち何が言いたいのか分かりません。開発の過度な細分化や研究者間の非協力がロケット技術の育成にマイナスに働いたということでしょうか)。
終戦時、なお2つの兵器が開発中であったことはわずかしか知られていないだろう。残念ながらそれはもはや実戦に登場しなかった。しかしそれらを非常に賞賛される「ワンダーウェポン」に含めてよいかどうかは、(ドイツの人々は非常に期待しているが)未決定のままとしなければならない。
A.50cmロケット砲
ラインメタルの人々は遠距離ターゲットロケット「Rheinbote」(頑住吉注:「ラインの使者」 http://www.geocities.com/pentagon/2833/wunderwaffen/missile/rheinbote/rheinbote.html )によって積んだ経験に基き(我々はこれに関してさらにすぐレポートする)、1つの荷で1台の3軸レーダー車台に設置され、牽引車で任意に運搬できる発射台から発射する、口径50cmの多段ロケットを望んだ(図1)。
図1 走行状態にある、装填されたロケット弾を伴う50cmロケット砲
この砲は(頑住吉注:ライフリングのない)スムーズな砲身からなり(「ラインの使者」の場合は滑走レールが使われた)、砲身は装填のためには水平にされ、発射のためには水圧ジャッキで仰角がつけられた。この多段ロケットはクレーン車で砲身内に入れられた。サイド方向は、発射の間にも砲が乗ったままでいる車両によって向けられた。よりよい安定性はサイドのアームの外への方向転換によって達成された。図2に見られるようにである。
図2 アームを外に方向転換した50cmロケット砲を前から
(頑住吉注:よく工事現場で大型クレーン車が安定を増すために横方向に伸縮式のアームを伸ばしてるのを見ますよね。伸縮と旋回の違いはありますが、あれと同じことです)
このロケットは「ラインの使者」と違って尾翼を持たなかったが、個々の段は「Treibspiegel」(頑住吉注:PSS特殊消音ピストル、ドライゼのニードルガンなどで弾丸を乗せて加速するピストン状の部分を指す単語です。無理に訳すなら「駆り立て面」といったところでしょうか)を持った。後部のオープンな砲身内の特殊な弾薬筒内にある発射薬に電気的に点火された後、ロケットは砲身から投射された。その際同時に最初の段用の遅延点火装置に点火された(頑住吉注:「Zeitzunder」=「遅延点火装置」は手榴弾のそれに使われるのと同じ単語です)。ロケットは連結された3つの段で砲身から飛び出した。遅延点火装置の経過時間が終わった後、遅延点火装置は最初の段の推進薬に点火した。このときロケットはさらに前に駆り立てられ、同時に2番目の段の遅延点火装置に点火された。燃焼して空になった最初の段はロケットから脱落した。このときロケットは残る2つの段でさらに飛行した。2番目の遅延点火装置の時間が終わり、その後同じ結果により第3の段が燃え尽きるまでである。
3番目の段も燃え尽きた後、炸薬が満たされた本来の弾丸である前端部はターゲットに向かって飛んだ。そこで着発信管により点火し、爆発するためにである。この駆り立て弾薬筒と3つの段により、少なくとも210kmの距離に達し、100kgの炸薬をターゲットに運ぶことができた。
全体重量40トンおよび6つのダブルタイヤにより、この砲は都合のいい地面の状況下で有意義に使用できたはずである。疑問なのは、尾翼のない長いロケットが飛行の間いかに振舞ったかだけである(頑住吉注:「verhalten」という語には「振舞う」以外にも多くの意味がありますが、弾丸の人体内での「verhalten」というような表現が多用されるように、こうした場合はどんな弾道になるかという意味のようです)。しかし経験豊富な弾道学者がこれを正確に計算していたのは確かである。つまり射程距離210kmの場合、はるかに先にあるターゲットを制圧できたはずであるし、おそらく炸薬の量に関しても、弾丸の爆発および破片効果の散布においても許容できるものだったはずである。
B.85cmロケットランチャー(頑住吉注:この場合「ロケット迫撃砲」の方が近いようです)
この兵器の場合、単に拡大されたランチャーに相当するものである。使用でも「グレネードランチャー」(迫撃砲)と見なされたようにである。しかしこの兵器は各40トンの2つの荷で車両に乗せて運搬されなければならなかった。そして砲は設置用の穴を掘った後になって初めて使用場所にマウントされることができた。
掘られた穴の中にクレーン車を使ってまず砲床を入れ、続いて同様にクレーンによって砲身をその上に据え付けた。後部が閉鎖された砲身端部を使ってカーブ体の上で動けるようにである。比較的強い発射時の圧力に耐えられるようにするため、砲床は6×6mの大きさを持った。
車両は2台の2軸トレーラーで、ダブルタイヤを備えており、牽引車で使用場所に運ばれた。その際最高速度は30km/hだった。
装填のためには砲身を水平にし、その際砲身は後端に取り付けたローラー装置によってカーブ体上を滑り、それは仰角をつける際にも役立った。
その後まず重量400kgの駆動弾薬筒をクレーンを使って前部から砲身内に差し込み、その後ロケットも同じ方法で入れられた。仰角をつけるとき、両部分は15mの長さの砲身内を後方に滑った。これで駆動弾薬筒に点火することができ、3段ロケットは砲身から射出された。個々の段の点火は前述の砲と同様に行われた。
このロケットは85cmの口径を持ったにもかかわらず、これも重量は2200kgとされる。
図3 発射状態にある85cmロケットランチャー
図4 85cmロケットランチャー用バレル運搬車
両兵器はラインメタルによって設計され、縮小モデルを使ってテストされた。残念ながらオリジナル兵器の製造はもはや行われなかった。いずれの兵器もロケット段を持つ弾丸の、射程210kmを達成するための発射に比較的少ない発射薬しか必要とされず、これにより発射の際の圧力を受容できる限度内に収めることができるという非常に大きなメリットがあった。
テクニカルデータ
ランチャー | 砲 | |
口径 | 85cm | 50cm |
走行状態での重量 | 2×40トン | 40トン |
運搬 | 2つの荷 | 1つの荷 |
砲身長 | 15m | 15m |
運搬状態での高さ | 3.25m | 3.25m |
運搬状態での幅 | 2.40m | 2.40m |
アーム込みの幅 | 7.00m | |
ロケット重量 | 2200kg | 2200kg |
発射薬重量 | 400kg | 300kg |
弾丸重量 | 350kg | 350kg |
炸薬重量 | 100kg | 100kg |
発射薬への点火 | 電気的 | 電気的 |
仰角 | 60度 | 60度 |
左右射角 | ±15度 | ±15度 |
初速 | 240m/s | 240m/s |
射程 | 約210km | 約210km |
車両に乗った50cmロケット砲のイメージからは、第二次大戦中に構想されたとは思えないほどの先進性を感じます。両者ともロケットでありながら通常のような装薬でまず射出されてからロケット噴射を始めるわけですが、50cmロケット砲は後方が解放された砲身から発射されるので反動がほとんどなく、このため車両に乗せたまま発射でき、一方85cmロケット迫撃砲は後部が閉鎖された砲身から発射するのでかなりの反動があり、大きな砲床で受けなければならず、設置に手間がかかったたということのようです。ただし後者も装薬のみで飛距離を達成するわけではなく、迫撃砲レベルのものなので比較的低圧であり(初速は低速ピストル弾程度)、例えば80cm列車砲「ドーラ」のようなオーバーな設備にはならなかったわけです。
以前アメリカの口径1ヤードという巨人砲、「リトル デービット」に関する記事を紹介しましたが、85cmロケット迫撃砲はあれとよく似ています。開発時期がやや異なり、そもそも85cmロケット迫撃砲は実物が完成していないわけですからストレートな比較はフェアでないかもしれませんが、分かっている範囲でスペックを比較してみましょう。
リトル デービッド(米) | 85cmロケット迫撃砲 | |
口径 | 91.4cm | 85cm |
砲身長 | 11.582m | 15m |
重量 | 90.6トン | 80トン |
弾丸重量 | 1653.45kg | 2200kg |
炸薬重量 | 724.80kg | 100kg |
射程 | 12km | 約210km |
砲のサイズも運搬、設置、装填方法も弾丸のサイズも非常によく似ているのに、炸薬量はリトル デービッドが7倍以上、射程は85cmロケット迫撃砲が17倍以上になっています。これはリトル デービッドが単なる巨大迫撃砲であるのに対し、85cmロケット迫撃砲の方は迫撃砲の形をしてはいても遠距離ロケット兵器だから当然のことです。約210kmの射程距離があるということは、終戦時はもちろん無理ですが、もしもっと以前に完成していれば、フランスの占領地からロンドンを狙うことも充分可能だったはずです。炸薬量100kgはV2の750kg(これはリトル デービッドに近いですね)に比べて相当に少ないですが、ロケット弾の製造コストが圧倒的に低いはずですからまあ引き合ったかもしれません。ただ、50cmと85cmの両ロケット砲の射程も炸薬量も同じで、前者が半分の重量で済み、車両で比較的高速で移動し、短時間で発射できるならば、後者の存在意義はどこにあるのかちょっと疑問になります。
私の世代は多段ロケットと言うとアポロを想像しますが、お読みのようにそんな複雑精巧なものではなく、原理的には手榴弾と大差ない遅延点火装置を使って個体燃料に次々に着火していく単純なものだったようです。しかしこれがアポロなど後の多段ロケット開発の際に大きなヒントになった可能性は高いと思われます。