幻に終わった世界初の戦車

 「Waffen Revue」4号に、オーストリア・ハンガリー帝国の将校がイギリスのマークI戦車以前に提案したという戦車に関する非常に興味深い記事が掲載されていました。


最初のドイツ戦車

前文


 1914年における第一次大戦開戦時、戦車を持っている交戦国はなかった。どちらの側にもいわゆる装甲車、つまり装甲された装輪車両はあったが、これらは通行困難な不整地で行動することも、フィールドにおける戦闘行為に参加することもできなかった。最初の戦車は1916年秋にイギリスによって実戦投入された。その後の1917年11月20日のCambraiにおける戦車が参加した会戦、そして1918年8月8日のAmiensにおける霧の会戦(人呼んでドイツ陸軍の暗黒日)によって戦車の時代に入った。ドイツが大敗し、連合軍戦車部隊が大勝した日である1918年8月8日は第一次大戦を決定づけたとさえ主張される。

 それでなくてもすでに悲劇的なこうした全ての複合事情をさらに悲劇的にするのは、ドイツが最初の戦車を作る可能性を持ち、そしてこの1回きりのチャンスが悲惨にも過ぎ去ったことである。

世界初の戦車

 1903年、オーストリア・ハンガリー帝国陸軍の担当官Gunter Burstyn(頑住吉注:前の「u」はウムラウト。ギュンター バースタイン)は魚雷艇に乗っての走行を行った。そして重装甲され、強力に武装した車両を考えた。「陸上にもこんなものを持つ必要がある。例えば魚雷艇のようなもの。敏捷な車両であり、敵の銃火、それだけでなく大砲による射撃からさえ守られたものを。」

 しかし彼は再び陸に戻り、より上級の工兵コースへの入学のための試験に向けて準備しなくてはならなくなった時、彼は自分のアイデアを忘れた。

 だが1905年春、彼は自分のアイデアを思い出した。ウィーン初の自動車展示会において、彼はダイムラーによる装甲車に目を引かれた。彼はこの車両と、彼の「陸上魚雷艇」のイメージとを比較した。そしてダイムラーの車両は彼の目標の途上にはあるものの、彼の目標からは大きな距離があることを確認した。この構造で彼にとって特に障害となったのは、不整地での走行に適さない車輪だった。

 しかし彼には自分のアイデアを実行に移す時間がなかった。彼は従事していた要塞の建設に忙殺され、この仕事は多くの問題を含んでいた。彼の「陸上魚雷艇」は姿を消した。

 1911年、後の第一次大戦における同盟側の周囲に差し迫った暗雲が現れていた時、ついに彼は再び自分のお気に入りのアイデアを思い出した。彼は自分の考えを紙の上に書き出すことを始め、そのような車両が持たねばならない最重要の性質をメモし、そしてその際彼が一度要塞砲兵隊の演習の際に見ていたプレートベルトを思い出した。火砲の車輪に巻かれた鉄板からできたベルトは柔らかい地面への火砲の沈下を防いでいた。つまりこのエンドレスのレールこそがまさに解決策だったのである!

 この時Burstynは自分の「エンジン火砲」(頑住吉注:ニュアンスとしては「自走砲」に近いのではないかと思われます)がどのような外観を持つかを突然に知った。彼は完全に新形式で個性的な外観ではあるが、後に作られた多くのタンク群の全ての性質をすでに当時にして併せ持つ車両を設計した。

 通行困難な不整地克服のため、彼はプレートベルトと呼んだような「スライドバンド」を設計した。車両の負荷を分散するため、彼は従来普通だった4輪の代わりに10輪を選択した。彼は当然、このチェーンでは柔らかい地面の上を確実に走行できるが、路上では遅すぎる前進になることを知っていた。つまり彼は追加的な2つの車輪ペアを取り付けた。これはその後では自動車のように走れるように路上では下ろすことができた。

 彼はまだ前進可能性に完全には満足しなかった。こうした車両は急な丘にも立ち向かってよじ登り、また壕も渡ることができるだろうか? 彼はこれを疑い、前後に1本ずつの力強いアームを設計した。このアームは車輪上に収納され、戦闘室からバーで上下させることができた。図1はアームの配置を示している(頑住吉注:後に挙げるページに画像があるので省略します)。このアームによって今や壕を越えること、登り坂を克服することができたのである。これは天才的アイデアであり、すぐに真似されるはずだった。

 少なくともBurstynは歩兵の攻撃戦術が根底から変更される戦闘車両を設計したと確信した。チェーン状、ライン状に配置された歩兵の代わりに歩兵の小グループがこの戦闘車両に守られて敵の前線に前進するのである。歩兵はもはや無防備に敵の射撃にさらされない。彼の「エンジン火砲」の砲は突撃する歩兵の火力を予想外の規模で高める。

 彼の成功したセンセーショナルな発明に関する高揚した気持ちの中で、Burstynは全ての技術的細目を紙に書き出した。書類はこれを解説し、そして人が彼の天才的アイデアを誤解しないための全ての対応する図で飾られ、詳細な補足説明とともに彼の設計の基礎資料も入れられていた。彼は全てを大きな封筒に入れ、それに「オーストリア・ハンガリー帝国国防省 ウィーン」と宛名を書いた(頑住吉注:違和感があるのでこう訳しますが、直訳すれば「戦争省」です。以下他国のそれも全て同じです)。

 そしてこれに続いたのは待ち人にとっての不安な複数週だった。彼は待ち、そしてまた待ち、今すぐさらに必要な解説を加えることができるように出頭を求められることを望んだ。彼は自分の提案が2つのミスを含んでいたことを知らなかった。第1に彼が階級の低い中尉であること、そして第2に技術的興味を前提としたことである。残念ながらこれは国防省の人々には欠けていた。よりにもよって一中尉が「近代戦争遂行におけるコロンブスの卵」に成功するだろうとは単純に想像できなかったのである。比較的安全に戦場を渡って行き、壕や登り坂を克服し、歩兵に防御を提供し、その上なお砲を発射できる車両……つまり走行する要塞であるが、これは単純に馬鹿げたことだった。

 Burstynの発明は管轄部局から管轄部局へと渡り歩いたが、至る所でさげすんだ笑いと首の振りを引き起こし、再三にわたってたらい回しにされた。(頑住吉注:前例のない戦車という兵器に関する)管轄権を持つ者が誰もいなかったからである。

 そして最終的に次のような書類ができた。

1911年10月17日提出
件名:エンジン火砲
鉄道連隊のBurstyn中尉より送られた設計

論評

 
 提出されたプロジェクトは第1に自動車的な立場から判断しなければならない。何故ならこれは新形式の不整地走行のための車両構造を意味するからである。この場合そもそもこの車両が火砲の運搬のため、あるいは何か他の目的を視野に置いているのかは重要でない。

 そういうわけでこのプロジェクトは自動車部門のリーダーに送られた。その意見書は同封の「論評」の中に印刷されている。

 この意見書に基づき、提出されたプロジェクトは陸軍行政の予算を使ってのテスト対象を形成するには不適格である。

 そういうわけで陸軍行政の予算によって彼のプロジェクトを進めることは受け入れられないということを提案者に通知することが要求されている。

オーストリア・ハンガリー帝国国防省第7部署長:署名

1911年12月22日


 世界初の戦車を作り出していた天才的な人物のすばらしいアイデアは見誤られた。このアイデアは壮大だったために机上の空論の域を出るものと見られなかった。つまりこの提案は却下され、論じる価値がないとして投げ捨てられた。そしてそれはさらに破局的な結果をもたらすことになるのである!

 Burstynはこの打撃から比較的急速に立ち直った。ウィーンにおいてこの画期的発明への理解力が求められないもにしても、ベルリンでは進歩的に対応されるに違いない。彼はそう考えた!

 少なくともBurstynは自分の発明をベルリンでパテント出願した。この時Burstynと同時にアメリカでキャタピラ駆動方式が開発されていたという偶然が主張されている。この駆動方式は「キャタピラ」の名の下に農業用機械のためと定義付けられていたが、Burstynの「スライドバンド」と似ており、2、3週間早くパテント申請されていた。そして要するにこのスライドバンドはすでにパテントで保護されていたがゆえに、Burstynは彼の発明のパテント申請を、彼が「不整地障害克服のための装置」と呼んだ超壕アームに限定しなければならなかった。この発明はパテントナンバー252815を得、1912年2月28日以後パテントで保護された。


帝国特許局
パテント書類

ナンバー252815
クラス63c、グループ26
オーストリア、Korneuburg在住Gunter Burstyn
不整地障害克服用装置、特にエンジン付き車両用
ドイツ帝国では1912年2月28日以後パテント承認

 この発明はエンジン付き車両を想定した、これを使って壕、段差、鉄道の土手状隆起のような不整地の障害を越えるための装置に関係する。

 図1および2はエンジン火砲用に使用されたこの装置を示している。車両の前後には各1ペアのアームGが取り付けられており、このアームは外側の端部に小さく幅広い車輪rを搭載している。アームは軸Aをめぐって垂直にスイング可能である。この運動はアームを支えている筋交いSによってなされる。筋交いSの下端はアーム内に回転可能に固定されており、その上端は十字型ヘッドKとして形成されている。この十字型ヘッドKはレールF内をスライドする。レールFには軸方向にスライド可能だが回転は不可能な棒状部品Dが固定されている。この棒状部品Dの駆動はべベルギアTを介してエンジンによってなされる。この駆動のギアが入れられると棒状部品Dは前または後方に動く。これにより十字型ヘッドKも同様に前後動し、筋交いSは前に押されるか後方に引かれ、そしてこの方法で車輪rは下に押されるか持ち上げられる。

 図3から8は「エンジン火砲」に取り付けられたこの装置の不整地における段差を越えるための使用を示している
(頑住吉注:これも後に挙げるページに画像があるので省略します)

パテント請求

 特にエンジン付き車両用の不整地障害克服のための装置であり、車両の前後部分に上下にスイング可能に取り付けられたアーム(これの車両から出された端部には車輪が備えられており、車内から不整地障害の克服のため適切に調節できる)によって特徴付けられる。



 パテント申請と同時にBurstynは彼の発明をドイツ国防省にも提供した。彼は彼のエンジン火砲の全てのメリットを強調し、この車両の際立った不整地走行能力を指摘し、技術的性質や実地での使用に関する説明も欠かさなかった。

 当時の概念では強い装甲は敵のマシンガンやライフル射撃に対する充分な防御を提供した。この状態で砲兵の標的として役立たないため、車両は小さく、運動性のいいものに留められた。それだけではなく、この戦闘車両は実際上その場で旋回できることが予定された。要するに1本のキャタピラを前方に、そして同時に他を後方に走らせることができることによってである(頑住吉注:いわゆる超信地旋回)。戦闘室とエンジンルームは厳格に分けられていた。回転砲塔には口径3〜4cmの速射砲が収められるはずだった。外部に取り付けられた車輪(パテント書類内では言及されていない)は戦闘室から下ろし、この結果戦闘車両は今やこれら4つの車輪で、路上を30km/時の速度で走行できた。これに対し不整地では約9km/時を出すことができた。Burstynは本当にこれら全てを考えていたのであり、ただ彼の発明の完璧さが軍人たちに空想的に見えただけである。

結論:ベルリンもこの画期的な発明を却下した。今日では最も大胆な夢想の中で、Burstynのモデルにならった最初の戦車がドイツサイドに実戦投入されていたらどうなっていたかを思い浮かべることができるだけである。

あるスパイが成功した


 ベルリンには1910年以来、パテント書類の調査研究に従事するイギリスの通信員、W.John Crakがいた。ひょっとすると彼は、1912年に「戦争技術の雑誌」第3号の中にこの新発明に関する長い論文が掲載されていなかったら、そしてその中に実地での使用可能性が非常に詳細に指摘されていなかったら、Burstynのパテント書類にさらなる注意を引かれなかったかもしれない。Carkは少なくともこの記事に国防省よりも大きな関心を示した。彼はパテント書類ナンバー252815、そして専門誌の中でこのテーマを扱った全てのレポートを入手した。その中には「Streffleurの軍事雑誌」の詳細な論文もあった。そしてさらに彼はウィーンもベルリンもこの発明の価値を理解していないことを探り出すことができた時、集めた資料をこれに対応するレポートと共にイギリスに送った。

最初の戦車

 戦車の誕生のさらなる経緯に関してはいろいろな説がある。これは最初の戦車の開発は厳しい秘密保持の中で進められたからであり、また他の面ではイギリス人が最初のタンクを作った、そしてそれにより発明もしたのだという名声を得たがっているからで、恐らく真実は決して知らされることがないだろう。

 イギリス人のSwinton大佐が前述のキャタピラの発明によって似た車輌を戦闘車両として作るというアイデアに至ったとする主張がある。他の人々は他の人々で、送られたW.John Crakの資料がイギリスの将校たち、Hetherington少佐、Swinton大佐、Hugh Elles大佐に送付されたのか、そしてつまり彼らがこのBurstynの発明をイギリス国防大臣に提出したのかを知りたがっている。この車両が技術的に実施可能であるかどうかという大臣の質問に対しては、この男たちは当初考える時間をくれるよう頼んだとされる。しかしその後、この質問は肯定的に回答された。

 イギリスがどのようにこの開発を開始したのかに関してもこれまで紙の上の資料しかない。Burstynが彼の「エンジン火砲」のプロトタイプ1台を作るため、そして責任ある人々見せるために必要とされる手段を持たず、また国サイドの人間が彼にこの手段を与えることを許可する用意がなかった一方で、Swintonは彼の提案の実現に着手した。

 さらなる経過は知られているだろう。水タンクとして偽装され、厳しく秘密保持されて開発された戦車は最終的に「タンク」として歴史に登場するのである。

ベルリン、目をさます


 1916年、ついに準備が整った。1916年1月16日に完成したプロトタイプのKitchener卿、ロイド ジョージ、バルフォア、マッケンナ財務大臣の前での大規模な実演が完全に満足させる結果になった後、世界初の戦車である「マークI」100輌の製造に向けた注文が与えられた。何カ月かしか経たない1916年秋、当初わずかな、その後どんどん多数のイギリス製「タンク」が前線に姿を現した。

 最初のタンクの効果と成果に関しても相互に矛盾した報告がある。ドイツ当局側は当然、タンクの傷つきやすさを指摘し、この怪物によってもたらされた危険を些細なことのように見せることに終始した。しかしかつて敵戦車の群れと対峙した人は、全く予期しなかったこの鋼鉄の巨人の出現によって第一次大戦の兵士がどのような影響を受けざるを得なかったかをありありと思い出すことができる。

 イギリス紙は多くの記事の中で、この新兵器に直面したドイツ兵の困惑に関し報じた。多くの挿絵の中でこの車輪に乗った火を吐く要塞の恐るべき効果が示された。

 少なくともウィーンとベルリンの国防省の人々は目からうろこを落とされたようにならざるを得なかった。彼らがどんなチャンスを逃したのか、そしてその災いが彼らがBurstynの発明を傲慢さをもって却下した際に引き起こされたのだということを確認しなければならなかった時、一体彼らは何を感じただろうか。

 この時、このミスを償うことが試みられたが、それはすでにあまりにも遅すぎた。戦争を新しい手段で自らに有利に決定づけるたった1度の機会は無意味に逃された。だが人々はまだ打ちのめされなかった。徹甲弾が開発され、対戦車戦闘のための軽迫撃砲による実験が行われ、対戦車グレネード「K.Gr. 15m P」が開発され、対戦車射撃のための低い車輪を持つ新形式の軽量化された野戦砲96型(F.K.96n/A 頑住吉注:英語に直訳すれば「フィールドカノン96ニューアート」となる名称を略したもの)を持つ近接戦闘砲兵50個中隊が編成され、対戦車防御用3.7cm塹壕砲が採用され、さらに他の兵器も対戦車戦闘用に改造された。

 しかし遅れを取り戻すことも試みられた。1916年11月13日、国防省は交通技術検査委員会に不整地用戦闘車両の開発を委託した。ドイツが終戦までにそれでもなお全部で20台の戦車を前線に持ち込むことができたことをとやかく言える人は1人もいない。

 ベルリンのドイツ自動車製造会社のJosef Vollmer主任技師の指導の下、彼の部下および他から選抜された戦車製造のために候補となる工場の技師たちが大急ぎで設計作業(より正確に言えばまず初めにシャーシの設計作業)を進めた。すぐに不整地走行能力を持つ車両のためのプランを国防省に提出することができた。30トンという駆動重量が予定されたため、200馬力のエンジンが必要となると計算された。そしてこのように強力なエンジンはドイツでは作られておらず、急ぎの中で開発することもできなかったため、その位置にそれぞれ100馬力の2つのエンジンを取り付けることが決定された。それはダイムラー ベンツ工場によって困難なしに供給され得るものだった。

 だが当初この「不整地車」は弾薬運搬車としてのみ使用されることが考えられていた。この開発に責任ある部署、「全般的戦争省、第7部署、交通担当」から、この車両は「ドイツの不整地車 A.7V」の名称を得た。

 1917年春、ベルリンのMarienfelde実験場において木製の構造見本を使った最初のシャーシの提示が行われた。まだいくつかの変更が行われなければならなかったにもかかわらず、国防大臣von Stein将軍は設計者Vollmerに承認を言い渡した。しかしLudendorffの緊密な共同作業者だったBauer中佐の前でのMainzにおける2回目の実演の後になって初めて100のシャーシの注文が与えられた。これは一部が不整地車に、そして一部が戦車に使われる予定だった。最終的には、正式名称「重戦車A.7V(Vollmer構造方式)」の名を得、しかし後には「戦車A.7V」と呼ばれた戦闘マシンの製造も決定された。

 この時大きな1歩が踏み出されたが、悲劇的にも再び似たような2歩後退が続かざるをえなかった。まだA.7Vが完成せず、そして当然戦闘テストもされていなかった時、ある新しい戦車「大戦車」が提案された。その150トンという重量により、それは空想家の妄想としか呼ばれ得なかった。そのような車両がどのようにして路上を動くべきなのだろうか? どのように橋の上を走行し、どのように不整地上を動くべきなのだろうか? この怪物のための製造司令書は主任技師Vollmerに鑑定のために提示された。彼は詳細に彼の考え、そしてそのような巨人車両の無意味性の根拠を挙げた。彼がその開発に関し決して信用されていなかったはずであるように、Vollmerも大戦車の開発に全く価値を認めなかった。何カ月かの間このプロジェクトはなお計画者の頭の中につきまとい、その後消えた。しかしこの計画の結果は二度と再び埋めあわされなかった。A.7Vのための貴重な時間は失われた。

 だがついに1918年3月、最初の5輌のA.7Vが前線にやってきた。そして1918年3月21日、St.Quentinにおける最初の実戦投入でこの車両は素晴らしく真価を示した。このためそれでもまだ完全に遅すぎる登場ではないかのように思われた。この車両は大量に製造されることが意図された。運転免許を持つ兵、そして機械工としての経験を持つ兵は(頑住吉注:本当の目的を秘匿するため?)動力走行部隊の監督のため続々とベルリンに集められ、そしてそこから「秘密ミッションで」、戦車製造を共に手伝うためMarienfeldeの「Bras&Gerstle」社、ダイムラーエンジン工場などに回された。だがすぐに次なる遅延が起こった。ドイツ海軍の戦局はどんどん悪化していた。Uボート兵器の強化が命じられ、またUボートは成果を挙げていた。Uボートは作られたが、残念ながらA.7Vにとってはこれは不利だった。その製造にはこの時再びブレーキがかかった。

 そしてこのためドイツはドイツサイドに同様に投入された少数の鹵獲タンクとならんで、敵サイドの戦車約6000輌に対し終戦までに全部で20輌のA.7Vを実戦の場に届けることができただけという結果になった。全ての不運ゆえ、この車両の製造は1918年9月12日にL.K.IIに有利になるように中止された。しかしこれは完成が遅すぎ、もはや前線には登場しなかった(頑住吉注: http://www.panzermuseum.com/battle-tank/lk-ii.html )。

「重戦車A.7V(Vollmer構造方式)」


 残念ながら、軽量で、運動性がよく、良好に装甲され、適切に武装され、目的にかなった推奨がなされていた車両であるBurstynの提案が取り上げられなかったことは基本的に確認しなければならない。その代わりに全くのろく不整地上を動けるだけの、登り坂では簡単に転覆する、そしてさもなければ敵砲兵隊のターゲットとして利用されざるを得ない珍品が製造されたのである(頑住吉注:以下は今回の趣旨と関係ないA7Vの詳細な説明なので次の機会にします)。


 この「エンジン火砲」に関してはこんなページがありました。

http://www.landships.freeservers.com/burstyn_tank.htm

http://www.doppeladler.com/kuk/burstyn.htm

 後者には、パテント図面では複数のイラストで説明されている超壕用アームの使われ方をアニメーション化した図もあります。ホワイトメタルキットって日本にも輸入されているんでしょうか。値段にもよりますけどちょっと欲しいです。

 あるいは戦車マニアにはある程度知られているのかもしれませんが、私はこの件を全く知らなかったので非常に興味深かったです。手持ちの本を探しましたが、ごく簡単に文章で触れている本が1冊見つかっただけでした。また検索してもこの件に触れている日本語のページは見つかりませんでした。

 私はこの話を読んで二宮忠八を思い出しました。凧作りの天才だった彼はライト兄弟の飛行前に「飛行器」を考え出し、実際に飛ぶ模型も作っていました。実機を作ることを熱望しましたが、当時まだガソリンエンジンは個人では到底手が出ないほど高価だったので、彼が属する陸軍の上司に「飛行器」のプランを提案し、資金提供を求めました。しかしこれは却下され、軍を辞めて独自に「飛行器」を作るため長期にわたって資金を貯めている最中にライト兄弟初飛行の報道に出会いました。軍に理解があれば日本人に史上初の動力飛行という名誉が与えられていた可能性が高かったわけです。私がこれまでギュンター バーンスタインの「エンジン火砲」について知らなかったように、海外で二宮忠八の「飛行器」を知っている人は少ないでしょうし、この手の話はたぶん世界各国にあるんでしょうね。

 「エンジン火砲」は、回転砲塔に砲を装備している、(この時点で敵戦車などいないにもかかわらず)対戦車戦闘用に向いた長砲身の砲を装備している、足回りにサスペンションがある、超信地旋回ができる、戦闘室とエンジンルームが厳然と分けられている、など信じられないほどの先見性を示しており、これらは第一次大戦中に登場した実際の戦車の大部分、あるいは一部が持たずに苦労した性質でもあります。「エンジン火砲」は、第一次大戦に登場してその後の戦車の基本デザインを決定したとも言われる歴史的大傑作ルノーFTよりも明らかに後の戦車に外観が似ています。

 ただし超壕用アームと路上走行用車輪については優れたアイデアではあると思うもののちょっと疑問が多いです。そもそもキャタピラが必要とされるのはキャタピラによって接地圧を下げなければ走れないような場所で使用するためであり、またこのアームは明らかに最悪クラスの不整地のためのものです。当然壕や段差を越えた先もまた最悪クラスの不整地である可能性が高いことになります。と言うことはその先に小さな車輪を持つアームを当てて踏ん張ったりしたらずぶずぶと沈み込んで動けなくなる可能性も高いのではないでしょうか。走行用車輪は後のクリスティーによる、キャタピラの駆動輪を接地させ、キャタピラを外せばそのまま走れるアイデアの方が優れているでしょう。アームも車輪も構造として複雑になりすぎ、重量増加、被弾に対するもろさなどの問題を生じさせた可能性が考えられます。その後の戦車でこうしたものを装備して成功したものはないわけですから、現実性は薄く、実際作っても成功したものにはならなかったでしょう。

 先にあげた2つのページのうち後者はドイツ語で、こちらも非常に興味深い内容を含んでいるので後日内容を紹介する予定です。今回の「エンジン火砲」開発の経緯については誤りと思われる記述があり、この点にはその中で触れます。









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