G3の歴史

 「G3の歴史」というページがありました。「Visier」1993年12月号の内容を転載したものということです。2005年3月号にG3に関する特集記事があり、その時歴史に関し詳しく触れられていないことに不満を持ちましたが、以前詳細に触れたからということだったようです。

http://rk-westhausen.regioforum.de/info/bw-waffen/geschichte_g3.html


G3の歴史

何年もの間、若干数の技術者がローラー閉鎖機構をものにしようと試みていた。それをやってのけた時、彼らは世界初の新しいライフルを望んだ。G3の歴史。

 死んだと言われた人はより長く生きている。何年も前からドイツの報道、特に「Der Spiegel」はドイツ連邦国防軍のゲベール、G3の終わりを公言していた。ほとんど40年前から勤務についているこのNATO銃器の後継機としては、ケースレス弾薬を射撃するG11が勤務につく予定だった、しかしこの可動式に支持されたローラー閉鎖機構を持つ古いリコイルローダーは、再統一されたドイツの軍隊によって21世紀に入ってもなお携行される。多数の他の国々の陸軍と全く同様に。

 このオベルンドルフで作られたストゥルムゲベールは世界中のほとんど至る所で射撃されている。すなわちノルウェーの祖国防衛民兵組織、そして同様にアメリカの警察特殊部隊(SWATチーム)で、だがそれだけでなく湾岸地域、中央アメリカのような戦争地帯においてもである。これによりドイツ連邦国防軍のスターとそのメーカーは、何度も何度も政治的な批判の的となった。特に紛争ゾーンへの違法な戦争用兵器輸出を理由とする捜査手続きが再三世間を騒がせた。

 80の国々が、ドイツ連邦国防軍によって「G3」と呼ばれるこの口径7.62mmx51(.308)のゲベールまたは5.56mmx45(.223)仕様のそのバリエーションを正式に使用している。そうこうするうちに15カ国を越える国がこのヘッケラー&コックによって開発された銃をライセンス生産している。St. Etienne所在のフランス国営銃器工場内、エンフィールド工場ローヤルオーディナンス内にG3製造所を建てたフランス、イギリス人の他に、イラン、サウジアラビア、マレーシア、ビルマ、メキシコ、ブラジル、タイ、パキスタンがこの銃を生産している。スナイパーバージョンや軽機関銃もとっくにG3銃器ファミリーに属している。ワールドワイドに有名なマシーネンピストーレ構造シリーズMP5でさえ、G3のクローズドボルト閉鎖機構システムをベースにしている。だがこのヘッケラー&コックのゲベールは回り道を越えて初めて成功に至った。と言うのは、最初の開発局面は無の中に終わったからである。

 ミハエル カラシニコフの伝説的なAK-47同様、G3も元々第二次大戦の産物だった。このゲベールの歴史はヘッケラー&コックが存在する前である1941年に、オベルンドルフのモーゼル工場ですでに始まった。当時Ernst Altenburger指揮下の軽火器部門の設計者たちは、手動連発銃98kの代替品に関し熟考していた。モーゼルは(ただしライバルのワルサーも)陸軍兵器局にセミオートマチックのゲベール41のバージョンを提出していた。ワルサーモデルの大量生産がより少ない時間しか必要としなかったため、Zella Mehlisの会社(頑住吉注:ワルサー)がレースをものにした。

 モーゼルはコース変更をもって反応した。すなわち、Ernst Altenburgerは新しい銃器開発に際し、「最初から金属薄板製を考慮せよ」のスローガンを打ち出した。金属薄板プレス技術によれば製造時間を極度に短縮できるだけでなく、素材や製造コストも大きく減らすことができた。その上金属薄板製銃器はフルなマテリアルからフライス加工された品よりずっと軽かった。

 モーゼルの設計者たちはすでにマシーネンゲベール34および39/42の2機種を金属薄板プレス技術で製造していたので、この手法の問題点を知っていた。すなわちフルオート射撃の連続によって極度の負荷がかかる閉鎖機構の耐久性である。最終的にAltenbergerの部門は、円筒形ローラーの形をしたロッキングエレメントの採用を決定した。これはMG39/42の場合とは異なり、半球状部分内にジャケット領域の一部があてがわれるものだった。このローラー閉鎖機構を完成させるため、モーゼルはいろいろなプロトタイプ、特に1挺のマシーネンゲベールと、「43」と呼ばれたクルツ弾薬8mmx33ポルテ用の軽量でフルオートマチックなカラビナーを作った。

 1942年初めにはすでにこの最初の「マシーネンカラビナー」が作動した。この銃は固定バレルと固定してロックされるローラー閉鎖機構を持つものであり、「器具06H」としてG3の歴史の中に登場した。だが開発はこれをもって終了には程遠かった。と言うのは、強い跳ね返りエネルギーが固定したロックを行うローラー閉鎖機構を再三にわたって摩耗現象に導いたからである。ついに呪文が唱えられた。「半分固定のローラー閉鎖機構」。だがまだ器具06Hを魔法で出現させることはできず、技術者たちはこの銃に1943年初め、全く新しい閉鎖機構を組み込んだ。彼らは苦労してチャンバー内に負担軽減ミゾ(頑住吉注:フルート)を手で、ゲベールを使用不能にすることなく刻まなければならなかった。若干の開発者は閉鎖成績をいかに改善できるかで、この銃の上で頭を爆発させた(頑住吉注:完全に直訳ではないですが、きわめて近い表現が使われています)。その中にはWilhelm Stahle(頑住吉注:「a」はウムラウト)もいた。彼は多くのエキスパートの中でも半分固定のローラー閉鎖機構の発明者に該当する。これに反し、他の人は技術者Johannes Grossfussがこのシステムのの父であると主張している。

 だがモーゼルは当時としては異例な方法で正しい道を行った。すなわち従来設計者たちは初めに実地の中に解決策を探し、その後で自分のインスピレーションを検算させるために理論家の所に行った。これに対しモーゼルの研究施設出身のKarl Maier博士は、半分固定のローラー閉鎖機構の原理をまず机上で立案し、引き続いてその認識を(頑住吉注:開発リーダーの)Altenburgerに回した。

 部門の長(頑住吉注:Altenburger)は当初懐疑的に頭を振らざるを得なかった。と言うのは、この閉鎖機構バリエーションもなお大きな跳ね返り傾向に苦しんだからである。射撃部門におけるフルオートテストの際、この閉鎖機構は再三にわたって毎秒約20mという極端な速度でオープンした(頑住吉注:「大きな跳ね返り傾向」という直訳は分かりにくいですが、ここまで読んで要するにボルトが速く後退しすぎることだと分かりました)。

 これに対しノーマルな数値は毎秒6から9秒までと設定された。(頑住吉注:毎秒約20mという)この異常な数値は後部部品を力強く押し潰した(頑住吉注:「底部部品」とは閉鎖機構が後退しきってぶつかる、ストック基部の部品のことです)。極度の閉鎖力が生じていなかったからである。

 それにもかかわらず陸軍兵器局は1943年夏に4挺のさらなるプロトタイプをオーダーした。開発者は全ての問題を克服するために大馬力でテストプログラムを実行した。11月までにモーゼルは最後の問題を片づけ、1944年初めにはKummersdorf所在の陸軍テスト場でテスト射撃を始めることができた。全てがすらすらとうまく行き、テスト者は熱狂した。この銃は重量8ポンドしかなく、そしてこれによりワルサー/ハーネル製ストゥルムゲベール44よりも3ポンド弱軽かった。しかし他のファクターもこの新しいモーゼルモデルに有利に働いた。すなわち、ザクセンのBad Riesa所在のDurenberg(頑住吉注:「u」はウムラウト)製造技術事務所の調査によれば、製造には7と1/2労働時間しか要しなかった。これに対しStgw44のためにはメーカーは14時間必要とした。

 この器具06Hをストゥルムゲベール45(M)として採用する目標を持って、陸軍は30挺のゼロシリーズを部隊テスト用に注文した。しかしそうこうするうちにこの3千年の帝国は急ぎ足で当然の終末へと急いで行った。これはどんな驚異の兵器でももはや遅らせることはできなかった。ベルリンがすでにロシア人の射撃下にあり、最後のナチ党幹部たちが防空壕内で大いなる誘惑者の誕生日を祝っていた一方で、1945年4月20日、フランス部隊がオベルンドルフに入った。彼らは特にほとんどコンプリートな、30挺の部隊テスト用銃器の部品セットを発見した。このうちたいていはイギリスやアメリカの博物館に送られた。こうした中で研究施設のモーゼル技術者たちも四方八方に散って行った。オベルンドルフでは当面操業が休止された。

 モーゼルの開発施設にはかつて720人の従業員がいたので、当然Stgw 45の閉鎖機構原理は多くの父を持っている。しかしこのプロジェクトに最初から最後まで従事していたのはわずかのみであり、そしてこの終末を越えてさらに従事したのもわずかだった。こうした忠実な従者の1人がモーゼルにおける「軽火器のための設計部門」出身のLudwig Vorgrimlerだった。必要に迫られて彼はまず1947年に138人からなる開発グループに参加した。このグループはかつてのモーゼル技術者と専門労働者からなり、フランスの軍需産業が仕事とパンを見いだしていたアルザスのミューハウゼンに所在していた。そこでプロジェクト06H、別名Stgw 45も再び話題に上がった。少なくともこの半分固定のローラー閉鎖機構が何年もたたないうちに、新しいフランスの機関銃構造AA52の内部に出現したことは確かである(頑住吉注: http://world.guns.ru/machine/mg09-e.htm )。

 だが同時に、06Hストゥルムゲベールプロジェクトの再誕生をそのおかげとすべき第2の外国とのつながりが始まりかけた。1949年、終了資格を持つ技術者であり、かつてのグストロフ工場のジェネラルディレクターであり、Speer省(頑住吉注:意味不明です)における「オートマチック銃器」主要委員会代表責任者だったWerner Heynenはスペイン政府の代理人たちの訪問を受けた。彼らは彼に、彼の古い職に復帰するチャンスを提供した。Heynenはドイツの銃器スペシャリストを編成し、指揮することを意図した。発展するスペイン軍需産業に必要なノウハウを伝えるためにである。

 Heynenが呼びかけたエキスパートにはVorgrimlerも属していた。彼は喜んでミューハウゼンに背を向けるはずだった。そこの労働条件が気に入っていなかったからである。だがこれはそう簡単なことではなかった。すなわちフランスは彼にパスポートを発行することを拒否した。ついにVorgrimlerは事前申請なしにアルザスから姿を消して1950年9月に密かにスペイン国境を越えた。

 Vorgrimlerが新しいポストについた時、多くの仲間たちがイギリスとアメリカの占領ゾーンからすでに1月以来開発作業を行っていた。このプロジェクト群には、2人のかつてのラインメタルにおける専門家がすでに設計していたモダンなストゥルムゲベールも属していた。これは計画された口径7.92mmミドル弾薬用の支え跳ね蓋閉鎖機構を持つロックされたガス圧ローダーだった。

 2人のラインメタル技術者は鋭いまなざしでモーゼル社由来の新入りの仕事を監視していた。半分固定のロッキングを伴うリコイルローダーというVorgrimlerのアイデアはかつてのライバルに疑念を抱かせた。その上、押収されたStgw 45部品セットを組み立てた複数の銃のテストは、そしてスペイン人の計算もまた、再三にわたって器具06Hのアキレス腱を見せていた。すなわち、このローラー閉鎖機構は以前同様、そのフルオート時の高い後退速度で苦しんでいた。おまけにVorgrimlerは彼のアイデアを言葉の問題によってスペイン人にほとんど説明できなかった(頑住吉注:そりゃそうでしょうな。言葉の問題がなくてもうまく説明できる人が少ないんですから)。このため彼は自分のデザインを、「このドイツの研究グループはこのモデルを単にガス圧ローダーの一種の予備として続行するのである」という留保条件下でのみ扱い続けることが許された。

 プロトタイプの製造にも困難があった。適した深絞り加工用金属薄板を製造したがるスペインの会社がなかったからである。国営工場は鼻にしわを寄せてプレス技術を却下した。彼らは完全にフライス加工されたスチールから来る品質が唯一の真理と考えていた。……第二次大戦前のドイツのメーカーと全く同様に。マドリード近郊のPinto所在の小さな工場だけ、この金属薄板を製造することを説得してやらせることができた。この素材が到着した時、研究グループは新しいゲベールを、急いで作った応急の工具で組み立てた。この銃の名称は誕生場所「Centoro des Estudios Tecnicos Materiales Especiales」から「Cetme」となった。

 1951年6月2日、Vorgrimlerにとって自分のプロジェクトの未来を決定することになる日がやってきた。すなわちPrado近郊で大元帥フランコに、最高度に私的にプロトタイプを見せることができたのである。このために必要な弾薬もまた地元で作られた。Vorgrimlerの仲間であるGunter Voss(頑住吉注:「u」はウムラウト)博士は口径7.92mmで極端に長い弾丸を持つ弾薬を設計した。彼は発射薬をベルギーから調達しなければならなかった。と言うのは、現場には制式弾薬8mmx57用の細かいリーフ状火薬しかなかったからである。Vossが弾薬を作った一方で、Vorgrimlerは必要なテスト銃を設計し、作った。テスト射撃場はフランコが世話した。彼は工兵1個中隊に、長さ600mの林道を森の中に切り開くことを委託した。と言うのは、設計者はこの距離で自分の銃の性能を証明することを意図したからである。

 Vorgrimlerがまだ自分の銃で決してそんな遠くを撃ったことがなかったにもかかわらず、彼は全ての出席者に命中成績で強い印象を与えた。これに対しライバルはそのゲベールでいらだたせた。このモデル1との名称がつけられたガス圧ローダーがいらだたせたのはそもそも問題点によってではなく、この日には展示物しかなかったのである。このためVorgrimlerは3挺のさらなるプロトタイプの注文を得た。1952年11月、全てのテストモデルがすでに10,000発を越える射撃をこなしていた一方で、モデル1の機能の証明は依然としてできていなかった。

 だがセトメリコイルローダーは以前同様高すぎる跳ね返り速度に苦しめられていた。閉鎖機構部品の破損さえもたらされた時、パニックが広がった。しかし急いで決定された、自分で作った並行光器具による運動力学的調査の後、研究グループは解決策を見いだした。彼らはフルオート時の作動確実性を保証するいわゆる跳ね返り妨害器を開発した。これにより部隊テストへの道が開かれ、セトメは100挺および120挺の2つのゼロシリーズを製造した。

 だがそうこうするうちにドイツ国内でもいくつかの動きがあった。ボンの政治家たちは熱心に軍再建に向け仕事をした。当然そのためには銃器も必要だったので、ドイツのBlank局(後の国防省同様すでにこう呼ばれた 頑住吉注:「Blank」には「抜き身」などの意味があり、文脈上国防省およびその前身のあだ名と思われます)の役人たちは慎重にかつての軍需諸工場に最初のコンタクトを取った。1945年の完全武装解除以来銃器メーカーはもはや平和的製品製造しか許されていなかった。しかしたいていの会社はかつての従業員がどこに潜んでいるかをまだ知っていた。このためボンの政治家たちはスペインの国防評議会の長にも相談に行った。そして彼らはVigon将軍が、ドイツ人ゲスト労働者の開発品を完全に彼らの祖国に役立ててもよいという見解を支持するという幸運を手にした。同時にアメリカ人は彼らのセトメライフルに対する興味を知らせてきた。アメリカ陸軍はこの新しい銃器を彼らのテスト場であるアバディーン試験場でテストすることを望んだ。

 このためLudwig Vorgrimlerは4挺を梱包し、大西洋を越えて送った。この間にスペイン部隊はゼロシリーズを使ったフィールドテストを終え、そして大量生産が開始された。必要なプレス機械や工作機械は、伝統的に良好なドイツ・スペイン産業間のつながりのおかげでGeisslingenの会社WMFからやってきた。このためVorgrimlerはドイツ連邦国防軍が彼らの開発品を使用するずっと前、すでに彼のゲベールによってドイツ輸出経済にはずみをつけていたのである。

 アメリカによるテストの結果も世界の軍隊に聞き耳をたてさせた。アメリカ人の希望でセトメの口径は7.62mmx51に変更されていた。この.30T-65と呼ばれた新しいアメリカ製弾薬はライフルと全く同様に多くのセンセーションを引き起こし、民間マーケットでも好評を博した。ただし別の名前で。すなわち1952年、Olinコンツェルンはこの弾薬を.308ウィンチェスターとして導入したのである。

 2年後、セトメの紹介が全世界で行われた。すなわちフランス、オランダ、オーストリア、イタリア、ポルトガル、スウェーデン、チリ、ブラジル、エクアドルでである。1955年と共にドイツ連邦国防軍にとってのスタートの合図が鳴らされた。と言うのは、西ドイツは今や北大西洋条約機構(NATO)および西ヨーロッパ防衛同盟に属したのである。最初の自由意思による兵はAndernach所在の最初の兵舎に入り、そして当然銃も必要になった。しかし彼らは当面放棄されたイギリスやアメリカのモデルで満足せざるを得なかった。すなわちエンフィールドNo.4およびM1ガーランドである。

 自国内にまだ軍需企業がなかったため、ドイツ連邦国防軍調達局(BWB)は当初外国から購入することしかできなかった。だがすぐに、そして100,000挺という適した数でゲベールを供給できたのはベルギーだけだった。このためボンの政府は1956年に新しいNATO弾薬.308仕様のFN FALをゲベール1(G1)として採用した。同時に軍はSIGによって作られたスイス製ゲベールを手に入れたいと望み、これをG2としてテストした。だがこの銃の開発はまだ初期段階に留まっていた(頑住吉注:時期が一致するのでSIG510のことだと思われます)。そしてこのため1956年1月にドイツの委員会はマドリードにも行った。400挺のセトメゲベールを部隊テスト用に購入するために。

 彼のゲベール同様Ludwig Vorgrimlerも再びドイツに戻った。彼には多数の誘いがあったが、彼は古い生家であるモーゼルに戻ることに決めた。

 全世界における成功にもかかわらず、G3と命名されていたセトメゲベールはドイツ国内では地位が安泰ではなかった。一部の軍人はある新しい銃を本命に挙げた。この銃は120挺のテストサンプルをもってG4としてレースに参加していた。すなわち、ユージン ストーナーがアメリカで開発したアーマライトAR-10である。この重量7ポンドすらないゲベールのライセンスメーカーとしては、Hemburg所在のオランダ国営工場であるArtillerie Inrichtungenが浮上した。

 これに対しG3に関しては、1949年に設立された会社ヘッケラー&コックにより部品を国内で組み立てることができるとされた。すでに1955年5月1日以来、モーゼルから至近の場所に立地したこの企業は、セトメゲベールを社の施設内で組み立てていた。軍は若干の変更を希望し、ヘッケラー&コックは次の製造シリーズではすぐにこの点を変更した。これにはセーフティをかけた状態での装填可能性、20連棒状マガジン、ボルトストップの廃止、プラスチック製ハンドガード、そして特にバレルに固定してマウントされたライフルグレネードの発射器具が挙げられる。その上この銃には全般的なダイエット法が処方された。だが最初のテスト銃群も使われないままではおらず、フランク地方Hammelburgの歩兵学校を経て兵士たちの手に渡った。テストは1957年春までさらに続き、その後G3は最終的に採用されることが意図された。

 だが、デュッセルドルフのラインメタル有限会社はこのプランを妨害した。彼らはいくつかのMG-42に関するパテントを持っており、この中にはローラー閉鎖機構のための主要パテントがあった。これを根拠に同社はセトメおよびヘッケラー&コックにおける銃器製造を阻止することを試みた。この権利関係の争いはほとんど10年続き、その上モーゼルも力を入れて参入した。その後、ある和解がほとんど全ての感情を鎮めた。これにおいてラインメタルコンツェルンは一定の生産量を分担する権利が与えられた。だが、まだ他の問題が存在した。Hertogenbosch所在のオランダの会社「de Kruithorn」が使用ライセンスをセトメから買っており、これはその後「Karlsruhe産業工場」によって買い取られた。いくらかの行ったり来たりの後で連邦はG3のためのジェネラルライセンスを手にした(この際もドイツ連邦国防軍向け弾薬注文の委託がある役割を果たした)。

 この間にヘッケラー&コックの技術者たちは彼らの長であるTheodor KochとAlex Seidelの指揮下で、既存の銃の構造的な改良を行った。例えばKochは金属の細粒からなる閉鎖機構キャリア用追加ウェイトを開発し、この場合不要となった妨害レバーはなくなった。さらに、落下傘猟兵および山岳猟兵用の新しい伸縮可能なショルダーストックが加わった。これにより従来102cmだった銃の全長が80cmに縮小した。

 1959年、ドイツ連邦国防軍はG3を新しいスタンダード銃器として宣言した。このための決定的なファクターは製造にあった。FNゲベールが24kgのマテリアルと24時間の労働時間を要求した一方で、G3のためには10kgと約12時間で足りた。構造上の状態により、1964年12月にはG3は追加名称A2を得た。しかしドイツ連邦国防軍は再三にわたって要求を机の上に持ってきた。軍は全てのG3を単にスコープの装着だけによってスナイパー用銃器として使えるようにせよと要求した。さらにこの際着脱式マウントは、着弾点の移動なしにセミオートによるラピッドファイアやフルオートをもやってのけることが意図された。その上ドイツ連邦国防軍は3つの異なるオプティカルサイトを同時に考慮に入れていたことを知るべきである。この開発が7年続いたことは不思議ではない。

 望まれたスコープは銃にいくつかの変更を要求した。これが「自由に振動するもの」(頑住吉注:フローティングバレルのことです)として知られるバージョンG3A3をもたらした。伸縮可能なショルダーストックを持つこのバリエーションはG3A4の名を得た。この新しい「兵士の花嫁」の製造は今や完全にヘッケラー&コックの手中にあった(頑住吉注:権利関係でゴネたラインメタルを黙らせるために当初与えた生産割り当て分はもうなかったということです)。注文規模と共に社も成長し、かつての主要生産品、ミシン部品はどんどん重要性を失っていった。

 輸出注文はほとんどノンストップで着いた。この最初の注文主たちにはスウェーデンが含まれた。しかしこのスカンジナビア人たちは、G3がいくつかの異例に極端なテストを他のライバルに対抗して耐え抜いた後で初めて注文した。このためこのライフルは100連射の後、雪浴に耐えなければならなかった。この際雪はロータリー除雪車を使ってたっぷりと見舞われた。引き続いて銃の中にしみ込んだ雪解け水が凍るまで長時間銃は雪の中に留められた。テスト者はその後になって初めて射撃を続行した。

 G3は完璧な技術によって全ての拷問に耐えたが、スウェーデン人はまだ満足しなかった。ドイツ連邦国防軍において指示された寿命6,000発は彼らにとっては足りなかった。当初彼らは持続負荷12,000発を要求し、その後これは18,000発にさえなった。最終的にH&Kとの間で15,000発で合意した。これに基づいて特別に作られたバージョンは「Automatkarbin 4」と言い、金属薄板製レシーバー、バレルに特別な表面コーティング、ポリゴナルライフリング、改良されたバッファー、500mまで延伸されたサイトを持った。

 スウェーデンは彼らのAK 4に熱狂し、この結果ヘッケラー&コックにこれに適するピストルを開発することを要求した。こうしてP9/P9S誕生の時がやってきた。他の国々は注文によって後に続き、オベルンドルフのマネージャーはすぐに、もはや銃に関する契約だけでなくライセンス契約や生産マシンに関する交渉も行うようになった。このビジネスは高度に政治的な形を取ることが多かった。例えば1960年代半ばにおけるイランのケースである。と言うのは、このペルシャの王国にライセンスを与える際、連邦政府も交渉に同席した。ノウハウ、機械設備、原材料、特殊部品の輸出のための手段としては連邦自身の会社Wernerが役立った。

 この際、こうした輸出は必ずしも正しく行われなかった。厳格なドイツの輸出規則を回り道して避けるため、オベルンドルフは銃器部品をイギリスのローヤルオーディナンスまたはフランスやサウジアラビアのような他のライセンス生産者に供給した。ストゥルムゲベールはそこから本来ならば決して手にしてはいけないはずの荷受け人に渡った。すなわち東ドイツの特殊部隊、パレスチナのテロリスト、ラテンアメリカのゲリラたちにである。この種のアクションは再三にわたってオベルンドルフの人を第1面の大見出しに持ってきたし、連邦政府をひどい危機的状況に陥れた。

 1982年6月におけるレバノン侵攻後、イスラエルは連邦刑事局にPLOの在庫から鹵獲したG3およびMP5の銃器ナンバーの長いリストを提示した。Wiesbaden(頑住吉注:ヘッセン州の州都)は捜査を開始したが、長い時間が過ぎていたので、個々の違反は公訴すべき時にはすでに時効になっていた。全ての主張にもかかわらず、連邦首相コールはさらに複数カ月後に議会の前で「連邦政府はテロリストの手にあるドイツ製銃器に関して知らない」と主張した。何年か後、連邦は恥ずかしげに自前の会社と手を切った。

 ヘッケラー&コックでG3の後継機として作られたG11は似たような「つまづきの石」になった。ケースレス弾薬を伴うプロジェクトのためのアイデアは、HKの技術者Thilo Moller(頑住吉注:「o」はウムラウト)、Dieter Ketterer、Gunter Kastner(頑住吉注:「u」と「a」はウムラウト)がすでに1960年代末に得ていた。その上ダイナマイト ノーベル株式会社(その創業者アルフレッド ノーベルがすでに1891年にケースレス弾薬のパテントを得ていた)が参加した。

 ヘッケラー&コックがドイツ社会民主党所属の当時の国防大臣Georg Leberにこの計画に興味を持たせることに成功した時、1974以後連邦の研究資金がオベルンドルフに流れ込んだ。最初のプロトタイプは、8角形のベースの上の四角い圧縮火薬塊で作動することが意図された(頑住吉注:「8角形のベースの上の四角」というのは分かりにくい表現ですが、基本的には四角柱で、後方には面取りがなされているということです http://munimichl.de/G11_fruehe.htm )当初上に乗せられていた弾丸はどんどんこの火薬塊内に姿を消していった。この火薬の自然発火ポイントは260度だった。これと比べ、ニトロパウダーは160度ですでに発火する。マガジンからの代わりに、このゲベールは弾薬を梱包からダイレクトに発射するという意図だった。その上H&Kは、コントロールされた連射遮断(頑住吉注:バースト)によって命中確率を上げることを望んだ。しかし1977年における最初のテストの際にこのオベルンドルフ出身のニューフェイスは盛大に失敗した。

 気密と、射撃によって加熱した銃内での自然発火に伴う問題に、このプロトタイプは翌年も悩まされた。それにもかかわらず、報道はこのG11を再三にわたって、銃器の歴史の中の画期的出来事として称賛し、これをドライゼゲベールと比較した(頑住吉注:銃器史上最大の変革とも言われる後装方式への移行に匹敵するものだ、というわけです)。

 だが批評家たちもそれに異論を唱えなかった。保守的な軍人はこの射撃ケースの未来的デザインにほとんど馴染めなかった。その上すぐに小口径弾薬の阻止力に関する疑いが浮上した。そして特に、どのようにしてこのケースレス弾薬をNATOの標準化原則と一致させるのかという疑問が提示された。1980年代初め、たいていのNATOパートナーはすでにアメリカの手本にならって5.56mm弾薬を採用していた。だがドイツ連邦国防軍はまだ7.62mmx51を射撃し、混乱の中で後ろをついていく状況だった。無数のテストシリーズと税金から来た約84x百万マルクの開発コスト(多くの人は100百万とさえ言う)の後に、G11は1989年にとうとう「量産に適するほどに熟成」のステータスを得た。この時この銃を部隊でテストするため小規模な量産が実施されることが意図された。オベルンドルフの人は連邦による生産機械のためのつなぎ融資を望んだ。

 だが再統一(頑住吉注:1990年10月)がこの計画を不可能にした。NATOとドイツ連邦国防軍は突然に敵を失い、同盟条約、平和条約によって数的に削減された軍は一気にそれ以上のゲベールが不要になった。

 ヘッケラー&コックはG11プロジェクトに全てを賭けたのであり、この時倒産の危険にさらされた。最初フランスのコンツェルンGIATがこの企業の買収を望んだ。だがこの社はG11生産の権利がH&Kではなく連邦にあることが明らかになった時、手を引いた。最終的にヘッケラー&コックはイギリスのビジネスパートナーRoyal Ordnanceに落札された。

 同じ時、ドイツ連邦国防軍は試験的に導入していたG11を兵役不適格とした。連邦国防省は1993年6月に最終的な却下を公表した。驚いたことに、プロジェクトのかつての批判者、議会の次官Bernd Wilz(キリスト教民主同盟)は、この主要な理由はNATO弾薬との標準化に向けた可能性が低いためであると説明した(頑住吉注:そんなこと最初から分かってるはずだろう、というような意味でしょうか)。彼は付け加えた。「得ようと務められた技術的リードは達成不能と思われる。決定的に大きな資金投入下でのみ達成可能だろう。」

 こうしてこのハイテク兵器は即座にKoblenzの防衛技術研究蒐集物行きとなった。そしてドイツ連邦の軍備スキャンダルの長い鎖はとっくに100x百万もの高価なものとなっていた。

 だがネッカー川にはまだ水上コンテナが足りなかった(頑住吉注:何かの慣用表現だと思うんですがさっぱり分かりません)。HKのマネージャーはこの時、いわば「なぐさめの絆創膏」として新アサルトライフル36、別名HK 50の発注を得ることを望んだ。このため彼らは1960年代由来のプロジェクトをいくらか化粧直しした。特にオプティカルサイトとモダンなストックまわりによってである。

 しかし何故ドイツ連邦国防軍が何年も前にすでにG3から小口径のHK33へという簡単な一歩を踏み出さなかったのかは誰も説明できない。両モデルの構造方式は等しく、銃器管理者も訓練者も大きな学び直しをしなくてよかった。一部の交換部品はその後も使うことが出来さえした。しかしひょっとするとそのような解決策は当たり前過ぎ、安すぎたのかも知れない。……そしてこの2つの条件により省の官僚と政治家は彼らの困難を持っていたかも知れない(頑住吉注:何だかよく分かりませんが利権的なうまみがないということでしょうか)。

弾薬梱包がマガジンに代わる 

 M16やAK47と全く同様にG3もユニット方式のコンプリートな銃器ファミリーのベースである。7.62mmNATO口径仕様ではドイツ連邦国防軍の2つの基本装備である固定、伸縮ショルダーストックおよび長さ450mmのバレル付きの他に、322mmバレルを持つG3Kバージョン、棒状マガジンを持つHK11Eおよびベルト給弾式のHK21Eの2つのマシンガンバージョン、スナイパーライフルG3/SG1およびPSG1が存在する。その上ヘッケラー&コックは1964年以来、口径.223仕様のモデルシリーズをグループII、別名HK33として提供している。そして後にはグループIII/HK32として東ブロックの弾薬7.62mmx39 M43仕様で提供している。1961年、ヘッケラー&コックはCetmeと共同で小口径新弾薬4.6mmx36用未来モデル36を製造し始めた。1971年からはダイナマイト ノーベルもこのプロジェクトに参加した。このHK36でもローラー閉鎖機構がシステムの核心部分を形成していた。だがこのニューモデルはもはや弾薬を従来型のマガジンからではなく、ダイレクトに各30発の梱包から射撃した。

 このHK36はHK50と名付けられたG3の.223仕様の後継機のための基礎を形成した。(頑住吉注:この記事の執筆当時におけるG36に関する)ドイツ連邦国防軍の注文はちょうど25986挺である。と言うのは、当面特殊部隊、AMF旅団や国連部隊のような特別な部隊にだけにこのHK50、別名G36を入手する意図だからである。このマシーネンカラビナーの最終的フォームはまだ確定していない。H&Kは彼らにサイドに折りたためる、あるいはピストルグリップ後方に移されたシステムとモダンなブルパップストック付きで提供している。さらに軽機関銃バージョンの36が提供されたとされている。その装備にはストゥルムゲベールの場合同様、組み込みのダットサイトを持つ倍率3倍のオプティカルサイトが属している。

トランスミッションの中の砂粒

 G3は連邦での35年間の勤務時代の後でさえ、頑丈であるとの名声の中にある。このシステムはしばしば、兵役義務者による12カ月間の粗雑な扱いに驚くほど良好に耐える。そしてモダンなプラスチック製のストックまわりは古い木製ストックより耐性が高い。しかし欠点は2本の差し込みボルトによるレシーバー後部部品の固定にある。このためショルダーストックはいらいらするほどぐらつく固定になっている。伸縮式ショルダーストックのバットプレートの、湾曲し短かすぎる形状は、きちんとした射撃姿勢を見いだすことを難しくしている。それ以外に関してはG3は頑丈と思われる。Koblenzの防衛技術博物館には100,000発のマンモステストの後さらに1,000発のフルオート射撃を損傷なく乗り切ったと称する銃がある。

 Visierは多くのバリエーションの有用性をテストした。その中にはセミオートの予備役兵ゲベールHK41もあった。まず書いておくべきこと。ドイツ連邦国防軍の弾薬は7.80から7.82mmまでの直径を持つ重量146グレインのソフトコアフルメタルジャケット弾を持つ。44グレインの球状火薬により、この弾丸は平均初速800m/sプラスマイナス20m/sになる。何とか良好に維持された公用ゲベールはこれにより、距離100mで10発のグルーピングが直径10cm、300mで30cmという結果を出す(オープンサイトで射撃して)。スコープ付きバリエーションと選別されたスナイパー弾薬を使えば等しい装薬でこの数値は半分になる。そしてプラスチック製トレーニング弾薬は50mで6cm、100mで20cmのグルーピングを作る。しかしバレルが非常に汚れるので約20発ごとに真鍮ブラシでクリーニングすべきである。

 へこみのないマガジンを持つきれいな状態のG3は本来装填障害知らずである。だがこのシステムは砂が一度でもエジェクションポートから入ると耐えられない。ごみがレシーバーとボルトキャリアの間にたまると、この銃は装填およびロックの際に止まってしまう。同じことは煙の強い弾薬でも起こり得る。ガスが負担軽減ミゾを通じてチャンバー内、そして後方の閉鎖機構領域内にも侵入するからである。アルゼンチン製弾薬を使った予備役兵ライフル射撃の際、閉鎖機構ヘッドがのり付けされたようになり、この結果装填の際もはやロックされなかった。G3はM16A1のような閉鎖機構プッシャーを持たないため、その後はもはや射撃が続行できない。だが良好なNATO弾薬を使えば、G3はクリーニングなしで装填障害を起こさず500発の射撃にも耐える。だが射撃を行った場合必ず時間のかかるクリーニングプロセスを行わねばならない。全てのモダンなガス圧ローダーはより素早くクリーニングできる。


 そうそう、2005年3月号には不満でしたが、こういう記事が読みたかったんです。ちょっとしゃれた言い回しが好きな前編集長氏の独特な文体(名義は連名ですが)も読んでいてなつかしい感じでした。

 私は2005年3月号の記事に関し、「私が最も知りたかったのは、ローラーロッキングシステムの長所はどういう点にあり、そして何故それが最近になって放棄されねばならなかったのか、具体的にどういう問題点があったのか、などです。もちろんこれらは他の資料でいろいろ語られているわけですが、現在当のドイツ人はこのシステムをどう評価しているのか、つまりあの時点ではこういう理由であれが最善の選択だったと思っているのか、それとも初めからガスオペレーションにしておけばよかったのではといささかでも考えているのかについても知りたかったわけです。」と書きました。これらの問題に関し、完全に答えた内容とは言えないものの、「何故ドイツ連邦国防軍が何年も前にすでにG3から小口径のHK33へという簡単な一歩を踏み出さなかったのかは誰も説明できない」という書き方からして、ローラーロッキングが小口径弾薬用としてもガスオペレーションに劣らないものであると考えている(少なくとも1993年時点では)ことが伺えます。

 閉鎖機構の適正な後退速度、銃の生産に必要な労働時間や素材の量などの具体的な数値は非常に興味深かったです。また、薄板をプレスして作ったG3は削り出しの銃よりヤワなイメージがありますが、タフさが強調されているのも意外でした。

 本題と直接関係ありませんが、G11に関する記述も興味深かったです。ドイツ万歳傾向の強い前編集長の記述ですからやはり、問題は解決されたが予算面で導入できなかったというトーンになっています。しかしだとすれば却下するのではなく、将来の採用を見据えて保留とするのが自然ではないでしょうか。これも初めて知りましたがG11生産の権利はH&Kではなく国にあるとされ、当面保留でも問題はないはずだと思います。一方権利がH&Kの手から離れてしまっているなら、外国で採用されていない事実は一応説明がつくと言えそうです。

 この記事が書かれた1993年時点では、まだG36は海外派遣部隊など一部の導入に留まっていました。G36のブルパップバージョンがあるとの記述があるんですが、他では見たことがありません。本当なんでしょうか。





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