「珍宝島事件」裏話

 1969年に中ソ国境紛争が起きましたが、そこで鹵獲されたソ連のT-62戦車をめぐる事件に関する記述です。

http://military.china.com/history4/62/20131209/18205479.html


珍宝島の戦い後:ソ連、中国の裏切り者を買収 鹵獲された戦車の爆破を欲す

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「撃破されたT-62」)

「珍宝島事件」が1969年3月2日に発生した後、ソ連はその拡張政策を実現し、敗北のため損なわれたメンツを挽回するため、中国との国境武装衝突をエスカレートさせることを決定した。たった何日かのうちに、ソ連軍は即珍宝島地域の武装力量を何十倍にも増強した。地上部隊は1.2万人まで増やされ、戦車は70両、大砲は380門、装甲車および自走砲は50両に達した。

中央の指示に基づき、中国人民解放軍沈陽軍区副司令員兼参謀長の肖全夫は黒竜江の前線指揮所に赴き、ソ連に対する自衛反撃戦の全権指揮を取った。

3月15日午前8:03、ソ連軍の珍宝島上に潜伏する小分隊が第1発目の銃声を響かせた。2分後、ソ連軍の3両の装甲車が歩兵20人余りを引き連れ、凍った川面に沿って進攻を開始した。中国サイドの歩兵、砲兵は相次いで反撃に奮起し、双方は1時間余り激戦し、ソ連軍は撃退され、氷面上には十数体のソ連軍の死体と、1両の撃破された装甲車が残された。

9:46、ソ連軍の第2回進攻が開始された。正面は3両の戦車、3両の装甲車によって突撃が誘導され、別の4両の戦車が島の南端側面後方の川の分岐から割り入ってきて、川岸と島上との連絡を切断し、島上の中国軍を包囲全滅させることを企図した。

だがソ連軍は我が軍が氷結した川面に対戦車地雷を敷設しているとは全く予測しておらず、戦車はひたすらごろごろと前へ突進した。1両のTー62新型戦車は我が軍のロケット弾の命中を受けた後、さらに地雷原へと進み、鋼鉄のキャタピラが対戦車地雷に乗り上げた。耳をつんざかんばかりの轟音と共に、キャタピラは爆破、切断され、さっきまでまだ威風堂々、無敵の有様だった30トン余りの鉄の輩は、にわかに川面で麻痺し、全く動けなくなった。

ソ連軍の第2次進攻はまた撃退された。

当日午後15:13、ソ連軍はまた第3次進攻を発動したが、やはりすぐに中国軍によって撃退された。

夜の帳が下り、川面でかの撃破されたTー62戦車が巨大な黒い影となっていた。この時、ソ連も中国も、この戦車のため、明に暗に闘争が行われるとは意識するに至っていなかった。

かの何日か、ソ連共産党中央総書記ブレジネフは、ドナウ川上のマルギット島でワルシャワ条約機構加盟国首脳会議を開いているところだった。

3月15日深夜、彼に随伴して会議に参加するソ連国防大臣グレチコ元帥が呼ばれ、ブレジネフは国防大臣に座るよう合図し、彼が持ってきた戦闘報告に見入った。ブレジネフは突然頭をもたげ、「かのついていない戦車はダマンスキー島の川の分岐部分で動けなくなったということだが、それはどんな場所かね?」(頑住吉注:ダマンスキー島は珍宝島のソ連側名称)

グレチコは、「ダマンスキー島西側の中国側に近い川面です」と言った。

「では中国の領土上に留まっているというのかね?」 ブレジネフは眉を上げ、ちょっと考えて言った。「T-62戦車は我が国が長年研究した新たな成果だ。搭載するいくつかの装備、例えば赤外線暗視装置、射撃双方向安定器、大出力ディーゼルエンジン等々はいずれも世界で唯一無二のものだ。ゆえにこの戦車を中国人の手中に落とすことはできない。きっと取り戻すのだ! どうしても取り戻せないなら策を講じてあれを破壊してしまうのだ!」

グレチコはうなづき、「ご安心ください、私はどうすべきか分かっています。」

3月24日、肖全夫将軍は北京からの電話を受けた。電話は周恩来首相がかけたもので、2つの内容があった。1つは毛沢東主席、党中央、中央軍事委員会に代わってのあいさつ。もう1つは動けなくなったかのソ連製Tー62戦車を牽引して持ち帰れとの命令だった。

周恩来は電話の中でさらに、「これには軍事的価値があるだけではなく、政治的意義がある。この鉄の証拠があれば、ソ連修正主義者が全世界の面前で理不尽なことをする恐れはない。」と強調した。

ソ連軍はまず戦車の周囲に多くの地雷を発射したが、中国軍によって排除された。そこでソ連軍はまた一個突撃小分隊を組織した。この小分隊は6人から組成され、全て兵個人戦術に精通し、身体強壮な偵察兵の尖兵だった。彼らは100kg余りの爆薬を携帯し、夜の闇の援護に乗じて白色のポンチョを着て密かに川にやってきて破壊活動を実施した。だが最終的にやはり成果なく帰って行った。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「鹵獲されたT-62戦車」です。)

氷はすでに全部溶け、前線指揮部は戦車のサルベージを決定した。5月2日、海軍北海艦隊から来た3名の潜水員が川底に潜り、スチールで編んだロープで戦車を縛り、岸の上の数両の大型トラックで牽引し、ついに戦車を岸に引き上げた。

だが、この戦車をめぐって行われる闘争にはまだピリオドが打たれてはおらず、KGBがまた動き始めた。

1969年5月4日日曜日。「キタイスカヤ」特務学校の学員は休みで、竇祥松は何人かのソ連の同級生の誘いに応じて、付近の森林で狩りをしようとしていた。午前9時過ぎ、彼がまさに外出しようとした時、学校の「中国部」教務主任ゲリバート上佐によって呼び止められた。彼はすぐ学校に行かされた。

学校の事務室内に何人かのKGB将校が座っていた。この中の中佐の肩章をつけた中年の人物が竇祥松に向けうなづき、竇祥松を大いに意外に思わせる流暢な中国語で語り出した。「竇祥松同志かね? こんにちは! 我々はモスクワのソ連国家安全委員会総本部から来たのだ。」

「総本部は慎重な研究を経て、ある偉大にして光栄な任務を君に与えて完成させることに決定した‥‥」

中佐は続けて3月15日の中ソ国境武装衝突の詳しい状況を説明し、現在このT-62戦車はすでに中国サイドによって牽引されていってしまった、と語った。KGBが獲得した情報の種々の兆しが示すところによれば、中国は「強奪」したかのT-62戦車を北京に輸送し、専門家によって秘密を解き明かす研究を行い、ソ連の技術の秘密を「盗み取」ろうとしている。

竇祥松はここまで聞いて、すでに完全にKGBの意図が分かっており、訊いた。「上官殿のお考えは、私をかの戦車の爆破に派遣しようというものではありませんか?」

竇祥松とはどういう人なのか? 何故彼を中国国境に派遣して戦車を爆破させようとしているのだろうか?

この事情はさらに1967年5月の黒竜江省虎頭県虎林村で起きた「1つの頭が2つにされた謀殺案件」にさかのぼらねばならない。

竇祥松は現地の悪のボス竇順仁の一人息子だった。抗日戦勝利後ほどなく竇順仁は人民政府によって鎮圧された。竇祥松は人民政権に対し心に強い恨みを抱いた。何年か後、竇祥松もまた女性に悪ふざけし、また公共物を盗んだためにいきなり豚箱入りとなった。彼は3年の懲役刑の判決を受けた。

1961年、竇祥松は刑が満期となって釈放され、悪質分子のレッテルが貼られて本籍地に送還され、集団監督改造を受けた(頑住吉注:集団での保護観察的なものでしょうか)。彼は何度教え諭されても改心しない人間で、また喜んでこそ泥をし、女性を誘惑したり女色をあさったりした。このためしばしば治保幹部(頑住吉注:教育係でしょうね)に呼ばれて訓話され、教育を受けた。彼はこのため心に強い恨みを抱いた。

当時中ソ関係はすでに非常に緊張しており、国境地域の緊張した情勢にはすでに兆しが見えていた。竇祥松の心の中にある考えが浮かんだ。俺は何故国境を越えてソ連に逃げ、ロスケに身を投じないのか、と。

1967年5月上旬のある風雨の夜、竇祥松は刃物を懐に忍ばせ、手の中に一包みの砂を持ち、壊れた日傘をさして治保幹部張秀英の家へ行った。張秀英夫妻は残忍に殺され、竇祥松は2人を殺した後で頭蓋骨を叩き切り、袋に入れた。その後闇夜に乗じて虎頭村から逃走し、村の外のウスリー川のほとりに来て、国境防衛軍歩哨所を避けて川の中に飛び込み、越境して国外逃亡した‥‥

(頑住吉注:これより3ページ目。画像のキャプションは「中国人民軍事博物館に展示されるT-62」です。)

1969年5月8日深夜、1隻のソ連国境防衛軍の巡視艇が密かにウスリー川を航行し、珍宝島から距離10km離れたある平坦な川辺で止まった。1人のソ連軍上尉が船室から半分身を乗り出し、赤外線暗視望遠鏡で漆黒の川辺をしばらく観察し、その後かたわらに座っている竇祥松にうなづき、ロシア語で何か言った。竇祥松は立ち上がり、1人のソ連軍兵士が登山用リュックを彼に背負わせた。竇祥松は甲板に上がり、岸に飛び移ると振り返りもせず暗黒の中に突進していった。

KGBの専門家が制定した方案によれば、竇祥松は岸に上がった後興凱湖を迂回し、虎林県に転じて進み、密山市に行く途中のある小さな村で、T-62戦車を輸送する自動車が通過する時を待ち、機を伺って破壊することになっていた。だが彼がまだ虎林県を出ないうちにもう人民政府に捕らえられるとは誰が知っていただろうか。

彼は興凱湖に向かう路上で1両のトラクターにぶつかり、気前よく運転者に10元の金を投げてやった。1960年代、10元は最高額面の人民元紙幣で、この数字はおよそ目の前のこのトラクター運転者の月収の1/3に相当した。トラクター運転者は不思議に思うばかりか予想外のことに喜んで、何と車から飛び降りて、この特殊な乗客が後ろのトレーラーに乗るのを助けた。

トレーラーの中には2人の農夫が乗っていて、1人は30歳くらい、1人は50歳くらいで、彼らは生産隊が臨時にトラクター運転者のもとに派遣した積み卸し作業者だった。竇祥松は彼らに向かってうなづき、微笑み、2人の向かいに座った。

3人はしばらく雑談し、竇祥松は昨晩ほとんど眠っていなかったため、トレーラーに揺られて眠気が徐々に襲ってきて居眠りを始めた。この「キタイスカヤ」特務学校の卒業生は、危険がまさに彼に向かって迫りつつあるとは全く思わなかったのである!

その50歳くらいの農夫には、この途中で乗車してきた青年に対する疑惑が生じた。この人は姓を庄、名を樹宝と言い、生粋の虎林県人だった。26年前、彼は生活に迫られ、人の紹介を経て竇祥松の父である竇順仁のところで出稼ぎをした。当時、竇順仁は自分の内縁の美人妻のために、箱馬車を買ってやった。ちょうど御者がおらず、庄樹宝に御者をやったことがあるかと訊き、彼に美人妻のところへやって御者とした。最初から美人妻は庄樹宝に対しまあ満足していたが、ある時彼女を助けて車から降ろす時、滑り落ちてよろめき、彼女は竇順仁に向け告げ口をした。竇順仁は美人妻のために腹いせし、庄樹宝を捕まえてきて丸裸にし、村の外の大木の下に縛り付けて蚊に死ぬまで喰わせようとした。幸い縛る役目の男と庄樹宝にはいささかの親戚関係があり、こっそり壊れた茶碗のかけらを庄樹宝の手の中に忍ばせ、彼はやっと命を長らえた。

だが庄樹宝はこの悪のボスのイメージを永遠に記憶していた。彼は竇祥松を見たことはなかったが、眼前のこの人は容貌、体格といい、態度や振る舞いといい、全て竇順仁に生き写しだった。庄樹宝は一目で心に「ピン」と来た。珍しや、この人こそ悪のボス竇順仁の殺人犯である息子ではないか?

当時、国境地域の民衆の警戒心は特別に高く、竇祥松が車から降りた後、庄樹宝はすぐ派出所に行った。竇祥松はこのようにしてすぐに捕まった。捕まった後、自分がKGBのスパイに充当され、中国に潜入しT-62戦車を破壊する任務を執行する命令を受けた全部のいきさつを供述した。

同年9月下旬、竇祥松はハルビンで死刑判決を受け、銃殺刑が執行された。

KBGのこの時の行動はうまくいかず、かのソ連製T-62戦車は今、北京軍事博物館の陳列室に展示されている。


 先日紹介した北朝鮮特殊部隊のソウル潜入に比べるとはるかにスケールが小さくてあっけない結末ですが、それなりに興味深い裏話です。かなりの偶然のために行動は失敗に終わったわけですが、トラクター運転者に不自然な大金を渡すなどこの男かなり迂闊な感じで、この偶然がなくても成功したかどうかは疑わしい感じです。中国戦車の目立った発展が始まったのはこれから20年以上たってからのような気がしますが、T-62はどの程度中国戦車の発展の助けになったんですかね。











戻るボタン