フランツ フォン ドライゼの知られざる業績

 「Visier」2004年11月号に、モーゼル式ボルトアクションの原型になったとされるドライゼのニードルガンに関する記事が掲載されていました。有名な割に詳しく知られていない銃だと思うので興味を持って読み始めましたが、実際の内容は予想と大きく異なりました。いわゆる「ドライゼのニードルガン」は、ニコラウス フォン ドライゼが発明したものであり、この記事はドイツ本国でもほとんど知られていないというニコラウスの息子、フランツの業績に関するものでした。


Dreimal Dreyse(頑住吉注:「Dreimal」は「3回」、「3倍」の意味です。今回主に3挺のニードルガンが取り上げられていることを指しているようですが、それだけでなく韻を踏んでいるようです。細かいニュアンスまでは分かりません)

ニコラウス フォン ドライゼの息子もまた銃器の歴史に影響を与えたということはほとんど誰も知らない。最初のセルフコッキングボルトアクションシステムは彼由来である。

「あなたが1つ知れば、あなたは全てを知る」 この格言(頑住吉注:「一を聞いて十を知る」に近いんだと思います)はドライゼ父子の「点火針小銃」(頑住吉注:ドイツ語の「Zundnadelgewehr」 「u」はウムラウト をあえて直訳しましたが、いわゆるニードルガンのことです)に関しては確実に間違いである。彼らのモデルの多様性は広範囲にわたり、そして今日細かい差異も捜し求められるコレクター品目の価値を決定している。それに関して、Sommerdaer(頑住吉注:「o」はウムラウト。東西分断時代は東ドイツに属したチューリンゲン州の小都市で、ドライゼの活動拠点だった地名です)の仕事場由来の3つのレアアイテムが知識を与えてくれる。

鍛鉄製バレルを持つ1挺の57系
 プロイセンの騎兵隊(彼らにとってハンドガンは副次的な価値しかなかった)は、旧式なフリントロックライフルを1851年になってもまだ携帯していた。当時すでに歩兵隊の一部は点火針小銃M41(頑住吉注:こんなのです http://www.dhm.de/ausstellungen/bildzeug/qtvr/DHM/n/BuZKopie/raum_19.09.htm )で装備されていた一方で、騎兵はその時点ではまだまず第一にパーカッション点火方式に改造されたフリントロック前装銃で満足せざるを得なかった。だからプロイセン軍とニコラウス フォン ドライゼは点火針騎銃の開発に向けて努力した。この後装システムは馬上での操作を容易にするものだった。これに関する最初の情報は Friedrich WilhelmsW世(頑住吉注:当時のプロイセン国王)の侍従武官で伯爵のBismarck Bohlen少佐の文書の中に見いだされる。それに関してBismarckは1855年4月27日、彼が2年間の研究の後、1852年夏に国防省に対して点火針騎銃を推薦したことを記述している。だがテストでは、サイトが鋭角過ぎ、厚すぎ、そして針がボルトから大きく突き出過ぎ、この結果閉鎖時に針が弾薬の底部を突破し、火薬が無駄になるおそれがあるという結果になった(頑住吉注:ニードルガンである以上発射時に針が弾薬の底を破るのは当然ですが、針が長すぎたため閉鎖時にすでに破れ、火薬が流れ出すおそれがあった、ということのようです)。1855年、軍はこれら全ての問題を解決したニューモデルを、いくつかの軽騎兵連隊に各24挺づつ支給した。部隊テストは成功裏に推移し、1857年、2月、第一近衛竜騎兵連隊は新しい騎銃をモデル55として手に入れた。専門文献はモデル1855のそれ以上の生産が鋳鉄バレルのテストによって中断したと記述している。テスト成功の後、鋳鉄バレルを持つこの騎銃はモデル57として量産に移行されることになった。しかしドライゼは1857年4月9日におけるこの銃のプロイセン国王による採用の後、まず始めに鍛鉄バレルで作り続けたことが明らかである。このことは最近発見された実物で証明されている。

 それに関する特殊性は一見しては分からないが、よく見れば普通レシーバー上面、リアサイト直後にある「Stahl」(頑住吉注:辞書には「Stahl」も「Eisen」も「鉄」と載っていてこのあたり意味不明でしたが、よく読んだ結果前者が「鋳鉄」、後者が「鍛鉄」を示すことが分かりました)の表示が欠けていることが目につく。この文字はどこにもなく、漆喰を塗って埋めた跡が残っている。それなのにレシーバー上部には明らかにモデル名称、製造年(1857)、間を置いてシリーズナンバー918の刻印がある。この銃は、多数の鍛鉄バレルを持つそのような銃が当時プロイセンが管理していたSommerda所在のドライゼ工場から送り出されたということを推論させる。

 その理由は分かっている。プロイセン軍は新しい点火針騎銃を広範囲に、そして同時に、全ての軽騎兵部隊に導入することを意図していた。しかし大きな需要に対し、まだ鋳鉄バレルの製造は完成の域に達していなかった(囲み記事参照)。このため生産はモデル57の制式採用以後も旧式化した鍛鉄バレルで続行されたのである(頑住吉注:バレルの生産だけが間に合わず、「バレルなしM57」が大量に工場に出来たため、旧式化した鍛鉄バレルを組み、レシーバー上の「鋳鉄」を示す刻印を漆喰で埋めて軍に納入した、ということでしょう)。製造された騎銃は砲兵の備蓄庫に保管され、1859年以後部隊に回された。57系は帝国のほとんど全ての騎馬部隊に投入された。普仏戦争勃発までに在庫量は40,000挺以上に達していた。

 さらに数的データを示す。M57騎銃(頑住吉注:「Karabiner M57」)は全長810mm、重量2350gである。口径は15.3mm(=0.59ライン地方インチ)、銃身長は388mmである。非常に良好なコンディションの「点火針騎銃」は、安いもので今日約2000ユーロである。この価格は(ここで紹介されている全ての銃のような)希少性と特別なディテールによって上昇する。

 これらの騎銃は1つの特別な安全機構によって歩兵銃と異なる。すなわち、トリガーガード前にボタン(頑住吉注:辞書にはこう載っていますが、写真で見ると「Ω」のような突起がトリガーガード前から下向きに突き出していて、これのことを指すようです)止めされた革ベルトがボルトを包み、銃が騎兵の脇に吊られたときの意図しないオープンを妨げた。革は時間の経過によってもろくなり、あるいはなくなっているので、こうしたベルトは今日レアであり、銃の価値を上昇させる。

 針点火の採用とともに、短い騎銃はフロントサイトガードの付属した「端部リング」を手に入れた。これはさらなる通常と異なる特徴である。

(頑住吉注:マンリッヒャーのライフルにもありましたけど先端部にバレルが露出していない、いかにもブツンと切り落としたようなこんな形です。茶色の部分は木製ストック、濃いグレーの部分がバレル、薄いグレーの部分が「端部リング」です。ガードに隠れて横からは見えませんが、上部にフロントサイトが付属しているわけです。) サイトには鉄製のフロントサイトとならんで前に起倒式リアサイトつきの小さな固定のリアサイトが属する(頑住吉注:固定と起倒式を前後に組み合わせた、MP40のようなリアサイトということです)。その上、このドライゼシステムのボルトアクションシステムは歩兵銃より小さくなっていた。設計者は弾薬も短縮した。この弾薬には反動をやわらげるため3.9gの発射薬しかロードされなかった(頑住吉注:残念ですが歩兵銃用が何gか書いてないです)。しかし短い戦闘距離用としては充分だった。ノーマルな歩兵銃とは違い、騎銃ではボルト先端のリング状部分が後方がすぼまったバレル基部に滑り入ってプレスされた。(頑住吉注:本当はもう少し詳しく説明してあるんですが、文章だけではよく分かりません。要するに金属薬莢以前の弱点である後方への気密性を高める構造上の工夫です。
 さらに追加としてしばしばコルクまたは革の小さな板がパッキングとしてボルトに設置されていた。57系は操作、およびデザイン上、後の世代の騎銃に向けた方向性を示した。すなわちK71、K88そしてK91の名称の下に帝国陸軍に受け入れられた騎銃群である。

ゆっくりした改良
 普仏戦争の直前の時期、すなわちプロシア国防省が金属弾薬を使うモダンな後装システムを求めたとき、まだプロシア陸軍は当時すでに完全に旧式化していた点火針銃を使っていた。だが点火針の時代に終わりが来たので、1857年、すなわち彼の父の死の10年前に会社を引き継いでいたフランツ フォン ドライゼは新しい構造によって注文帳簿を満たすことを試みた(頑住吉注:要するにニードルガンが旧式化して売れ行きが落ちたので改良によって売り上げを戻そうとした、ということでしょう)。このため彼はそのとき既存の量産モデルをベースに、完全な銃器ファミリーを設計した。これは財政の弱体な州の公用向けだったらしい。これらは結果として製造上費用のかかる軍用銃とは対照的な、実にシンプルでお買い得なものとなった。トリガーガードやバレルバンド(頑住吉注:昔のライフルによくある、ストック前方のハンドガード部とバレルを結束する、桶の「たが」のようなリング状のパーツを指すようです)のような装飾部品はミリタリーモデル由来だった。そして前部のフライス加工された平面を除き、レシーバーは丸いまま残され、これが同様に生産を単純化した(頑住吉注:たぶんレシーバーは丸棒かパイプ状の鋼材から削りだされていたんでしょう)。レシーバー上にメーカー刻印すらない実物が複数現存する。しかしそのデザインとボルトの寸法および口径が一致するため、これら全ての銃はSommerdaの銃器工場製である。

 1つの例を挙げる。狙撃銃M60および歩兵銃M62をベースとして、1つの興味深いモデルバリエーションが生じた。写真を掲載した銃の中の1つ、猟兵小銃M65のトリガーガードおよびベルト固定具を装備した点火針小銃である。これは税関または地方警察用だったと推測されている。紹介している重量約3500gのサンプルは全長1130mmである。クルミ材製の頬当てのないストックは、マズル部で約115mmにまで達している(頑住吉注:明記されていませんがそれ以外考えられないので周囲がでしょう)。モデル60、62、65と形が同じストックキャップ(頑住吉注:バットプレートにあたるパーツですが、板状ではなくカップ状にストック後端を包んでいます)は鍛鉄製である。これに対し、前の「ストック縁取り」(頑住吉注:「ストックキャップ」の逆に先端部を包む金属部です)には真鍮が使われている。後にバーデン州の国境監視人用小銃にもこの形の金具が現われた(ただし鋳鉄製)。バレル右横にあるバヨネット固定金具はM60の方式の「Haubajonett」(頑住吉注:こんなのです http://www.waffensammler-kuratorium.de/ar1860/as1860li.html )を受け入れたらしい。口径14.2mmのバレルの下、マズルから約30mmの場所では1本のブリッジがさく杖を支えている。これもバーデン州のモデルと全くよく似ている。このスタンダードなドライゼ閉鎖システムにはまだ小さなゴムパッキンがない。これは1870〜71年の普仏戦争以前の製造であることを示している。

(頑住吉注:おおざっぱにはこんな感じです。黄色い部分が真鍮製の「ストック縁取り」、赤い部分がバヨネット固定金具、黄緑色の部分がさく杖、青い部分がそれを支えるブリッジで、バヨネット固定金具とブリッジはバレルと一体です。)

 フランツ フォン ドライゼは今日ほとんど知られていない彼の圧縮空気銃にさえプロシア軍に採用されたサイトとトリガーガードを使っていた。そのような少量生産された銃は今日希少品である。

革命の年1848年に静寂のうちに銃器技術にも大変革が起こった(頑住吉注:いわゆる「3月革命」の年です)。より詳しく言えばチューリンゲンのSommerdaにおいてである。というのは、若き(頑住吉注:26歳くらいです)フランツ フォン ドライゼがこの地で彼の最初のセルフコッキングボルトアクションシステムを設計したのである。この最初というのはそもそもモーゼル兄弟がこのシステムを試みたよりもずっと早かった。しかしドイツの小さな州がこのアイデアを受け入れ、そしてその公的機関の一部がそのような銃を装備するまでさらに20年以上かかった。バーデン国境監視人ライフル(G.A.G/69)は当時最もモダンな点火針小銃だった。この銃は第一次大戦開戦時までなおバーデン州の役人の装備に含まれていた。この銃により、彼らはより早い自衛が可能になった。というのは、ファイアリングピンスプリングをコッキングするためにコッキングピースを引く手間がなくなったからである(頑住吉注:セルフコッキングが導入される以前の機種は、ボルトが2重構造になっていて、ボルトを手動で閉鎖した後にボルト後部に露出したコッキングピースを後方に引いてコッキングしてやる必要があったようです)。これにより、このライフルは3つの操作のみで発射準備が整った。すなわち、射手はボルトを開き、開口した中に弾薬を置き、ボルトを押し込んで完了である。このために取り外し可能なボルトヘッドに斜めの「コック面」が設けられた。オープン時、ボルトヘッドはコッキングハンドルに連動して回転するが、ボルトの残りの部分は回転しない。これによりニードルキャリアがこのボルトヘッドの「コック面」上を後方に滑り、トリガーにロックされる。射手がトリガーを引くとニードルキャリアはフリーになる。ニードルキャリアは急速に前方へ動き、「点火錠剤」を突き、そしてこれにより発射薬は発火する。この形式では「錠剤」が弾薬の底部に設置されていたため、点火針はもはや古いドライゼシステムのように発射薬全部を貫通する必要がなかった。この技術革新は1866年のフランスのシャスポー弾薬に模倣された。その上この閉鎖機構はもはやエアチャンバーを持たなかった(頑住吉注:この語はボルトヘッド前面の凹を指し、気密性を高める意図だったらしいんですが、何故ここが窪んでいると気密性が高まるのかは説明がなく不明です)。新型のセーフティは旧型同様ボルト後端の滑り止めミゾつき「親指プレート」という形式だった。セーフティをかけるには、射手はこのプレートを前に押し、左に回した(頑住吉注:これは旧軍のボルトアクションライフルと似ているようですね)。

 さらなるディテールを挙げる。この銃の全長は1080mm、重量は300gであり、茶色染めされた口径15.3mmのバレルとストックは上から下に貫通するプラスネジとならんで、さらに2本のネジ、前のスリング固定金具の軸、鋼鉄のバレルバンドで結合されている。頬当てのないクルミ材製ストックはマズルから約120mm後方で終わっている。前部は鋼鉄のノーズバンドで終えられている(頑住吉注:写真で見るかぎり前出の「ストック縁取り」とそっくりですが何故ここで別の名称が使われているのかは不明です)。その直前のバレル右側面にはバヨネット固定金具がある。ここにはプロイセンのM60と構造が等しく、剣が短縮されたバヨネットが固定された。ストック前および後部のスリング金具は猟兵小銃モデル65に似ている。ストック後部には鋼鉄の「ストックキャップ」があって木材の割れを防いでいる。ストック右側面とトリガーガード下の検査刻印は何十年もの公用使用のためもはやほとんど判読できない。

 バーデン州はこの「ボルトをオープンすることによってコックされる銃」を国境監視人用に少数しか調達しなかった。だからそのようなライフルは今日取引所やオークションで最もレアな、最も注目すべき品目に属している。そしてこの銃にはフランツ フォン ドライゼの発明者魂がきらりと光っている。このような優れた発明が珍品に留まり、ほとんど忘れ去られているのは、ドイツの軍当局が1870年以後オベルンドルフ(頑住吉注:モーゼル)製の銃を優遇したからである。

フランツ フォン ドライゼ(頑住吉注:囲み記事)
 フランツは一生涯(1822〜1894)、彼の有名な父の影の中に立っていた。父はボルトアクションシステムという画期的な発明によって19世紀の歩兵武装に革命を起こした人物である。ドライゼジュニアはすでに早くから点火針小銃の改良を行い、そして多数の技術的に知恵を絞って考え出されたシステムをデザインしていた。だがこの天才的発明家には性格にその道を阻む障害があった。すなわち、彼は打ち解けない変わり者で友達がいなかった。彼は自分のプロジェクトに対する批判を受け入れなかった。そして結局彼は自分の強情によってプロシア軍の寵愛をも失った。彼は民間用銃器においてさらにいくつかの成功を収めることができた。すなわち彼の狩猟用ライフルはその命中精度と加工(頑住吉注:の精度や上等さ)によって顧客に評価された。Kuhfahlによる点火針リボルバーでも彼は共同設計者としていろいろな製品を販売した。しかし彼の父の名声は、彼の設計が示すところからすれば不当にも彼を評価されないままに留めた。(頑住吉注:かなり多くの業績を上げたにもかかわらず、父があまりに有名で高く評価されていたために、息子であるフランツへの評価が「ああ、ニコラウスの息子ね」という以上に高まらなかった、ということのようです)。ニコラウス フォン ドライゼの死後、プロイセン国防省は国立ライフル工場に属する同社の変革に努力した。しかしフランツはこれを拒絶した。そしてフランツが金属弾薬を使う試験銃の公募に参加し、猛烈な技術発展のテンポに遅れをとらないよう全力を尽くしたにもかかわらず、もはや彼の会社は軍の組織的武装にほとんど役割を果さなかった。1881年、フランツはモーゼル兄弟に対抗して普及させるためにあるパイプ状マガジンを持つ手動連発ライフルをデザインしたが、成功は得られなかった。州からの注文も来なかった。そしてすでに1876年、長きにわたってドライゼ工場に設置されていたライフル検査委員会も解散されていた。この状況の中でフランツは農業機械や工作機械のような純民間生産に切り替えた。フランツ フォン ドライゼの死後、父が大いなる困窮の中で設立した工場の歴史は終わった。1901年にラインメタルがセルフローディングピストルおよびマシンガンのブランドとして引継いだ後、ドライゼの名前だけが残った。

鋳鉄製バレル(頑住吉注:囲み記事)
 鋳造は18世紀半ば以後、今日まで普通の方法であるくり返し折りたたんで鍛える(精錬する)製法よりさらに均質な鉄を生じさせることが可能になった。しかし鋳鉄製バレルが普及するには時間がかかった。19世紀初めまで鍛鉄製バレルつきのハンドガンが使われていた。その際、職人は鉄板を丸棒にかぶせてパイプ状に成型し、そして縫い目に沿って溶接した。この製法における不良率は約30%だった。この製法で作られたバレルは長時間実用後に継ぎ目から裂ける可能性もあった。鋳鉄製バレルの初めての試みは1830〜40年代にクルップで行われた。鋳鉄製バレルは鍛鉄製バレルに比べてそれほど早く使いつぶされないこと、そしてその高い強靭性から同じ、またはより高いガス圧に耐えるバレルが結果として軽くなることが期待された。しかしクルップと他のメーカーから供給されたバレル素材はまだライフル製造の要求には適さなかった。それは均質でもなく、充分柔軟なマテリアルも含有しない、非常にハードなもので、磨き段階で障害があり、そして試射で破裂した。最終的にWittenのBerger&Co.社が転換をもたらした。すなわち、彼らのバレル素材は非常に柔軟で、純で、加工しやすく、そして不良率が低かった。このためドライゼは1856年以後バレル素材をWittenから受け取った。プロイセンは1857年以後全ての点火針銃用鋳鉄バレルとしてBerger社製品のみを受け取った。


 この記事はノーマルなニードルガンに関する知識を当然の前提として、知られざる特殊型を紹介しているんですが、勉強不足でニードルガンに関してごくおおざっぱな知識しかなかったので別の本でちょっと調べました。
 ニードルガンの弾薬を図示して詳しく説明してある資料は案外見つからなかったんですが、ペッパーボックスの「実銃について」でも資料に使ったB.Brukner著、「FAUSTFEUERWAFFEN」(拳銃)という本に図がありました。

 黄色い部分が発射薬、青い部分が弾丸、赤い部分が点火薬、茶色い部分は「Treibspiegel」となっています。この語は辞書にも載っていませんが、こんなとこで勉強の成果が出ますね、これはPSS特殊消音拳銃用弾薬SP-4の、弾丸を載せて押し出すピストンと同じ名称です。もちろんPSSと違ってこれは銃口から発射されてしまうはずで、要するにショットガン弾薬におけるワッズやサボ弾薬におけるサボのようなものですね。黄緑の部分は薬莢に近いものですが紙製で、全体を包んで先端で縛って閉じられているようです。説明はありませんが図ではこのように底部が二重に厚くなっていたように表現されています。ニードルガンは基本的には現在のものと近いボルトアクションであり、ボルトを引いて開口させ(エジェクトはしませんからエジェクションポートとは呼べません)、そこにこの弾薬を入れ、ボルトを前進させて閉鎖します。さらにコッキングピースを引くと点火針を載せたニードルキャリアがメインスプリングを圧縮しながら後退し、トリガーによって後方でロックされます。トリガーを引くと非常に長い点火針が弾薬の底部を突き破り、発射薬全部を突き抜けた上で点火薬を突き、発射されます。紙製の薬莢には金属薬莢のような気密機能がないのでゴムや革などのパッキングを設けましたが、当然ガス漏れによってパワーロスしました。また、点火針が発射のたびに高温にさらされるので折れやすいという欠点もありました。また、紙製薬莢は湿気に弱かったはずですし、戦場で乱暴に扱えば壊れてしまうこともあったでしょう。しかしそれでも連射性は当然ですが命中精度でも前装銃より明らかに優れていたようです。前装銃の場合弾丸をパッチにくるむこと、ガス圧で後方が広がる工夫などによって弾丸をライフリングにかませましたが、ニードルガンは現在の銃のように最初からライフリングにかみ合うのに適した正確な寸法にできたからです。

 これがニコラウス フォン ドライゼによる偉大な発明ですが、その息子もまた重要な発明をしました。それが本文で説明されているセルフコッキングシステムです。このシステムはカムを使ったもので、モーゼルから現在に至るシステムと基本的に同じもののようですが、残念ながら少数しか作られず、ドイツ国内ですらほとんど知られていないということです。またこの銃では点火薬が底部に置かれていたということで、当然点火針が折れやすいという欠点は大幅に改善されていたはずです。紙製の薬莢の底部に置いたのでは確実な発火が得られないからこそ上の図のような構造になっていたわけですが、この問題をどう解決していたのかは記述がなく不明です。しかしニードルガンが進化の最終段階においてかなり現在のボルトアクションに近いものになっていたことは確かなようです。

 ニードルガンの本筋とは直接無関係ですが、バレル製法に関する記述もなかなか興味深かったです。





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