「1人砲兵」

 最近どういうわけか「DWJ」が届かないこともあり、新しい記事の中に特別に読みたいものが尽きた感じなので、ちょっと古い記事から読み残した面白そうなものを探してみました。今回紹介するのは「Visier」2002年12月号に掲載された「Ein-Mann-Artillerie」、英語に訳せば「ワンマンアーティラリー」、つまり「1人砲兵」と題する記事です。1人の歩兵が使用することによって砲兵に近い役割を果すことができるグレネード、その中でも主にライフルグレネードを扱った記事です。


「Ein-Mann-Artillerie」

軍用ライフルコレクター向けの興味深い追加領域に一条の光。不当にもライフルグレネードとその発射器具は従来「壁の花」状態でかろうじて過ごしていた(頑住吉注:「壁の花」とはパーティーでダンスに誘われず壁に張り付いている、つまりもてない女のことです。要するに軍用ライフルコレクターよ、従来人気がなかったライフルグレネードおよびランチャーは面白い存在だからもっと目を向けよう、といったことが言いたいわけです)

「ハンドグレネードは歩兵の砲兵である。」 訓練における非常に古い決まり文句はこう言う。そしてハンドグレネードの作用の仕方と取り扱いに関する全ての講話は、伝統的に、たいてい、むしろ皮肉な言葉で締めくくられる。(頑住吉注:この「皮肉な言葉」の内容は、「安全ピンを抜いて投げろ。あたれば〜。あたらなければ〜」みたいな内容らしいんですが、略されまくった話し言葉で残念ながらチンプンカンプンです)

 というのは、昔から投擲手は彼によって投げられる爆薬を満たした空洞体同様大きな尊敬を集めているからである。それは中世において人々が黒色火薬または硫黄の混合物を満たした粘土または鉄の球を、まだ投石器でその時々の敵に向けて投げていた時にすでにそうだった。18世紀には特別に命知らずな兵士のみが選び出され、特別なエリートとみなされた擲弾兵中隊に組み入れられた。というのは、当時の将軍に「ライオンのようなハート」という言葉で表現させた彼らは、戦闘の混乱の真っ只中で、沈着に球状爆弾をショルダーバッグから取り出し、その火縄に点火し、さらにそれを吹き、そして大きな弓で敵の真ん中に投射することが求められたからである。さらに擲弾兵は力も強くなくてはならなかった。鋳鉄またはガラスで作られた爆弾には1〜3ポンドの重さがあったからである。しかし、18世紀のクラシカルなキャビネット戦争(頑住吉注:検索したところ傭兵戦争のことらしいです)のオープンな野戦において、ハンドグレネードが役割を演じることはまれだった。しかしそれでも都市の包囲攻撃や堅固に築かれたフィールド防御施設における戦闘では役割を演じた。ここでは「Tromblon」(頑住吉注:検索すると括弧して「Blunderbuss」としているページもあり、要するに「ラッパ銃」のことらしいです)のようなグレネード小銃(頑住吉注:ライフリングは切ってません)も実用として登場した。これはこれを使って球状爆弾を手で投げるよりもより遠く、より正確に投射できるものだった。水兵は時として、こうしたその激しい反動で悪名高い「手持ち臼砲」も軍船の上での乗っ取り戦闘に用いた。

 19世紀にはハンドグレネードは、後装式で大きな射程を持つライフリングを切ったライフルの出現によってほとんど忘れられた存在に陥った。それはその最中に一部の機転のきく「素人細工が趣味の人」が、パーカッション衝突点火装置を持ついくつかのハンドグレネードタイプを設計したアメリカの南北戦争でも変わらなかった。

 軍の考えを転換させる糸口は、1904〜1905年の日露戦争(頑住吉注:「russisch-japanische Krieg」。「Krieg」は戦争です。一応勝ったはずの日本が後なんですね)と「Port Arthur」をめぐる戦闘(頑住吉注:何だろうと思って検索してみたところ、どうも旅順要塞をめぐる攻防のことらしいです。映画「二百三高地」で描かれたような戦闘ですね)で初めて開かれた。ここではそのような投擲弾がマキシム機関銃や他のモダンな兵器とならんで集中的に投入された。当時ヨーロッパの強国の陸軍も再びこうした投擲弾の使用による歩兵の戦闘価値の上昇に興味を持ち始めた。20世紀の「ハンドアーティラリー」に関するセールスマンは、Kent州Bromley出身のイギリス人Martin Haleに始まった。当時は軍需産業にこだわりがなく、彼は衝突点火装置(頑住吉注:初め旧軍の手榴弾のように硬いものに叩きつけて点火するものかと思いましたが、そうではなく投げた先で目標にぶつかって点火する、砲弾の「着発信管」のような点火装置と分かりました)を装備した爆弾を自国の軍隊だけでなく、ドイツや他のヨーロッパの強国にも提供した。一方すでに20年前にヤスリ面とゆっくり燃焼する遅延点火装置を備えた「強く引く点火」爆弾(頑住吉注:昔LSの「ポテトマッシャー」などと呼ばれるドイツ製大型柄つき手榴弾のプラモデルを作った人はご存知でしょう。投げる前に紐を強く引くことで点火するタイプの手榴弾です)を実験していたフランスは、Haleの破片グレネードを元に彼らのグレネードを、内蔵したパーカッション点火装置を作動させるために弾丸の先端がまず命中するものにすることを望んだ。Haleはイギリスで採用されたマーク1に関し、従来スタイルとならんで、空気中で「あやつる」細長い布つきのものを導入した。後にこのスタイルは同じ効果を達成する羊毛に交換されたものあった。1907年、Haleは初めて彼のグレネードをノーマルな歩兵銃から発射用の空砲を使って発射するデモンストレーションも行った。爆弾の下端には単純にバレルのための口径の太さの鉄棒が差しこまれていた。1911年、このコンビネーションはベルリンのシュパンダウでも公開された(頑住吉注: http://www.diggers.be/E/activiteiten/bommen/welkom.htm このページの上から25枚目の画像がこれに近いものと思われます)。

 1914年8月の第一次世界大戦勃発以前、ドイツ、イギリス、フランスはそのような新しい爆弾を早くも自国陸軍用に採用していた。だがとうてい必要数には達していなかった。すなわち、ドイツ帝国陸軍は約70,000のハンドグレネードと106,000のライフルグレネードを持ち、そしてこれによりドイツは一流のポジションにあった。イギリスは2、3千のHaleマーク1スタイルハンドグレネードを兵器庫に持つだけだった。

 1年後、軍需産業はすでにフル回転していたが、それでも補給は決して追いつかなかった。例えばイギリスの工場は、1915年の終わりに25〜50万個のハンドグレネードを一週間に製造したが、それでもまだ1916年に大きく食いこむ時期まで応急の、塹壕の中で空き缶で作った爆弾で我慢しなくてはならない兵がいたるところにいた。供給不足は同様に非常に多くの異なる構造見本をもたらした(頑住吉注:さまざまなメーカーがかり出された結果細部の異なるグレネードが多数生じたということです)。戦争の終わり頃になって初めてある種の規格化が行われた。当時の補給担当者の悩みは、今日コレクターの喜びである(頑住吉注:種々雑多のバリエーションは当時補給に不便であったが、現代のコレクターにとってはいろいろなものを集める楽しみが増えることになるというわけです)。すでに第一次大戦時に膨大な構造が生み出され、第二次大戦でさらに広がった。MillsハンドグレネードNo.5、別名36のような高度に標準化された兵器も、刻印の研究者のための興味深い宝庫を提供している。そう、50以上の会社が個々の部品製造を託され、見る人は底板またはレバーの特徴に基いて比較的正確にそれがどこで、あるいはいつ作られたのかを見つけだすことができる(頑住吉注:例えばこんなページもあります http://members.shaw.ca/dwlynn/baseplugs/baseplugs.htm )。

より高く、より遠く、より正確に
 塹壕戦に伴い、Haleが1907年に考えたバリエーション、ライフルの銃口から発射するハンドグレネードあるいは類似の爆弾はすぐに再び話題に上った。というのは、塹壕戦では非常に短い時間で敵の陣地が味方陣地との間の無人地帯および鉄条網のためにノーマルな人間の投擲到達距離外に位置したからである。前線兵士の創意工夫の才はこの限界を認めなかった。連隊の作業場は自動車のサスペンションのスプリングでカタパルトおよび並外れて大きな弓形発射機を作った。これはまるで中世のような包囲戦器具を思い出させた。それら全ては当然即製のものでしかありえなかった。というのは、そのような器具は比較的重く、かさばるものになり、部隊の移動時には持って行くことができなかったからである。

手投げからバレル内へ
 ドイツはイギリス軍同様非常に素早くHaleライフルグレネードの潜在能力を理解していた。ドイツ帝国陸軍はイギリスのモデルを採用しなかったが、1913年にはすでに棒つきバージョンを登場させた。このグレネードは1914年にさらに操作安全性に関する決定的改良が行われた。この点火システムは多くの未来をはらんだ構成要素を示していた。すなわち、前部にギザギザをつけた細長い鋳造体にスプリングでテンションをかけられた頭部を持つ衝突点火装置があった。発射時の急激な動きがカバーを上に急速に動かす。これによりグレネード内部でファイアリングピンが上昇するだけでなく、金属球によって打撃メカニズムを保持しているセーフティも解除される。金属球は横方向に滑り、ファイアリングピンは上昇し、それまで固定されていたファイアリングピン先端がプライマーと整列させられる(頑住吉注:文章だけではよく分かりませんが、基本的には「ショットガン用ミニグレネード」の項目で示した、衝突による急激な減速によって内部のファイアリングピンが慣性で前進し、点火薬を突いて発火させるシステムであり、通常はファイアリングピンが安全のため後方に押されている上に金属球で保持されているが、これが発射の衝撃で解除されるということだと思います。ごくおおざっぱにはサンプロジェクトのM203カートとかローラーロッキングみたいな感じではないでしょうか。)。

 M14のグレネード体は約50cmの金属棒の上に設置され、この棒は歩兵銃の銃身内部に入った。受け皿のような、ふくらんだ金属薄板製円盤が爆弾体下端に設置されていた。これは到達距離調節用だった。すなわち、凹んだ方をターゲット方向に向けてネジで固定すると、円盤は約1kgのグレネードが本来可能な1/4しか飛ばない空気抵抗を提供する。反対向きに固定すれば、半分の距離になる。円盤をまったく取りつけなければM14は最も都合の良い発射角度において約200m飛ぶ。発射手段としては木製の弾丸つき空砲が使われた(頑住吉注:要するに約1kgもあるかなり大きなグレネードにバレル内径と同じ太さの金属棒を取りつけてマズルから挿入し、空砲で発射するわけです。で、本来最大200m飛ぶグレネードに「」型の金属板を右を前にして固定すれば空気抵抗が増加して100m、左を前にして固定すれば50mに飛距離が減少するというわけです。ドイツ人らしからぬ単純な手法ですね)。

 フランスとイギリスも戦争の最初の年のうちに、ドイツ同様棒のついた類似の構造を提供した。この結果全てのライフルがあっという間にグレネードランチャーに突然変異可能となった。当然この曲射銃への変化は大きな問題なしで成功するわけにはいかなかった。すなわち、リコイルのインパルスがストックに壊滅的な影響を及ぼしたのである(頑住吉注:ここをずっと読んでいる方はご存知のはずですが、このインパルスには「運動量」の意味もあります。反動は発射される弾丸の「運動量」の大きさによって決まり、これは速度x質量ですから、エネルギー量が同じの場合重い弾ほど運動量は大きくなり、反動は強くなります。1kgもあるグレネードを発射すればたとえ比較的低速でも反動は非常に大きくなってしまうわけです)。ショルダーストックは折れるか、縦方向にバラバラに砕けた。システムのストックへのベディングは緩んだ。さらに悪いことにはバレルに傷がついた。バレルがふくらむこと、ライフリングが摩滅すること、マズルが広がること、バレルが曲がることがあった。通常グレネード射撃に使うライフルは、もはやその本来の目的である標的を狙った射撃用にはほとんど向かなくなった。だから多くの塹壕戦闘区域において部隊は2挺の特別な銃をグレネードライフルと決めていた。フランス人たちはこの目的に補強した古いGrasライフルMle1874(頑住吉注: http://www.militaryrifles.com/France/Gras.htm )を使い、イタリア人たちは改造されたニードルガンすら兵器庫の在庫からひっぱり出した。

 この流行は前線の作業場がグレネードライフルの射撃用銃架を即製で作った後で強まった(頑住吉注:ドイツ製の即製銃架の写真が掲載されていますが、大きなスプリングで銃全体が後座、復座するもので発射角度調節用の分度器もついています。修正射撃も可能なわけで、火砲に近い機能があると考えられますが、ただここまでするんなら最初から火砲として作ったほうが良くはないかという気もします)。しかし棒つきのライフルグレネードは過渡期の、そして応急の解決策でしかありえなかった。1916年、西部戦線においてイギリスとフランス陣営にほとんど同時に「射撃カップ」が登場した。フランス人たちは彼らの発明によるiven-essiereと呼ぶTromblomを登場させた(頑住吉注: http://meltingpot.fortunecity.com/utah/894/frenchgrenades.htm )。これは単純にマズルとフロントサイトにかぶせるものだった。口径は50mmであり、遅延点火装置つきの特別な475gのグレネードを発射した。VB投射グレネードは全くノーマルなライフル弾薬を使って発射された。弾丸はグレネード中心の、口径の大きさの穴を通過し、その際弾丸の先端が遅延点火装置を作動させた。これに対しイギリスはその後も弾丸のない発射用弾薬を使い続けた。だが、イギリス人の「射撃カップ」は単に下端に直径63mmのプレートを「カップランチャー」内部のパッキングのためにネジ止めした通常のMillsハンドグレネードを投射した(頑住吉注:この文の頭が逆接なのは、「フランスのランチャーは通常の弾薬が使えるのにイギリスのそれは専用弾薬というか空砲しか使えずイギリスの方が不便だったが、発射するグレネード自体はフランスは専用、イギリスは通常の手榴弾の流用とイギリスの方が便利だった」という意味合いでしょう。ちなみにイギリスのランチャーはこんなのです http://www.firstworldwar.com/bio/mills.htm )。

 両「グレネードカップ」は全ての予想を越えて成功を示した。イギリスのモデルは第二次大戦の真っ只中まで使用され、幾度となくコピーされた。1917年にはドイツにすらコピーされた(弾薬としてはフランスのVBグレネード用が模倣された)。VB「射撃カップ」は今日ですらフランスの待機勤務の警察官の催涙ガス発射用として現役である。

 少々変えただけでフランスのViven-Bessiere-Tromblomのコンセプトは、ドイツの98k用ライフルグレネード器具42(頑住吉注:ちなみに旧日本軍もこれをほぼコピーしており、タナカがモデルアップしていました)およびロシアのモシン・ナガン1891/30用1930年型Djakanow「射撃カップ」(頑住吉注:検索でも見つかりませんでした)の開発の際のモデルとしても役立った。いかにも戦場にありがちなことだが、こうした「射撃カップ」は広く普及し、人気を博したが、単にストックやバレルに取りつけただけの照準装置は部隊において失われるのが非常に早かった。モダンなアサルトライフルの導入さえ「射撃カップ」のアイデアを殺しはしなかった。カラシニコフ用にもそのようなマズルアタッチメントが存在した。東ドイツでは同様に「カップ爆破力グレネード73」が人民軍解散まで手にされていた。

「かぶせる」という代替案はすでにフランス軍によって1917年に実験されていた。爆弾を発射するための第三のバリエーションとしてであり、これは非常に未来をはらんだものであると証明されることになる。このときこれに使用されたライフルはDR Mle1916だった(頑住吉注: http://perso.wanadoo.fr/encyclopedie.des.armes.de.guerre/pays/france/fusil/Berthier_mle_1916/berthier_1916.htm 趣旨と関係ありませんけどこれほど不細工なボルトアクションライフルも珍しいですな)。

 この場合爆弾下部の単純な「あやつる尻尾」が使われた。この内径はライフルのバレル外径と同じになっており、すぐにマズルにかぶせられた。発射薬の圧力は「あやつる尻尾」内に捕らえられ、ロケット型の、翼で安定させる衝突発火装置つき投射体を駆りたてた。

 これにより、「射撃カップ」グレネードよりずっとフラットな弾道で直接窓の開口やトーチカの銃眼に命中させることもできた。だが、VB-Tromblomの場合に似てそのグレネードの使用はLebelライフルMle1886M93に限定されていた。この銃だけは非常に良好にストックが作られていた結果585gの爆弾の反動に耐えた。

 アメリカ人たちはこの「はめこみグレネード」コンセプトを第二次大戦でより完全なものにした。スプリングフィールド03、M1カービンおよびライフル用小型マズルアタッチメントを開発したときにである(頑住吉注: http://www.inert-ord.net/usa03a/usarg/adapts/ バヨネット固定金具に固定するパイプ状のアタッチメントで、バズーカのロケット弾に似たプレス薄板製発射体にノーマルなパイナップル型手榴弾をセットして発射するものです。この記事に掲載されている写真キャプションでは最大飛距離250mとされていますが、上のサイトでは実用上正確に飛ばせるのは約200ヤードとされています。手榴弾の安全レバーにホルダーがセットしてあり、安全ピンを抜いてもこのホルダーでレバーが固定されたままになります。この状態で発射すると、急加速によってホルダーが自動的に滑り落ち、レバーが飛んで発火する仕組みです)。

 1945年以後、「はめこみグレネード」は兵器メーカーにより好まれるコンセプトであり続けた。新しい爆薬および成型炸薬弾コンセプトの改良が当時、比較的細長いグレネード体の開発を可能にし、これが装甲板に対しても相応の貫通成績を示した。

グレネードピストルおよびライフル
 だが、ナチ・ドイツ軍は信号拳銃(頑住吉注:「Signalpistole」)のライフリングつき「Leuchtpistole Z」(頑住吉注:よく「信号拳銃Z」と訳されますが、直訳すれば照明ピストルです)または「Sturmpistole」への発展によって別方向の道を示した。その口径28.4mmの炸裂弾薬は、最初の炸裂および対戦車防御グレネードを持つ多数のバリエーションであり、そして今日の40mmグレネードライフルの先駆者と見なせるものであった。アメリカ人たちはそのようなストゥルムピストーレおよびその弾薬を大量に戦利品として鹵獲した。そして1960年代の初め、第三世界における介入部隊用として爆弾を敵の上に運ぶための命中正確な方法を捜し求めているときにそれを思い出した。比較的低圧で発射されるグレネードは射程400m内外、致命半径5mを持つ。「はめこみグレネード」や「射撃カップ」同様、軍需産業はまもなく完全な弾薬種類を開発した。戦闘フィールドを照らす照明体、煙幕、焼夷用白色の燐光物質入りの弾薬、近距離戦闘用散弾すらあった。単純な中折れ式M79に続き、1960年代の終わりにはM16のバレル下にマウントする「発射パイプ」M203が現われた。ソ連は非常に短時間でこのシステムをコピーした。初めてアフガニスタンに投入されたライフルグレネードランチャーBG-15およびGP-25がそれである。ドイツでは連邦国防軍および警察が5ポンドしかない軽量なH&K製ehrweckistole(頑住吉注:多目的ピストル)MZP-1を昨年(頑住吉注:2001年)手に入れたが、これは遅れて来たストゥルムピストーレの子孫である。アメリカの特殊部隊およびKSKはこれをアフガニスタンに投入した。

「Sir Bombenbauer」(頑住吉注:囲み記事。タイトルは「爆弾製造者」に称号の「サー」をつけたものです)
 第一次大戦の多くのハンドグレネードバリエーションの中で、イギリスの「Mills Bomb」ほど普及し、長期間にわたる成功を収めたものはない。これは1915年5月に「No.5」として初めて西部戦線に出現したものだ。その発明者Sir William Mills(1856〜1932)はSunderland出身の造船技師の息子であり、そのキャリアを海軍の技術者として始め、冶金工としてすぐ名を成した。彼はイギリス最初のアルミニウム鋳造所を作り、ゴルフクラブの開発と製造で知られるようになり、富裕になった。衝突点火装置を使ったMartin Haleとは異なり、Millsはグレネード内に遅延発火装置を取りつけた。投擲の際スプリングでテンションをかけられたファイアリングピンの下にあるレバーがはじけ飛び、ファイアリングピンはフリーになる。ファイアリングピンはグレネードの底部に急速に進み、点火プレート(英語では「デトネーター」)に衝突する。点火プレートは点火薬につながるゆっくり燃焼する混合薬が満たされた結合紐に点火する。5(ライフルグレネードの場合7)秒の延期の後、爆薬を満たした鋳鉄製空洞体が爆発する。典型的にギザギザをつけられた破片ジャケットを持つこのグレネードは、木箱に12個入りで前線に送られた。そして前線で底部プレートが外され、点火セットが取りつけられる決まりになっていた(再三にわたって事故が起きた)。1915年3月に初めてテストされ、Mills BombはすぐにMartin−Halleおよび他のバリエーションに取って代わった。第一次大戦だけで7千万個以上が作られ、第二次大戦でも生産はさらに続いた。1917年以後Millsハンドグレネードは強化された底部プレートを手に入れ、湿気の侵入を防ぐため工場でSchellack(頑住吉注:シェラック。ワニスなどの原料となる貝殻類の分泌物)に漬けられた。この改良モデルは「No.36M」(「M」はMesopotamienの意)と呼ばれた。William Millsは1922年、功績によりサーの称号を授けられた。


 グレネードの歴史について順に触れていきます。
 まず18世紀の「Tromblon」ですが、ちょっと作ってみたくなるようなインパクトのある外観をしています。基本的にはフリントロック式小銃に似ていて、通常のバレルの代わりに極端に太短い砲身を取り付けたような感じです。ドイツのものとイギリスのもの2種の写真がありますが、大きな差はないようです。口径は8〜10cm、砲身長は球状グレネードがその中に隠れる程度で、まさに「手持ち臼砲」です。砲身は色からして真鍮製のようで、ライフリングはありません。このグレネードがどういう仕組みで爆発したのかは説明がありませんが、文章の流れからしてたぶん導火線に点火してから砲身に入れて発射したんだと思います。フリントロック式は不発が多かったわけですが、もし不発が起きたら自爆することになるんではないでしょうか。あるいは発射の際の火で導火線に点火されるのかも知れません。

 手榴弾の祖先は中世からありましたが、長射程の後装ライフル銃が登場したことでいったん衰退し、日露戦争で再び脚光をあびました。日露戦争で各国の観戦武官が機関銃の威力に大きな印象を受け、その報告によって配備が進んだというのは有名な話ですが、手榴弾もそうだったわけです。日露戦争では空き缶を使ったような急造手榴弾が使われたようですが、初めて近代的手榴弾を製品として本格的に販売したのはHaleでした。

 手榴弾、ライフルグレネードには目標に命中した衝撃で爆発する砲弾のような「着発信管」(この記事中では「衝突点火装置」と直訳しました)を備えたタイプと、発射時に遅延発火装置に点火して発射されるタイプの2種類があります。後者は遠距離になると到達前に爆発するおそれもありますし、逆に近距離だと到達してから爆発するまで数秒かかり、敵に対策を取られてしまうおそれもありますから前者の方が優れているようにも思います。しかし前者にも柔らかいものに命中した場合や浅い角度で命中した場合に爆発が不確実になりやすいといった欠点もあります。また安全性も一般的に前者の方が低くなりがちでしょう。前者の方が近代的っぽい感じなので意外ですが、近代手榴弾第一号ともいうべきHaleのモデルは前者であり、その後後者であるMillsのモデルに取って代わられているわけです。後の話はともかくHaleの手榴弾は大ヒットし、多くの国に装備されました。そしてHaleは手榴弾に棒をつけてその棒をライフルの銃身に挿入し、発射するという近代的ライフルグレネードの原型にあたるものも試みていたわけです(書き方からして大量生産はされていないようです)。
 第一次大戦2年目にあたる1915年に登場したMillsの手榴弾も大ヒットして主流になりましたが、機関銃を据えた塹壕での膠着戦において人力では敵まで届かないというケースが増え、ライフルグレネードの必要性が増しました。まず作られたのはHaleの原型と同じ棒をつけたタイプでしたが、これは過渡的なものでした。
 本格的なものの第一号は「射撃カップ」と呼ばれるものです。ライフルのマズルにカップ状の発射器具をとりつけるもので、通常のMills手榴弾に発射器具の内径と同じ円盤を底板としてとりつけ、空砲で発射するイギリスのものと、中心に弾丸の通る穴を開けた専用グレネードを実弾で発射するフランスのものがありました。
 まずイギリスのものですが、通常の手榴弾を使うんですから当然ですが、ライフルグレネード独自の点火装置はありません。どうやって発火させるかというと、何と大胆にも安全ピンのつながったリングに指を通した状態で発射するんです。グレネードは勢いよく発射され、手元には安全ピンが抜かれて残り、一定時間が経てばグレネードは爆発するという仕掛けです。発射時のライフルに対するダメージを軽減するため、マガジン側を上にして発射するのが正しい使用法とされたそうです。第二次大戦でドイツが使い、日本がコピーしたライフルグレネード発射器具もイギリスのものに近いものでした。
 一方フランスの方はグレネードの中心に弾丸の通る穴が開いており、実弾を発射するとまず弾丸がグレネードを貫通して飛びます。グレネードは初め停止しており、ここにさしかかる弾丸は最大速度で、しかもグレネードは弾丸よりはるかに重いですからグレネードは弾丸が飛び去ってから発射されることになるはずです。弾丸が飛び去ってしまった後は穴からガスが漏れますからイギリスのものよりかなりパワーロスするでしょう。ただ、専用の空砲でなく実弾で発射できることは補給上かなり便利なはずです。一長一短ですね。このグレネードでは弾丸が内部を通過する際に遅延発火装置が作動するようになっています。ちなみにここでは触れられていませんが、他国には「射撃カップ」をオフセットさせてガスを導き、弾丸が中を通過することを避けたものもありました。パワーロスは同じですが、これなら普通の手榴弾を発射することも可能です。
 一方アメリカは第二次大戦で、マズルに細いアダプターを取り付け、ロケット型のグレネードを逆にここにかぶせて発射するライフルグレネードを使用しました。写真キャプションによればこの他に即製で60mm迫撃砲弾をM1ガーランドから発射することも行われたそうです。単に本来手榴弾を取り付ける飛行体に迫撃砲弾をつなげただけのようで、威力は手榴弾とは比較になりませんが、銃に与えるダメージは非常に大きかったようです。
 ここまで興味深い記述が語られて来ましたが、ちょっと不満なことにこれが発達したものと考えられるブレットトラップ式グレネードに全く触れられていません。マズルにかぶせるものですが、NATO共通規格があってアダプターなしにフラッシュハイダーにかぶせて発射でき、内部で実弾を受け止めるので専用の空砲は要らず、パワーロスもないというものです。これは今後もある程度多用されていくでしょう。
 ドイツは「射撃カップ」タイプも使いましたが、これとは別にカンプピストル、シュツルムピストルも使いました。覚えているでしょうか、私は「ラドムMag95および98」の項目で、「日本では『アメリカのM79グレネードランチャーは旧日本軍の擲弾筒が元になった』とか〜言われますが、これも外国から客観的に見たらどう言われるかをちょっと考えてみた方がいいかも知れません。M79はどちらかというとカンプピストル、シュツルムピストルに近いような気もします」てなことを書いたことがありますが、やはり少なくともドイツ人はこれこそ現在の40mmグレネードの祖先であると考えているようです。アメリカ人がどう考えているのか知りたいところですね。

 なお、この記事はちょっと古いものなので、最近の20mm、25mmグレネードには触れられていません。
 















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