台湾軍のF-104改造偵察機が尖閣を偵察していた
それほど昔の話ではありませんが、「歴史秘話」的な記事です。
http://military.china.com/history4/62/20130201/17666604.html
釣魚島上空の台湾・日本の勝負の秘密を明らかに:F-104、F-4に遭遇
最近、日本政府は西部辺境と与那国島の「防空識別圏」(ADZ)を調整し、当初はアメリカ軍が区分けし台湾当局の支配下に帰した与那国西半分のADZを自己の所属に帰すと言明した(頑住吉注:最近と言っても2010年のことです。 http://www.mod.go.jp/j/press/news/2010/06/24a.html )。日本のこの挙に対し、ある台湾の「立法委員」は、ひとたび日本が目的を達成すれば、台湾当局が釣魚島の「主権」は日本サイドだと認めたに等しい、と警告する。実は、台湾軍の心中にも鬱憤がたまっている。過去何度も、台湾空軍が与那国島のADZ権益を利用し、日本の釣魚島方向における拡張行為を牽制してきたことを知る必要がある。
「始安」秘密計画
1960年代に大陸がミサイルを使って多数の台湾のUー2高空偵察機を撃墜して以後、台湾当局は一度大陸に対する偵察、侵略して騒擾を引き起こすことをしばらく停止した。だが、この種の自制は長くは続かず、1980年代以後、台湾軍はまた「始安」というコードネームの秘密計画を実施し、改めて大陸に対する空中偵察を再開した。興味深いのは、「始安」計画が後にさらに一部発展し、日本人さえも台湾空軍によって多くの秘密を見られたことである。
1984年、台湾空軍はアメリカのリットン社から2台のPCー201型長焦点距離斜め向きスキャン式カメラを買ってきて、独立第12作戦隊の2機のF-104戦闘機に装備した。PC-201はアメリカのスパイ衛星上のカメラと同一クラスに属したが、体積が非常に大きかったため改装に用いられたF-104戦闘機は止むを得ず特別に設計された延長型機首整流カバーに交換され、こうして世界で唯一無二のRF-104「始安」偵察機が誕生した。実際には改装されたF-104機は2機には全くとどまらず、12機だった。第12作戦隊は毎回の任務執行にあたりいつも状況が最もよい4機を選び、このうち2機は予備機で、もし最初の2機の任務機に問題が出れば、カメラは直ちに取り外されて予備機に取り付けられた。安全の考慮から、第12作戦隊は毎回「始安機」を1機ずつ順番に離陸させることしか許されず、空中で改めて編隊を組んだ。
PC-201カメラは非常に精密で、加えてフィルムがポロニウムメッキされていたので、台湾島の高温多湿の環境下では非常に容易にカビが生えたため、第12作戦隊は平時はいつも仏様のようにPC-201とフィルムをお供えし、それらをわざわざ温度がコントロールされた部屋内に置いて冷気を吹き付けていた。だがこのように細心の世話をしても、依然問題は絶えなかった。ある時は2台のPC-201カメラの1台はレンズにカビが生え、1台は内部に故障が生じ、いずれもアメリカに修理に送り返された。第12作戦隊は、時代遅れのKS-125高・低空スキャンカメラを持って勤務を執行するしかなかった。
(頑住吉注:これより2ページ目)
釣魚島偵察行動始動
1990年9月末に日本の「産経新聞」は、日本の右翼団体「日本青年社」が釣魚島上に建造した灯台が、日本政府によって正式に航路標識として認定されたと明らかにした。このことは日本政府が釣魚島の支配を「合法化」する企図を暴露し、大陸と台湾の重大な関心を引き起こした。李登輝の態度が「不介入」だったため、台湾軍は釣魚島防衛船舶が日本の海上保安庁の艦艇によって衝突、阻止されるのをただ座視し、結果として批判を受けた。民衆の不満を収めるため、台湾空軍は秘密のうちに同年10月および11月に数機の「始安機」を出動させて偵察を行い、もって日本人の釣魚島上でなす動きを理解するのに便とした。
「始安機」の偵察行動は「国防省」によって空軍「作戦司令部」を経て命令が下され、さらに連隊によって第12作戦隊に命令が下された。原則上、ひとたび命令が下されれば、偵察機は1日置いてすぐ行動することになっていた。任務執行にはおよそ1時間余りしか必要としないが、PC-201カメラの世話が非常に困難なため、地上勤務の機械技師は「始安機」に特殊な機首整流カバーを装備し、この過程に少なくとも2時間費やさねばならなかった。整流カバーの装備が整うと、続けて行われるのは一連の通電、通圧テストなどだった。
関係者の回想によると、釣魚島は与那国島の北東150kmの所にあり、基隆港から186kmの距離しかなく、「始安機」は10分余りしか必要とせずにもう偵察位置に到達できた。だが釣魚島海域の天候は変わりやすく、「始安機」飛行員の多くは数本のルートと偵察区域を準備し、無駄足を避けた。アメリカが1950年代に西太平洋の「第1列島線」の各同盟国のADZを計画した時、無意識のうちに台湾に「配慮」し、アメリカが主権を代行する沖縄の与那国島の2/3の空域を台湾空軍のADZに区分けし、もって台湾東部の防空の早期警戒時間を延長した。今、日本人は釣魚島で騒ぎを起こし、台湾空軍はうまい具合に与那国島のADZを利用できるのである。
日本機スクランブルに出撃
1990年10月のある日、台湾空軍の2機の「始安機」は桃園基地から飛び立った。目標は釣魚島およびその周辺海域の偵察だった。これと同時に、2機のF-104戦闘機が新竹基地から飛び立って援護した。4機はまず4万フィートの等温層の高度まで上昇して一定時間飛行し、その後さらに「北北東」の方向に転じ、海に出た後北に飛び、同時にマッハ1.4の高速を維持し、もって日本機のスクランブルを防いだ。「始安機」は海に出た後、東経123度線に沿って北に飛び、偵察終了後直ちに左に旋回し帰投した。この間、「始安機」は釣魚島から最短の場所では15海里しかなく、飛行員は肉眼でもはっきりと釣魚島を構成するいくつかの部分を見ることができた。「始安機」が撮影に忙しくしている時、2機のF-104が故意か過失か与那国島空域に接近し、日本のレーダー監視網の視線を攪乱することを企図した。天の助けに頼り、この回の偵察で「始安機」が撮影した写真の中には、「日本青年社」が釣魚島上に建てた灯台と、島上の荒廃した缶詰工場内のクレーンすらはっきりと識別できた。
(頑住吉注:これより3ページ目)
すぐに日本の航空自衛隊が沖縄に設置したレーダーがこれらの「招かれざる客」を発見した。そこで数機のF-4EJ戦闘機が迅速に嘉手納基地から飛び立ってスクランブルした。台湾軍の作戦管制レーダーはFー4EJ機群が1万フィートの上空に上昇した時になってやっと発見し、「始安機」に注意を呼びかけた時には、双方は早くもすでに遭遇済みだった。
状況は緊急だったが、双方の戦闘機が使用する無線の周波数が違ったため、誰も相手方の通話内容がはっきり分からなかった。台湾軍のレーダー基地は無線の電信の中から「始安機」飛行員がまさに慌ただしい口調で相互に日本機を目視しているか否か質問しているのを聞いた。結果は誰も発見していないというもので、さらに台湾軍指揮官を緊張させたのは、「始安機」が任務放棄の命令をも受信していないことだった。
PC-201カメラは大きく、また精密で、「始安機」の飛行動作はあまり激しくはできなかった。「始安機」は比較的大きな過負荷の旋回を行う前、まず作動中のカメラのレンズを収容することが必須で、計器盤上にレンズの緑ランプが点灯するのを待って、飛行員はやっとさらに続く一歩の動作をすることができるのだった。さもないと機の旋回時に生じる非常に大きな遠心力が、価格2.5億新台湾ドルのカメラ内部の部品に破損をもたらすのだった。だがこのレンズ収容の過程には15秒を必要とし、空戦が勃発するかもしれない緊張の時間には、これは疑いなく相当に長かった。幸運なことに当時双方の機は異なる高度にいたので、双方共に相手を目視しておらず、ひとしきりの狼狽の後、相互に距離を離した。
電子妨害に遭遇
「始安機」の後の何回かの釣魚島偵察行動中、日本の自衛隊は繰り返し電子戦機を出動させ、妨害を行うことを企図した。ある回、「始安機」と航路護衛のFー104機はまず東に向かい与那国島上空でフェイントをかけ、その後迅速に北上して釣魚島に接近した。日本人は台湾機の行く方向を正確に判断し、結果として「始安機」は釣魚島から距離約30海里の所で1機の日本航空自衛隊のEC-130電子戦機を発見した。海上にはさらに日本の海上保安庁の艦艇が巡航していた。
「始安機」がさらに一歩進み釣魚島から距離20海里に至った時、その無線通信が妨害を受け始めた。飛行員は桃園基地の呼びかけを聞くことができたが、基地は飛行員の声をキャッチできず、明らかに日本の電子戦機の仕業だった。さらに人を憤慨させるのは、日本人がさらに周波数242メガヘルツの緊急救援チャンネルを用いて「始安機」に呼びかけ、日本語訛りの中国語で台湾軍の飛行員に次のように警告したことだった。「あなたはすでに日本の領空を侵犯しています。できる限り早く離れてください。」 だが台湾飛行員はあくまで逗留を持続し、偵察完了後も迅速に桃園基地に帰投することはなく、まず台湾島東海岸を経て花蓮に至り、さらに旋回して桃園基地に戻った。途中、この「始安機」が蘇澳の外海を飛行して通過する時、天気が良かったため思い切ってついでに再度与那国島上空に行き、そこの状況をひとしきり激しく撮影した。後に現像があがった写真には、島の上の日本海上保安庁の飛行場の滑走路にあるアルファベットすらはっきりと識別できた。
遺憾なのは、台湾軍が釣魚島偵察行動を継続していくことができなかったことである。李登輝が再三自制を要求し、1991年以後、台湾軍機、艦艇はもはや釣魚島に接近していない。
「再三自制を要求」ということは軍が最高指導者の命令を複数回無視したということでしょうか。だとしたら軍隊のあり方として無茶苦茶と言わざるを得ません。なお、李登輝はその後も「尖閣は日本領」と発言して多くの中国人の怒りを買っています。