フェデロフM1916自動小銃

 アサルトライフルの元祖とされることもあり、またロシア製でありながら日本の弾薬を使用することからもマニアの興味を引くフェデロフ自動小銃に関するページの内容を紹介します。なお、このページひどく混乱しており、同じ文章、画像が何度も何度も繰り返されるのでご注意ください。また日本では「フェドロフ」、「フェデロフ」という2種類の表記があり、ロシア語の発音がどちらに近いかは分かりませんが、中国語の発音は「fei de luo fu 」です。

費徳洛夫M1916 6.5mm自動歩槍


現代アサルトライフルの先駆者 フェデロフM1916 6.5mm自動小銃

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「サンクトペテルブルグの砲兵、技術兵および通信兵博物館に展示されている標準型フェデロフM1916自動小銃」)

フェデロフM1916 6.5mm自動小銃は火力がすさまじく、軽便で機動的な自動小銃であり、その非常に優れた戦闘性能は第一次大戦中誰の目にも明らかだった。当時まだ中間型弾薬、アサルトライフル、銃器ファミリーといった概念が出現していなかったため、フェデロフM1916は現代アサルトライフルの先駆であり、画期的な、時代を先取りする意義を備えていた。

中国人民革命軍事博物館兵器館の2階に1挺の見慣れない自動小銃が陳列されている。この銃は全長が長くなく、カーブしたマガジンとフォアグリップを持ち、その金属部品の表面のブルーイングはすでに全てこすれて落ち、鋼鉄本来の色が露出している。これこそが著名なフェデロフM1916 6.5mm自動小銃に他ならない。M1916は初期の自動小銃の1つであり、小火器発展史上重要な地位を占める。生産数が少なかったので、軍事博物館のこの銃は明らかに非常にレアなものである。

ロシアの自動小銃に関する概念

中国の習慣によれば、我々はM1916を自動小銃と呼ぶ。何故ならばこの銃は単一の兵で操作する武器であり、フルオートでの発射ができ、フルサイズの小銃弾薬を使用するからである。だがロシアはこの銃を自動銃と称した(頑住吉注:「アブトマット」でしょう)。自動銃とはロシアおよびソ連時代に長期にわたって使用された概念で、拳銃弾薬を発射するサブマシンガン、中間型弾薬を発射するアサルトライフル、そしてフルサイズ小銃弾薬を発射する自動小銃を包括していた。M1916はロシア初の自動銃である。一方ロシア語の自動装填小銃はすなわち半自動小銃を指す。建国初期、ソ連軍の資料を翻訳したため、我が軍の持つ書籍の中ではAK47も自動銃と称され、後にサブマシンガンと改称され、1970年代末になってやっとアサルトライフルと称された。

ロシア自動火器の父

ウラジミール グレゴリヤビッチ フェデロフ(1874〜1966)はロシア自動火器の父と称される。彼はサンクトペテルブルグのある法学院管理員(頑住吉注:学校組織の管理職なのか管理人なのかよく分かりませんが)の家庭に生まれ、1895年にミハイロフスク砲兵学校を卒業した。その後ツァー近衛軍第1砲兵旅団で小隊長を務めた。1897年ミハイロフスク砲兵学院の試験を受けて入学し、1900年に卒業した。卒業後フェデロフは砲兵委員会兵器科で仕事を始めた。また同時に兵器の科学的研究と設計を進め(ロシアおよびソ連時代の体制によれば、小火器の研究開発は砲兵が責任を負っていた)、モシン・ナガン小銃の改良から始まり、M1916自動小銃を基礎に発展した銃器ファミリーに至るまで、彼は全部で二十余種類の武器を研究開発した。

フェデロフは武器の研究作業を進めた他、さらに多くの著作を出版した。1907年には「自動火器」、1931年には「自動火器装置の基礎」、1934年には「軽火器の構図と技術的条件」を出版した。これらの著作は若いソビエトの兵器技術者、設計者らの養成に対して重要な作用をなした。この他、フェデロフはさらにロシアの白兵武器および軽火器の発展史に興味を持ち、1938〜1939年に2巻組の「軽火器の変遷」、3巻組の「時代の変わり目の武器」、1949年には「火砲がロシアに出現した時期について」を出版した。彼はロシア初の火砲は1382年に出現したと考えていた(頑住吉注:これに照らせば特に不自然な推定ではないですね)。

ソ連政府はフェデロフの仕事を高く評価し、「労働英雄」の称号、2枚のレーニン勲章、1枚の一級国防戦争勲章および赤星表彰バッジ等を授与した。彼はさらに工程学博士の学位、教授の肩書、技術中将の階級も獲得した。ロシア初の自動銃を設計したため、フェデロフはロシア自動火器の父とも称される(頑住吉注:その後の銃器設計に関する実績には触れられておらず、おそらく触れるに値するものはなかったんでしょう)。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「1915年のフェデロフ大尉」 続いて2枚目。「晩年のフェデロフ技術中将」 なお、ここで「ロシア自動火器の父」という文章とそれに付随する画像が繰り返されてます。無視して2ページ目に行きましょう)

M1916の研究開発過程

1905年、フェデロフはモシン・ナガンM1891弾倉式(頑住吉注:簡体字ながらこのままの語が使われてます。通常の着脱式マガジンは「弾匣」です)小銃を半自動小銃に改造した。このサンプル銃は現在サンクトペテルブルグの砲兵、技術兵および通信兵博物館に保存されている。1907年、さらに全く新しい7.62mm半自動小銃を研究開発した。この銃はM1912 7.62mm半自動小銃と呼ばれ、リムドの7.62mm弾薬を発射し、ショートリコイル式自動方式で、ダブルの閉鎖突起がスイングする閉鎖機構を採用していた。後にこれを基礎に十数機種の銃が発展した。

1913年、彼はさらに6.5mm半自動小銃と6.5mm弾薬を設計し、M1913半自動自動小銃および弾薬と称された。

1916年、火力増強のため彼はM1913半自動小銃を自動小銃に改造した。改造後の製品がすなわちM1916自動小銃である。彼はM1916の発明過程を回想して次のように書いている。「自動銃発明の直接的原動力は第一次大戦での戦闘経験から来ている。この戦争の中で、軽機関銃の使用には特殊な意義があった。‥‥戦闘経験を基礎に軽機関銃を改良する必要性はすでに重要な現実的意義を備えていた‥‥帝政ロシア時代の武器設計の条件を考慮すると、唯一の解決への道は私自身の自動装填小銃の改造に他ならなかった。この銃は改造を必要とするが一定程度機関銃に類似した武器になる。軽機関銃そのものとも言える(機関銃は当初軽機関銃と呼ばれた)。」

十月革命後、フェデロフはM1916を1つの銃器ファミリーに拡張発展させ、これには自動小銃、軽機関銃、戦車機関銃(頑住吉注:戦車には限らないと思うので車載の方が適切でしょう)、航空機関銃等が含まれた。

1923年、彼はM1916の戦争における使用経験の総括を基礎に、再びその構造にいくつかの改良を行った。すなわちレシーバー上部にストリップクリップを挿入する窪みを追加したこと、給弾の故障を避けるためマガジンフォーロワの形状を改変したこと、セーフティ機構とサイトに改良を加えたこと、フロントサイトにガードをつけたこと、である。新たに作られる製品をこの仕様に変えた後、以前に生産した銃も工場に戻されて改造が行われた。

1925年、ソ連軍は小火器に7.62mm弾薬を統一して使用することを決定した。フェデロフは再び新たに7.62mm半自動小銃を研究開発した。当時の論証要求は、重量4kg、7.62mm標準小銃弾薬を使用、かつセミ・フルオートがコントロールできるセレクターを持ち、そして刃のあるバヨネットを持つ小銃を設計することだった。フェデロフ、トカレフ、デクチャレフの研究開発した3種の小銃が国営射撃場での試験を経たが、いずれも赤軍による簡単、堅固、信頼性が高いという3つの原則的要求を満足させなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「M1913 6.5mm半自動小銃」 続いて2枚目。「M1912 7.62mm半自動小銃 M1925 7.62mm半自動小銃」 続いて3枚目。「モシン・ナガンM1891弾倉式小銃を改良した半自動小銃」 続いて3ページ目に行きます)

性能が突出した弾薬

M1916は6.5mm口径を採用している。かつては2つの説があった。1つはこの銃は日本の6.5mm有坂小銃弾薬を使用するというもの、2つ目はフェデロフが研究開発した6.5mm小銃弾薬を使用するというものである。筆者が最初にM1916を見た時、使える資料はまだ多くなく、当時計測を行ったことがあるが、この銃のマガジンは確実に6.5mm有坂小銃弾薬を装填できる。

最新の資料はこの謎を明らかにした。1905年にモシン・ナガンM1891マガジン式小銃を半自動小銃に改造した後、フェデロフは銃の口径を小さくする必要性を認識するに至った。射手がフルオート射撃時に銃をコントロールしやすいように、かつ携行弾量を増加できるようにである。さらにはリムレスあるいはセミリムドの薬莢を持つ弾薬を使用し、もって給弾の故障を減少する必要があった。当時この要求に最も近いものとしては日本の6.5mm有坂小銃弾薬しかなかった。だがフェデロフはこの弾薬の性能に満足していなかった。M1916のバレルが比較的短く、有坂小銃弾を発射した時の初速が660m/sしかなかったからである。このため1909年から1913年までの間、フェデロフは新しい小銃の設計と同時に弾道性能がより良い新たな6.5mm弾薬を研究開発した。だが1914年に第一次大戦が始まった後、ロシアの小銃生産能力は深刻に不足し、このため新しい6.5mm弾薬の生産を始める能力がなく、在庫が多かった有坂小銃弾薬を、当時装備していた北方艦隊等の部隊のフェデロフ自動銃に供給するしかなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「6.5mm新弾薬」)

銃の構造を見る

M1916はショートリコイル式作動原理、ダブルの閉鎖突起がスイングする方式の閉鎖機構を採用している。バレルは金属のパイプ状ジャケット内で後方に8mmスライドできる。放熱効果向上のため、バレル表面には縦溝が彫られている。撃発後、バレルが後退してバレルエクステンション両側の閉鎖突起が下にスイングすることを強制し、閉鎖突起はボルトから抜け出す。開鎖後、ボルトは後退を継続し、薬莢引き出し、投げ出しの動作を終える。レシーバー上部にはエジェクションポートが開口し、ボルトヘッドの上側にはエキストラクターがある。エジェクターはレシーバー下方に固定されており、薬莢を上に向かって放り出す。バレルエクステンション下方にはバレル復帰装置があり、前に向かってバレルを押して復帰させる。ボルト後方にはリコイルスプリングとリコイルスプリングガイドロッドがあり、ボルトがいっぱいに後退した後、リコイルスプリングがボルトを前に向かって押し、マガジンから弾薬を押し出してチャンバーに入れ、同時に閉鎖突起が上にスイングすることを強制し、ボルトとかみ合って閉鎖が実現する。

ショートリコイル式作動原理を採用しているので、手動でコッキングハンドルを操作する時、開鎖前ボルトとバレルを一緒に引き動かして後退させる必要があり、最初の引く力は比較的大きい。一方閉鎖突起スイング式閉鎖方式の開鎖のためのストロークは短く、開鎖後の引く力は突然小さくなり、明らかにぎこちなすぎるように感じられる。上述の2点に基づき、フェデロフは(頑住吉注:先端が)大きな球形のコッキングハンドルを専用に設計した。これは銃本体の右側に置かれ、上面にはさらに滑り止めの花のような模様が刻まれており、力を入れやすい。このような対策にもかかわらず、コッキングハンドルを引き動かす時はやはりはっきり扱いにくく感じられる。これと比べ、AK47(ボルト回転式閉鎖機構を採用)のコッキングハンドルを引く力はストローク全体で全て均一であり、操作がずっと快適である。

この銃は機械加工のレシーバーを採用し、レシーバー右後方のロックを回すとレシーバーカバーを開くことができ、故障排除に便利である。この種の設計は後に多くのソ連式武器に採用された。例えばSKS半自動小銃、AK系列のアサルトライフル等である。

M1916の発射機構は回転式ハンマーを採用しており、この銃は外部表面は粗削りの作りだが、発射機構の加工は比較的精細である。80年余り前に生産された武器だが、現在における撃発動作は依然としてきっちりしていて力強い。

セーフティはトリガーの右側、銃の中間あたりに装備され、セレクターはトリガー後方に位置する。半自動銃を自動銃に改造したものであるため、当初の設計時は自動発射を考慮しておらず、止むを得ずセーフティとセレクターを分離する方法を採用した。実際の操作は不便である。ずっと後、アメリカのM1半自動カービンを全自動に改造した時、やはり止むを得ず銃本体の左側に単独でセレクターが設置された。

この銃はダブルカアラムのカーブした25連マガジンによる給弾を採用し、マガジンキャッチはマガジン前方にあって前部グリップに遮られており誤操作しにくい。1923年の改良型のレシーバー上部にはストリップクリップ用ミゾがあり、日本の小銃の5発クリップをそのまま利用して弾薬を押し込むこともできる。

M1916が採用している曲銃床にフォアグリップを加えたレイアウトは、現代の自動火器中に比較的少なくしか見られないものだ。ハンドガード下方にフォアグリップを装備する(一般にはトリガーガード前方に装備する。現代の小銃の大多数はレールによって追加装備する)ことは、フルオート時に銃がジャンプする動きのコントロールに有利であり、これは先進的発想である。現在我々が知っているピストルグリップ(一般にトリガーガード後方に装備する。例えばAK47、FN FAL等はいずれもピストルグリップを持つ)は自動火器のコントロールにさらに有利であるが、1916年には手本にできる経験は少なすぎた。この銃のストック上方は、前が薄く後ろが厚い平面で、モシン・ナガン小銃と非常に似ており、このような設計は元々モシン・ナガン小銃を生産していた工場の生産転換に便利である。この銃はピストルグリップを持たないが、銃全体が比較的短く、フォアグリップがあり、重心位置が適当なので、操作は素早くでき、快適かつ堅固に射撃姿勢を取れる。

この銃のフロントサイトは左右に調整でき、スタンドフレーム式リアサイト、V字型ノッチを採用している。リアサイトは軽量弾、重量弾の2種に分けられており、最大射程は2000mである。

着脱式、片刃、偏鋒(頑住吉注:検索しましたが意味不明です)のバヨネットを採用し、バヨネット固定用のリング状ジャケットはバレルにかぶせられ、バヨネットの尾部はバレルジャケット筒下方のT字型ミゾと連結される。

M1916はショートリコイル式作動原理、ダブルの閉鎖ブロックスイング式閉鎖機構を採用しているので、銃全体の構造が複雑すぎ、部品が多く、分解結合、クリーニング、メンテナンスが極めて不便という結果がもたらされている。この銃は人を傷つけるかもしれない部品のエッジが大部分丸く設計されており、人間工学的角度から見て良好であるが、加工時間を非常に大きく増加させている。この銃は外部のバレルエクステンション、コッキングハンドル、バレルジャケット筒から、内部のハンマー等に至るまで、多くの部品にシリアルナンバーが刻印されており、当時のソ連の生産技術がまだ部品の共通性を保証できていなかったことが見て取れる。全体的に、この銃は生産の難しい武器である。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「M1916構造図」 これより4ページ目に入りますが、このページ同じ画像が16回も繰り返し出てくるなど滅茶苦茶です。)

生産数量はどのくらいかを知る

1916年の1年間で、M1916は全部で200挺生産された。

十月革命勝利後の1918年、フェデロフはこの銃の生産準備に着手したが、帝政ロシア時代から残された経済的基礎が非常に薄弱だったため、またこれに加え内戦の影響もあり、人材、設備、材料等の方面でいずれも極めて大きい困難に遭遇した。

1920年2月、1挺のM1916が共和国革命軍事委員会に送付され、カーメネフ(頑住吉注:初期ソ連の大物政治家ですが後にスターリンに粛清されます)に賞賛された。1920年2月6日、革命軍事委員会司令部が軍需特派員に発した電報には次のように書かれていた。「司令はフェデロフの銃を理解した上で、技術上も、そして使用上も、いずれも非常に出色であると考え、そこでその生産量を高めるための一切の措置を取ることを要求する。」

M1916生産準備作業は非常にスムーズに進展した。1920年9月、最初の銃が生産され、年末前にはすでに100挺が生産されていた。生産効率は次第に高まり、急速に毎月50挺の生産量に到達した。

1921年4月、軍事工業委員会はM1916はすでに大量生産可能であると指摘した。デクチャレフは回想録の中で次のように書いている。「ソビエト時代のM1916は国内戦の時期に各前線で作戦行動する赤軍に供給される、第1に重要な軍備ソースだった。」

フルンゼ(頑住吉注:革命の大物で、その名を冠した軍事大学もあります)は最も早く自動銃の意義を評価した人のうちの1人である。彼は自動銃生産の情報を知った後、素早く(1920年10月14日)カーメネフに電報を送り、彼が当時指揮していた南方方面軍に支給されていたこの銃のうち1ち挺をくれるよう請求した。

内戦終結後、多くの軍人が復員したため、工場の技術人員が補充され、生産もある程度拡大した。1922年10月1日から1923年10月1日までの計画生産量は600挺だったが、実際には822挺生産された。現有の資料から見て、1925年10月1日の生産停止までに、M1916は全部で3200挺生産された。現在見られるM1916のシリアルナンバーは全て4桁の数で、このこともこれを証明している。2448番の銃は中国の人民革命軍事博物館、2173番はサンクトペテルブルグの砲兵、技術兵および通信兵博物館、2428、2487、2802番はツーラに保存されている。24xx番は1923〜1924年の間の製品に違いない。

実戦でテストされる

1916年、M1916の生産数は200挺だけだったので、ロシア軍はオラニエンバウム士官射撃学校で厳しい訓練を受けた1個歩兵連隊だけにこの銃を使用して第一次大戦に参加させた。だが第一次大戦は陣地戦が主で、しかもこの新型武器の数量が少なすぎたため、戦局に影響を与えることはなかった。

1921〜1922年、ソ連赤軍のカレリアにおける冬季戦役の時期、国際軍事学校によって組織された歩兵連隊が重大な意義を持つ勝利を得たが、この部隊が装備していたのはモシン・ナガンM1891小銃とフェデロフM1916自動銃だった。戦闘終結後、赤軍が経験を総括した時、「軽機関銃の装備が必要。自動銃は2回の戦闘に使用するのに充分な弾薬を必要とする。」とした。

赤軍の高等射撃学校校長フィラトフは1922年に、M1916を内戦での前線における戦闘で使用した経験を総括した際に次のように書いた。「前線からの報告は、自動銃を装備し、かつ訓練された射手による分隊では、自動銃の成功裏の使用を達成したことを明らかにしている。」

当然、いくつかの満足できない部分もあった。赤軍の砲兵委員会は1928年2月27日のある文書に次のように記録している。「プロレタリア階級師団モスクワ連隊はこの自動銃を装備したことがある。だが1928年、これらの銃は回収され、倉庫に収められた。軍隊での試用により、M1916は実戦に使用するということで言えば殺傷力不足であり、しかも過熱あるいは汚染された条件下では発射不能である。この他、連続射撃中往々にして1発目の弾丸だけが正確に目標に命中させられ、その後は直ちにマガジン内の全ての弾の弾道が逸れて目標に命中しない状況が発生し、射撃は全く作用をしなくなる。」 現在の視点から見ると、これらの問題の主要な原因は当時の赤軍戦士が自動火器を熟知していなかったことだ。現在の自動小銃でも、主に短いバーストがメインなのである。

広範なフェデロフ銃器ファミリー

1921年から、フェデロフはM1916を基礎に標準化の研究を開始した。標準化の実質は、全ての火器の自動装置に統一的構造があり、細部だけに差異がある、ということにある。火器の標準化は重要な意義を持っており、火器の生産や維持修理の簡易化、コストが節約でき、新型銃器の生産開始を容易にし、しかも火器を軍に装備するスピードをアップし、兵士たちが素早く新型火器の使用について掌握できるようにもする。

フェデロフには雄大な計画があった。この計画には13種類の自動火器が含まれ、すなわち自動カービン銃、自動装填小銃(半自動小銃)、自動銃、素早くバレル交換できる軽機関銃、水冷式軽機関銃、空冷式軽機関銃、車載機関銃、航空機関銃、連装航空機関銃、三連装航空機関銃、軽便な重機関銃、重機関銃、対空機関銃だった(頑住吉注:直訳では車載機関銃は戦車機関銃、対空機関銃は対戦闘機機関銃です)。

1921年、フェデロフとデクチャレフはイギリスのルイスM1915軽機関銃を参考に、6.5mm空冷式軽機関銃を研究開発した。この銃の大きな特徴はバレルの外側に縦方向のリブを持つアルミ製放熱器を装備していることに他ならなかった。これらのリブはバレルと空気の接触面を非常に大きく増大させることができた。この銃の射撃時、マズル前方に噴出する火薬ガスが気流を生じさせる作用をし、放熱器後方から空気を引き込んでバレルを冷却した。

1922年、フェデロフとデクチャレフはもっと多数の6.5mm軽機関銃のサンプルを研究開発し、その中の1挺は金属帽の付属した短いグリップを持ち、その前端には小さな穴のある耳状突出部があってバイポッドの連結に使われた。他のある機関銃の金属製バレルジャケット筒には楕円形の放熱窓が1つあり、マズル近くの位置に軽くて精巧なバイポッドが装備されていた。バレル表面には横向きのリング状リブが追加され、バレルは素早く交換できた。

2人の大家はさらにマキシム重機関銃を参考に水冷式軽機関銃を設計した。そのストック前端は円柱形のレシーバーで、レシーバー右面の小さな穴から注水でき、底部の支持架はバイポッドの固定に使われ、調節器の付属した小さな穴は放水に使われた。

さらにフェデロフとシュパーギンは共に6.5mm連装軽機関銃を研究開発した。この銃はエジェクションポートを下に向けた2挺の銃本体によって構成され、2つのカーブしたマガジンは上から挿入された。操作の便のため、左側の銃のコッキングハンドルとバレルロック金具は左側に装備されていた。この銃はフェデロフとデクチャレフの設計した素早くバレル交換できる特徴を手本にしていた。機関銃は2つのレシーバーを持ち、かつ固定支持架、グリップおよびストックを持ち、撃発装置は左右の機関銃を順次射撃するよう操作できた(頑住吉注:同時発射が当然できる上に、ということでしょう)。

イワノフはフェデロフ・シュパーギン6.5mm連装軽機関銃を基礎に、フェデロフ連装戦車機関銃を研究開発した。この銃は2つのレシーバーを持ち、ボールマウント、ピストル型グリップおよびトリガーガード、ストックを持っていた。この機関銃はソ連の初期の軽戦車の砲塔右側面に装備された。

赤軍の航空機関銃に対する要求に適合させるため、フェデロフとデクチャレフは多くの異なる方案を研究開発した。彼らは1922年に第1号の6.5mm航空機関銃を作り出した。そのバレルは放熱用の縦向きのリブを持ち、短いストックと金属帽が付属したフォアグリップは木製だった。フォアグリップの連結軸は銃を航空機に固定するために使われた。これにより駆動軸構造の助けを借りて銃を各種の照準角度の下で発砲でき、マガジンは半円形だった。だが毎分100発という実際の発射速度は(頑住吉注:マガジンを交換しながらの実際の発射速度、ということでしょう)、空中戦ではやはり明らかに低すぎた。

戦闘発射速度向上のため、設計師たちは6.5mm連装航空機関銃を研究開発し、戦闘発射速度は250発/分に達した。機関銃は2挺のストックのない銃本体から成っていた。50連ドラムマガジン使用の便のため、2つの銃本体は異なる水平面上に装備され、左が低く右が高かった。2つの銃本体の間には共用のストックがあり、撃発装置は2つの銃を同時発射することができた。

1925年、フェデロフとデクチャレフはさらに6.5mm三連装航空機関銃を設計した。中央の銃本体に位置する撃発装置は3つの銃の同時射撃を制御でき、戦闘発射速度は400発/分に達した。

1937年2月、ソ連国防工業人民委員会はある報告の中で、フェデロフの創始した標準化思想を高く評価した。この報告は次のように指摘していた。「国防工業の任務は、あらゆる国防工業製品が、動員令を受け取った時にその他の工場の助けの下大規模に使用できることを保証することにある。この任務実現のための1つの強力な手段は、製品および部品の標準化、製品および工具、部品を交換可能とする原則の完全な実現、そして原材料の規範化、標準化に他ならない。‥‥組織的生産においてこれらの原則を完全に実現してこそ、国防製品の大規模生産が保証できる可能性があるのである。」

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「サンクトペテルブルグの砲兵、技術兵および通信兵博物館に展示されているモシン・ナガン改造半自動小銃(上)、M1925半自動小銃(中央)、M1912半自動小銃(下)」 続いて2枚目。「M1916の分解図」 続いて3枚目。「1922年、ソ連小火器研究開発人員の集合写真」)

語り尽くせないほど感慨深い

フェデロフM1916は赤軍の武器装備として1928年までずっと持続した。同時期アメリカ、ドイツが研究開発した自動小銃はいずれも単一の兵で操作できたが、全長、重量が大きく、火力支援用途により適していた(頑住吉注:アメリカに関してはBARのことを言ってるんでしょうが、ドイツに関しては何のことを指しているんでしょうか)。M1916は独自の存在であり、火力猛烈、軽便敏捷な自動小銃であって現代アサルトライフルの先駆と見ることができ、画期的な意義を持っている。

M1916の成功は、この銃が後座力の低い6.5mm弾薬を選択した点にあり、その後生産停止された主要な原因は、1924年に赤軍が7.62mm弾薬のみ使用し得るとの決定をしたことだった。銃/弾薬システムという角度から見ると、ソ連の小銃がもし弾薬の威力を低下させるという道をさらに一歩進めば、もう現代アサルトライフルになった。だが後にソ連赤軍は旧式な手動小銃という回り道に戻り、この一歩を踏み超えることはなかった。主要な原因は技術上の問題ではなく、当時の赤軍の戦術理論にこだわったためであった。

M1916は歩兵火器自動化の正確な方向を示したが、1920年代、ソ連が工業化を実現する前には、こうした構造が複雑な自動火器を大量生産することはできなかった。M1916の600〜800挺という年間生産量に対し、1930年代末期、ソ連が工業化実現後に建設した新しい銃器工場では、トカレフ半自動小銃の1日の生産数が1000挺にも達した。M1916はいわば生まれるタイミングが合わなかったのである。

この他、フェデロフが提出した銃器ファミリー化の先進概念は後にデクチャレフ機関銃で実現した(軽機関銃、戦車機関銃、航空機関銃)。だが1種類の自動機構を使った統一的自動火器というこの先進概念は当時進みすぎていただけではなく、今日でもまだ実現できていない。この方面で高度に突出したのはストーナー銃器ファミリーであるが、後にはこれも実りなく終わった。

周知のように、単純、堅固、高い信頼性はロシアの自動火器の典型的特徴であり、M1916およびその銃器ファミリーはロシアの小火器の大胆で斬新な一面を見せたとも言える。その中からは、ロシアの小火器発展の思想が一方において科研人員の大胆な研究を鼓舞し、別の一方面では軍が慎重な選択をする、ということが見て取れる。このようにすれば、軍隊が単純、堅固、信頼性の高い優秀な武器を使用することが保証されるし、同時に大量の技術的ストックや理論上の刷新が進む。現代に出現したアバカンのような先進的アサルトライフルもまさにこの政策の結果なのである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。上から順に、「1921年の、ルイス機関銃を参考に設計した空冷軽機関銃」、「1922年に研究開発されたフェデロフ・シュパーギン連装機関銃」、「1922年に研究開発された航空機関銃」、「1922年にマキシム機関銃を参考に研究開発された水冷軽機関銃」、「1922年に研究開発された、バレルが素早く交換できる型の空冷軽機関銃」、「1925年に研究開発された連装戦車機関銃」、「1925年に研究開発されたフェデロフ・デクチャレフ三連装航空機関銃」)

(頑住吉注:なお、このページはこれ以後も延々続いてますし、それだけではなく5ページ目から11ページ目までも続いてますが、全部同じことの繰り返しで意味ないです。どうしてこんなおかしなことになったんでしょうか。)


 日本人としては、この銃を史上初のアサルトライフルと認定し、それが実現できたのは日本の時代に先行した弾薬があったからだ、と言いたいところですが、私はどちらかと言うと否定的です。6.5mm有坂弾薬は後のアサルトライフル用短小弾薬(頑住吉注:ドイツ語ではミドル弾薬といった表現、中国語では中間型弾薬)のような発想や意図から作られたものでは全くありませんし、弾薬単体ではフルサイズ弾薬に分類されます。M1916はショートリコイルという後のアサルトライフルに成功例のない作動方式、曲銃床を用い、バーチカルフォアグリップがある点を除き全体的なレイアウトはごく古典的なものです。MP44はフルオート時のコントロールを容易にし、携行できる弾薬を増加させるために開発された、従来のライフル弾薬よりずっと短い弾薬を用い、ピストルグリップ、(準)直銃床、これもマズルジャンプを抑えるためピストン・シリンダーをバレル上に配置する、つまりバレル軸線をなるべく低くするレイアウトを採用し、これらはAK47など後の多くのアサルトライフルに引き継がれました。というかアサルトライフルに分類される銃でこれらを受け継いでいない方が例外です。つまりM1916は後の銃器にほとんど影響を与えておらず、MP44の影響は絶大なものなわけです。定義上どうであろうと、後のサブマシンガンに強い影響を与えて新時代を作った事実上のサブマシンガン第一号はビラー・ペロサではなくMP18ですし、後のプラスチックフレームを持つピストルに強い影響を与えて新時代を作った事実上のプラスチックフレームピストル第一号はH&K P9SでもVP70でもなくグロックです。同様に後のアサルトライフルに強い影響を与えて新時代を作った事実上のアサルトライフル第一号はM1916ではなくMP44であり、通常はM1916は無視して「初のアサルトライフルはMP44である」と断言してしまっても差し支えないと思います。

http://en.wikipedia.org/wiki/Fedorov_Avtomat

 英語版「Wikipedia」のこの銃に関するページです。非常に詳細だった今回紹介したページより情報量がずっと少ないですが、ショートリコイルシステムの分かりやすい図があります。偶然でしょうが何となく南部十四年式に閉鎖ブロックの形や動きが似ていて面白いです。

 ちなみにソ連のメジャーな銃器設計者たちが垣根なく共同開発を行っていたり集合写真を撮っていたりということは、基本的に商売敵の関係になる西側では考えにくいことで、これはやはり社会主義における計画経済ならではなんでしょうね。









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