対空火炎放射器と「炎絨毯」

 「Waffen Revue」34号に、「ドイツの侵攻部隊に対抗するイギリスの装甲列車」と題する記事が載っていました。表題通りこの記事は大部分装甲列車に関して記述されていますが、真のテーマはドイツのイギリス上陸作戦が危惧された時期、これに対抗するためにイギリスで開発された兵器であり、装甲列車を含めて3つ取り上げられています。装甲列車にはあまり興味がありませんが、他の2つは非常に興味深いものなので、この部分のみ内容を紹介します。


 ヨーロッパではすでに長時間、戦争が目前に迫っているというある種の兆候が示されていたにもかかわらず、イギリスはヒトラーのポーランドに対する開戦に驚かされた。人々はヒトラーの計画をおぼろげに知ってはいたが、彼があらかじめイギリスと援助協定を締結していたポーランドをあえて攻撃するとは思わなかったのである。ヒトラーがソ連との友好関係を固め、ソ連がヒトラーのポーランドに対する戦争に異議を唱えないことがはっきりした時(ただしソ連自身がケーキの一部、つまりポーランドの東部分を自分のために切り取れるという前提の下ではあったが)、いわゆる「ポーランド出兵」が開始された。スターリンは、ヒトラーが西ポーランド全体をSanまで占領してしまった後で初めてポーランドに軍事介入するのに充分な賢さを持っていた(頑住吉注:このためソ連に対する国際的な批判が小さくて済んだ、ということでしょう)。ドイツ部隊が全ての地域で勝利し、その強さを示してしまって初めて、1939年9月17日にソ連の進軍が開始された。

 国家社会主義ドイツとインターナショナル社会主義ロシアとの間でのポーランドの分配に関する協約が、これら両パワーのポーランドへの攻撃を可能にしただけでなく、まさに第二次大戦の糸口をも開いたのであるということは、今日すでにとっくに忘れ去られている。ソ連との休戦協定はヒトラーの、フランス、ベルギー、オランダへの攻撃も、そしてついにはデンマーク、ノルウェーの占領をも可能にした。(そしてソ連指導部はヒトラーに大いに支援されることを期待し、1941年まで彼の大勝利に力を貸し、そして戦後はドイツに対する容赦のない裁判官を気取ったのである。)

 またヒトラーはスペインおよびイタリアとの相応の協約も実現し、そしてチェコスロバキアおよびオーストリアはすでに国際的な承認の下に帝国に併合されていたので、イギリスは完全に孤立の様相を呈した。ヨーロッパ内ではどの国からも援助や支援は期待できなかった。確かに依然「ビッグブラザー」アメリカがいたが、アメリカは遠く離れ、またどっちみちベストの関係を保っていたとは言い切れなかった。

 当時この小さな島国は、ソ連の政略にしてやられ、多くの成功を収めていたドイツ部隊に脅かされるという途方もない危険にさらされていた。ノルウェー最北端からフランスまで、水だけが自然の境界を形成していた。かつては西部においてEmden(頑住吉注:ドイツ、ニーダーザクセン州の港湾都市)からSylt島(頑住吉注:北フリース諸島で最北、最大の島)までの小さな地域が海で結ばれているだけだったドイツは、今や1940年の地図で見られるような進軍境界を持った。成功裏のノルウェー占領後、実際に「イギリス上陸作戦」の準備も始まった。これに関し、1940年7月27日の陸軍最高司令部の司令、Gen.St.d.H. Op.Abt. (E) Nr. 402/40 g.Kdos.(最重要! 将校のみ!)によって、暗号名「シーライオン」(頑住吉注:「あしか作戦」)が発せられた。

 だがこれは中断され、1941年4月24日の陸軍最高司令部命令、Gen.St.d.H. O.Qu.l/Op, Abt. II a/V Nr. 718/41 g.Kdos(最重要! 将校のみ!)により、「鮫作戦」の名の下に改めて俎上に上った。イギリスの南海岸に向け行われる予定だったこの作戦の間、1941年4月28日の陸軍最高司令部命令、Nr. 719/41により、ノルウェー、デンマークからイギリス東海岸に向け、またブルターニュとドイツ大西洋海岸からイギリス南西海岸への揺動作戦が秘匿名称「ハープーン(北)」および「ハープーン(南)」の名の下に準備された。

 この上陸計画も実現に至らなかったが、イギリスはこうした長いラインの海岸防御施設が不充分であることをまったく正確に知っていた。砲陣地のさらなる増強および他の措置とともに、ドイツの侵攻部隊に対する3つの防衛措置が全速で準備され、また発展開発された。

1.対空火炎放射器
2.対上陸用舟艇炎絨毯
3.応急的装甲列車

 これら3つの兵器システムを使い、イギリスはずっと優勢な敵から身を守る助けとすることを意図した。我々は少々これに取り組みたい。

1.対空火炎放射器

 一般的に接することができる新聞や週間ニュース映画のレポート(これはポーランドから逃亡してきた同国の兵士や、また当然イギリスエージェントによるものだった)から、ポーランド戦役では特に急降下戦闘航空機が真価を示したことは知られていた。このため簡単に運搬できてどこにでも設置でき、低空航空機に対して垂直に上に向けられた火炎放射が行える火炎放射器が開発された。我々は写真3でこの器具を、そして写真4から5でその使用を見る。

 この開発品は終戦まで秘密保持され、そしてその後も稀にしか公表されなかった。この器具は海岸に沿って設置され、防御施設だけでなく投錨した船舶も航空機から守ることが意図された。これは多数の火炎放射を密に相前後して行え、実に効果的だった。

 

2.炎絨毯

 上陸用舟艇に対してはまったく単純な、しかし最高度に効果的な方法が案出された。海岸に沿ってオイル貯蔵庫、地下の天水溜め、タンクローリーが配置され、この中に燃えやすく、ひどい悪臭を放ち、恐ろしいほどの煙を出す液体ミックスが用意された。舟艇の侵入時、これらのオイルが海面にポンプで送り出され、多数の位置で同時に、そして相前後して点火された。海岸手前の海面を漂うオイルミックスはすぐ燃焼を始め、密な、暗い、そして悪臭を放つ煙を上げ、この煙は炎に囲まれた舟艇から今度は視界も奪った。我々は写真6でゆっくり広がり、完全に機能しているこの炎絨毯を見る。

 不意にそのような絨毯に行き着き、その上海岸砲からもたっぷり砲弾を浴びせられる上陸用舟艇が思い浮かぶ。こうした混乱の中で全ての方向感覚を失った舟艇とは異なり、こうした地獄絵は海岸砲に、また航空機にも絶好のターゲットを与えた。

 この発明も戦後まで秘密保持された。またドイツの守備隊がその存在を知っていたのかどうかは知られていない。こうした写真を見ると、意図された上陸がついに試みられなかったことに、ただほっとするだけだろう。この時疑問がしきりに浮かんでくる。そのような器具がドイツによって大西洋海岸に沿って使用されていたら、連合軍の侵攻はどうなっていただろうか! 


 ドイツのイギリス上陸作戦は、海軍力がはるかに劣勢であるなどの理由により勝算がないと判断されたから行われなかったのだと考えられ、ドイツがはるかに優勢だったような記述はどうかと思いますが、まあこれは本題とは直接関係ないことです。

 「対空火炎放射器」という名前を見て、最初「そんな馬鹿な」と思いました。上空を飛ぶ航空機に向かって火炎放射を行っても、航空機が火炎にさらされるのは一瞬でしかなく、効果がないのは分かりきっている、と思ったわけです。しかし読んでみるとこちらに向かって急降下してくるスツーカに向けて使用するというものでした。これなら爆撃を妨害することはできるかも知れませんが、撃墜につながるかどうかは分かりません。見たところ比較的簡単な構造のようですが、対費用効果からすれば機関銃、機関砲の方が優れていたのではないかと思います。

 「炎絨毯」の方は兵器と言うのがためらわれるほど原始的なもので、単に海面に油を流して火をつけるだけです。敵を発見してから状況を判断し、油を流してこれが充分に広がるのを待って点火するという作業が間に合うのか、長い海岸線全てにこれを準備するほど大量の油が当時イギリス国内にあったのか、ちょっと疑問です。最後の部分はまるでドイツの手で逆に使われなかったのが残念のような書き方ですが、Dデイ当時のドイツにも無駄になるかもしれない大量の油を海岸線に配置する余裕はなかったのではないでしょうか。少なくとも日本がこれを使うのはまず無理だったはずです。















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