ナチ・ドイツ軍におけるFN1922ピストル

 「Visier」の新しい号が入荷しないので、時間がなくて読めなかった過去の記事を順次読んでいます。今回紹介するのは「DWJ」2003年6月号に掲載された、ナチ・ドイツ軍で使用されたブローニング1922に関する記事です。


ナチ・ドイツ軍におけるFNピストルM1910/22(頑住吉注:ドイツ人には「Wehrmacht」、直訳すれば「防衛力」、転じて1935〜1945年のドイツ国防軍のこと、と分かりますが日本人には普通分からんので「ナチ・ドイツ軍」と訳します。原文には「ナチ」というような語はありませんので念のため)

帝国のためのブローニングたち

第二次大戦中、前線の両サイドに多数の、いろいろなハンドガンがあった。これらは第一次大戦の塹壕戦における重要性はもはや持っていなかったが、その後も兵士たちは放棄することは望まず、あるいはできなかった。だから何十年もの間成功したピストルの同義語だったブローニングも、ナチ・ドイツ軍によって公用として取り上げられた。

ンドガンは1939年から1945年まで(頑住吉注:言うまでもなく第二次大戦中ということです)、兵器として兵士たちにとって過小評価すべきでない役割を演じた。それは狭い空間内での戦闘のためであり、あるいはその任務が他では果せないものだったからである。これには戦車および航空機搭乗員、あるいは指揮官が含まれた。しかしこれらは歩兵にとっては追加兵器、あるいは最後の「穴埋め」としての役割を果しただけだというのも事実である。

 1918年以後の時代(頑住吉注:第一次大戦後)、理想的軍用ハンドガンに対する2つの基本的概念が表明された。1つの方向性は銃にできるだけ大きな効果を持つパワフルな弾薬を要求した。貫通力、殺傷力、阻止力が前面に押し出された。この際、この銃は平均的兵士にもコントロール可能な範囲に留まることが意図された。この要求は当然軍用ピストルをこれに応じて大きく、重くした。ドイツ製のP08、あるいはアメリカ製のM1911で理解できるようにである。場合によってはさらに大きなマガジンキャパシティが望まれた。他方では軍用ハンドガンは持ち主の負担ができるだけ軽く、妨げにならないように、コンパクトで、軽く、携帯しやすくなくてはならないという概念が出された。ハンドガンの軍事的価値、あるいはその使用は最小に減らされるはずだった(頑住吉注:今後の戦争ではそんなに重要性はなく、使用の機会も少なくなると想定された、といったような意味でしょう)。その上、弾薬の成績よりむしろ命中位置が決定的なのであって、今日はむしろ弱いと評価されている9mmクルツあるいは7.65mmブローニングのような弾薬で間に合わすことができると考えられた。さらにこうした弾薬用のピストルはたいていロック機構がないため、より安価に製造できるということもあった。

モデルFN10/22
 こうした哲学はベルギーのHerstalにあるFN工場には、彼らのFN M1910/22においてぴったりだった。この銃の誕生は1922年における「セルビア、クロアチア、スロベニア王国」(後のユーゴスラビア)による、60,000挺の軍用銃の注文の結果だった(頑住吉注:この国がベルギーのFNに大量の軍用拳銃を注文し、それがこの銃の開発につながった、ということのはずですが、この書き方では注文側がM1910はいい銃だが軍用としては不満な点があるので強化してくれと言ったのか、FN側が大量注文に対し既存の銃の強化で対応したのかまでは分かりません)。モデル名称M1910/22が表わすように、この銃はポケットピストルM1910をベースにしている。セルビア人の暗殺者が1914年にFN1910をオーストリアの王位継承者Franz Ferdinand殺害に使用したが(この犯行は第一次世界大戦を、そしてこれによりハプスブルグ帝国の没落をを引き起こした)、このことはベオグラードによるFN1910/22の購入をむしろ促進したらしい(頑住吉注:ベオグラードはセルビア人の都市であるとともに「セルビア、クロアチア、スロベニア王国」の中心都市でした。ベースのM1910による「大戦果」が前述の大量注文にプラスに働いた、ということのようです)。間違いなくFN1910は天才ジョン モーゼス ブローニングの成熟した生産品であった。

 このストレートブローバックでストライカー式発火機構を持つ、7.65mmブローニングまたは9mmクルツ仕様の信頼性の高いポケットピストルは、並外れて小型で携帯しやすかった。これは特にリコイルスプリングのスペースをバレル周囲に配置することで省いたことによって達成された。FN1910は民間マーケットでヒット商品となった。ワルサーPPKが普及するまで、このブローニングは国際的に「ザ・ポケットピストル」だったし、多数の外国製コピーをも発生させた。

 FN1910/22はメカニズム上ほとんどFN1910と同一である。サイトの大型化とならんで、本質的にはバレルとグリップが延長されただけである。グリップに関してはマガジンキャパシティの増加をもたらした。FN1910のスライドを使えるようにするため、FNの設計者はスライドの延長部でありバレルガイドでもあるものを固定した。これは小さな、スプリングのテンションをかけられたかんぬきで保持された。

 モデル1922とも呼ばれるFN10/22は、急速に国際的な販売の成功を達成した。フランスだけでなく、デンマーク、ベルギー自身、オランダもこの銃を軍用または警察用銃器として採用した。

ナチ・ドイツ軍による使用
 オランダによって注文され、ベルギーの民間試射マークおよび「W」というWilhelmina(頑住吉注:オランダ)女王を表わす財産刻印が打たれた、FN工場にあった製造中のFN10/22は、ドイツが1940年の西方出兵時に接収した(頑住吉注:「ジョンソン自動小銃」の項目にもあったように、オランダがナチ・ドイツに降伏したのは1940年5月14日のことです)。このピストルは、その地でドイツ陸軍兵器局(頑住吉注:「Heereswaffenamt」)の官吏Tennertによって「WaA 613」の刻印がトリガーガードに打たれた最初の銃に属した(頑住吉注:私は刻印について知識が乏しいんですが、この記事全体からして、「WaA 613」というのはWaffenamtの613号担当官というような意味ではあるまいかと思います)。

 FNにあった、あるいはそこにあった部品から組み立てられたM10/22は、報告月度1940年11月以後、「銃器に関する武装状態についての概観」内に存在する(頑住吉注:「Uberblick uber den Rustungsstand an Waffen」 最初の3つの「u」はウムラウト いまいち意味不明ですが、こういう名前の当時の公文書にハンドガンの在庫も記録されており、それによればオランダが降伏した年の11月以後、こういう経緯で得られた銃の在庫があることになっている、ということでしょう)。陸軍はまず始めには9mmクルツバージョンだけを、「Browning 9mm Polizei」の名称の下に支給した(頑住吉注:言うまでもないでしょうが「 Polizei」は警察です)。7.65mmバージョンは、誤った記述法により「7.65Fabr.Natinale(ここが誤り! 頑住吉注:これも言うまでもないでしょうが「i」と「n」の間に「o」が抜けているということです) Polizei」として、後には「Browning 7.65」として、明らかに1942年の終わりまで空軍ににのみ行った。

ドイツの管理下における新造
 ドイツの管理下における新しい生産(7.65mmブローニング弾薬仕様のみに限定された)は、1941年1月、戦局の困難化に伴って取り上げられた。ひっくるめて、1944年9月までのドイツの占領時代の間に、約363,200挺のFN10/22が工場を去った。検査刻印「WaA 613」は9mmクルツおよび初期の7.65mmバージョンに見られる。この銃は平和時のような高い光沢のブルーイングおよびFNプラスチックグリップパネルを示している。一部はドイツによる試射が行われず、ベルギーによる試射マークで充分とされた。

 約25,000から54,000までのシリアルナンバー領域内は新しい検査将校が「WaA 103」の刻印をもって担当した。ドイツによる鷲の試射マークはスライド左側面とフレーム、そしてチャンバー右サイドにもある。ドイツによる生産物の大部分は「WaA 140」の刻印を示す。

 戦争の進行の中で、表面加工とブルーイングのクオリティは低下した。すでに早くからチェッカリングのある木製グリップがプラスチック製と交代していた。(頑住吉注:表面以外の)加工グレードは完璧なままだった。ドイツの管理下で製造されたFN10/22は(少数の民間用を除き)、陸軍兵器局の検査刻印を示していたにもかかわらず、主として大部分は空軍に行った。つまり空軍の飛行要員は戦争の進行の中で、窮屈な戦闘スペース内での傷害の危険を減らすため、大型ピストルの携行を禁じられたのである。その上9mmパラピストルは地上部隊用に開放されていた。

 ユーゴスラビア軍は1941年FN10/22を没収され(頑住吉注:ユーゴは同年ドイツおよび同盟軍に分割占領されています)、「P641(j)」の名の下に、同様にナチドイツ軍の鹵獲品在庫の中に移された。1940年以後のベルギーおよびオランダの9mmクルツバージョン、P641(b)およびP641(h)のようにである。本来のベルギー製P626(b)およびオランダのP626(h)は、デンマークの在庫から来た7.65mm仕様のP626(d)に対応するものだった。こうした鹵獲兵器はドイツサイドによって刻印は打たれなかった(頑住吉注:ドイツ軍は兵器不足から鹵獲兵器を積極的に活用したことで知られていますが、名称の後に括弧内に入れた原産国の頭文字を子文字で表記するのが通例でした。「P」はもちろんピストーレンの頭文字で、9mmは型番が「641」、7.65mmは「626」、その後原産国を表示したというわけです。で、ドイツの管理下で生産されたものにはドイツの検査刻印が打たれましたが、鹵獲兵器には検査刻印も含めて刻印は打たれなかったということです)。

長所および短所

 真っ先に挙げられるのはスリムで「閉じた」(頑住吉注:銃口以外開口部がほとんどない)、それにより汚れに抵抗力のある構造方式となっていることである。突き出た部分がなく、これによりどこでも吊ったままでいられる。リアサイトのブレードでさえひっかからないようサイドが丸められ、これは今日のピストル設計者も参考にできるものである。この銃は快適に、「コンディション1」つまりロードして安全装置をかけた状態でコンシールドキャリーもでき、そして素早く抜いて発射できるよう設計されている。小さな、左サイドのセーフティレバーも驚くほど素早く下方向に解除できる。グリップセーフティの付属したグリップは、正確に狙った射撃にも、速射にも同様に役に立つことが分かる。両方の弾薬仕様においてFN10/22はその快適な射撃フィーリングで際立っており、これは素早い速射を可能にしている。手元にある2挺のFN10/22は大量のフルメタルジャケット弾を完全に障害フリーで発射した。命中精度は公用ピストル用には平均以上だった。

 残念ながらスライドストップは欠けている。(頑住吉注:この銃が設計された)第一次大戦直後、ノーマルな兵士は戦闘において何発撃ったか勘定に入れることに成功しないというストレス心理学的認識はまだあまねく普及していなかった。

 分解および組み立ての際、マガジンセーフティは安全性を高める。しかし、この銃の分解は2つの難点を含んでいる。マガジンを取り去り、安全確認を行った後、バレルガイドのかんぬきを、その切り欠き部から引き出し、バレルガイドをロック位置から左へ回す。この丸いパーツはこのとき指にオイルがついていると、リコイルスプリングの圧力で前方に飛び去ってしまう傾向がある。ごく小さなかんぬきはこの際失われる。スライドを後方に引き、セーフティレバーを前のレスト内に回すと、バレルは保持歯から左に回せる。セーフティレバーをレストから外すと、スライドはバレルごと前方に抜ける。しかし、スライドを少しでも後方に傾けるとファイアリングピンスプリングおよび誘導ピンは後方に落ちてしまう。この可能性としてありうる分解の際のパーツの紛失は、むしろ民間での仕様を想定したM1910の遺産であろう。

 筆者が知っているFN10/22のうち多数の加工グレードは非の打ちどころがないものであり、全て命中精度が高く、障害フリーであった。

 FN10/22で装備されたナチ・ドイツ軍兵士は、全てを総合して、比較的弱い弾薬にもかかわらず自分の銃に満足することができた。

注釈
 ナチ・ドイツ軍のFN10/22は前述のように大量であるから、コレクターマーケットにおいて非常にしばしば出会う。遅い時期のドイツによる製造品のうち納得のいく程度に維持された銃は、175ユーロから手に入る。「WaA」検査刻印を持つ9mmクルツピストルは極度に稀にしか見られず、これによりかなり高価である(前述の、ドイツの管理下における新しい生産は7.65mmブローニング弾薬仕様のみに限定された、そして鹵獲品には刻印は打たれなかった、という事情の結果です。稀にでも存在するのは、ベルギー占領時にFN工場にまだ出荷されずに残っていた、またはパーツ状態を組んだ少数の9mmモデルということでしょう。ただ、黄色文字で表記した9mmクルツは直前の記述と矛盾しており、謎です。あるいは初期にのみごく少数生産されたのかもしれません)。早い時期の7.65mmナチ・ドイツバージョンはほとんど同じ価格になる(頑住吉注:これも同じ経緯を持つ7.65mmモデルのことでしょう)。これに対しまさに安価なのは取引所で頻繁に提供される、たいていは新品同様の、50ユーロから手に入る空軍の「Theuermann-Taschen」である(頑住吉注:この銃用の空軍で使用されたポーチのようなものだと思うんですが検索しても分かりませんでした)。オランダまたはユーゴスラビアの財産刻印を持つFN10/22も150ユーロからと比較的安価である。こうした銃はナチ・ドイツ軍の鹵獲兵器としてありうる、対応するコレクションにふさわしい感じがするものであるはずだ(頑住吉注:これらの国の中古品は大量にあって安く、ドイツ軍で使用された証拠はないものの鹵獲品には刻印は打たれなかったので考証上問題ない、ということでしょう)。


FN10/22の技術的特徴とデータ
構造方式:ロック機構がなくストレートブローバックのスライドおよびストライカー発火機構を持つシングルアクションセルフローディングピストル。
口径:9mmクルツまたは7.65mmブローニング
全長:178mm
全高:124mm
重量(未装填):685g(9mmクルツ)、705g(7.65mmブローニング)
銃身長:113mm
ライフリング:6条右回り
サイト:V字型リアサイトを持つ固定式サイト
マガジン:底部で保持されるグリップフレーム内マガジン。容量8発(9mmクルツ)および9発(7.65mmブローニング)


 大体の形は頭に浮かぶと思いますが、こんな銃です。

http://world.guns.ru/handguns/hg95-e.htm

http://www.securityarms.com/20010315/galleryfiles/2900/2973.htm

http://www.deactivated-guns.co.uk/detail/Browning_fn_1922.htm

 M1910はコクサイ、マルシンがモデルガン化し、マルシンからはモナカタイプの低価格ガスガンも出ていました。アカデミーにはコッキングガンがあります。しかし1922の方は量産品としてモデルアップされたことはないはずです。コクサイやマルシンは大部分のパーツを流用して比較的簡単に1922のモデルガンが作れるのに作りませんでしたね。このため非常に多数が生産され、多くの国で公用に使われたメジャーな銃であるにもかかわらず国内ではいまいち知名度が低いままです。ただまあこの銃をモデルアップしたら売れたかと問われればかなり疑問です。傑作M1910の見事にバランスの取れたデザインをお手軽に引き伸ばしたため、どうも違和感のある外観になってしまっていますし、どうしても欲しいと思わせるインパクトにも欠けます。たぶん私も作ることはないでしょう。

 開発に関し、「FNの設計者は〜」と書いてあるところを見るとこの銃の設計、というか手直しはブローニングの手によるものではないようです。率直に言ってこの銃のデザイン処理にはあんまり天才のセンスを感じませんよね。ちなみにブローニングは1926年に死んでいますが、死の直前まで設計を行っていました。この記事を読んで驚きましたが、他の資料のパーツ展開図を見ても、英語ではスライドエクステンションと呼ばれるパーツをロックしているスライドエクステンションキャッチを保持するシステムはなく、うっかりスライドエクステンションを飛ばしてしまうとキャッチやスプリングが紛失してしまう可能性が高いようです。

 本筋とは関係ありませんが、第一次大戦の引き金になったサラエボ事件で使用された銃がM1910であるとあり、「ん?」と思いました。私はM1900が使われたと記憶していたからです。調べてみると両説あるようですが、どうもM1910説の方が多いようですね。ただまあ一般マスコミでAK74がより有名なAK47と誤記されることはよくあることで、よりメジャーな銃の名前が定着してしまった可能性もなくはないかも知れません。直後に第一次世界大戦の混乱が始まったことも事実を分かりにくくしているようです。













戻るボタン