M1ガーランドのスナイパーバージョン

 分からんもので、マニア人気は比較的高かったはずなのに、新製品が現在よりはるかにたくさん登場していたバブル期も含め長年モデルアップされてこなかったM1ガーランドが、3メーカー競作という事態になっているらしいですね。そんなわけで今回はこれに関連してユーザーだけでなくメーカーやショップにも参考になるかもしれない記事を紹介します。古い記事ですが、「Visier」2003年11月号に掲載されていた、M1ガーランドのスナイパーバージョンに関するレポートです。


短い登場

第二次大戦の末期に開発されたガーランドのスナイパーバージョンM1Dは朝鮮戦争時になって初めて大量に生産された。今日ではコレクターズアイテムである。

二次大戦中、アメリカ軍のスナイパーは第一に歩兵用ボルトアクションライフルであるスプリングフィールドM1903のA4バージョンをスタンダード銃器として使用した。しかし、すでに戦争の最初の年のうちに、米陸軍ヘッドクォーターは同時にセミオートマチックであるM1ガーランドのスコープつきバリエーションをも採用することを推奨していた。その際1つだけ問題があった。すなわち、ガーランドは8連発ロードクリップによって弾薬が供給される。これは使用者がオープンした閉鎖機構内に上から入れる‥‥そして最終弾発射後、このクリップは大きな弧を描いて再び機関部から上へ投げ出される。だからスプリングフィールドアーモリーがスナイパーガーランド用の2つの使用に足る構造見本を提供することができるまでには、1944年までも努力が続くことになったのである。

M1C 新しいスタンダード
 (頑住吉注:その2つの構造見本である)スプリングフィールドの試験モデルM1E7およびM1E8は、主としてスコープのマウント方法が異なっていた。M1E7はサイドのマウントレールつきで登場し、このためにはレシーバーにも穴を開ける必要があった(3本のネジと2本のピンがベースレールをレシーバーと結合していた)。これに対しM1E8は、削りだされたマウントブロックを持ち、これは1本の保持ピンによってチャンバー上に固定された(頑住吉注:要するにガーランドの場合装填クリップを上から入れ、またそれが上へ排出されるため、普通に銃の真上にスコープをマウントすると邪魔になってしまいます。そこでこの両試験モデルはスコープを左にオフセットして対処しました。方法としては後者の方がシンプルな方法でした。ただ、ここでは一切この問題には触れられていませんが、左利き射手は事実上使えなかったはずです。ちなみにドイツはクリップで装弾するKar98k用のスコープを前に移動して対処しましたが、これはこれで問題があったようです)。原則的に両バージョンとも要求と合致していたにもかかわらず、1944年6月(他の情報源は6月24日としている)、最終的にバージョンM1E7に有利となる決定が下った。この変種は「U.S. Rifle, Caliber .30, M1C(Sniper’s)」として、アメリカ軍の新しいスタンダードスナイパーライフルになることとなった。M1903A4は、今や「Limited Standard」に該当し続けるのみとなった。

 スコープに関しては、決定は1944年9月にLyman社のモデル「アラスカン」に下った。Lymanはまず初めに、レティクルとして「糸十字」を持つ2.5倍オプティカルサイトを製造した。これは軍では「Telescope M81」の名の下に使用された。しかし短時間の後にはすでに、軍人たちはFrankford Arsenalのテスト結果に基き、中央に上に行くに従って細くなる棒を持つレティクルがいいという意思表示をした。1945年以後、LymanとならんでRochester(ニューヨーク)所在の企業であるWollensack Optical Companyも、このM82と呼ばれたバリエーションを製造した。
(頑住吉注:文章からするとこんな感じですかね。左がM81、右がM82です)

 M1Cでは、2本の「ネジ梃子」がマウントベースを機関部の左サイドに固定していた。この上でスコープは2つのマウントリングによって固定された。このマウントはGriffin & Howe製で、スプリングフィールドアーモリーはマウントの設置を目的としてレシーバーをそこへ送った。その後レシーバーは再びこの国営銃器工場(頑住吉注:スプリングフィールドアーモリー)に戻った。そこで硬化処理し、最終的にコンプリートなスナイパーライフルに組み立てるためである。Griffin & Howeはひっくるめて37,000のM1C用マウントセットを製造した。このコストのかかる手順は結果として、他のM1ガーランドのメーカーをM1C製造においては部外者に留めることとなった。残念ながら生産数も低いままだった。すなわち、スプリングフィールドアーモリーは終戦までに8,000挺未満のM1Cを製造しただけだった。

遅すぎた
 Roy Dunlapは「Ordnance Went Up Front」の中で、この新しいセミオートスナイパーが部隊において形成した第一印象について記述している。 「これは素晴らしい銃器システムだっただろう。そして私はこの1挺を戦争中に手にするためには全てを投げ出していただろう。しかしこの銃は日本の降伏直前になって初めてフィリピンに届いたのである。このライフルはベストのフィットと加工がなされたM1を手で選別したものだった。わたしはかつてそれを見た。そして当然銃と照準器は一体としてやってきた」 この結果M1Cはその初陣を朝鮮で初めて経験した。そしてスプリングフィールドアーモリーは1952年および53年の間に再び5,000挺以上を生産した(頑住吉注:この部分の記述にはちょっと納得いかない部分があります。「ベストのフィットと加工がなされたM1を手で選別したものだった」とありますが、先の記述によればM1Cは最初からスナイパー用として製造されたものであって、一般の歩兵用ライフルから選別されてスナイパーライフルに改造されたものではありません。一方この後出てくるM1Dはそうして作られたものです。少なくとも引用部分にはモデル名はなく、これはM1Dのことだったのではという気がします)。

ピンチヒッターとしてのM1D 
 兵站的見地からすれば、この厄介で時間を食うライフル工場とマウントメーカー間の発送アクションは、戦争中の国家にとって悪夢だった。だから、M1E8のより単純なマウントデザインも決して却下されたわけではなく、単に冷却期間が置かれただけだった。つまり、チャンバー上の1個のマウントブロックによるガーランドの「スナイパー化」は、理論上師団レベルの銃器工が手持ちのライフルを使って簡単に作ることができるものだったのである。このM1E8はすでに1944年9月、「U.S. Rifle, Caliber .30, M1D(Sniper’s)」という公式な名称を得た。このD-変種は、軍において「Substitute Standard」、いわば補充装備と呼ばれた。M1Dの第二次大戦間における前線での使用は証明されていない。どちらにせよ何挺かのM1Dが戦争の終わりの日々にすでに供給されていたのかということがそもそも疑わしいのである(頑住吉注:だからこれが届いたのが日本降伏の直前だったということではないんですかね。いずれにせよガーランドのスナイパーバージョンが対独戦に使われていないのは確かなようです)。

新しいオプティカルサイトつき
 M1Dは調達の当初から、それ用により良いスコープを得ることが意図されていた(Frankford Arsenalの見地からするとM1Cは不満足であった)。というのは、陸軍は1万のタイプM81および82のスコープを注文していたにもかかわらず、基本的にスナイパーへの使用に適した民間モデルをベースとしたものであるこの構造の弱点を意識していたのである。多くのモデルがテストされたが、結局2.2倍のT134に決定が下った。これは1945年4月12日にM84として新しいスタンダードに昇格した(頑住吉注:ドイツの降伏は5月7日のことです)。

 だが何故最終的にこの非常に弱い倍率のM84が、3〜4.5倍の(有用な)倍率を持つテスト見本品に対抗して合格したのかは今日明らかでない。海兵隊は第二次大戦中、すでに8倍のUnertlターゲットスコープの付属したスプリングフィールドM1903のスナイパーバージョンを使用していた。M84のレティクルは、横に走る細い線を伴う中央の1本のスパイクからなっていた。(頑住吉注:これに関しては写真があり、



こんなのです)

 レティクルの調節範囲は40MOA(MOAはMinute Of Angleのことで、距離100mで約30mm)だった。レティクル調節のレストポイントは指で感じられたが、聞き取れるクリックはなかった。この新しいスコープは100ヤードで27フィート(約8.2m)の視野があった。パッキングとしては合成ゴム製が選ばれ、これはM84を湿気の侵入に対し敏感でなくした。目に当たる部分につけられたゴム製カップは、オプティカルサイトも、射手の目も保護した。本来M84は、前任のM81およびM82と交換されることが意図された(これらの実戦のための実用価値が劣っていたらすぐに)。だが、戦争の終結はそれを阻止した。そのときまで一握りのM84がテスト目的で作られただけであり、そして戦争直後には新しいオプティカルサイト調達の予算は失われた。しかし何年もしないうちにもう次の戦争が迫り、Libby-Owens-Fordは1950年代に40,000以上のM84ターゲットスコープを製造した。

朝鮮における投入
 1950年代初めには、M1Cはスナイパー用の銃として少なくとも一部M1903と交代していた。セオリー上は全ての歩兵、空挺、機械化歩兵部隊がそれぞれ1挺のM1Cを与えられるはずだった。しかし実際には第二次大戦後の年月において、特にスナイパーのための訓練プログラムにこれが欠けていた。そしてスコープつきライフルだけでは「エキスパート」記章を持つ射手をスナイパーとするにはまだ程遠かった(頑住吉注:軍のシステムについて無知なんでよく分からんのですが、たぶん「一般歩兵のうち射撃演習で高得点を上げた者には『エキスパート』記章が与えられたが、本格的なスナイパーを得るためにはこうした標的射撃のうまい射手に単にスコープつきの銃を与えるだけではダメで、スナイパーとしての訓練が必須だった。しかし訓練の場にはM1Cが足りなかった」ということだと思います)。ガーランドと弱い倍率のスコープの、火力の強いコンビネーションは兵士間においては全く気に入られていたが、スナイパー側からの批判もあった。

 陸軍スナイパーBill Krillingは語る。 「我々はLymanまたはM84ターゲットスコープのついたM1CまたはM1Dを受領した。私は両方のターゲットスコープを、倍率が弱すぎ、レティクルがターゲットを覆い隠す傾向があるという2つの理由から不適当と考えた。

 これにより、長距離における使用はほとんど考えられなかった。特にしばしば厳しい寒さが、スナイパーが何時間も1つのポジションに動かず留まり、そしてさらに引き続いて1発の正確に狙った射撃をすることを困難にした。レザー製チークピースに「凍って張り付」かないため、スナイパーはウール製ソックスをチークピースの上にかぶせなくてはならなかった。Krillingは言った。 「私は300ヤードを越える距離にあるターゲットを決して撃たなかった。撃ち損じの恐れからである。私は決して1箇所から2発より多い射撃を行わなかった。1回を除いて。このケースで私は3発発射した。その後すぐ、私に敵の迫撃砲がたっぷり浴びせられた。私はその際かろうじて命拾いしただけだった。

冷戦時代
 ひっくるめてどれだけ多くのM1Dが製造されたのかに関する信用できる数字は存在しない。専門家はその数を30,000までと見積もっている。全てのM1Dが陸軍銃器からコンバートされたものであったのか、それともスプリングフィールドアーモリーが一部のM1Dを最初からスナイパーライフルとして製造したこともあったのか、という問題に関しても意見が分かれている。それは次の理由からである。米軍は定期的に保管所においてガーランドに手を加えていた。必要な際に部品を交換し、あるいは追加装備をするためである。(頑住吉注:本来)オリジナルなM1Dも、(頑住吉注:現在調べれば)しばしばいくつかのメーカーの雑然と寄せ集めたパーツからできているのである。しかし1951年半ばからは、スプリングフィールドアーモリーによってコンバートされたガーランドのM1Dバレルは一つ残らず自社製品由来である。
 
 M1Dは1960年代の遅い時期まで米軍およびナショナルガードの在庫に留まり、ベトナムでもなお使用された。Bobby Sherrill軍曹はAdrian Gilbertの「Stark and Kill」の中で、「1967年11月、彼はM1Dを使って850ヤードという高く評価される距離において1人の中国人将校を1発で排除した」旨引用されている。

 しかし、明らかにベトナムにおいて全てのスナイパーがそのような芸術的射撃に成功したわけではない。そこでは長年にわたる使用の後、結局「真の」スナイパーライフルは手を加えられた、あるいは選び出された歩兵用ライフルから作ることはできないという認識が定着したのである。そこで米軍側ではレミントンおよびウィンチェスターによる初めてのボルトアクションスナイパーライフルが前線に登場し、これにはこれも初めてのこととして高倍率で頑丈なターゲットスコープが装備されていた。ベトナムはスナイパーガーランドの時代が終わったところでもある。すなわち、アメリカは5,000挺以上のM1Dを他国、ことにヨルダンやイスラエルにも売却した。1990年代の始め、6,000挺以上の貯蔵所のライフルが旧式化したと説明され、破壊された。イスラエルのスナイパーバージョンの一部はアメリカに再輸入された。他はそのスコープゆえに近東において部品取り用にもされた。すなわち、1973年における「贖罪の日戦争」(頑住吉注:年号からして第4時中東戦争のことだと思います)後、わずかの高齢なM84が再び勤務を強いられた。‥‥イスラエルによって今度はアメリカ製アサルトライフルM16にマウントされてである。

モデル:ガーランドM1D
価格:1980ユーロ(JansenおよびKleve社)
口径:.30-06(7.62mmx63)
装弾数:8発
全長:1110mm
銃身長:610mm
照準長:705mm
空虚重量:5400g(スコープ込み)
型:回転突起閉鎖機構を持つガス圧ローダー。ガーランドのスナイパーバリエーション。倍率2.2倍のM84ターゲットスコープ。サイドの延長マウント。チャンバー上のマウントソケット。

キャプション
冷たい戦争:アメリカのスナイパーは朝鮮においてガーランド(この場合M1C)も、スプリングフィールドM1903ボルトアクションライフルも使用した。後者はこの場合Unertl製8倍ターゲットスコープつきA1バージョン。アメリカ海兵隊は4倍KollmorgenスコープつきM1Cも携行した。

朝鮮、1950年:漏斗型(頑住吉注:日本語ではラッパ型と言うことが多い形です)マズルフラッシュサプレッサーM2は1945年にはすでにスナイパーガーランドの付属品として存在した。このM2はバヨネットラグ上に固定され、そして命中精度に影響を及ぼした。

マズルフラッシュサプレッサーT37はM1のガスシリンダーを使ってネジ止めされた。このT37はその前任者であるM2よりずっとよく機能したが、多数が製造され、あるいは支給されることは決してなかった(頑住吉注:M16初期のチューリップ型を前後に伸ばしたような形で、先端は4つに割れています)。

M84のレティクルは長距離においてピンポイントを狙うためには粗すぎた。2.2倍の倍率も不充分だった。レンズ上の黒い小さなクズは内部コーティング由来で、M84の場合はがれやすかった。

ブロック状突起:ガーランドM1Dでは、ターゲットスコープは大きなローレットネジ(頑住吉注:頭が大きくてローレットが切ってある、指で回せるタイプのネジです)によって特別なマウントブロックに結合された。このブロックのためにはフォアストックを短縮しなければならないだけで、M1Cの場合のようにレシーバーにも穴を開け、引き続いて硬化処理する必要はなかった。

完全なカバー:M1DのM84ターゲットスコープでは、薄板製カップがレティクルの調節つまみを塵や水分から守った(頑住吉注:このカップはプレス製らしく、前にヒンジがあってパタンと開くようになっています)。調節は1MOAごとになされる。

展示品:スナイパーガーランドになってもなおクリップで機能する。このためターゲットスコープをサイドに装着することが有効だった。

アジアへの輸出:アメリカ軍はM1Dを1960年代の遅い時期までなお保持した。アメリカ部隊でも、同盟軍である南ベトナム陸軍でもである。


 この銃は比較的メジャーな、しかもアメリカ製の銃ですから、ネット上にかなり豊富に情報があります。

http://www.snipercentral.com/m1cd.htm

http://www.jouster.com/articles30m1/Variations.html

 本命のM1C、応急型のM1Dというくくりなわけですが、簡単に作れるM1Dに一本化されなかったのは、M1DにM1Cに及ばない部分があったからでしょう。それが何なのかについては一切触れられていませんが、おそらく「マウントブロック〜は1本の保持ピンによってチャンバー上に固定された」M1Dよりも、「3本のネジと2本のピンがベースレールをレシーバーと結合していた」M1Cの方が酷使に耐え、命中精度上も有利だったのではないでしょうか。また、マウントブロックに専用マウントを介して定められたスコープしか装着できないM1Dよりも、マウントレールにマウントリングを介してスコープを装着するM1Cの方が、例えばナイトビジョンを装着するなどの汎用性があったということもあるのかも知れません。

 結局戦訓からこうしたタイプのスナイパーライフルは「真の」スナイパーライフルにはなりえない、ということになってレミントンM700系のM40が採用され、改良が加えられて現在に至るわけですが、M1ガーランドのスナイパーバージョンが放棄されたのはM1ガーランド自体が旧式化したからであって、こうしたタイプのスナイパーライフルが全否定されたからではありません。事実その後もM40系と平行してM14、M16のスナイパーバージョンが使用され続けているからです。


 比較的大掛かりな改造が必要になってしまいますが、せっかくM1ガーランドがモデルアップされたんですからスナイパーバージョンも製品化してもらいたいところですね。


 






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