コルト社自身によるパーカッション式リボルバー改造カートリッジ式リボルバー

 「DWJ」2004年2月号に、パーカッションリボルバーの時代からカートリッジ式リボルバーへの過渡期にコルト社自身の手で作られたコンバージョンリボルバーに関する記事が掲載されていました。元々の記事自体前後編に分かれているので2回に分けて紹介します。


コルト ファクトリーコンバージョンの歴史 その1

天才的デュオ リチャーズメイソン

金属弾薬への切り替えはコルトにとって多難な道だった。1869年までスミス&ウェッソンが後装カートリッジ式リボルバーのパテントで保護された独占権を持っていた。このRollin Whiteパテントを回り道して避けるため、Friedlich Alexander Thuerはコルトパーカッションリボルバーに前方から金属弾薬を装填できる改造システムを発明した。

属弾薬用後装リボルバーの歴史は、ヨーロッパでは1854年にLefaucheuxピンファイア弾薬と、完全に貫通したシリンダー内チャンバーを持つ、この弾薬用にパテントが取得されたリボルバーの発明によって始まった。センターファイア発火方式を持つリロード可能な金属弾薬の開発後、多くの陸軍ではまず既存の軍用リボルバーが改造された。すでに1870年頃には良好なダブルアクション発火機構を持つ新たに開発されたカートリッジ式リボルバーが存在した

 アメリカにおける発達はこれとは異なって推移した。この地では1855年4月3日にRollin WhiteがU.S.パテント、ナンバー12649を得た。これは同様に全長にわたって貫通されたシリンダーと後方からの弾薬導入を内容とした。Daniel B. WessonとHorace Smith(頑住吉注:S&W)は彼のパテントを買い取り、14年間にわたってアメリカにおける唯一の後装リボルバーのメーカーだった。

サミュエル コルト、チャンスを逃す


 ヨーロッパでは金属弾薬リボルバーが絶えず改良されていった一方、アメリカでは若干の努力家が必要に迫られて、おかしな装填メカニズムと奇妙な弾薬を持つ、いわゆる「パテント迂回リボルバー」を作った。前から装填される金属弾薬を伴うコルト初のカートリッジ式リボルバーは、ともかくもこの種の形式の中ではベストの設計に数えられる。

 活動的で先見の明あるビジネスマンだったサミュエル コルト(1814〜1862)(頑住吉注:この表現も「Faustfeuerwaffen」の著者同様、コルトを「天才的銃器設計者」ではなく「すでに出揃ったアイデアを小器用にまとめて商業的に大成功しただけの人物」と評価したニュアンスに感じられます)はRollin Whiteパテントの重要性を理解していなかった。Rollin Whiteは当時彼の従業員であり、コルトはこのパテントを好都合に買い取れたはずである。コルトは当然、後方から装填されるシリンダーからは、金属製の一体弾薬のみ発射できるということを理解していた。しかし彼はこれを採用しなかったし、その上ダブルアクション原理も却下した

 他方において、これ用の実用的弾薬さえまだ存在しないそのようなパテントにコルトが何を望めただろうか? その上コルトは、1857年までパテント権で保護されたシリンダーロッキングによって、パーフェクト化されたパーカッションリボルバーで商売上の大成功を迎えていた。この会社設立者はもはや、どうやって歴史の浅い会社スミス&ウェッソンがWhiteパテントによって彼の工場の主要なライバルになるのかを体験しなかった(頑住吉注:S&W No.1リボルバーの発売は1857年、No.2リボルバーの発売は1861年でコルト存命中ですが、これら小口径モデルは軍用を主眼としたコルトのライバルとなりうるものではなく、主要なライバルに浮上したのは1870年のNo.3リボルバー発売後、この時コルトはすでに死んでいた、ということでしょう)。

Frnaklin、コルトの副社長となる。

 年金付きで退官していた南北戦争時の将軍William B. Franklinは1865年にコルトの未亡人によって副社長およびゼネラルマネージャーとして雇用された。はこの時最初から、メタリックカートリッジ仕様への生産の徹底した切り替えを計画していた。同社は直後にはコルト・ベルダンライフルM1866を製造し、改良されたコルト・ガトリング機関銃の生産を始めた。蒸気機関および印刷機の生産はコルトの第二の立ち足となった。

 カートリッジ式リボルバーへの移行時期は決して「命だけは助かる」ために過ぎたわけではない。南北戦争終戦までに北部政府はコルトから129,730挺のアーミーモデル1860と、112,500挺の前装マスケットを合計500万USドルで購入していた。1864年の不幸な火災にもかかわらず、充分な資金があった。

 しかしパーカッションリボルバーの需要はゼロに向かって進んでいた。南北戦争時代からの100万挺を越えるパーカッション銃器が武器庫に在庫されていた。このためアメリカ政府は1万挺のフリーマン、Starr、サベージ、レミントン、ロジャース&スペンサーおよびコルトリボルバーを手放し、一般の競売にかけさせた。だがほとんど需要はなかった。多くのかつての兵士が不法に彼らのリボルバーを戦後着服していたからである。他の民間の顧客はスミス&ウェッソンのカートリッジリボルバーを好んで購入した。

 メタリックカートリッジ式リボルバーの勝利の行進はコルト工場の前でも止まることはなかった。このためFranklinは1866年4月にRollin White、Horace Smith、Daniel B. Wessonと、彼らのパテントの使用権に関して交渉せざるを得なかった。Franklinは110万USドルという途方もない合計金額を支払うべしとされた時、このパテントは1869年には失効するという考えの中、激怒して拒否した。これに対し、Remington & Sonsは1868年、スミス&ウェッソンから、銃器取り扱い会社B. Kittridge & Co.用に4,600挺のパーカッションリボルバーを改造するという注文を得た。ライセンス使用料はリボルバー1挺につき1USドルだった。

 レミントン社では、技術面でのリーダーWilliam Masonが改造された構造の開発を担当していた。Franklinは彼を、いろいろな改造による経験ゆえに引き抜いた。Masonから、コスト上好都合な改造システムの開発と新構造のためのアイデアを期待された。

 William Masonは事実幸運の持ち主と分かった。はRichardsコンバージョンを改良し、コルト オープントップフロンティア1872に関し重要な共同作業を行い、伝説的なコルトシングルアクションアーミー1873のチーフデザイナーだった。当時の工員たちはこの銃を「モデルP」と呼び、この銃は「Peacemaker」として歴史を作った。ニューライン、ダブルアクションモデル1877ライトニング、1878フロンティアもWilliam Masonによって開発された。

前からの装填 Thuerコンバージョン

 スミス&ウェッソンとの交渉失敗後、Franklinは長年の工場付き技術者Friedrich Alexander Thuerに、Whiteパテントを迂回する可能性を見つけることを委託した。ドイツで生まれた銃器工であり発明家のA. Thuerは1868年9月15日に、パーカッションリボルバーを前方から装填するカートリッジ式リボルバーに改造に関するためのパテント、ナンバー82258を手にし、1870年1月4日には弾薬装填器具に関するパテント、ナンバー98529を得た。

 パーカッションリボルバーのThuerシステムへの改造のためには、銃にわずかな変更しか必要としなかった。ハンマーノーズには丸い、同一平面上で終わる打撃部品がセットされた。バレル部品はバレルくさび(頑住吉注:バレルとシリンダー軸をつないでいるかんぬき状の部品)の左下に弾薬導入のためのミゾ、および装填プレス(頑住吉注:パーカッションリボルバーにおける、前方から鉛弾を圧入する梃子)棒内には再装填設備ねじ込みのための雌ネジを得た。

 本来のThuerシステムは回転可能なコンバージョンリングとテーパー付き穴の開けられたシリンダーからなっていた。その6つの穴ぐりはFortschaltkranz(頑住吉注:辞書に載っていませんが、ラチェットのことではないかと思います)まで至っていた。リングと新しいシリンダーはシリンダー軸にかぶせてセットされ、バレルはバレルくさびで固定された。この構造のために開発されたリムレスのThuerセンターファイア弾薬は真鍮製薬莢と銅製プライマーを持っていた(頑住吉注: http://munimichl.de/images/fruehe_patente/fruehe51.jpg )。この弾薬は前方からチャンバー内に圧入され、弾丸とシリンダー内チャンバーの間の摩擦によって固定された。エジェクターノブの左回転によって、内部に位置する打撃部品が遮断され、ハンマーダウンによって発射済み弾薬はスプリングのテンションがかけられたメカニズムを通じて前方に投げ出された。Thuerリング、シリンダー、弾薬の製造には最高度の正確さが要求された。Thuerシステムにおける要領の良さは、原則的にリングとシリンダーを取り去った後、リボルバーをオリジナルのパーカッションシリンダーを使って再びパーカッションリボルバーに変更できる可能性だった。

 1869年から1872年までに約5,000挺のThuerリボルバーが製造された。ベースとなったのはアーミー1860、ネービー1851、ネービー1861、ポリス1862、ポケット1849、ポケットネービー1862だった。Alexander Thuerのドラグーンおよびルーツリボルバー群、ルーツライフル群を使った実験は量産には至らなかった。

 コルトは大量のThuerコンバージョンリボルバーをイギリスに輸出した。これらの銃はその地で主にイギリスの取り扱い商のケース入りで交換シリンダー、50発の弾薬(Eley)用金属製の箱、リロード器具付きのコンプリートセットで販売された。

 イギリス政府は1869年、コルトThuerコンバージョンネービー1851とTyuerコンバージョンアーミー1860を軍での使用を視野にテストさせた。しかし取り扱いが面倒すぎることが分かった。同年、U.S.-Ordnance Departmentの将校たちも同じ結論に至った。

Rollin Whiteパテント、政治問題に

 アメリカの議会はすでに、Ulysses Grant大統領が彼の拒否権を発動した時、発明者使用の延長に関しberietしていた(頑住吉注:辞書に載っていません。検索したところ議会用語らしいですが意味は不明です)。かつての南北戦争の最高司令官(頑住吉注:グラント大統領)はこのための良い理由を持っていた。数の上で小さいU.S.アーミーはウェストエクスパンションの枠内で、1つの新しい移民の波の中にあった。開拓者の保護とインディアンの「平定」は大きな任務となった。スムーズなカートリッジ式リボルバーへの装備改変が求められていた。Ordnance Departmentの将校とリボルバーメーカーは、Whiteパテント保護が1869年4月に失効した時、ほっと安心した(頑住吉注:よく分からない部分がありますが、要するに議会は後方からの装填を可能にする貫通シリンダーに関するホワイトのパテントの期限を延長せよと求めたが、グラント大統領は早期に軍の装備改変を進める社会的必要があるとの理由で拒否し、1869年4月にパテントは失効、金属弾薬を前から装填するThuerコンバージョンのような苦しい手段は不要になった、ということでしょう)。

U.S.アーミー キャリバー.44

 U.S.アーミーはまだ南北戦争以来の古いパーカッションリボルバーを使用しており、この時モダンな後装銃を望んでいた。スミス&ウェッソンのリードは報われた。1870年5月16日、スミス&ウェッソンはU.S. Board of Small Arms(陸軍小火器委員会)にNo.3ファーストモデル アメリカン .44S&Wの試作品を送った。政府は中央に配置されたオートマチックエジェクターを持つこの新規開発されたブレイクオープンリボルバーを1,000挺購入した。

 だが陸軍はこのベルダン点火方式を持つ.44S&Wアメリカン弾薬に満足せず、絶え間ない事後改良を要求した。スミス&ウェッソンは1870年5月1日、ロシア政府による20,000挺のブレイクオープンリボルバー供給に関する注文を得ていたので、将校たちによる力のこもった変更への希望に対し乗り気でない受け入れ方をした。

 Frankford Arsenalでは1866年以来アーミーキャリバー.44のリムファイアおよびセンターファイア弾薬が実験されていた。スプリングフィールドアーモリーではコルトおよびレミントンパーカッションリボルバーを改造する独自の試みがなされていた。Ordnance Departmentは次のような結論に達した。「軍事予算切り詰めにより、さしあたり既存のコルトおよびレミントンリボルバーをメタリックカートリッジ用に装備改変し、部隊に支給する。」

 この改造がメーカーによって行われる予定だったのか、それとも国営アーセナルによって行われる予定だったのかは明らかにされていない。センターファイア、リムファイアのいずれに優先権が与えられるはずだったのかに関しても同様である。「誰が最初にマーケットにやってきたかがスタンダードを決定する」という原則は、U.S.アーミーキャリバー.44のリボルバー弾薬の初期複数年に関してはほとんど当てはまらない。コルト、レミントン、フリーマン、ベーコン、フォアハンド&ワーズワース、クーパー、ホイットニー、スターといったライバルたちはまだリボルバー用の納得の行くメタリックカートリッジを開発していなかったからである。こうしたメーカーのコンバージョンリボルバーを使ったアーミーテストは、解明を意図した。コルトでは、調達担当将校の希望に適合する改造されたコルトアーミー1860の提示が再三にわたって遅延した。

Franklin将軍の両面作戦

 1868年から1872年、コルト工場のモデルルームではFranklinの監督下で、パーカッションリボルバーとカートリッジリボルバーを使った改造の試みが無数に行われた。このテストサンプルとプロトタイプの多くは今日、ハートフォード所在のコネチカットステートライブラリーで見学できる。多くのものがたくさんの謎を示しているので、これらは「Mistery Conversions」と呼ばれている。

 Franklinはパーカッションリボルバーの改造のための政府による注文が有り得るとの理由で、Richards改造システムの選択を決め、このパテント化を強く迫った。量産準備のためには機械設備を備え付け、工場の労働者にコストの削減できる作業工程を指導しなければならなかった。こうしたリボルバーの改造のためには464工程が必要で、これは70人の労働者によって行われた。

 コルトの弾薬開発部門におけるセンターファイア弾薬.44コルト(Martin点火方式を持つ)を使った試みは、その弾道学的成績上当時の軍の希望に合致していた。コルト副社長Franklinは1871年1月26日にOrdnance Departmentに、既存の公用リボルバー、モデル コルトアーミー1860を口径.44コルトに装備改変する提案を行った。この提案は、生産技術的前提がまだ決して満たされていなかった時点でなされた。

 こうしたパーカッションリボルバーの改造のための切迫した準備作業にもかかわらず、完全に新しいカートリッジリボルバーの開発も促進された。1871年初め、2機種の新規開発されたポケットリボルバーが生産に移された。それはC.B.Richardsによってパテント取得された4連発のクローバーリーフ ハウスモデル(口径.41リムファイアで、シリンダー上を固定されたフレーム部分が通っているタイプ)と、7連発のオープントップポケット(口径.22リムファイア)だった。

 Richardsコンバージョンリボルバーの生産が、新規設計された「真の」カートリッジ式リボルバーである口径.44リムファイアのコルト オープントップフロンティアの生産と同時に始まったことには注意すべきである。Richards Masonシステムによる改造は、後のコルトシングルアクションアーミーの最初のプロトタイプが作業台の上にあったまさにその時に行われた。この時代の優先的な目標は、アメリカ政府を再びビジネス相手にすることだった(頑住吉注:そのためには必ずしも最善の製品が良いとは限らず、安上がりに既存のリボルバーを改造するコンバージョンも有力な選択肢だった、というわけです)。

アメリカ騎兵隊用のコンバージョン

 議会は1866年にはすでに、当時57,000人の米軍戦力を1874年までに25,000人の兵員および将校に減らすことを議決していた。打撃力を向上するため、第一線のアメリカ騎兵10個連隊を、できるだけ早くカートリッジ式リボルバーで装備することが意図された。Ordnance Departmentは銃器メーカーからの、実用能力のある改造後装カートリッジ式リボルバーの提示を期待した。

 周知のようにライバルはビジネスに残存し、1870年初め、ミズーリ州セントルイスアーセナルでのアーミーテストにおいて、3つのライバルたちが対戦した。レミントンが4つのバージョンで、ホイットニーが2つのバージョンで、スプリングフィールドアーモリーが1機種の独自のテスト銃でだった。テストではレミントンによる口径.46リムファイアのニューモデルコンバージョンが最高の成績を収めた。Ordnance Departmentの長だった退役将軍Dyerは、これに基づいてRemington & Sonsに1,000挺のレミントンパーカッションリボルバーの口径.44レミントンセンターファイア仕様への改造に関する注文を与えた。

 コルト工場はこのテストにまだ参加できなかった。改造されたパーカッションリボルバーのサンプル1挺さえ提供できなかったからである(頑住吉注:ホワイトのパテントはすでに失効しており、後方から装填されるコンバージョンでなければならなかったが、そういうタイプはまだできていなかった、ということです)。このアーミーにとってもコルト工場にとっても不運なシチュエーションは、前述のRichardsコンバージョンモデルアーミー1860の改造作業を促進した。

Richardsコンバージョンアーミー1860

 Charles B. Richardsはコルトにおける開発部門の長であり、同時に副工場長だった。の発明家およびメカニックとしての才能は、後にをエール大学の技術学教授ポストをもたらした。1871年7月25日、Richardsはコルトのために、コルトアーミー1860の後装カートリッジ式リボルバーへの改造のための主要パテント、ナンバー117461を手にした。今日にちなんでRichardsコンバージョンアーミー1860と呼ばれるこの銃は、センターファイア弾薬.44コルト用のみに作られた。

 原理的にはこの改造は、金属弾薬の後方からの受け入れのために後部が加工されたシリンダー、このため生じたねじ込みリコイルショックプレート(コンバージョンリング)とのすき間の閉鎖、エジェクターケースのバレル右面への取り付けによって成り立っていた。突き出た縁を持つリコイルショックプレート内にはスプリングのテンションがかけられたファイアリングピンが入れられ、弾薬導入のためのミゾが設けられた。このミゾはフレームのリコイルシールドへと続いていた。ハンマーノーズはセパレートな打撃部品の長さに合わせて短縮された。リコイルショックプレートの上サイドにはリアサイトが削り加工され、右にはスプリングが内蔵されたローディングゲートがあった。その上装填プレスは取り除かれ、生じた開口はワンピースの閉鎖部品で閉鎖された。この上にはエジェクターケースが設けられた。エジェクターロッドはパイプ端部で終わるのではなく、ケースを越えて突き出していた。

 Richardsコンバージョンでは不規則な形状の開口を流線形のバレル部品ですき間なく塞ぐことが最もコストのかかる作業だった。Richardsコンバージョンのセカンドモデルはすでに、後継モデルであるRichards-Masonコンバージョンの特徴を示していた。Richardsコンバージョンの両モデルは、古いパーカッションモデルのシリアルナンバー領域内で167000から200614まで、そして新しいシリアルナンバー範囲では1から8700までだった。5800から7900まで(R.L.Wilsonの主張)、あるいは5900から7300まで(Bruce McDowellの主張)は注意深く2100またはちょうど1300挺のリボルバーのためにリザーブされ、これは後にRichards-Masonシステムによって製造された。古いシリアル領域の改造の場合でも、新しい4桁のシリアルナンバー領域の場合でも、フレーム左サイドに2桁で「COLTS/PATENT」あるいは新しいパテントに関する行、「PAT.JULY 25, 1871-/-PAT.JULY 2, 1872」が見いだされる。

Richards Masonコンバージョンアーミー1860

 Wiliam Masonがコルトの開発チームにやってきた時、Richardsコンバージョンにおける2つのコストの高い部品を認識し、これを単純化した。はリングの上部、(頑住吉注:旧モデルでは)スプリングのテンションがかけられた打撃部品だった位置に、ハンマー用のスリットを削り加工した。再びリアサイトとして役立つことになったハンマーには、打撃部品がセンターファイア弾薬用に中央に組み込まれ、あるいはリムファイア弾薬用にサイドにリベット止めされた。MasonはS字型の輪郭を持つ新たなバレル部品をフレーム固定のために使用した。エジェクターケースは今やエジェクター全長をカバーし、1本のフライス加工されたノッチと1本のピンを使ってバレルに結合された。バレル左サイドの1本のネジはケースを固定した。内蔵されたローディングゲート用スプリングは外装の板バネに換えられた。William Masonはこうした新規性のため、1872年7月2日、パテントナンバー128644を得た。

 Richards-Masonコンバージョン1860アーミーは2つのパテントの結合したものだった。このことはフレーム左サイドのパテントを示す複数行に見て取れた。工場の資料からは、最後のRichards-Masonnコンバージョン1860アーミーが1878年になってもまだ生産されていたことが分かる。同じ年、すでに40,000挺を越えるコルトシングルアクションアーミー1873が工場を去っていた。

 このうちわずかのみが西部に到達したため、ラージフレームコンバージョンはなお長期間荒れた西部において「ベストセラー」に留まった。参考文献には、RichardsシステムおよびRichards-Masonシステムでのコンバージョンの実際の生産年に関していくつかの異論が見られる。今日では、RichardsシステムおよびRichards-Masonシステムでの改造されたオリジナルリボルバーと、交換部品から作られたニューシリーズが、同じ時代(1872〜1878年)に作られていたと推測されている。コルトはカートリッジ式リボルバーへの過渡期、何らかの方法で使用可能なものは全てできる限り早く市場に放出することを指示されていた。「ごみ処理」すべき部品はなかったのである。

U.S.スプリングフィールドアーモリーコンバージョン?

 コルトに関する専門家R.L.Wilsonは1976年に彼の基本文献「The Book of Colt Firearms」の中で、スプリングフィールドアーモリー内で改造されたとされる1,200挺以上のコルト Richardsコンバージョン1860アーミーについて記述した。だが、発見された文書は全く異なる歴史を物語っている。

 1871年1月26日のA.B. Dyer将軍あての書簡の中で、Franklinは全てのコルトアーミー1860の口径.44センターファイアへの改造を提案している。この改造のコストは1挺あたり3.50U.S.ドル+新規ブルーイングのための10セントだった。工場はすぐに1,000挺のコルトアーミー1860の改造のための注文を手にした。A.B. Dyer准将からコルトに宛てた1871年6月2日のさらなる書簡の中では、射撃によって消耗したシリンダーを新しいものと交換し、特別に料金請求することをはっきりと認可している。

 しかし実際にはその後1,126挺のコルト1860アーミーがコルトによって改造されている。これに加えてさらにモデルリボルバー、9挺のテスト銃、2挺の見本銃が陸軍検査官用に加わり、合計を1,138挺としている(頑住吉注:1,137挺だと思うんですが)。1871年8月26日のFranklinからJ.G. Benton大佐宛ての書簡では次のように説明されている。「しかし1,000挺の代わりに軍当局は我々に1,203挺のリボルバーを送ってきた。それだけでなく、さらに50挺の特別なタイプ(of a special kind )を」 これが意味するのは、依然としてミステリアスなままだということである。少なくとも1,126挺のリボルバーだけは改造でき、スプリングフィールド アーモリーに送り返された(頑住吉注:この部分いまいち何を言わんとしているのか不明確ですが、まず1860アーミーコンバージョンの数、これは1.126以上であることは確かだが正確には不明、次に誰によって改造されたのか、これは軍の施設ではなくコルトの手による、ということでしょう)。 U.S. Richardsコンバージョン1860アーミーはたいてい各パーツのナンバーが等しくない。しかし全ての改造されたリボルバーは追加的に等しい組み立てナンバーを全ての主要部品に得た。新しいグリップを得たリボルバーは、左面に「OWA」の刻印を伴う楕円形の渦巻き模様の装飾を持っている(検査官Orville W. Aimsworth)。検査刻印「A」は「P」(試射を示す「Proof」の意)と共にバレルおよびシリンダーに刻印されている。トリガーフレーム前面に大きな「U.S.」の刻印を持つ多くのリボルバーは、改造の前にすでに一度分解修理されている。

 77挺の送り返されたリボルバーは痛みすぎていたか、あるいは検査官が製造上の欠陥ゆえに却下した。放棄されたU.S. Richardsコンバージョン1860アーミーはAdams Nickel Companyによってニッケルメッキされ、取り扱い商に売却されたらしい。

西部のアメリカ騎兵隊向け

 1871年末におけるU.S. Richardsコンバージョンアーミー1960のスプリングフィールド アーセナルへの供給後、これらは遅滞なく遠い西部のアメリカ騎兵隊のいろいろな部隊に送られた。これらはそこで、流入する移民、金を掘る人々、インディアン地域の冒険者たちを「守った」。この「新しい」アメリカ騎兵隊のカートリッジ式リボルバーは西部の人々の間で非常に人気があった。多くの騎兵は彼らのリボルバーをひどい値段で民間人に売り払った。「勤務中に失った銃」による処罰を差し引いても、これはいいビジネスだったのである。これは有力な銃器取り扱い商にとって、コルト工場にできるだけ早くこのモデルを民間マーケットに提供するよう促すきっかけとして充分だった。この銃はすでに1872年以後、宣伝効果のある「Colts New Breech Loading Matllic Cartridge Army Revolver」との名称で16ドルの価格で提供された。.38口径のRichardsコンバージョンネービー1851は1ドル安かった。


 話が前後する部分もあるのでまとめます。ここで触れられているコルト製コンバージョンリボルバーは大きく分けて3種類です。

1.Thuerコンバージョン これはローリン・ホワイトのパテントが有効だった時期にこれを避けるために作られたものです。一般にホワイトのパテントは「貫通シリンダーに関する」と言われますが、実際にはシリンダー内チャンバーが前後に貫通していても前方から装填するならパテントには抵触しませんでした。Thuerコンバージョンにおける弾薬はリムが突き出ていないという意味ではなくリムが全く存在しない、逆テーパーのかかったものでした。これを前方から入れ、明記されていませんがパーカッション時代のものが改造された上残された「装填プレス」棒で強く押し込まれたのだと思われます。そうでないと後方から叩かれた際、前方に飛び出すことによってショックが吸収され、不発になるだけでなく、弾丸の先端がバレル内に入ることによってシリンダーの回転も不可能にしてしまうはずです。こうした構造のためシリンダーや弾薬には高い精度が要求されました。シリンダー後方に新設された「コンバージョンリング」内にはファイアリングピンが内蔵され、ハンマーに叩かれてプライマーを突きます。この点は多くの現代リボルバーと同じですが、変わっているのは「コンバージョンリング」を回してハンマーを起こし、トリガーを引くと、ファイアリングピンよりも広い面積で薬莢の底部を突き、前方に排出するようになっている点です。しかし逆テーパーのついた薬莢は発射時のガス圧によってますますきつく後方に押し込まれてしまうはずで、うまく排出されないこともあったのではないでしょうか。率直に言ってかなり無理のあるシステムであり、ホワイトのパテント失効後は役割を終えました。

2.Richardsコンバージョン これはホワイトのパテント失効後に販売されたもので、後方から装填するようになっています。ローディングゲート、エジェクターもSAAのものと大筋似ています。ただしThuerコンバージョン同様(名称は「リコイルショックプレート」となっていますが)シリンダー後方の新設された部品内にファイアリングピンが内蔵されています。

3.Richards-Masonコンバージョン これはSAAの設計者でもあるメイソンがRichardsコンバージョンに改良を加えて簡略化したもので、ハンマーにファイアリングピンが固定されるなどの変更が行われました。

 こうした本筋の話以外にも、S&Wがレミントンには1挺1ドルでパテントを使用させたのに、コルトには総額110万ドルを要求したといった、両社の感情的対立をうかがわせるエピソードや、カッコいいイメージのあるアメリカ騎兵隊の兵たちが支給された兵器であるリボルバーを民間人に売り払ってしまったエピソードなど、面白い内容が含まれていました。

http://www.lunashooters.at/Default.aspx?tabid=296

 こんなページがありました。上2つの画像はオリジナルのコルトパーカッションリボルバーです。3番目がThuerコンバージョンで、4番目が「コンバージョンリング」です。真上に位置しているのがファイアリングピンで、やや左にあるのがエジェクターです。5番目はこの銃のためのカートリッジで、後方に向けて細くなるテーパーがついています。6番目はRichardsコンバージョンで、エジェクターロッド後部が露出していること、リアサイトがあることがなどが分かります。7番目はRichards-Masonコンバージョンで、エジェクターロッド全体がカバーされていること、リアサイトがない(ハンマーが兼用している)ことなどが分かります。

http://www.municion.org/Thuer/36Thuer.htm

 このページにはThuerコンバージョンのパテント図面らしきものがあり、弾薬の寸法、確かにセンターファイアであることなどが分かります。

http://www.coltparts.com/pt_rich_conv.html

 このページにはRichards-Masonコンバージョンのパーツ展開図があります。

http://www.firearmscollector.com/cat/cat_details.asp?id=295

http://www.waffensammler-kuratorium.de/colt1860/colt1860da.html

 これらのページにはRichardsコンバージョンのディテールが分かる画像があります。









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