ゲベール88

 ドイツの軍用ライフルと言うと、ドライゼのニードルガンからモーゼルのボルトアクションに移り、第二次大戦終戦まで主力として使われた、という認識の方が多いと思いますが、実は1888年の採用から98系登場まで約10年間主力として使われたボルトアクションライフル、ゲベール88という銃が存在しました。アメリカのフォーラムなどでは誤ってモーゼルの銃として語られることが多いというこのゲベール88は歴史的に重要かつ興味深い存在です。久々に「Visier」、2004年1月号のこの銃に関する記事の内容を紹介します。


致命的な事件

破裂するバレル、信頼性のないセーフティ、そして政治的スキャンダルが原因となって、ゲベール88は最初からやっつけ仕事と悪口を言われた。果たしてそれが本当なのか、そしてどのくらいよい射撃ができるのかよく考えてみる。
 
の評判を下回ることは不可能である。…これはドイツの歩兵用ゲベール(頑住吉注:ライフル)88の話だ。すなわちこの新しい8x57mm弾薬仕様のリピーターが採用されるやいなや、破裂したバレルの報告書が山のようにたまった。2年以内に、バイエルンだけですでに33件の「バレルの破裂と危険な種類の膨張」が報告された。そして欠陥が修正されたとされた時でさえ、故障レポートは途切れなかった。1900年3月から1901年3月までの間に、プロシアの諸連隊からほとんど950件の損傷したバレルに関するクレームが来た。非常に多くの兵士が自分の公用ライフルに伴う状況に苦しんだ悲惨な事実には言葉もない。

知られざる大きな存在
 この銃が100年後、ほとんど一度たりともシューティングレンジでスポーツシューティングに使われているのを見かけられないことは不思議でない。このためこの銃はコレクターのフィールドに委ねられたままである。この銃器種類はコンディションと刻印次第で100〜1000ユーロのコストを計算に入れる必要がある。それでもこのゲベール88はコレクター界でもまた影のような存在である。モーゼル98系のみを扱っている本は何ダースもある。しかしいまだかつて88系システムをテーマに採用した著者はいない。

1人の子供と多くの父
 ゲベール88には多くの歴史が付随している。この銃はドイツ初のニトロ弾薬(頑住吉注:無煙火薬を使用した弾薬)用軍制式リピーターであり、全般的な軍拡競争の中から生まれたものである。1886年にフランスがLebelライフルをもって初めてニトロ・リピーターを支給した時、ライン川の東(頑住吉注:ドイツ)でもこれに追随せざるを得なかったのである。

 ゲベール88のための図面は単一の設計者が作成したのではなく、シュパンダウ所在のプロシアライフルテスト委員会(G.P.K.)が管轄した。それゆえ、「Kommissionsgewehr」(頑住吉注:「委員会ライフル」)としても知られたこの銃は、それ以前に知られていた多くの構造要素をその中にまとめたものだった。閉鎖機構はLouis Schlegelmilchに由来したが、これはこれでペーター パウル モーゼルからインスピレーションを受けたものだった。G.P.K.はフレームローディング(頑住吉注:何といいますか、ガーランドの装弾クリップを一列にしたような感じの、内部にスプリングなどの構造はないがストリップクリップと違ってこのまま銃内に収まるクリップを使うものです)方式のマガジン構造をフェルディナンド マンリッヒャーから、そしてバレルジャケットはArmand Mieg(頑住吉注:銃や弾薬の改良を行った、当時有名なドイツの設計者だそうです)から受け継いだ。バレル構造では弾薬同様にフランスのレベルライフルから「影響を受け」ることができた(頑住吉注:「ぱくった」ことを皮肉に表現しているようです)。要するにG.P.K.は、本質的には当時の国防軍を新しい「小口径」(頑住吉注:括弧つきなのは現在では小口径とは言えないからです)ニトロ弾薬用の機能優秀なリピーターでできるだけ早く装備できるよう、単純な開発法をとったのである。

反ユダヤ主義者の動員
 だがあわただしい設計は技術的欠陥と、カイザー時代最大のスキャンダルを導いた。時間および生産キャパシティ上の理由から、アムベルグ、ダンツィヒ、エルフルト、シュパンダウ所在の国営ライフル工場だけでなく、民間の会社も生産注文を手にした。すなわち、ステアー所在のオーストリア銃器工場ゲゼルシャフト、ズールのHaenel&Schilling、ベルリンのLoeweである。そしてこの最後に挙げた会社がつまづきの元を作った。事故が頻発した後、狂信的反ユダヤ主義者のHermann Ahlwardtはただちに悪名高いものとなった中傷文書「新たなる暴露−ユダヤの銃」の中でユダヤ人の事業家Isdor Loeweと何人かの彼の従業員を槍玉に挙げた。

 Ahlwardtは、「新しいドイツの陸軍用ゲベール88の製造における最も重い罪」があるとしてLoeweらを非難した。Loeweが意図を持ってひどい銃を供給したというのである。これはユダヤ人の強欲によるものであり、Loeweがユダヤ人の世界的団結を企てる国際的ユダヤ人結社から支援を受けていることが主な理由であるとした。この馬鹿げた非難が雲散霧消した1892年、裁判所はLoeweに無罪判決を言い渡した。

 だがLoeweが製造した88系の供給が必ずしも正しく行われなかったのは事実である。彼の工場からの多くのライフルは国の検査委員会の検査に耐えないものであり、そしてそれでも公式な検査刻印が入れられた。その後で検査官は試射の際にしばしば2枚のターゲットを重ねてピンで止め、劣悪な射撃結果を出す銃の完璧な結果を手にした。こうした全てを隠蔽するため、Loeweの工場長Kuhn(頑住吉注:「u」はウムラウト)は何人かの委員会メンバーに贈賄した。

 もちろんLoeweによって製造された88系が他社の製品より頻繁に事故を起こしたわけではない。欠陥はそれぞれのメーカーではなくシステムの中に求められる。それでも、ゲベール88が究極的に信頼性の劣る銃であるという今日まで存在する評判の理由は、主に致命的なLoewe-Ahlwardt事件の中にある。システム88の銃の製造がミスや手抜きにもかかわらず大々的に行われたという事情は理解しがたい。ひっくるめて1,675,000から1,801,000挺の銃が工場を後にした。これにはカラビナー88と、それから派生したモデル91が含まれた。この銃はゲベールピラミッド(頑住吉注:叉銃)作成のためのフックを手にした。だが生産の大部分は歩兵バージョン88とそのモデファイで占められた。

 この銃が現役だった時代を一瞥しても、このライフルが全く誤った選択ではありえなかったことが証明される。最初の銃は1889年秋にアルザス・ロレーヌの帝国部隊の手に渡った。1890年8月1日には帝国の全てのアクティブな(頑住吉注:「第一線の」くらいの意味でしょうか)連隊がこの新しい制式モデルを運用していた。ゲベール88のレギュラーな現役時代は1907年に終わった。カラビナー88は1909年、ゲベール91は1910年までだった。これら全てはもはや予備役兵の動員等にも必要とされなくなり、その後売却された。

 だが第一次大戦において、この勤務から外されたゲベール88が再び部隊にやってきた。参謀本部と調達局担当者の計画は戦争における極度の兵器損失を考慮に入れていなかった。このためすでに開戦直後、塹壕の両サイドにおいてライフルが欠乏した。この時、1916年夏以後98系ライフルの補給が機能するようになるまでの間、ゲベール88が橋渡しをする必要に迫られた。もはや必要とされなくなった銃はたいていトルコなどの同盟国に渡っていた(囲み記事参照)。このことは多くの銃に見られる在郷軍刻印およびトルコのマークが明らかにしている。

モデファイ
 1904年以後、まだ現役にある全ての制式銃は、1903年に採用されたS-弾薬用に改造された。つまりラウンドノーズ弾付き弾薬から尖頭弾付きにである。コレクターはこうした88系を、レシーバー上の「S」の刻印で見分けることができる。最初の銃はまだマンリッヒャー式ロードフレームを使用していた。1906年以後、S-弾薬とモーゼル式ストリップクリップ用に変更された銃と違ってである。こうした変更が加えられた銃はモデルグループ88/05および88/14に分類される。

 ゲベール88/05の特徴は、きれいにレシーバーブリッジ上にネジ止めされたストリップクリップ用誘導部にある。戦時中に変更が加えられたゲベール88/14はこれとは異なり、誘導部は単に溶接されている。その上改造はたいてい88/05のように慎重に行われていない。だが88/05はシステム88への最初の変更ではなかった。と言うのは、変更は

技術的欠陥をめぐっても行われたからである。特に弾薬とバレル内面の微調整が足りなかった。このことはバレルの消耗、膨張、そして破裂をももたらした。当初この問題に新しいバレル素材によって対処することが意図された。この種のバレルを装着した銃はレシーバー左側、モデル名称の下にニューマテリアルを意味する「n.m.」が刻印されている。だがライフリングへの変更によって初めて問題は解決された。ライフルテスト委員会はこの銃の設計の際、新しい8x57mm弾がプレス誘導のみ必要とするという認識から出発していた。このため初期の銃はライフリングの深さ0.1mmのバレルを得た。長い試射テストの後、1896年からライフリングの深さが0.15mmに増やされたとき、即座に事故は減った。「最重要通達」によれば、「この種のバレルを備えたライフルには、バレルとレシーバー外面にZのマーキング」がなされた。

 この2年前、ガスシールドの付属した新しいファイアリングピンナットおよび弾薬製造の際の改良により、薬莢の破損からくるガス流出による問題は減っていた。それでもゲベール88にはいくつかの

正されない欠陥が残った。最も重大なのは内蔵されたエキストラクターを持つボルトヘッドだった。エキストラクターのツメはボルトの運動の際にしばしば薬莢のリムを飛び越えた。その後次の弾薬が最初の弾薬を押した。すなわち、後ろの弾薬の弾丸先端がプライマーに押し込まれる可能性があった。‥‥銃はボルトがオープン状態にもかかわらず発火した(頑住吉注:いまいちよく分かりませんが、たぶんエキストラクターがリムを噛みそこねてリムの後方に位置し、不完全閉鎖で不発となり、ボルトを引いても排出されず、これに気付かずボルトを前進させた場合に発火が起こる可能性がある、ということでしょう)。その上この銃は使用者がボルトヘッドを入れずにボルトを組み込んだときも発火できた。そしてボルトの組み込みの際、ファイアリングピンナットを完全にねじ込まなかった場合、トリガーに触れることによってセーフティが非アクティブ化されてしまう可能性があった。すると使用者がセーフティ解除するやいなやファイアリングピンは急速に前進した(頑住吉注:ナットのねじ込みが不完全な場合、セーフティをかけた状態でトリガーを引くとファイアリングピンがシアから外れ、セーフティに引っかかって止まった状態になり、セーフティを解除すると暴発する、ということでしょう)。こうした問題は改善された訓練によってほとんど取り除くことが出来た(頑住吉注:クリーニング終了後ファイアリングピンのナットは確実に締めろ、不発弾を排出する際は排出を確認しろ、といったことでしょう)。しかしエキストラクターの構造は変更されないままであり、下部が開放され、汚れに敏感なマガジンケースやへこみやすい肉薄のバレルジャケットも同様だった。バレルジャケットのへこみは命中位置を変えてしまう可能性があった(頑住吉注:バレルジャケット上にサイトがあるためです)。その上、ここにバレルジャケットがねじ込まれるネジ部品は当初はんだで固定されただけだった。負荷がかかるとこの部品はずれ、バレルジャケットの位置が変わる可能性があった。

2003年のゲベール88
 制式銃での射撃を楽しむ多くの人々がゲベール88の前でひるむのは驚くにはあたらない。しかしこのため彼らは、この銃が実際のところ適しているのか、どのくらい良い射撃ができるのか、リロード時にどんなことに気をつけなければならないのか、といったことに関する答えを手にしていない。‥‥だがこの答えはVisierによるテストの中にある。

 テスト銃としては、トルコで公用に使われていた88系3挺が使われた。その金属部品には手が加えられ、漬けブルーイングがなされていた。ストックは新品同様に直されていた。すなわち、完璧な維持状態に執着するコレクターを夢中にさせられるものではなかった。だが完全に維持された88系はほとんど入手できないのである。少なくとも2挺のテスト銃は良好なバレルを持っていた(寸法は表参照)。ゲベールAおよびBの場合、鉛塊を押し通すテストは正確に円筒形のバレルによってほとんどひっかかりなく進捗した。一方、銃Cの場合ソフトメタルは異なる内部寸法ゆえにあるときはスムーズに、またあるときはきつくバレル内を滑った。3挺全ての銃は最低限の閉鎖機構距離を持っていた。すなわち、工場製弾薬を使った場合実にボルト閉鎖の際の摩擦が実に大きかった。カラビナー98kの場合問題なく使用された薬莢が約0.1mm削った薬莢ホルダーを使って初めて、ソフトに銃を閉鎖できるようキャリバーリングできた(頑住吉注:細部はよく分かりませんが、ヘッドスペースが98系より小さい、ということでしょう)。発射後ボルトは軽くオープンした。ポピュラーな尖頭弾を使った場合つっかえはなかった。

難しいことではない
 テスト者は非常に強いロードがなされた種類、例えばSellier & Bellotを最初から断念し、最大限の装薬量も表から外した。さほど強くない弾薬に限定し、その圧力はクイックロードバリスティックプログラムによって計算した。この場合3000バールが上限だった。これにより、テスト弾薬は古い道を再び歩んだことになる。すなわち、すでに1898年、弾薬1888の圧力は当初の3350から2700atu(頑住吉注:「u」はウムラウト)に引き下げられたのである。1903年製の尖頭弾薬は3100バールをもたらした。(解説:at(超過圧の場合atuとも)は、圧力の単位としては1978年以後法的にもはや使用が許されなくなった。1atは0.980665バール)

 この弾薬への改良は、よりライフリングが深く切られたZ-バレルと共に弾薬8x57およびゲベール88の問題を取り除いた。しかしテスト銃Aは古い深さ0.1mmのライフリングを持っていた。‥‥しかしこの銃は問題なく、そして過加圧の兆候もなく作動した。このため全てのバレル膨張や破裂の主な原因は1888年製弾薬にあるとほぼ結論付けられる。バレル膨張や破裂といった全てを避けるためには、短い誘導部分を持つ軽量弾のみ使用する必要があるらしい。穏当な装薬を使うと、8.20mmのスタンダードなS-径を持つジャケット弾は良好な命中精度になった。特に良好なバレルを持つ銃AおよびBは長時間の連射でも完璧な射撃成績を提供した。これらの銃は平均的なカラビナー98kよりも温度変化に敏感でなかった。

 銃Cもそのあまり良くないバレルにもかかわらずドイツ射撃協会ターゲットの黒部分だけに集弾した。つまりそのグルーピングは直径20cmの面内となった。しかしそのバレルが熱するやいなや、このライフルはひどくグルーピングが広がる傾向となった。これは経験豊富なカラビナー98k射手が悪いバレルを使って経験している現象である。テストされた88系は鉛弾を使っても98kと全く同様の良好な射撃ができた。

かつてとほとんど同じ
 テスト者が使用した弾薬番号(7)はホーナディの.323-150弾付きのもので、これは1903年の尖頭弾薬をほぼコピーしたものである。すなわち、オリジナル弾丸同様の寸法を示し、尖頭弾の重量は9.8g(151.2グレイン)、直径は8.22mm(.3236)、誘導部分の長さは約15mmだった。テスト銃がこのレプリカ弾薬を使って完璧に作動したので、委員会ライフルは当時の尖頭弾薬を使って確実に、そして良好に射撃できたと結論付けることができる。しかしながらこれはバレル内の移行部分(頑住吉注:チャンバーとバレルの間のライフリングのない短い逆テーパー部分=フリーボア)がテスト銃とほぼ同じであった場合のみ該当する。この軽量な尖頭弾薬は、重量14.7gの1888年製ラウンドノーズ弾の22.75mmよりも短い誘導部分を持っていた。しかしラウンドノーズ弾の径は8.1mmと尖頭弾よりもはっきり小さかった。だがより短い誘導部分ゆえに尖頭弾はフリーボア走り抜け後、より高い摩擦抵抗は起こさないはずである。

 つまりこの0.1mmオーバーサイズの尖頭弾薬、およびホーナディ製.323-150弾はガス圧をほとんど、あるいはわずかしか上昇させ得ない。帝政時代の実地およびテスト結果はこの理論を支持しているので、8.1mm(.319)径の弾丸を使ったテスト射撃は行わなかった。

88系システムの長所
 実地の射撃は全く明確に示している。正しい弾薬を使えば、ゲベール88はきちんとした射撃成績をもたらした、そして今ももたらす銃である。また少なくとも試験的に使ってみた3挺のG88は、平均的98系諸バージョンよりもずっと装薬に左右されなかった。そしてその射撃成績により、ゲベール88は全てのケースにおいて肩を並べることが出来た。以下に挙げる他の長所も見落とすべきではない。

●88系のトリガーは98系よりずっと良いキャラクターを持っている。そのボルト前後動も常にソフトでスムーズである。
●5発のロードフレームによる装填は98系のストリップクリップより素早くできる。
●悪評の多いMiegバレルジャケットゆえにスポーツシューターはじゃまなかげろうなしにずっと長時間射撃できる。

 自分の88系の磨耗したバレルを交換したい人のためには、新品のLoth-Walther製尖頭弾口径バレルがある(195ユーロ)。バレルは組み込み後ジャケットの下に位置するので、ブルーイングは重要ではない。交換バレルの場合も通常、サイトの高価なマウントはそのままでよい。フロント、リアサイトともパイプ状のジャケット上にあるからである。

 ハンディキャプがある際(頑住吉注:競技における条件のことだと思いますがよく分かりません)もこの2種のドイツ製リピーターシステム(頑住吉注:98系および88系)はスポーツ的な視点から見て多くを与えない。両方の銃のサイトは400m以後から初めて始まっている。調整はひどく荒い100m段階で行われる。かつて悪名高かった弾薬の後ろに弾薬が押し込まれる現象はシューティングレンジの状況下では起こらなかった。さらに言えばこの現象は98系でも、使用者が閉鎖機構をゆっくり前進させすぎ、弾薬がエキストラクターの前に飛び出したときには起こり得る。

 結論としてまだ述べることがある。皇帝ウィルヘルム2世がゲベール88を1888年11月20日に配備したとき、これは急ぎすぎであった。この時究極的に適合した弾薬がなく、まだ技術的な不備があった。ここから政治的賭博師が事件を導き出した。その結果によってこのリピーターは、多くの欠点が取り除かれた時にもなお苦しんだ。コレクターはこの中に、銃の歴史的ムードを見る。そしてスポーツシューターは不安に思う必要はない。88系ライフルは評判よりいい銃である。

シューティングレンジでの射撃テスト結果

弾薬 グルーピング(mm) 銃A/B/C
(1)Privi 200grs VSM BT 8x57IS 108/75/185
(2)1995年製ππy 200grs VMS 8x57IS 60/48/172
(3)ISL 200grs VMS BT 8x57IS -/128**/-
(4)Igman 150grs TMS 155/-/-
(5)Igman 170grs TMS 172/-/-
(6)Speer製.323-170 TMS 44.5grs N135、
ππyボクサーケース、WLRプライマー
73/85/143
(7)ホーナディ製.323-150 TMS、55.5grs N140、
以下同前
73/48/149
(8)ホーナディ製.323-150 TMS、26.7grs N110、
以下同前
53/98/-
(9)Lyman 323471、鋳造鉛/GC、18.0grs N110 85*/98*/125*
(10)Lyman 323470、165grs圧造鉛(.3236=8.22mm)、
18.0grs N110
109*/92*/143*
(11)23grs N110、以下同前 135*/-/-
(12)Lee C324-175、175grsGC入り圧造鉛(.3236=8.22mm)、
18grs N110
80*/91*/-
(13)23grs N110、以下同前 230*/-/-
(14)200grs鋳造鉛/GC、ソフト金型(.3236=8.22mm)、18grs N110 92*/89*/137*

表の注釈
全般シューティングレンジでの距離は100m。テスト者はシッティング、依託射撃を行った。特に表記がない場合5発のグルーピングを示した。*でマーキングした数値は10発のグルーピングを表し、**でマーキングした数値は20発のグルーピングである。射撃回数にかかわらず、各グルーピングの結果は命中弾の中心から中心で計測した。全てのロードに関するデータは保障なし!
テスト銃に関して●ゲベールA=尖頭弾用フリーボア円錐を持つオリジナルラウンドノーズ弾用バレル。ライフリング山部径7.88、谷部径8.11mm(.319)。ライフリングの深さは0.115mm。フリーボア円錐は径8.24mmから8.20mm(=尖頭弾の径)。長さ7.5mm。バレル内は軽くつや消し状だが、錆びの跡はない。ライフリングははシャープである。マズルは2mmにわたって0.01mm広げられている。総合的に良好なコンディション。
●ゲベールB=トルコ製交換バレル。基部から20cmにわたってオリジナルよりもいくらか太い。尖頭弾用フリーボア円錐を持つ尖頭弾用バレル。ライフリング山部径7.92mm、谷部径8.23mm(.324)。ライフリングの深さは0.155mm。フリーボア円錐は径8.28mmから8.20mm。長さ約5.5mm。光沢のあるバレル内はライフリングもシャープである。マズルは完璧。同様に良好なコンディション。
●ゲベールC=尖頭弾用フリーボア円錐を持つオリジナルラウンドノーズ弾用バレル。ライフリング山部径7.95mm、谷部径8.16mm(.321)。ライフリングの深さは0.105mm。フリーボア円錐は径8.28mmから8.20mm。長さ約7mm。軽くつや消し状のバレル内はいくらかの小さな錆を示し、明らかに使用済みあるいは事後研磨された印象である。マズルは広げられ、基部長さ2mmのライフリングは山部径8.02mm、谷部径8.20mm。劣ったコンディション。
個々の弾薬について:(1)銃Bのバレルが最も良い結果。12発のグルーピングは125mm。銃Cのバレルは188mm。この弾薬は最近生産されたもので、ベルダン式でなくボクサー式プライマーを持つ。継ぎ目部の塗装はグリーン。(2)は1995年製造。ベルダンケース、青紫の継ぎ目部塗装。優秀な弾薬だがもはや入手できない。(3)はボクサーケース。非常にハードなロードがなされたサープラス弾薬。時々まだドイツ東部の取り扱い商が提供している。(4)および(5)はフルロードされたハンティング用弾薬。オリジナルバレルAから撃った命中精度はさほど良くないが、問題なく連発できた。薬莢には過加圧の兆候は見られなかった。(6)は.323-175Sierra弾のクイックロードデータが796m/sで2800バール。Speer弾はバレルAから発射した場合128mmの10発グルーピングをもたらした。略号「WLR」はウィンチェスターロングライフルタイプのプライマーを表している。(7)は経験上テストされた8x57IS仕様のライフルでトップの弾薬である。注意せよ。クイックロードプログラムによれば876m/sで2958バールである。バレルAから発射した場合10発グルーピングは102mm、バレルBからだと74mm。(9)〜(14)。略号「CG」はガスチェックを表す。全ての鉛弾を使った弾薬はソフトな首部を持つ薬莢を得ていた(ニューマテリアルあるいは古いものをソフトに焼きなましたもの)。そして全て首部がクランプされていた。こうして薬莢は密閉されていた。さもないと簡単にガスが漏れ、いくらか悪い結果が出る。重要:薬莢の口はセット前、軽くカップ状にし、弾丸をいっぱいに深くセットする。こうすれば閉鎖時チャンバーを「かむ」ことがない。つまりライフリング内に入る。弾薬全長はそれぞれのフリーボア円錐に応じて決める。(11)および(13)は固すぎた! (14)は深いセットのためには非常に長い誘導円筒を要求する。この弾薬の結果には弾丸油脂が関係してくる可能性がある。しかしこの弾薬は経験上この口径のほとんど全てのテスト銃で命中精度良く射撃できる。

祖国を遠く離れたG88(頑住吉注:囲み記事)
 (頑住吉注:第一次大戦)終戦時、ドイツ国内にはもはやゲベール88はないも同然だった。わずかに残った銃は溶鉱炉に放り込まれたが、残る銃の大部分は援助供給品として外国にあった。最も有名な引き受け手はトルコだった。トルコは1915年以後少なくとも142,000挺のモデル88/05および88/14ライフルを手にした。中古銃として、これらはドイツの部隊刻印を持つ。トルコ人たちは8x57IS弾薬(頑住吉注:98系用の最終的に改良された弾薬)を発射した。このライフルは第一次大戦後もまだ長期間現役で、しばしば手が加えられ、修理がなされた。こうしてカラビナーの長さに短縮されたライフル、あるいは部品の寄せ集めで作った、レシーバー上に「Gew.88」の刻印を持つカラビナーが生まれた。戦争の終わり頃、もはや必要とされなくなったゲベール88は、その経済的状況がドイツよりはっきりと悪かったあらゆる同盟国に送られもした。1918年初め、70,332挺のゲベールM88/05と、48,430挺のタイプ88/14がドイツの兵器庫に収められていた。このうち大部分はトルコが手にした。トルコに投入されたドイツ製のこの銃は、たいていボルトハンドル、ガスシールド、および他の位置にある半月状の刻印で見分けることができる。サイトの目盛りには古いトルコの数字が刻印されたものが多い。だが1928年以後、ムスタファ ケマル アタチュルク(頑住吉注:トルコ革命の指導者でトルコ共和国の初代大統領)によって命令された「ヨーロッパ化」に際して、古いトルコの文字と数字は禁止され、ラテン文字および西ヨーロッパで普通な数字に換えられた。

 さらに、ほとんど似ていると言っていいくらい多くのゲベールがブルガリアに渡った。すなわちモデル88/05と88/14(つまりストリップクリップ用に調整された銃)230,000挺である。ブルガリア人たちも8x57IS弾薬を射撃した。オーストリアはすでに1914年8月10日(頑住吉注:開戦から2週間も経っていません)に援助を要求していた(頑住吉注:元の単語には「不当にも要求する」といったニュアンスもあるようです)。1915年および16年、ドイツは72,600挺のゲベール88を送り、さらに多数が続いた。すなわち、充分な補充銃器を倉庫に持ち得るように、オーストリア・ハンガリー帝国陸軍指導部は毎月2500挺のゲベールとバヨネットをドイツから送らせたのである。しかし正確な総数は知られていない。ゲベール88はオーストリア・ハンガリー帝国において8mm M.13リピーターライフルの名称を得、ストリップクリップ装填用には変更されなかった。その代わり彼らは元々のロードフレームを使用した。これは兵士たちがマンリッヒャーM95で慣れていたのと同様の方法だった。彼らはラウンドノーズ弾を持つ弾薬88(メートル法で言えば8x57I)を射撃した。このライフルが尖頭弾薬用に改造されていたにもかかわらずである。バヨネットとしてはドイツ製の猟刀M/65/71(ノーマルバヨネットM13)およびゲベール71用の工兵粗朶束ナイフM/65が役立った。ゲベール88はたいてい高齢者からなる国民軍バタリオン、海軍、チロルおよびフォーアルルベルグ駐留兵に渡された。

 1914年頃、ハンブルグの大手取り扱い商Benny Spiroによって、外国でも多くの88系が販売された。彼は9100挺のロードフレーム仕様ゲベール88および2百万発の弾薬88をアイルランドの親英Ulster義勇軍に販売した。この銃はストックに「For God and Ulster」の刻印を持ち、1914年以後イギリスの訓練部隊にその道を見出した。これは初めての外国向け販売ではなかった。すなわち、すでに1894/95年の日清戦争(頑住吉注:日露戦争もそうですが、ドイツ語では勝った日本が後になっています)においてゲベール88が清国に販売されていた。1907年にもさらに販売された。ハンブルグのAdolf Frank(ブランド名ALFA)などの大手取り扱い商は、小さな陸軍を完全にこの銃と弾薬で武装させることができた(頑住吉注:ちょっと首を傾げましたが、そのくらい多数のこの銃を持っていた、ということです)。1911年のALFAのカタログには40,000挺のゲベール88と5,000挺のカラビナー88の在庫があることが記載されている。

LoeweとDWM(頑住吉注:囲み記事)
 Ludwig Loewe(1837〜86)が1858年にベルリンで独立したとき、彼はドイツ軍需産業中最も強力なコンツェルンの建設を始めた。まず最初彼はウール製品を扱った。1869年、この株式会社はミシン製造を始めた。後に彼は機械製造を開始した。1870年頃、彼は彼の下で働くナンバーワンエンジニアであるEduard Barthelmesに、軍用ライフル製造に参入するというアイデアをもたらした。Loeweは機械製造でも急速な発展を遂げていた。最終的に彼は政界に打って出た。すなわち、彼は1877年、プロシア議会議事堂に、1年後にはドイツ帝国議会に足を踏み入れた。だが、Loewe社を一流のドイツ銃器メーカーにしたのはLudwigの弟であるIsidor(1848〜1910)だった。1896年、彼は全部で8つの会社から(その中にはモーゼルも)兵器コンツェルン「ドイツ銃器および弾薬工場」(DWM)を設立した。同社はベルサイユ条約体制下の1922年に「ベルリン・カールスルーエ産業工場株式会社」と改名し、6年後Quandtグループに吸収合併された。


 「フランスの銃にろくなものはない」みたいなことを書いたことがありますが、特別なロッキングラグやリセスを持たずチャンバーがエジェクションポートにはまりこんでロックを行う、現在主流の改良ブローニング式ショートリコイルを初めて採用したのはフランスのM1935Sピストルでした。また、世界で最初に無煙火薬仕様の弾薬を使用する歩兵用ライフルを配備したのもフランスでした。無煙火薬は黒色火薬よりもパワーがあり、これによって加速された8mmライフル弾はそれまで世界的に使用され、またドイツも使用していた口径11〜12mmの黒色火薬仕様のライフル弾よりずっと長い射程を持っていました。隣国が自分たちのそれよりずっと強力な歩兵銃を配備したことを知ったプロシアは大急ぎでこれに対抗するライフルを開発しました。それがG88であり、口径もほぼ同じとされました。何故この時モーゼルにモーゼル式ボルトアクションライフルの無煙火薬仕様への改良を命じず、ライフルテスト委員会の独自開発となったのかはよく分かりません。多人数の分業で設計を進めたほうが早く完成すると思ったんでしょうか。結果的に完成した銃は明らかにモーゼルのデザインセンスとは異なる、どちらかと言えばオーストリア風のライフルとなりました。

 この銃は基本的に98系と同じ口径であり、日本では「7.92mm」とされるのが一般的ですが、ドイツでは8mmとされる方が多く、弾丸の径は8mm以上あるわけですから別にはしょった不正確な表示とは言えません。この銃用のラウンドノーズ弾には改良が重ねられ、98系用の「8x57IS」に発展します。

 さまざまな銃の良いと思われる部分を寄せ集めて作ったこの銃は、決して根本的にダメな構造ではなかったのですが、開発と配備を急ぎすぎたため、細部の詰めが甘いまま兵の手に渡ってしまいました。この時の悪評はいまだに尾を引いています。M16系も一歩間違えれば欠陥銃の烙印を押されたままになった可能性もあり、人間にも運不運があるように、銃にも運不運があるんだなあ、という感じです。しかし、現代の銃器愛好家の視点から「急ぎすぎであった」と結論するのはどんなものでしょうか。機関銃、支援火砲、装甲車輌、航空機といったものが未発達または存在していなかった当時、歩兵用ライフルの射程の優劣は現在とは比較にならない戦略的重要性を持っていたはずです。十数年前の普仏戦争などに見られるように歴史的に仲の悪い隣国フランスがはるかに射程の長いライフルを装備した時、プロシア政府や軍としてはこの差が詰められる前にフランスが「仕掛けてくる」(何も全面戦争でなくとも小規模な衝突を起こして軍事的優位を見せつけた上で領土上の要求をつきつけてくるなど)可能性も考えなければならなかったはずで、拙速策が取られたことは一概に責められない気がします。

 さて、この銃にはユダヤ人をめぐる微妙な問題が付随しています。ユダヤ人の国際的秘密結社が世界征服の陰謀を‥‥というような話は確かに馬鹿げているでしょうが、ユダヤ人がトップの企業が作った銃に問題があったのは確かのようです。品質の低い銃を作り、担当者に贈賄してでも検査をパスさせた方が儲かる、という商売の仕方と、トップがユダヤ人だったことは全く無関係だったのか、これは私には何とも言えません。

 この銃の画像はあまり見つかりませんが、こんなページがありました。

http://www.rememuseum.org.uk/arms/rifles/armgm88.htm

 






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