ソ連の「志願隊」抗日戦時の中国軍を助ける その2

http://military.china.com/history4/62/20150413/19515825_2.html

(頑住吉注:これより3ページ目)

中ソ空軍はさらに何度も敵後方に深く入り、日本軍飛行場など主要な軍事目標に対し空襲、爆撃を行った。統計によれば、1938年1月から6月、日本軍飛行場を累計20回以上爆撃し、日本機を破壊損傷すること百機あまりだった。このうち最大の回はソ連爆撃機隊の台湾遠征だった。

ソ連空軍総顧問レイチャゲフは情報を獲得し、台北の松山空軍基地で多くの新式飛行機の部品が組立中であるということで、彼は奇襲を発動することを決定した。この配備に参加したボレーニンの記録は、「あらゆる飛行員に働き蜂のような習慣があり、、起床が非常に早かった。再度飛行機を検査し、給油量を検査し、爆弾を搭載し、航路と目標を確定する必要があった。レイチャゲフはここでやっと発進を許した。特別に強調して指摘する必要があるのは、航路は厳密に秘密保持され、中国の勤務人員は誰も知らなかったことだ。払暁に我々はもう台湾海峡の浪がきらめく上空に到達した。我々には酸素設備がなく、呼吸困難を感じたが、高度を下げることはできなかった。高度を失うことは距離を失うことと等しかったのだ。」

レイチャゲフは兵を二手に分け、1つは南昌に駐屯する12機のCB爆撃機で、これは中ソ混合編隊だった。もう1つは漢口に駐屯する28機のCB爆撃機で、全て志願飛行員によって組成された。1938年2月23日早朝、両隊の飛行機はそれぞれ駐屯地から飛び立ち、最短の直線航行ライン沿いに5,500mの深刻に酸素が欠乏する高空を飛行した(当時機上には酸素設備はなかった)。機群は台北上空に到達した後、日本軍を惑わすために「声東撃西」(頑住吉注:兵法三十六計の1つで東と見せかけ実際には西を撃つ陽動作戦)を使い、まず継続して北に向かって飛行し、その後突然方向転換し、松山飛行場上空に戻ってきて全部で280発を投弾し、大部分が正確に目標に命中して約40機の敵機を破壊した。機群は全部の爆弾を投下した後、安全に武漢に帰投した。

この時の台北奇襲で、中ソ実戦機は全部で日本機40機余り、兵営10、機格納庫3を破壊し、撃沈損傷させた船舶は多く、かつ多くの日本軍を死傷させ、日本軍の台北における機格納庫、港湾施設が深刻に破壊され、松山飛行場は完全に麻痺状態に置かれ、3年の燃料備蓄を損失した。日本は台湾行政長官を更迭し、軍事基地主任は軍法会議に送られ、飛行場警備司令は割腹自殺した。航空委員会事務局長の宋美齢はわざわざ宴席を設けてソ連空軍の台湾に出撃しての勝利を祝った。

松山飛行場襲撃から3ヶ月後、ソ連空軍志願隊はまたより大胆な行動を開始した。ソ連爆撃機群が南京飛行場から飛び立ち、日本の九州上空に飛び、佐世保、長崎、福岡に対し投弾、爆撃を行い、同時に百万枚以上の平和反戦ビラを投下したのである。

ソ連志願隊は何度も日本軍に侵略占領された南京、武漢、広州、南寧、岳陽、運城などの地の飛行場、艦船、集結した軍隊を襲撃し、日本空軍、海軍、地上軍を深刻に打撃した。ソ連志願隊の参戦は、日本空軍が中国の制空権を独占する局面を打破した。

空襲、空戦以外に、ソ連空軍志願隊はさらに訓練を受け終わった中国の飛行員と共に陸軍作戦と協同した。中ソ空軍は相次いで徐州会戦、武漢会戦、南昌反攻戦役、第一次長沙会戦、桂南会戦、棗宜会戦などの会戦の中で進んで出撃し、日本軍の飛行場、陣地、艦船などを爆撃し、敵に重大な損失をもたらした。1938年6〜10月の武漢会戦中だけで、中ソ空軍は陸軍と協同し、日本軍艦を損傷させること67隻、爆沈させること23隻、日本機を破壊すること16機、日本機を撃墜すること62機、損傷を与えること9機だった。

ソ連志願飛行隊は「フライングタイガース」に比べ戦績はより多く、犠牲はより多かった

もし単純に敵を殲滅した数と犠牲になった人数だけを対比するならば、ソ連志願飛行隊はアメリカのフライングタイガースに比べ抗日への貢献がより大きい。ソ連志願飛行隊は中国で200人余りが犠牲となり、敵機を破壊すること539機だった。

1、ソ連飛行員は中国に4年いて、破壊した日本機は539機、犠牲となったのは200人余りだった

1937年10月に中国に来てから1941年末にソ連空軍志願隊が全部移動命令を受けて帰国するまで、前後全部で4年2ヶ月の時間だった。ソ連は空軍志願隊の名目をもって、全部で3,665人を派遣して中国の抗日戦に参加させた。これには1,091名の飛行員が含まれ、この他さらに2,000名余りの機械技師、技術者など各種航空補助人員がいた。国民政府方面の統計では、ソ連志願飛行隊のこの期間における戦績は次の通りだった。1937年12月、撃墜91機、破壊43機、1938年、撃墜130機、破壊136機、1939年、撃墜33機、破壊71機、1940年、撃墜16機、破壊14機、1941年、撃墜5機、合計539機。もしさらにソ連が援助した高射砲、高射機関銃、中国の飛行員が撃墜した敵機を加えるならば、この数字は即1,049機に到達する。

(頑住吉注:これより4ページ目)

相前後して2,000名余りのソ連航空業務人員が中国飛行員の訓練を助け、日本軍を打撃し、このうち200名余りのソ連飛行員が犠牲となった。ある中国に来た空軍編隊は当初60名のメンバーがいたが、帰国時になると16人しか残っていなかった。ソ連の中国を援助した飛行隊からは後にソ連英雄14名、空軍中将5名、空軍上将2名、空軍元帥1名、空軍副司令員2名、空軍司令1名が出た。

中国で犠牲となったソ連飛行員の中では、飛行大隊長クリシェンコが最も有名である。クリシェンコは1939年6月に遠距離爆撃機隊を率いて中国に到着し、中国を助けて多くの優秀な飛行員を養成した。第3回目に漢口の日本軍事基地を空襲した戦闘の中で、クリシェンコは大隊を率いて136機の敵機を破壊した。

かつて川陜鄂綏靖公署上佐参謀の任にあった陳嘉章は、クリシェンコとつきあいがあり、彼は次のように回想する。1939年10月14日午後、「クリシェンコ大隊長が隊を率いて武漢上空でドイツのファシストが日本に提供した『メッサーシュミット』戦闘機と生死を賭けた戦いをした。クリシェンコ大隊長の射手は、今回の戦闘の中で敵機6機を撃墜したと語った。戦闘が開始されるやすぐに、3機のメッサーシュミット式敵機がクリシェンコの先導機にまっしぐらに向かってきて、射手は猛然と襲い掛かる敵機に照準を定め発砲し、すぐに黒煙が立ち上った。敵機は旋回して去った。だがクリシェンコの操縦する先導機の左エンジンが別の1機の敵機によって命中弾を受けた。クリシェンコは片発のエンジンを用いて厳重な包囲から飛び出し、揚子江沿いに四川の万県上空まで飛んだが、機体がバランスを失い、もはや前進を継続できなくなった。飛行機の完備を保持し損失を受けないため、クリシェンコは片発の飛行機のバランスをとって揚子江の真ん中に降着させた。爆撃員と射手は飛行服を脱ぎ、水に飛び込んで岸まで泳いだが、3ヶ月来中国人民の抗日事業のために昼夜働きづめで、また空戦の中で疲労していたクリシェンコ大隊長には、もはや北岸まで泳ぐ力はなかった。揚子江の荒波はこの中国人民の戦友を飲みこんだ。」

2、フライングタイガースは中国で作戦することたった7ヶ月で、日本機298機を撃墜し、犠牲となった隊員は24名だった

某種の程度上、ソ連空軍の中国支援志願隊の戦績は我々が熟知するアメリカの「フライングタイガース」を超えている。いわゆる「フライングタイガース」、すなわち「中国空軍米国志願大隊」は1941年8月に成立し、これ以後何ヶ月か厳格な訓練を経て、同年12月20日になって初めて対日作戦に参加した。1942年7月4日、フライングタイガースは解散を宣言した。

日本サイドの資料統計によれば、フライングタイガースが日本機を破壊すること115機を超え、これには地上で破壊した敵機が含まれる。別のある資料は、フライングタイガースは相次いで中国とビルマの戦場で日本機298機を撃墜し、日本軍約1,500人を殺したことをはっきり示している。フライングタイガース隊員の中で、21名の飛行員が戦死し、捕虜となり、行方不明となり、別に3名が訓練過程で死亡した。

中国の戦場で対日作戦に参加した時期が異なるため、ソ連志願隊とアメリカのフライングタイガースが直面した敵も必ずしも同じではなく、後者が敵対した日本陸軍航空隊の実戦機はより先進的だった。もし単に敵を殲滅した数と犠牲となった人数の上でのみ比較したならば、ソ連志願隊は確実にフライングタイガースをはるかに超えている。また、フライングタイガースが中国に来た時期、大量の軍事援助も持ってこなかったし、中国飛行員の養成訓練にも参加しなかった。


 たぶんこうした実戦経験を積んだパイロットは独ソ戦でも活躍したんでしょう。本筋と関係ありませんけどメッサーシュミット戦闘機が中国で実戦に使用されたという事実はないはずで、また1939年時点では外形が似た「飛燕」もまだなく、どういう間違いでしょうか。太平洋戦争の初頭にも「メッサーシュミット戦闘機が日本の戦闘機を率いているのを見た」と言い張ったアメリカ人はいたらしいですが。












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