中国人から見た九六式軽機関銃

 「中国人から見た」旧日本軍兵器シリーズの3回目です。

日本九六年式6.5mm軽机槍


「拐把子」を詳しく語る 日本の九六年式6.5mm軽機関銃(頑住吉注:「歪把子」の発音は「グァイバーズ」といった感じです。「曲がった取っ手」といった意味だと思います)

同じ流れを汲むもの

日本の九六年式6.5mm軽機関銃は日本が昭和十一年、すなわち1936年に研究開発した軽機関銃で、この年が日本の皇紀2596年だったため、この機関銃の年式が「九六式」と定められた。九六式軽機関銃はガスオペレーション式作動原理を採用しており、「歪把子」の跡を継いで日本の侵略者が装備した新世代制式軽機関銃である。この機関銃が登場した時期から、この機関銃を研究開発したのは日本の軍国主義が中国に対する侵略戦争を強化拡大する準備の1つの具体的措置であったことが見て取れる(頑住吉注:まあ当時の日本陸軍が最も意識していた敵はソ連陸軍なんですがね)。中国では九六年式6.5mm軽機関銃の知名度は、その兄である「歪把子」のように誰でも知っており、耳慣れているので詳しく説明できる、というものではなかった。しかし、この銃が日本侵略者の手中で中国人民ないしアジア太平洋地域の人民に対して犯した大罪は、「歪把子」と比べて全く軽くない。当然、連日にわたる抗日戦争の中で、中国抗日軍民もかつて大量の九六年式6.5mm軽機関銃を鹵獲し、その数量は鹵獲された「歪把子」の数量より少ないということはなく、しかも「歪把子」よりも多く、より広く使われた。

中国抗日武装戦力の中で、この機関銃は「拐把子」と呼ばれた。ただしこの俗称は広く使われなかったし、増して正式な呼び名ではなかった。九六年式6.5mm軽機関銃はなぜ「拐把子」の名を得たのか? その主要な原因を究明していくと、たぶん一見してその外観造形に「歪把子」と似ている所がはなはだ多く、「歪把子」に備わった日本的「風格」はこの銃でも減ることはないし増えさえしており、特にそのキャリングハンドル、グリップ、ストックの造形が明らかにことのほかひねくれたものだからだろう。さらに言えば、「歪把子」と区別するために「拐把子」の名を冠したのはぴったりだと言える。それなら何故「拐把子」の名は「歪把子」ほど「誰でも知っており、耳慣れているので詳しく説明できる」ものになっていないのだろうか。原因はおそらく3つある。1つには、両者は外観上とても似ており、一般民衆はあまり区別できなかったこと。2つ目に抗日戦争の時期、日本軍の中でも我が抗日武装戦力の中でも、「拐把子」と「歪把子」は長期間混用される状況にあった。解放戦争の時期でも、わが軍の部隊、特に地方部隊では「拐把子」と「歪把子」が混用される状況は普通であり、当然これは2つの型の機関銃が同一種類の弾薬を使用することと直接関係していた。3つ目、中国人民にとって「歪把子」はすでに日本鬼子の機関銃の代名詞になっており、ある程度においてすでに日本鬼子の別称にさえなっていた。当然「拐把子」も「歪把子」も両方、中国抗日軍民の日本鬼子に対する深い恨み、軽蔑、あざけりに満たされていた。「先入観にとらわれる」、「習わしとして次第に定まり一般化する」という慣性作用も排除できない。というわけで、以下の文中で我々が「九六年式6.5mm軽機関銃」を「拐把子」によって代替することは妨げられない。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「チェコのZB-26式軽機関銃」 続いて2枚目。「スコープとマガジンを装備した日本の九六年式6.5mm軽機関銃」 これより2ページ目に入ります)

長所を取り入れ短所を補う

1922年、すなわち日本の大正十一年、日本軍は十一年式6.5mm軽機関銃の装備を開始した。これこそが我々の非常に熟知している「歪把子」である。日本軍は「歪把子」を「宝物」として見たが、一定期間の使用を経ると、特に「九一八事変」(頑住吉注:「満州事変」)後では、「歪把子」は相当多くの問題を暴露した。史料の記載によれば、日本は当時、以前に中国から獲得した「チェコ式」(すなわちZB-26)軽機関銃と「歪把子」を対比して、自分たちの銃が劣っていることを深く自覚した。中心部の中国軍を相手にした作戦では、歩兵部隊が極めて広く使用する軽機関銃として、「歪把子」のダメさは明らかに作戦上の需要に適合できなかったし、日本軍国主義の悪性膨張を示す拡張に向けた野心にはさらに適合できなかった。そこで日本軍、特に陸軍では新型軽機関銃研究開発を求める声が日増しに高まり、その歩調も日に日に密になっていった。これは日本軍の末端の部隊の中で日本の国産装備が良くないという状況を口にすることを絶対に許さなかったことと、鮮明なコントラストを成していた。日本軍国主義はこのように、一方であからさまに部隊内で「愚兵」政策を推し進め、「武士道」精神というカードを切りながら、他方では躍起になって武器装備が部隊で使用される中で暴露した問題を収集し、全力で改良を行っていたのである。「拐把子」は「歪把子」の欠陥を克服して誕生した製品に他ならない。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「「拐把子」のスコープマウントベース、カタツムリ型リアサイト、機関尾部」 続いて2枚目。「ZB-26のカタツムリ型リアサイトおよび開閉式防塵カバー」 続いて3枚目。「「拐把子」のフロントサイト」 続いて4枚目。「キャリングハンドルとして使用状態のZB-26のキャリングハンドル(下にあるのは接近戦での射撃時にフォアグリップとして使用する状態での固定ミゾ) 続いて5枚目。「接近戦での射撃時にフォアグリップとして使用する状態のZB-26のキャリングハンドル」 続いて6枚目。「「拐把子」のキャリングハンドル」 続いて7枚目。「「拐把子」のバヨネットベース」)



「拐把子」には設計および研究開発過程における2つの最も顕著な特徴がある。1つ目は、「歪把子」に存在する問題に対し、極力一つ一つ対応して全面的改良を行っていること。2つ目は、当時の世界の小火器、特に軽機関銃の先端的成果を重視し、極力最大限に「拐把子」に体現しようとしていることである。上述の2点に基づき、大和文化の伝統も備え、またヨーロッパの特徴も備えた軽機関銃、すなわち「拐把子」が作り出された。「拐把子」の遺伝子成分を分析すれば、このような数式を見いだすことができる。

「拐把子」=「歪把子」+「チェコ式」

つまり「拐把子」は実際のところ「歪把子」とチェコのZB-26式軽機関銃が結合して生まれた「混血児」なのである。

以下我々はこの「混血児」に全面的な「身体測定」をしよう。

体形の特徴上、「拐把子」は「歪把子」の粗雑で間の抜けた形状を一新し、スマートにし、贅肉を落とし、チェコのZB-26式軽機関銃のすっきりして美しい体形上の特徴をいくつか持っている。その中で最もはっきりした変化は、バレル上の放熱リブの直径が大幅に削減され、「歪把子」と比べるとずっと細くなり、当然ずっと軽くなっていることに他ならない。

外形特徴上、「拐把子」は日本軍の新世代制式軽機関銃ではあるが、依然として志を変えない誓いを立てたように「歪把子」のような独特で奇妙な特徴を数えきれないほど保ち、このためほとんどいかなる人が「拐把子」を見ても、自然に日本のものだと分かり、他国のものだと思う人は絶対的に少ないはずである。「拐把子」が「歪把子」のストック基部をピストルグリップに変えても、大きな「魚の尾」型ストックをやや小さな「魚の尾」ストックに変えても、さらにキャリングハンドルを加えても、この銃の造形および全体的マッチングから見れば、依然「歪把子」の特徴が見いだせる。このような状態になったのは、当然設計者の特定の文化的素養およびその職業上すでに形成された思考パターンと密接に関係している。この一点に関し、我々は日本の自衛隊で現役の1962年式汎用機関銃からもこの印象を受け得る。この銃は六十年余り前の「拐把子」と比べ、また「歪把子」と比べてさえ似た特徴が非常に多い。日本の伝統的観念の残留の一端を見ることができる!

「拐把子」が構造、性能上重大な改良がなされた所は、まず給弾方式に体現されている。周知のように、「歪把子」機関銃が全身問題点だらけだったのは、ほとんど全て「小銃と同じ給弾具を使用する」という教条的戦術理念が原因だった。「拐把子」は毅然としてチェコのZB-26式軽機関銃のマガジン給弾方式を採用し、「歪把子」が用いていた「漏斗式」装弾器で弾薬クリップによって行う給弾方式を廃止した。ただ、「拐把子」が採用したのは装弾数30発のカーブしたマガジンで、ZB-26の20連マガジンと比べると装弾数の上でやや勝っており、同時にカーブしたマガジンは良好に弾薬のテーパーに適応でき、このため給弾信頼性はZB-26と比べて全く遜色ないし、「歪把子」と比べれば大幅に向上している。マガジン給弾方式をもってクリップ給弾方式に換えたことがもたらした最も明確なメリットは3つの方面に存在する。1つは体積が非常に大きく、構造が複雑な装弾器がなくなり、銃全体の重量が1.1kg軽減されたこと。2つ目は銃全体の構造レイアウトの合理化が有利な条件を創造し、装弾器ゆえにもたらされた構造レイアウトの不合理の改良を可能にさせたこと。3つ目は機関銃の全体的戦闘使用効果に比較的大幅といえる向上がもたらされ、機関銃の戦場における生存能力が明らかに増強したことである。例えば、マガジン交換の方法が簡単で、訓練、習得が容易であり、かつ速度が「歪把子」の装弾器に装弾するのに比べ数倍速くなり、人員が暴露する時間が短縮され、火力が停頓する時間も相対的に短縮された。加えて、もし装弾器が壊れ、あるいは故障したら、機関銃は直ちに小銃にも及ばなくなる可能性があるが、もしマガジン1個が壊れても、他のマガジンと交換すれば再び戦闘力は回復するのである。

(頑住吉注:これより3ページ目)

「拐把子」はマガジン給弾方式を採用したのと同時に、主に「吸収」、「留保」、「増加」という3つの方面により、全体設計上、銃全体の構造レイアウトに考慮がなされている。いわゆる「吸収」とは、「歪把子」の特徴を合理的に残し、特にああしたいわゆる日本軍の伝統的特徴有することを基礎に、選択的にZB-26にある優秀なものを吸収および融合させているということだ。いわゆる「留保」とは、「歪把子」のああした実践を経て証明されたまずいところを取り除くということを基礎に、「留保が必須」なものは残されていることだ。これには節約という目的に基づき、工場における加工、生産の各段階での複数の利用継続できる設備や加工手段の留保、実戦経験に基づく複数の信頼性が高いと考えられる構造の留保、固有の伝統観念や意識形態に基づく複数の戦術技術上すでに落伍ないし陳腐化さえした、ただし日本の軍制文化にはマッチしたものの留保が含まれる。いわゆる「増加」は、「吸収」と「留保」を基礎に、作戦上の需要に基づきいくつかの構造部品を増加し、もって機関銃の作戦機能を拡充したことである。ただ、日本軍、特に日本陸軍では、伝統的戦術思想の残留のせいで、その「増加」された複数の構造や機能は必ずしも新しい、かつ切実に有効なものではなかった。

「拐把子」は選択的にZB-26の部分を吸収した。マガジン給弾の採用以外に、バレルの放熱リブの直径を「歪把子」の45mmから30mmまで縮小し、またピストルグリップを追加し、ストックユニットを改良したが、さらにZB-26の照準具の構造およびレイアウトを採用した。マガジンを上に置く給弾方案を採用したのでマガジンはレシーバーの真上に固定され、故に照準具はZB-26同様銃の左側に設置された。このことは「拐把子」を照準具の人間工学性を「歪把子」の右に置かれた照準具の人間工学性に比べ、大々的に向上させた。同時に、ZB-26の「カタツムリ型」に似た調節式リアサイトを採用し、その射撃距離は2〜16に分かれ、200〜1600mを表していた。ただ、「拐把子」のリアサイトはZB-26のノッチ式を採用せず、ピープ式リアサイトを採用していた。これはたぶん当時のイギリス、フランス、イタリア等の国は習慣的にピープ式リアサイトを採用し、これに比べドイツ、チェコ、ロシア等の国は習慣的にノッチ式リアサイトを採用することをより好んだためと考えられる(頑住吉注:ドイツの影響ということでしょうか。それともZB-26の影響ということでしょうか)。日本が遅い時期に生産した「三八式」小銃や、後に生産された「九九式」小銃等はいずれもピープ式リアサイトを採用していた。「拐把子」のフロントサイトにはZB-26の左右に調節できる構造が採用されている。この他、「拐把子」はキャリングハンドル構造を採用していた。ただこのキャリングハンドルには2つの特徴がある。1つ目はキャリングハンドルが前向きに曲がっていること(頑住吉注:ここでの「曲がる」にはあだ名の「拐」という語が使われています)。一方ZB-26のキャリングハンドルは後ろ向きに曲がっている。両者はキャリングハンドルの人間工学性の上で差異が比較的大きい。まず、前者のキャリングハンドルは行進、特に登り坂の行進時、キャリングハンドルを常に強く握っていなければならず、手が疲労しやすい。加えて銃の重心が通常キャリングハンドルのやや後ろに偏っており、銃を下げた時銃が常に前が高く後ろが低い傾斜状態になり、手が緩むおそれがややあり、銃を落とすかもしれない。ZB-26のキャリングハンドルは行進時、常に強く握っている必要はなく、ある時にはちょっと手を緩めても問題ない。この時キャリングハンドルは掌の上で吊り下げられているので、手が疲れて緩んでも銃が手から脱落するには至らないからである。第2に、「拐把子」のキャリングハンドルはアリミゾを使ってバレル後部上面に固定して装備され、両側に倒すことはできず、キャリングハンドルの機能しかない。一方ZB-26のキャリングハンドルは銃を下げる以外に、キャリングハンドルを銃の左に回し、グリップの柄の前端部(頑住吉注:後端部でしょう)の斜面をレシーバー左面のミゾ内に入れて固定することができ、したがって銃を体の前で構えて射撃するフォアグリップを構成する。この時射手の左手は灼熱のバレルで火傷することを避けることができる。「拐把子」のキャリングハンドルの設計は良好にZB-26のメリットを「吸収」してはいないのである。「拐把子」の発射機構はZB-26のセミオート可能な発射機構を「吸収」していない。この点は間違いなく人をして意外に思わせる。なぜなら日本軍は一貫して弾薬に非常にケチだからである。ただしこの点について多くを論評する必要はない。読者がこの文を読み終わればある程度分かることである(頑住吉注:さっぱり分かりませんでしたが)。

「拐把子」の「留保」に関する全体的評価は次のようなものである。「歪把子」の装弾器をなくしたことは除き、「拐把子」は「歪把子」の基本的な外観上の特徴、および機構が複雑である特徴を留保している。もし「拐把子」のこの種の「留保」が制式を統一し、武器に明確な日本軍の特徴を付与するためだというのならば、あるいは「歪把子」の固定観念が根強かったからだというならば理解できる。それで構造が尋常でなくシンプルで、信頼性が非常に高いZB-26という優秀なお手本を見てなお見ず、相当複雑な機構に固執し、例えば構造が相当に複雑で、相当に小刻みなガス調節器という部品、さらに「歪把子」から踏襲した脚の長いバイポッドは火線の高さが依然350mm前後あるのか。ただ「拐把子」のバイポッドの接地板はZB-26のバイポッドのそれのように改められ、基部にはスプリングによるロックが追加されて、開いて銃を構える時、もはや「歪把子」のような「カランカラン」の転倒は起きなかった。

「拐把子」の「増加」について再び触れる。新しい機関銃を作らねばならない以上、当然いくつかの新しい戦術技術思想と要求が必要となる。これにしたがって添加してゆき、新世代機関銃の作戦指数が一部向上するのである。「拐把子」が増加させた主要な部品には3つがある。

1つは銃前部のガス導入リング下方にバヨネットベースが追加されたことだ。さらにガスレギュレーター頭部を小銃のマズルと同じ円柱形にし、これにより当時の全ての日本の小銃のバヨネットの柄の接合部と適合できるようにした。つまり当時のいかなる日本の小銃のバヨネットも「拐把子」に使用できる。しかし、「拐把子」に小銃のバヨネットを装着すると、バヨネットベースがマズルより200mm余りも後ろに置かれているため、全長500mmの小銃用バヨネットの、マズルより前に露出する刃部は残りたった200mm前後である。この「増加」から、日本軍が当時の武器に対し提出したいわゆる戦術技術思想、要求ないしその全体的軍事思想は、実際には日本軍国主義が急ぎ中国全体、さらにはアジア太平洋地区を侵略占領する野心にすでにあふれていたことが見て取れる(頑住吉注:何故です? ロシア人やアメリカ人に比べ、中国人やアジア太平洋地域の人の方がバヨネットで刺されることに弱いとでも?)。もし単純に銃器技術、戦術性能、作戦使用という角度から「拐把子」に装着されたバヨネットという問題を評価分析すれば、全くの蛇足に他ならない! 身長1.60m前後の青年男性が、マガジンなしの空虚重量8.85kgに達する(バヨネットを装着すれば9.35kgに達する)を体の前で持ち、そこにバヨネットを装着すれば、おそらく日本軍内のああした下級将校ですらあざけるだろう。なぜなら日本軍の刺殺教範の要領によれば、バヨネットを装着した機関銃を体の前で構えるのは客観的に言って合格点に達するのが極めて困難だからである。これは「拐把子」の作戦機能を拡充するというよりも、急ぎ侵略占領するという欲求を満足させるためと言った方がよい。「拐把子」登場以後、日本軍の重点部隊に先に装備し一般部隊には後で装備する、野戦部隊に先に装備し守備部隊には後で装備するという一貫したやり方に従い、まずは我が国東北を侵略占領した関東軍および当時ちょうど中国の華東、華中、華南および東南アジア地区で作戦を行っていた日本軍に装備され、一方当時中国華北の広大な地区を侵略占領していた日本軍は、大部分が1945年の敗戦までずっと、「歪把子」を使用し続けていた。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「「拐把子」のセーフティ(「火」の位置、すなわち射撃位置にセットされている)」 続いて2枚目。「ZB-26のセーフティ/セレクター。「0」のセーフティ状態の位置にセットされている。左の「20」の位置がフルオート、右の「1」の位置がセミオート」 続いて3枚目。「「拐把子」のマガジン挿入口の防塵カバーとエジェクターレバーの防塵蓋を閉じた状態」 続いて4枚目。「「拐把子」のエジェクターレバーの防塵蓋を開いた状態」 続いて5枚目。「「拐把子」のエジェクションポート、マガジン挿入口の防塵カバーを共に開いた状態」 続いて6枚目。「ZB-26のマガジン挿入口と開かれた防塵カバー」 続いて7枚目。「「拐把子」のマガジン挿入口の防塵カバー外観(ZB-26の防塵カバーとの差異に注意)」)

2つ目はレシーバー後端、リアサイト右側にスコープマウントベースが追加され、昼間スコープが装備でき、もって射撃精度が向上した。「拐把子」にスコープを追加装備したことから、日本軍国主義の新技術の武器装備への応用が果てしないほど極端だったことが見て取れる。日本は軽機関銃上でスコープを使用した初めての者ではないが、比較的早く行った者であると言うべきである。もっとも軽機関銃にスコープを使用する効果はいかにと問わなければの話であるが。実際上、日本の当時の軽機関銃にスコープを使用することに対する認識は、上っ面だけ分かっていて本質が分かっていない初級段階であり、つまりまだ銃器にスコープを使用すれば射撃精度を高められるという一面のみ認識していただけで、軽機関銃という第一線の分隊、班の自動火器にスコープを使用することの各方面の問題は、もたらされるかもしれないマイナスの影響を含め、まだはっきりしていなかった。以下いくつかの問題の評価分析から、一つ二つおおざっぱな論証ができるだろう。まず、軽機関銃の作戦上の使命から見て、軽機関銃は第一線の分隊、班の主要な自動火器として、小銃手と共にあらゆる引き受けることが必須の戦闘任務を経験し、歩兵分隊、班の作戦正面の幅は数十mに過ぎず、作戦縦深も数百mに過ぎないが、人と人との接近戦では各種の状況が出現する可能性がある。第一線の分隊、班に機関銃を配備しなければならないのは、主にその比較的高い発射率によって比較的高い火力密度を獲得し、分隊、班の作戦範囲内で敵を制圧および殺傷するためである。作戦に通じている指揮員は、たとえ単なる分隊長、班長でも、その戦闘中の根本的任務の一つは、編成内の武器装備を合理的に組織、運用し、そうしてできるだけ大きな作戦機能を発揮し尽くさせることに他ならない。もしも「拐把子」が設計上白兵格闘を考慮していたのなら、近距離で射撃することになり、スコープがあろうがなかろうがどうでもいいことである。もしも機関銃の連続射撃の精度が少し劣ることを憂慮するなら、小銃の低い発射率、高精度という作用を充分に発揮させればよいのであって、そうすれば弾薬も節約され、精度も向上するのではないか?! 周知のようにスコープの使用によって獲得される射撃精度は比較的高いものの、 それは単発射撃に対して言えることであって、もしフルオート射撃ならば、最初の1発に言えることである。「拐把子」にスコープを装備し、だが発射機構にはセミオート機能が設けられていないというのは、スコープの特性をよく知らないということになりはしないか! 次に、スコープの特性の問題に関してである。ここで指摘しなければならないのは次のことである。スコープは射撃精度を高めることができるが、スコープイコール射撃精度ではない。スコープは銃の射撃精度を高めるのと同時に、銃の戦場適応性を低下させる可能性もある。スコープイコール射撃精度ではないというのは、主に加工製造および操作使用方面の原因や機械的誤差あるいは人為的誤差ゆえであり、スコープを装備すれば直ちに高精度が獲得できるわけではない。銃とスコープの結合、しかも正確な調整を経た条件下でのみいわゆる精度が獲得され得るのである。同時に、繊細な操作使用、維持メンテナンス(銃をぶつけたり倒したりしないことを含む)、銃とスコープの精密な調整状態を確保するという前提下で初めて高精度が保持できる。第一線の歩兵分隊、班の作戦環境と銃の使用条件から見て、専門化された(たとえば専用スナイパーライフルのような)精度を終始保持することは理想にすぎず不可能なのが現実である。次にスコープが銃の射撃精度を高めるのと同時に、銃の戦場適応性を低下させる可能性もある、という問題である。これは主に自然の地形地物、気象天候および作戦強度等各種の要素が構成する戦場環境によって、銃に対する精度上の要求は相対的だということである。スナイパーライフルに関して言えば精度に重点を置いて強調してもよい。しかし第一線の歩兵分隊、班の小銃、機関銃に関して言えば、精度を一方的に強調することはできない。小銃、機関銃の総合的な戦場環境適合性を強調するのと同時でのみ、相対的に精度が要求されるのである。スコープは静止目標に対しては便利だが、活動目標を狙うのは困難であり、分隊、班の小銃、機関銃は静止目標だろうが活動目標だろうが、はなはだしきに至っては低空の航空機にも対処しなければならない。スコープは凍りつくような寒空と雪に覆われた大地といった環境の中で霜がついて曇り、高温で曇り、雨が降る環境の中では湿って曇る可能性がある。一方第一線の歩兵分隊、班の小銃、機関銃は常に各種の劣悪な環境条件に対面しなければならない。実際の使用使用状況から見ると、日本軍はスコープを使用することは少なく、その主要な原因はスコープが役に立たないからではなく、スコープを使う場所がなかったことである。

3つ目は機関銃のマガジン挿入口、エジェクションポート、エジェクターという3カ所に、いずれも回転開閉式防塵カバーを追加し、もって「歪把子」で上述の3カ所が露出しているために発生した故障を「拐把子」では完全に排除したことである。「歪把子」の装弾器、エジェクションポート、エジェクターは完全に露出し、戦闘使用中、機関銃の核心的部位の戦場環境に対する適応性が劣っていた。晴天では舞い上がった土埃が塗布された油と混じって汚れになることがしょっちゅうであり、雨天では雨風により泥がヘドロ状になることがしょっちゅうであり、降雪の時は氷雪の侵入により凍結することがしょっちゅうであり、ここぞという時にボルトが引けず、弾薬が装填できず、薬莢が排出されないことが頻繁にあった。そこで、「拐把子」研究開発時、マガジン挿入口に右向きに回転して開く防塵カバーが装備された。同一のスプリング軸に、エジェクションポートにも上向きに回転して開く防塵カバーが装備された。同時に、「歪把子」から踏襲されたレバー式エジェクターにも前向きに回転して開く防塵カバーが装備された。このようにして散々悩まされていた症状は確実に改善された。しかしこれによりもたらされた新たな問題が発生した。「拐把子」のマガジン挿入口の防塵カバーとエジェクションポートの防塵カバーは平時にはスプリングのテンションによって閉鎖されており、マガジン挿入時に指先で防塵カバーを右向きに90度回転させて開かねばならず、こうしてやっとマガジンが挿入できる。マガジンを抜くと、防塵カバーはスプリングのテンションで再びマガジン挿入口を閉鎖する。このためマガジン交換の手間が増えた。マガジン挿入口の防塵カバーの幅が一定あるため、回転して起き上がった時の高さも一定ある。射手の手がマガジンを外す時に起き上がった防塵カバーで傷つかないように、マガジンキャッチの操作レバーも大きく、高く設計されている。エジェクションポートの防塵カバーは射撃中、放出された薬莢によって開かねばならず、このようにすると排莢のスムーズさも低下する。エジェクターの防塵カバーとなると、南方で使用した場合の状況はよかったが、天寒く地凍る北方での使用状況は充分思い通りにはいかなかった。ZB-26と比べると、前者は乱雑、後者はシンプル、前者はしまりがなく、後者は隙なくきちんとしており、前者は脆弱、後者は堅固だった。まさにいわゆる勉強不熱心であり、見てくれはいいが役には立たなかった。

「拐把子」は全体的戦術技術性能上、「歪把子」と比べてややよかったので、抗日戦争の後期、鹵獲された「拐把子」の大部分は主力部隊に補充された。鹵獲がどんどん多くなったため、多くの部隊も「拐把子」をもって「歪把子」に替え始めた。これら日本製の軽機関銃は、遼沈戦役から南海島解放戦役まで(頑住吉注:対国民党戦)、ないしは抗米援朝戦争まで、いずれも重要な作用を発揮した。中国人民解放軍第四野戦軍の各部隊は東北において数多くの「拐把子」を補充した。我が軍のその他の各野戦軍が装備した軽機関銃の中では、「拐把子」も重要な一定の地位を占めた。抗日戦争から解放戦争まで、さらには抗米援朝戦争まで、およそ我が軍の鹵獲された日本の「三八式」小銃を主要武器とした歩兵分隊は、大部分が「拐把子」を支給された。両者がいずれも日本の有坂6.5mm尖頭弾薬を使用したからである。

(頑住吉注:これより4ページ目ですが、このページは画像のみです。1枚目。「九九式のカタツムリ型調節式リアサイトとスコープマウントベース」 続いて2枚目。「九九式のキャリングハンドルとバレル固定ネジ」 続いて3枚目。「九九式のフラッシュハイダー」 続いて4枚目。「初めて生産された九九式7.7mm軽機関銃(スコープに注意)」 続いて5枚目。「比較的早い時期に生産された九九式7.7mm軽機関銃(キャリングハンドル外表面に依然刻まれたミゾがあるのに注意)」 これより5ページ目)

教学用銃

1936年(昭和十一年)、「拐把子」が日本軍に装備され始めて以後、日本の民間および軍の多くの工場が「拐把子」訓練機関銃の生産をも開始し、もって軍隊や民間、特に学校における学生の訓練用に提供した。この時の「拐把子」訓練機関銃は外観造形上、最大限実物に近づくよう努力されていた。もし注意しないと、往々にして「真贋」の区別は難しかった。例えば、教練機関銃はストレートブローバック式自動原理を採用していたが、バレル下方には「見せかけの」ガス導入パイプが残され、その前下方にはバヨネットベースもあって、ニセのガスレギュレーターの端部にもバヨネットをかぶせることができるリングがあった。このため真の「拐把子」機関銃同様に着剣できた。カーブしたマガジンは上に置かれ、ただしシングルカアラムに過ぎず装弾数は15発だけだった。この他キャリングハンドル、カタツムリ型調節式リアサイト、コッキングハンドル、グリップ、ストック、バイポッドからバレル上のらせん状放熱リブまで、至る所が本物に似ていた。ストレートブローバック構造は簡単なため、「拐把子」教練機関銃の重量は本物の「拐把子」より軽かった。木製弾頭の6.5mm空砲弾薬は、弾丸がバレルを飛び出す瞬間に直ちに粉砕し、訓練使用の安全が保証できた。「拐把子」訓練機関銃の構造と本物の「拐把子」の構造は全く違うため、模擬実弾射撃と戦術銃器操作方面の訓練効果のみ達成でき、一方機関銃の分解結合、維持メンテナンスの訓練等々を含む勤務銃器操作には、依然実物の銃があって初めて行うことができた。このことから、前線部隊に補充されてきた新兵の機関銃手の中で、「拐把子」を熟知していない半可通が少なくなかったはずであることが見て取れる。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「教練用の「拐把子」」 続いて2枚目。「「拐把子」の不完全分解」 というかごく一部の部品だけですね)

7.7mm「拐把子」

ここで、口径7.7mmの「拐把子」にも触れる必要がある。実戦の中で6.5mm尖頭弾の貫通力および殺傷力不足が徐々に表れてきたため、日本は7.7mmの小銃、機関銃弾薬の生産を開始し、しかも「三八式」小銃と九六式「拐把子」を基礎に、1939年、すなわち昭和十四年に九九年式7.7mm小銃と九九年式7.7mm軽機関銃の研究開発を終えた(この年は日本の皇紀2599年であり、このため九九年式と称された)。九九年式7.7mm軽機関銃はストック後部下方に支柱が追加され、バレル固定金具が六角形のナットになり、マズルにフラッシュハイダーがねじ込まれ、キャリングハンドルにグルーブがなくなったことを除き、その他全て「拐把子」と同じだった。九九年式7.7mm軽機関銃のレシーバー右側前部には「九九式」の三文字が刻印され、識別に便利である。この2種の口径の「拐把子」と「歪把子」は第二次大戦時期全体を通じて日本軍歩兵分隊が装備した主要自動火器であり、3者の生産総数は12万挺余という多数に達した。日本ファッショはそれらを使い、かつて無数の中国人民の生命を奪い去った。だがそれらは最終的にはやはり中国人民に奪取され、侵略に対する反抗に使われた。これすなわち歴史の法則である。

「拐把子」とZB-26、緒元対比

緒元 「拐把子」 ZB-26
口径(mm) 6.5mm 7.92mm
全長(mm) 1,067 1,165
銃身長(mm) 560 602
全体重量(s) 8.85 9
バレル重量(s) 1.96 2.02
照準長(mm) 630 586
ライフリング 4条右回り
ライフリングピッチ(mm) 240
使用弾薬 6.5mm尖頭弾薬 7.92mm「S」尖頭弾薬
給弾具 カーブした30連マガジン ストレートの20連マガジン
初速(m/s) 735 830
リアサイト調節範囲(m) 200〜1600 100〜1500
発射方式 フルオート セミ・フルオート
理論上の発射速度(発/分) 530 450〜500
戦闘発射速度 60
自動方式 ガスオペレーション ガスオペレーション
冷却方式 空冷 空冷

(頑住吉注:九六式の発射速度は毎秒約8.8発ですから30連マガジンは約3.4秒で撃ち尽くされます。いくら防塵カバーを開く手間があっても作動不良さえ起らなければ少なくとも1分間に3マガジンは充分撃てるのでは。)

(頑住吉注:これより6ページ目)

「拐把子」の不完全分解と結合(頑住吉注:部品名称が分からないので訳せません。画像を見れば大体は分かると思います)


 十四年式や十一年式に関しては批判されてもしょうがないかなと思いますが、この銃に関してはそんなに大きな欠点はないイメージなので、ちょっと評価が辛いように感じます。確かに「チェコの無故障機関銃」と比べれば全体に見劣りするかもしれませんが、装弾数が多いこと、全長が短いのに照準長が長いことなどは評価されてもいいのではないかと思います。









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