ミグー21導入の経緯

 「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20140905/18766683.html


中国はいかにしてミグー21戦闘機を導入したのか? 中ソ関係決裂後の協力

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「フルシチョフ訪中 資料画像」 続いて2枚目。「中国の殲ー7戦闘機」)

1960年代初め、中ソ関係は決裂し、フルシチョフは背信し正しい道理を捨て、中国援助協議を破棄し、専門家を引き上げさせ、歩みを始めたばかりの新中国航空工業は困難な状況に陥った。だがほどなく、フルシチョフは突然毛沢東に仲直りを求める手紙を寄越し、中国に向けミグー21戦闘機の製造権を提供したい、とした。当時空軍司令員の任にあった劉亜楼上将は命令を受けてソ連に赴き談判した。彼は道理と節度を持ち、使命を辱めず、ついに成功裏に当時中国空軍が早急に必要としていたミグー21の製造技術を導入した(頑住吉注:これは全体の要約ですね)。

フルシチョフが仲直りを求める手紙を書き、劉亜楼がソ連に赴いて談判

1960年6月25日、世界各国のマルクス・レーニン主義政党はブカレストで会議を開いたが、フルシチョフは突然反中国宣伝を行い、両国関係に亀裂が生じた。同年7月、ソ連政府は一方的に中国援助協議を破棄し、専門家を引き上げさせ、対中国援助建設プロジェクトを破壊し、初めてかすかな光が射した中国航空宇宙工業にまた暗い陰を落とさせた。

フルシチョフのこの一手は、当時ヨーロッパのいくつかの国を強制的に服従させた手法を重用して中国の服従を強制し、中国が唯々諾々と彼の言うことを聞いて意のままになることを迫ることに他ならなかった。だが1961年2月、フルシチョフは突然仲直りを求める口ぶりをもって毛沢東に手紙を寄越し、継続して中国に向けミグー21戦闘機の製造権を譲りたく、できるだけ早く代表団を派遣してモスクワに赴かせ談判することを希望する、としていた。

朝鮮の戦場でのエース飛行機の空中の対決は、鋭敏な軍事科学者たちに高速戦闘機研究開発の重要性を意識させるに至っていた。1958年、アメリカは率先してこの目標を実現し、マッハ2.02(時速2,146km)のF-104スターファイター戦闘機の研究開発に成功した。ソ連も同年、性能が近いミグー21戦闘機を研究開発した。

ミグー21がまだ研究開発中の時、中国はもうソ連とこの機を導入する技術援助契約を締結した。だが契約を締結してほどなく、中ソ関係は突然悪化し、ソ連は一方的に契約の執行を停止した。中国共産党中央軍事委員会は同年拡大会議を開き、当時の情勢と空軍建設の需要を根拠に、空軍は高空高速戦闘機をもって重点とするとの発展方針を明確に提出し、かつまず殲ー6機(ミグー19型のコピー)の優れた品質を合格点の出せるものとし、続いてミグー21にならった殲ー7機を研究開発するよう要求した。

今、中ソ関係が異常に緊張している時、フルシチョフはこのように人を惑わせ不可解にさせる常ならぬ友好的な挙動をし、中国政府に後先のことを考え、疑惑でいっぱいにならざるを得なくさせたが、度量の大きい中国共産党人はついに驚くべき選択をした。杭州で療養しながら空軍の規則と教材の編纂を主宰していた劉亜楼は重大な時に命を受け、中国代表団団長を担当した。

周恩来、行動指針を直接授け、平等相互利益の原則が確定

出国に臨む前、周恩来は単独で劉亜楼を呼んで会い、仕事を与えた。

去年6月、ちょうどフルシチョフが突然ソ連専門家の引き上げを決定した時、周恩来はわざわざ劉亜楼に委託し、緊急にまだ青島で休暇を過ごしていた国防省の専門家チームリーダーのバートフ大将と会見させ、もってフルシチョフが軍事専門家引き上げを決定したことに対する彼の反応を直接会って理解するのに便とした。劉亜楼はバートフ大将に対し次のように言った。「フルシチョフ同志は全ての在中国専門家の引き上げ命令を下し、かつこれは専門家たちの一致した要求であり、理由は我が方が専門家に対し非友好的で、情報を封鎖し、彼らに仕事ができないようにさせている等々だと言っている。あなたは専門家チームリーダーとして、専門家たちの具体的な意見を聞いたことがあるのかないのか。公然と批判を提出し得ることを希望する。」

バートフは丁重に次のように言った。「私と中国の友達のつきあい、関係は打ち解けたものであり、何のわだかまりもなく、私個人は何の不尊重、非友好を感じたことも全くなく、こうした現象は存在しない。だが軍人として、命令に服従するのは天職である。フルシチョフ同志がこのような決定をしたことが一体正しいのか間違っているのかに関し、私個人には当然自分なりの見方がある。歴史的教訓は取り入れるべきである。スターリンの当時におけるユーゴスラビア問題処理は行き過ぎで、冷静でなく、大きな間違いを犯し、長期にわたり癒やせない傷をもたらし、損失は非常に大きかった。さらには、中国はユーゴスラビアではなく、より慎重であるべきで、それでこそ正しいのだ。私個人の意見は留保する必要がある。」

劉亜楼はこの時の会見によって、専門家チームリーダーの態度をはっきりさせただけでなく、さらにその中から大多数のソ連軍事専門家の中国に対する友好を理解し、中国共産党中央がさらに一歩フルシチョフの腹黒い魂胆を暴くことに対し根拠を提供した。

今回、周恩来は劉亜楼と共に種々の発生する可能性のある状況および処理方案を研究分析した後、言った。「これは中ソ関係決裂後に派遣される初の代表団であり、中央はこれに対し非常に重視している。全体的な精神は卑屈にならず高慢にならず、理と節度を持ち、平等相互利益の態度をもって談判する、というものである。『人が我を犯さずば我も人を犯さず』(頑住吉注:省略されていますが「人が我を犯さば我も必ず人を犯す」と続きます)であり、もし相手方がわざと挑発するならば、断固として理によって反撃するのだ。」

劉亜楼は、ソ連がミグー21戦闘機製造権譲り渡しを準備している問題についての空軍と航空工業局の討論の状況および意見を詳細に報告した。周恩来は語った。「製造権問題をめぐって、我々はすでに2つの代表団を行かせたことがある。第1回目は1951年1月で、何長工同志によって率いられた。第2回目は1957年で、聶老総によって率いられた。ソ連政府は一体何をしでかしつつあるのか? 前の2回に行った専門の人員は比較的少なく、詳しく知り得たことは多くなかった。今回は過去の経験と教訓を取り入れ、やや多くの人を行かせる必要がある。これには各方面の専門家が含まれ、できる限り請求する必要のある技術資料を大目に手にするのだ。特に原材料の技術条件と試験方法だ。」

劉亜楼は語った。「ミグー21戦闘機は現在世界で最も先進的な新型戦闘機の1つであり、もしソ連政府が真に誠意をもってその製造権を我々に譲るなら、疑いなくこれは我が国航空工業の転機であり、空軍の後継機種が急を告げている問題が解決されるだけでなく、同時に我々の飛行機設計、製造部門に大規模な演習をさせ、ミグー21戦闘機の各種性能をすっかり飲み込むことを基礎に、我々自身の新型戦闘機を製造させることもできるのです!」

周恩来の表情は厳粛にして剛毅だった。「ミグー21戦闘機の製造権を我々は必要としているが、ソ連がこれを口実にいかなる条件も付帯することも許すことはできない。もし彼らに製造権を利用して恫喝を行い、我々の原則の上での譲歩を迫ることを考えさせるのならば、我々はむしろ要らない!」

将軍大いに激怒 同行する「KGB」に反駁

3月、劉亜楼率いる代表団はモスクワに到着した。至る所のKGBの監視、盗聴を予防するため、代表団は比較的重要な会議は全て中国駐ソ連大使館で開いた。そこにはある部屋があり、室内には妨害設備が装備され、この機器をONにすれば、四方の壁は連続的に「ブーブー」音を発することができ、遠隔操作の盗聴器は室内の談話の内容をはっきり聞くことができなくなるのだった。

劉亜楼はミグー21戦闘機の製造状況の視察を提案した。ソ連サイドは考慮を経て、代表団がこの機の製造工場に来て3日視察することに同意した。

出発に臨む前、劉亜楼は再三申し伝えた。「以前ソ連は我々があの飛行機製造工場を視察するのを禁止した。今回はフルシチョフに考えがふとひらめいて我々に来てくれと言ったのであって、簡単なことではない。それぞれの作業場、それぞれの工程、それぞれの生産ラインを我々は全てまじめに調査し、質問する必要があり、いかなる細かく小さい部分も漏らしてはならない。皆はっきり理解する必要があるが、ほどなく我々もミグー21を生産、製造することになるのだ。」

1日の緊張した視察が終わり、代表団は会議室に招かれて小休止した。工場が代表団のために泊まるところを手配しようとした時、視察に同行していたデウォリャンチェンコが冷ややかな表情で言った。「必要ない。中国の同志は今晩汽車に乗ってモスクワに戻ることが必須だ。」

会議室のムードが緊張した。劉亜楼はロシア語でごく冷静に質問した。「あなた方は我々を3日視察させると答えたが、現在1日見終わったばかりで、頭の中にはまだいくつもの問題があって工場と話をする必要がある。だがあなたは今日もう我々を帰らせようとする。これはどういう意味か?」

デウォリャンチェンコの青い目に冷酷で傲慢な眼光が見られた。「ソ連の法律の規定によれば、外国人はパスポートを持たなければモスクワ以外の都市に泊まってはならず、当日戻ることが必須なのだ!」

劉亜楼はがばっとソファーから身を起こし、その声は非常に興奮し、怒っていた。「我々はフルシチョフ同志に招待された客人だ。あなた方はこのように我々を扱い、まさかこれが友好的な態度だと言うのか?」

デウォリャンチェンコは首を伸ばして(頑住吉注:立腹の表現だそうです)怒鳴った。「これは法律だ、誰が招待した客人でもだめだ!」

劉亜楼は軽蔑して笑った。「私はあなた方の法律を知らない。しかしあなた方はホストだ。この方面の関連の規定を知っている以上、何故事前に我々にパスポートを携帯するよう注意を促さなかったのか?」 (頑住吉注:パスポートを携帯するのは当然のことじゃなかったんですかね)

工場長イェーマソフは状況が良くないのを見るや、あわてて前に出て仲裁した。「お二人ともひとまず怒りを静めて、中の小屋でお互いの見方を交換しましょう。さもないと大勢の人の前で品位に傷が付きます。」 (頑住吉注:工場内の会議室にいるはずじゃなかったんですか)

劉亜楼は手を一振りし、よく響く声で人を震え上がらせた。「ダメだ、我々はこの場所で皆の前で問題をはっきりさせる必要がある。工場の同志たちに彼が一体どんな態度だかよく見せるのだ!」

デウォリャンチェンコは自らが強硬な相手に遭遇したことを知った。初めて会った時から、彼はもう相手が並でなく、気迫に満ちて人に迫ることを感じていた。「KGB」として、彼は当然眼前のこの相手の手強い過去のことを知っていた。

ソ連航空節 劉亜楼、卑屈にならず傲慢にならずフルシチョフに反撃

劉亜楼率いる代表団はその年のソ連航空節に参加した。宴会が終わった後、フルシチョフはアメリカ、イギリス、フランスに接近する戦略的意図のため、わざと何人かの資本主義国の代表団団長を茶やコーヒーを飲むよう招き、また語りまた笑い、東欧などの兄弟党の代表には全て冷淡にした。ある代表団は不愉快に感じ、立ち去った。

劉亜楼はホストのやり方が外向的儀礼を失していると感じた。だがもし兄弟党代表団のように立ち去れば、マナーが充分でないのが目立ち、しかも大国の風格を失する。立ち去りはしない。だがずっと庭園の一角に立っているのもいい方法ではない。彼は同行するソ連サイドの連絡官ラブロフ少佐に向け不満を表明した。「我々は庭園内で何をしているのか? 立ち去るのがいいのか、それともぼさっとし続けているのか?」

ソ連軍少佐はあわててフルシチョフのそばに駆け寄り、「中国代表団の団長が不快に感じてます」と耳打ちした。

フルシチョフは驚き、自ら劉亜楼に席に着くよう招いた。フルシチョフは紹介した。「この上将は中国人民解放軍の空軍司令で、文武両道の将軍であり、かつてソ連に留学したことがある。」

アメリカ空軍部長トワイニングはすぐに話を続けた。「私と劉亜楼将軍はすでに友達だ。宴会で乾杯したばかりだが、我々の友好の願望を表明した。中国空軍の発展は非常に速く、人を敬服させる。」

フルシチョフは中国空軍の輝かしい戦績の話をした後、続けて訳の分からないことを語った。「我々はジャガイモには芽があり、皮があり、皮は食べられないことを知っている。我々は不要なものを捨てた。中国の蒋介石は台湾に逃げた。蒋介石はちょうどジャガイモの皮のようなもので、不要なものだ。我々は彼と台湾をまとめてに太平洋に捨てたのだ。」


劉亜楼は直ちに訂正した。「総書記同志、あなたは蒋介石はジャガイモの皮で、不要なものは捨てるべきだと言われました。私にこれに対する意見はありませんが、台湾は決してジャガイモの皮ではなく、それは中華人民共和国の不可分な一部分です。どうして捨てることができるでしょうか!」

フルシチョフは「ああ」と一声発した後、すこぶる円滑に言った。「私の比喩は充分に適切ではなかったかもしれない。」

フルシチョフは劉亜楼が皆の前で自分にたてついたのを見て、やや怒っていた。「当然、中華人民共和国はジャガイモの芯であり、有用だ。このため彼らが空軍を建設するなら、我々はそれを助けたい。中国空軍司令員劉亜楼将軍はちょうどここにいて、彼はよく分かっている。」

劉亜楼はホストのメンツを保つため、婉曲に言った。「総書記同志、ソ連人民の援助に対し我々はずっと感謝しています。あなたも台湾が中華人民共和国の一部分であると認める以上、我々にさらにどんな食い違いがあるでしょうか?」

フルシチョフは体面を保ってその場を取り繕った。劉亜楼の手を引っ張って言った。「劉亜楼同志、誤解するな、誤解するな!」

返礼の宴で、将軍の誠意ある話がソ連空軍トップを感動させた 

ロシアは天は寒く地は凍っていた。だが劉亜楼の心はそれにもかかわらず火のように熱かった。1回また1回の談判のテーブルで、彼は一糸乱れず、泰然自若だった。協定の起草を準備する時、空軍工程部副部長の丁仲が問うた。「ソ連サイドは顧問の派遣を提案するでしょうか?」

劉亜楼は何か考えがある様子で室内を何周か歩き、振り向くや言った。「私はこれは非常に重要な問題だと見る。何故ならソ連サイドは顧問の派遣によっててこそ我が国の航空工業をコントロールする目的が達成できるからだ。」 彼はすぐ周恩来に向け指示を仰ぐ電報を発するよう指示した。

周恩来はすぐに返電した。「技術人員を派遣してもよい。彼らをいかに使用するかの主導権は我々にある。だが顧問派遣には我々は同意の回答はできず、もし彼らが派遣を堅持したら、我々はむしろミグー21機は不要だ。その時が来たら君たちはすぐ帰ってこい。」

ソ連サイドは準備が整った協議書の文面に、別の下心がある様子で「中国に向け専門家を派遣する」との字句を書いていた。ソ連サイドが理由なく中国で仕事をする専門家を撤収させた後、中国は「専門家派遣」というこの表現に非常に反感を持っていた。機を見るに敏な劉亜楼は「工程技術人員」という語を用いて協議書の原稿の中の「専門家」という言葉に換えるよう提案した。

ソ連航空工業部部長のスミルノフ上将は変更なしを堅持し、専門家と工程技術人員には本質的な違いはない、と考えた。劉亜楼は柔の中に剛をもって言った。「あなたが再三言うように、この2つの言葉に差異がない以上、何故改めることに不同意なのか、まさか何か言い難い隠していることがあるのか?」 ソ連サイドの代表はほとんど失態したように、「あなた、何も重箱の隅をつつくことはないじゃないか。かえって我々は改めたくなくなる。」と言った。

劉亜楼は全く遠慮せず言った。「もしそうなら、私は厳粛にあなたに知らせる必要がある。私がこの協議書に署名することはない、と。どうか我々の意見をフルシチョフ同志に報告してくれ。」

意外にも、翌日の談判の時、ソ連サイドは進んで中国サイドの要求通り文書の中の「専門家」との言葉を全部「工程技術人員」に改めた。 (頑住吉注:知識、見識の上で勝り、指導する立場という意味を含む「顧問」という語句を嫌うなら分かりますが、これは無意味なことで意地を張り合ったようにしか見えませんが。)

3月30日、劉亜楼は「協定」に署名した。契約は、ソ連はいかなる条件も付帯しない状況下で、中国にミグー21機生産の特許権を与えるが、あらゆる技術援助は有償である、と規定されていた。

その夜、代表団は中国駐ソ連大使館で返礼の宴会を行い、ソ連空軍司令、空軍トップのウェイシーニン元帥、ソ連航空工業部部長スミルノフ上将などの人を招いた。劉亜楼は誠意をもって語った。「ソ連空軍は過去、中国空軍の作戦を援助し協同する中で戦功を立て、中国空軍が成長する壮大な道の上で重要な貢献をなした。我々は往年のことを回想する時、いつも心から言う必要がある。友軍に感謝! と。」

中国空軍トップはソ連空軍の中国空軍に対する援助を忘れていなかった。このことはウェイシーニンを深く感動させた。

ソ連サイドの技術に関するいやがらせを克服し、殲ー7、頭を上げて青空へと飛ぶ

協定に署名がなされた後、代表団は普遍的に喜びを感じていたが、劉亜楼は言った。「中ソの今後の関係の発展を見なければならない。もし中ソ関係が悪化したら、今協議が成立したとしても、1枚の紙切れでしか有り得ない。役に立たないのだ!」

彼の話にはやや先見の明があった。協定が効力を発生させた5ヶ月語、ソ連の関係部門はミグー21製造の技術資料を続々と沈陽飛行機製造工場に引き渡した。だが技術人員が、ソ連サイドが提供した技術資料目録と資料に照らして調査確認すると、ソ連サイドが故意にいくつかの重要な技術資料を差し引いていることに気づいた。特に提供されるミグー21サンプル機の一部の部品は機に全く取り付けることができなかった‥‥

こうしたある程度予想されていたが予想が不完全だった問題の発生後、国務院は迅速に決定をなした。飛行機設計、製造などの部門はミグー21機に対し全面的な「技術の完全な飲み込み」を行い、自ら新型戦闘機を設計するために基礎を固めよ、と。

幸い沈陽飛行機設計研究所や沈陽飛行機製造工場などの機関は皆で知恵を出し力を合わせ、ミグー21に対し全面的な「技術の完全な飲み込み」を行い、相次いで249のソ連が提供した図面の中の難解な問題を解決し、ソ連が引き渡さなかった8大試験技術文書を作成した。1964年3月、沈陽飛行機製造工場はミグー21の試作作業を全面的に展開し、次の年に研究開発に成功した。これは中国戦闘機設計、製造業の輝かしいターニングポイントであり、これこそ現在の空軍が依然普遍的に使用する殲ー7戦闘機である。

ミグー21の研究開発が間近という1964年5月、航空研究院はミグー21を基礎に、性能がより良い高空高速戦闘機を自ら設計し、しかも技術、戦術性能はソ連のミグー23より全面的に優れている必要がある、という要求を提出した。ミグー23は当時世界で最も先進的な戦闘機だった。劉亜楼はこの情報を知って、大いに激励した。「空軍は大きな力を入れて支持し、必要な人は与え、必要なものは与える。君たちが成功した時、私は君たちのために酒宴でお祝いしよう!」

遺憾なことに、劉亜楼は翌年肝臓癌で世を去った。4年後、中国が自ら設計製造した初の高空高速戦闘機殲ー8が青空に飛び、その背後にあったのは日増しに膨大になる航空産業体系であり、これは英霊の魂に対するなぐさめとも評価された。


 明らかに過去の中国を美化しソ連を悪者にする脚色がなされている臭いですけど、当時の雰囲気をある程度伝えているのではないかと思われます。ソ連が何故一時的に中国にすり寄り、そしてまたそれを止めたのかの動機に全く触れられていないのが不満ですが。

















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