ハンドグレネード( http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Waffen/handgranaten.htm )

 柄付きハンドグレネード24は重量0.48kgで全長356mmだった。長さ75mmの頭部は0.165kgの爆薬を含んでいた。このグレネードは操作者が柄を通っている紐をもぎ取ることによって点火された。4.5秒後に爆発が起こった。ハンドグレネード43は改良品だった。この場合「もぎ取り信管」は頭部にダイレクトに固定され、この結果柄無しでも投擲できた。双方合わせて戦争中に75,000,000発が製造された。

(頑住吉注:原ページにはここに柄付き手榴弾の断面図、各部名称があります。)

 これに関し1940年の指導文書を挙げる。「ハンドグレネードは火器の補完のための近接戦闘兵器である。これは手で投擲される。これは特にライフル射撃では捕捉できない遮蔽物の背後の目標に対する使用に適している。攻撃直前に投擲すれば、ハンドグレネードは効果的に突撃を支援する。塹壕に対する突破口を開く際、そして町村部での戦闘の際、これは良い働きをする。防御に際しては近距離における火力阻止効果が発揮され、敵はすぐ拠点や穴から飛び出してくる。ハンドグレネードは主に爆発効果によって、そして音により精神的に作用する。破片効果は周囲10〜15mに及ぶ。頭部を結束した多数のハンドグレネードは収束爆薬として使用される。この収束爆薬は、ゆっくり走行している際、または障害物によって停止を強いられている際の装甲車両の敏感な部分にも効果を持つ。

 このハンドグレネードの破片効果を高めるため、円筒形の頭部にかぶせることができる鋳鉄製の破片リングが存在した。これを使用した際、効果範囲は約35mに大きく広がった。

 1943年3月以後、応急ハンドグレネードが導入された。これは重量0.55kgで、頭部の直径70mm、高さ90mmだった。これはコンクリート製で、内部に爆薬が入れられ、木製の柄が通されていた。

 重量0.23kgの卵型ハンドグレネード39は0.112kgの爆薬しか持たなかった。その頭部は直径60mmで、高さ76mmだった。このグレネードは1940年6月以後部隊に支給された。

 国民ハンドグレネード45は直径50mm、高さ70mmの紙製の筒で、セメント、砂利、クズ鉄で満たされていた。爆薬は36gだった。これはハンドグレネード43の「もぎ取り信管」を使用していた。信管は金属薄板製のカバーに取り付けられ、これで筒が閉鎖されていた。

 WASAG社は1942年以後Nipolitハンドグレネードの名の下に0.25kgおよび0.5kgの重量を持つ卵型ハンドグレネードを開発した。Nipolitはこのグレネードに使われた新種の爆薬の名称だった。

 ある新種の開発がDPS(Detonierende Pulverscheiben 頑住吉注:爆発する火薬円盤)の略称の下に進行した。兵器局は後にこの弾薬を円盤グレネードと呼んだ。これは対戦車戦闘用のNipolit円盤だった(視察スリット内への押し込みが想定されていた)。これは直径80mmでありながら厚さはたった16mmだった。1つ125gの円盤は87gの爆薬からなっていた。この円盤は効果向上のため2つあるいは3つを組み立てることもできた。対トーチカ戦闘用(WASAGによるレポートはこれに関し郵便ポストへの投入の様、と言っている)は直径134mm、厚さ20mm、重量1kgで、赤燐処理されたNipolit0.45kgを持っていた。信管としては縁から入れられた卵型ハンドグレネードの燃焼信管が予定されていた。DPSの生産は証明されていない。この近接戦闘方法は後により危険の少ない方法によって取って代わられた。

 わずかしか生産されなかったさらなる開発品は重量2kgの対戦車ハンドグレネード41だった。これは装甲に対し30mmまで効果的だった。これと平行してWASAG社およびRinker社は成型炸薬ハンドグレネードを提示していた。しかしWaPruf5(頑住吉注:「u」はウムラウト。「兵器テストのための第5セクション」のようなものと思われますが説明がなく正確には分かりません)におけるテストでは操られた飛行が困難であるのに際し、ますます着発信管を使う困難さが結果として生じた。このためBrunn(頑住吉注:「u」はウムラウト)所在のSS兵器アカデミーはHL(頑住吉注:成型炸薬の略)ハンドグレネードを提示した。これは全長190mm、重量0.42kgでこのうち0.21kgが成型炸薬だった。直径72mmの頭部には粘着物質を染み込ませた6mm厚のフェルト円盤があった。しかしこの頭部を単純に装甲車両の壁面に貼り付けるという方法は真価を発揮しなかった。磁石を使った後の解決法の方がずっとベターだったからである。

 ただし後に過渡期として、安定の問題が解決されたと思われたある兵器があった。

 対戦車投擲雷は本来空軍の開発品だった。これはハンドグレネードのように戦車に対して投擲され、その成型炸薬は敵を戦闘外に置くはずだった。この1943年5月に採用された兵器は重量1.36kg、全長533mmで、安定のため尾部に帆布製の4枚の尾翼を持っていた。しかしこの構造は真価を発揮しなかった。これは1944年6月、モデルKz(クルツ)によって交換された。この重量1kgの投擲雷は直径114mmの頭部に重量0.5kgの成型炸薬を持ち、これを使って150mmの装甲が貫通できた。この場合安定は自ら巻きほぐされる幅広い布製バンドによってなされた。対戦車手雷3は直径140mm、高さ270mmの瓶型の兵器だった。3つの厚いU字型磁石がこの対戦車手雷(PzHM)を敵車両に保持した。重量1kgの成型炸薬は130mmを貫通した。3本のトゲを備えた中間プレートにより、これは厚い防護層(頑住吉注:ツインメリットコーテイングのようなもののことでしょうか)に覆われたスチール製の壁にも張り付くことが意図された。PzHM4はより厚い磁石と強化された成型炸薬を持ついくらか拡大された型で150mmを貫通した。

 PzHM3は1942年5月、ワルシャワで初めて使用された。生産数および使用数は不備である。これは後に付着成型炸薬によって交換された。重量300gおよび400gの小型成型炸薬体はその弱すぎる効果のせいで真価を発揮しなかった。これは少数しか生産されなかった。

 球状のローラーボムも同様にハンドグレネードに含まれる。重量1kgで0.7kgの爆薬を持つものと3.5kgで3kgの爆薬を持つものがあった。

 さらに大きい兵器が直径300mm、重量30kgの補強されたセメント製ローラーボムだった。この内部には4kgのスチール製散弾が入れられていた。5.5kgの炸薬はかなりの効果を持った。

 付着成型炸薬3HLは1kgの代わりに1.5kgの炸薬を持つ拡大されたPzHMだった。この弾体は150mmの直径を持ち、3つの付着磁石込みでほぼ275mmの高さだった。この全体重量3kgの爆薬は45kgの力で装甲に張り付き、140mm近い装甲を貫通した。この半球状の爆薬は後に重量1.7kgの円錐形のものに交換され、HHL3はこの場合3.5kgだった。553,900個生産されたうち、1945年3月にはまだ59,000個存在した。

 重量0.5kgの付着弾体は少数生産の後に中止された。これには自己の選択によりエンジンストップ手段付き筒またはいろいろな焼夷剤が固定できた。1940年12月以来兵器試験局9において開発されていたエンジンストップハンドグレネード、意識喪失ハンドグレネード、SS兵器アカデミーの2種類の化学剤ハンドグレネードはテスト段階に留まった。最後に挙げたものはAzinもしくは0-塩からなる充填剤を持っていた(頑住吉注:教えていただいたところによると、Azinとは「アゾ化合物が−N=N-の構造を持つのにたいして=N−N=の構造をもつ化合物(Nは窒素)」だそうです)。ハンドグレネード41Wsは直径60mm、高さ122mmの金属薄板製弾体だった。この重量0.49kgのハンドグレネードは0.24kgの催涙ガスの0-塩で満たされていた。これも刺激物質であるSulvinit(Athylchlorsulfat 頑住吉注:「A」はウムラウト 「エチルクロルサルフェート=エチル化した塩化チオニル」だそうです)、ニッケル剤と呼ばれるDianisidin(頑住吉注:「ジアニシジン=アニシジンの2量体」だそうです)によるテストも行われた。いくらか信じられない感じだが、最後に挙げた物質はくしゃみを起こさせる粉末だった。

 焼夷ハンドグレネード48/57は直径80mm、高さ100mmのガラス製弾体で、0.5リットルのガソリン・ベンゾール混合液体で満たされていた。

 焼夷瓶はこれに似た外観だった。この場合高さ250mm、直径70mmのサイズだった。内容物は1/3が炎オイルナンバー19、2/3がガソリンだった。両兵器は当時モロトフカクテルと呼ばれたものの1つだった。

 ハンドグレネードは偽装や眩惑用にも使われた。このためには開戦時、重量0.72kgの発煙ハンドグレネード39、65,100発があり、これは柄付きハンドグレネード24と似ていた。亜鉛粉末とヘキサクロロエタノールからなる重量0.42kgの混合剤が煙を発生させた。第二次大戦中にほとんど7,400,000発が製造されたにもかかわらず、部隊は1945年3月にはもはや298,400発しか持っていなかった。

 重量0.53kgの発煙ハンドグレネード41は改良品だった。これは柄なしで投擲された。直径66mm、高さ73mmの筒内には前述の混合剤が0.44kg存在した。

 卵型発煙ハンドグレネードは直径60mmで全長は約135mmだった。これは1943年10月以後大量生産された。1945年3月、まだ554,200発の在庫があった。

 1943年に採用された眩惑弾体は似た効果(頑住吉注:要するに発煙)を持っていた。最初に採用されたBK 1Hは4塩化チタンなどと呼ばれたF-物質で満たされ、重量は0.37kgだったが、直径60mm、全長150mmによりいくらか扱いにくかった。この眩惑弾体は225,200発生産された後、BK 2Hによって交換された。

 高さ128mmのガラス瓶内には4塩化チタン/4塩化珪素からなる混合剤0.29kgが含まれ、凍結防止用として36gのカルシウム塩化物を入れた試験管が入れられ、これはパテ製円盤で蓋をされていた。この重量0.4kgの弾体が車両に向けて投擲されると、眩惑効果が達成されるだけでなく、催涙効果で搭乗員に下車を強いるはずの煙りも発生した。この眩惑弾体は1945年3月においてまだ1,115,600発が前線にあった。2月には退却時に322,800発の在庫が失われたが、まだ103,500発の眩惑弾体が兵器廠にあった。

 次の表は1945年3月までの第二次大戦における、ここで説明されたハンドグレネードの生産を単位1,000で示している。

1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945
柄付きハンドグレネード24および43 2688.0 11370.0 4801.6 5912.8 25773.6 22448.0 2450.0
卵型ハンドグレネード39 - 4727.4 9717.1 11447.1 33229.0 22468.0 2566.0
発煙ハンドグレネード39 74.5 4028.4 2588.7 696.5 5.1 - -
卵型発煙ハンドグレネード42 - - - - 109.4 1648.3 77.8
国民ハンドグレネード45 - - - - - - 784.2
対戦車ハンドグレネード41 - - - - 504.6 - -
眩惑弾体2H - - - - 2112.4 2975.3 55.1
付着成型炸薬3 - - - 8.5 358.4 187.0 -
対戦車投擲雷 - - - - 203.8 - -

 ここでは1941年の製造が1940年に対し15%減少していることが注目に値する。陸軍兵器局はこの供給品から次の量を譲っている。

1943 1944
空軍 柄付きハンドグレネード24および43 1795.0 1975.2
卵型ハンドグレネード39 940.0 1149.5
海軍 柄付きハンドグレネード24および43 834.7 468.2

 最高の消費量は1944年8、9月のハンドグレネード17,421,000発、眩惑弾体434,000発、付着成型炸薬51,000発であり、これは毎分ハンドグレネード198発に当たる。

 1943年、59,620,000発をもって最高生産量を示した。これと比較して第一次大戦中の1917年には激しい陣地戦によって88,650,000発が生産された。

 煙幕ロウソク39、S39、42は起倒式キャリングハンドルつきで高さ145mm、重量1.7kgのシンプルな丸い筒だった。39と39Sは合わせて4,372,800発が生産された。改良されたモデル42は357,200発しかもたらされなかった。敵をだますため、1944年秋、これを使って敵搭乗員にその車両が弾幕に包まれていると思わせる、いわゆる見かけ眩惑ロウソクが開発された。大型は重量2kgで、強い煙と共に5〜6秒間燃焼した。この製品は1944年11月にパンテル戦車の尾部に各2発搭載されて部隊テストされた。小型は重量600gで、偵察および支援装甲車両のようなより軽量の車両を想定していた。起倒式グリップは手による投擲も可能にした。

 リング成型炸薬や他のより大きい成型炸薬は爆雷の項目で扱う。締めくくりとしてさらに全く新しいマグネシウム閃光眩惑弾体に言及したい。ただしこの開発はもはや終了しなかった。1人の装甲砲兵隊の佐官が東部におけるこの種の眩惑弾体の使用について10月28日の「旅行レポート」内で言及していたが、より上層部の人間は1944年12月の終わりになって初めてこの新しい意見に反応した。このレポートはT-34から閃光弾体が発射され、これは約1分間車両の前にある種のオーバーラップされた空間を生じさせ、これにより防御のための照準がかなり困難にされたとレポートしていた(頑住吉注:いまいち分からない表現ですが露出過多で白く飛んだような状況になるということではないかと思います)。

 その後兵器局は1945年1月に次のようなテストを開始した。照明弾薬からの5つの結束されたマグネシウム核、10.5cm照明弾薬からの単一のマグネシウム核。

 その後ここから遠距離射撃のための迫撃砲用8cm眩惑グレネードと歩兵用の手投げ照明弾体が生じた。

 Doberitz(頑住吉注:「o」はウムラウト)所在の実験場で実施が計画された実験用に、3月22日になってもまだ100発の手投げ照明弾薬が準備された。この開発について見出される最後のものは1945年4月3日の兵器局からOKHに宛てた受け取り要請の通知である。


 ここで紹介されたハンドグレネード群の多くはここで写真、イラスト付きで紹介されています。

http://members.lycos.nl/lexpev/studies.html

 「柄付きハンドグレネード24」、「柄付きハンドグレネード43」、「卵型ハンドグレネード39」、「国民ハンドグレネード45」、「Nipolitハンドグレネード」、「対戦車投擲雷」、「付着成型炸薬」、「発煙ハンドグレネード39」、「卵形発煙ハンドグレネード」、「BK1H」、「BK2H」、「煙幕ロウソク39」が確認できます。ここにないもののうち、原ページには「ローラーボム」の画像へのリンクがありますし、

http://www.ww2aircraft.net/forum/149613-53-post.html

 ここには「対戦車手雷4」の画像があり、

http://tecnica-militar.fateback.com/terrestre/Panzerknacker.htm

 ここは説明文が読めないのが難ですが、「SS HLハンドグレネード」、柄付きハンドグレネードに多数の頭部を結束したものなどの画像が見られます。

http://www.geocities.com/desertfox1891/NahVtdgW/artnahvtdgw-description.html

 ここには「煙幕ロウソク39」や車両からこれを投射するランチャーなどの画像があります。

 「Nipolitハンドグレネード」というのはここの説明だけではよく分かりませんが、最初に挙げたサイトなどによれば、通常のプラスチックのようにどういう形にも成型できる特殊な爆薬で、原則として信管以外全てこのNipolitでできている、というものだったようです。安価に大量生産できそうではありますが、安全性に問題がなかったのか、また金属部分がほとんどないので破片効果が期待できないのではないかなどの疑問もあります。この他にも戦車の視察窓やトーチカの銃眼から投入する手榴弾などさまざまな工夫がなされていたのが分かります。最後に登場している「マグネシウム閃光眩惑弾体」というのは要するに現在のスタングレネードに近いものでしょう。「ローラーボム」はここではハンドグレネードに分類されていますが、他のサイトでは含めていない場合が多いようです。使用法は書かれていませんがサイズからして投げるのは難しいと思われます。日露戦争時ロシア軍が要塞の上から突入しようとする日本部隊に向けて機雷を転がり落としたとされていますが、これに似た使い方だったのではないでしょうか。

 ハンドグレネードの生産量は1943年がピークで1944年には低下していたこと、ピークの1943年でも第一次大戦時のピークには及ばなかったことなども興味深い情報でした。












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