台湾による尖閣奇襲、奪取計画

 以前「台湾軍のF-104改造偵察機が尖閣を偵察していた」という、そう昔ではないものの「歴史秘話」的な記事を紹介しましたが、今回紹介するのは同じような系列の、ただしよりショッキングな記事です。なお、タイトルにもなっている中心人物の名に、日本語にない感じが使われており、「ハオバイツン」とします。

http://military.china.com/history4/62/20130220/17689512.html


ハオバイツン、かつて台湾軍の釣魚島武力奇襲行動を主導

釣魚島をめぐる争いはどんどん激烈になり、台湾当局の釣魚島を守る決意も最近島内世論の関心の焦点になっている。知る人が少ないのは、1990年、台湾当局がかつて一度秘密のうちに武力による釣魚島回復計画を制定していたことである。これが「漢彊計画」である。

島内メディアが明らかにするところによれば、釣魚島の主権のため台湾・日本間は当時ほとんど武力衝突間近だったが、李登輝の制止のため計画全体があと一息で成功というところで失敗し、今に至るも多くの中国人を扼腕させて止まない。

ハオバイツン、逆襲計画を主導

1990年は釣魚島防衛運動が高まった時期だった。あの年日本は釣魚島上に灯台を建立し、両岸三地(頑住吉注:中国語で「両岸」というと大陸と台湾を指しますが、「両岸三地」だと大陸、香港・マカオ特区、台湾を指すそうです)の釣魚島防衛活動家はしばしば釣魚島周辺で日本船舶の駆逐に遭っていた。当時高雄市長の任にあった呉惇義は釣魚島に聖火を伝えようとしたところで日本サイドに駆逐され、一時期島内の民意は非常に沸騰した。

いわゆる民気可用(頑住吉注:民意は政治的に役立てることができる、みたいな意味らしいです)で、台湾当局はこの機を借りて「領土主権」を示す軍事行動を展開すれば、釣魚島の主導権の情勢を逆転させられる可能性が高いと考えた。

沸騰する民意に直面し、台湾当局「国防省」は指示により突発事態対応グループを成立させた。当時「行政院長」の任にあったハオバイツン本人が軍人出身で、彼は直ちに軍事行動全体を主導し、同時に一定期間「国防大臣」と「参謀総長」を直接兼任し、電話で直接「国防省」に指示し、「連二」(情報参謀次長室)、「連三」(作戦参謀次長室)は直ちに「台湾島東北部の逆襲計画」関連を執行した。

これが釣魚島に照準を合わせた逆襲案 「連三」、開始直後に「扞彊計画」と命名

当時「連三」に勤務していた人物の漏らすところによれば、「李登輝『総統』が意図的に事態の沈静化処理を行い、甚だしきに至ってはすでに日本サイドが釣魚島の支配権を持つことを黙認していると聞いていたため、この計画は後に『漢彊計画』と改められた。『国防省』はこうすればこそ李登輝に、これは『漢光演習』の中の1つのサブ演習と思わせ、軍事的デリケート度を最低に下げることができると考えた。」という(頑住吉注:「扞彊」は境界を守る、というような意味らしく、「漢彊」の方は意味不明ですが、よりソフトな、武力による領土奪還計画と分からない名称に変えた、ということのようです)。

(頑住吉注:これより2ページ目)

当時「連三」の次長は常志華中将で、彼は1998年に特別インタビューを受けた時、釣魚島に照準を合わせた事件に関する台湾軍の反応という件に正面から答えたがらず、淡々と「私は釣魚台(原注:台湾の呼び名)進攻の計画を事実確認しない。ただし『国軍』に相対的な突発事態対応があったことも否定しない。」としただけだった。

だが後に彼も一部詳細を語った。「戦闘区域が本島にないため、ヘリで素早く行って素早く戻る必要があり、あの時私は空特司令(陳鎮湘中将)を呼び、彼に彼の作戦計画について私に話させた(頑住吉注:「空特」は「航空降下特殊戦部隊」か何かのようです)。

彼は非常にはっきり報告し、私に相当な自信を持たせた。その場でもう口頭により空特に1個大隊を動員するよう命令した。結果として彼は『これは浸透であってハードな力押しではなく、1個中隊の兵力でも多すぎます!』と言った。あの日から、我々何人かは5日4夜眠らなかった‥‥。」

航空降下特殊戦中隊が主力を担当

理解されているところによれば、この行動は桃園に駐屯する陸軍航空降下特殊戦独立62旅団第4大隊第5中隊によって担当された。同時に海兵隊の特勤隊も準備して出発を待った。

参与した人物が明らかにするところによれば、「状況は3種だけシミュレートされた。第1種目は任務完成後スムーズ、安全に帰る場合。第2種目はまだ島に上陸しないうちにもう阻止され任務執行ができない場合。第3種目はより頭の痛いもので、島に上陸した部隊が制圧されスムーズに帰ることができない場合。

この時はもうすでに抜き差しならなくなっており、局地的優勢を形成して兵力を救出する必要があり、海兵隊特勤隊を動員して海上から支援させ、甚だしきに至っては空軍第11大隊がさらに夜間あるいは払暁の制空を行なう必要があり、それでやっとOKだった。行動全体に動員される兵力は小さいが、統制と協調が非常に重要だった。」

当時の集結区は海軍の蘇澳の中正軍港の港区内で、当時陸軍の26機のUH-1Hヘリがすでに命令を待つだけの状態にあり、このうち4機はすでに中正軍港内に駐機していた。

飛行員はずっと夜間に発着を訓練し、しかも機内には砂袋も搭載して搭乗する人員の重量をシミュレートしていた。「彼ら飛行員は間違いなく非常に帯種(頑住吉注:検索すると無数にヒットしますが意味を説明したページは見つかりません)で、皆低空で作業し、しかも夜間飛行用ライトを点灯せず、軍港内および港区コンテナ場内には非常に多くの、非常に高い照明器具があり、飛行は毎回障害物の中での行き来だった。私は陸軍の飛行員に対しこんなにも深く、こんなにも良い印象を受けたのは初めてだった。」

(頑住吉注:3ページ目)

当時、情報が日本サイドにキャッチされるのを避けるため、作戦計画書は「連三」次長常志華および空軍中将趙知遠の2人によって自ら執筆され、しかも4隻の基隆海軍第三軍区第131艦隊の「武進三型」射撃コントロールシステムを配備した陽字級駆逐艦を動員し、外海にはさらに2隻の、早くも秘密のうちに彭佳嶼以東付近に進出し命令を待つ陽字級駆逐艦があった。

亀山島以東の海域には別の1隻の戦車上陸艦が低速で巡航し、戦闘前哨戒の役割を担当し、艦上には陸戦66師団によって編成された小部隊が命令を待っていた。

参加者は遺書を書いて犠牲を覚悟

2006年陸軍航空降下特殊戦司令部を退役した劉慶和士官長は後に次のように回想している。「実は我が中隊長によれば、我々は釣魚台を占領しようとしたのでは全くなく、島の上の日本の建築物を排除しようとしただけだった。計画全体は『行政院長』が指示し、命令を受けた人は皆犠牲を覚悟し、全員遺書さえ書きあげていた。当時我々は最新の弾薬に全部交換し、最も良い弾薬はやはりアメリカ製弾薬だった。何故なら連勤(頑住吉注:そういう名称の台湾軍の部署か、あるいは中古?)弾薬は300発撃つともう弾詰まりしたからだ。」

この陸軍特殊戦士官はさらに1つの秘話を話した。「長官によれば、釣魚台は基隆から距離102〜(頑住吉注:意味どころか辞書に載っていない字です。台湾独自の字でしょうか)で、我々海軍の潜水艦はすでに付近で監視を行い、仲間の軍艦も出動して我々を激励し、このため我々は今回『国軍』がもし行動を起こせば、きっと不甲斐ない結果にはならないと信じた。」

かつて海軍総本部参謀長の任にあった蘭寧利中将もこの行動に深い印象を受けていた。「『国軍』は確かにかつて秘密のうちに作戦計画を立て、釣魚台上から日本の建築物を排除し、かつ『国旗』を釣魚台に立てようとした。」

蘭寧利はさらに語った。「演習は作戦と同一視され、陽字号のある武器長は書き上げた遺書を持ってきて見せてくれさえした。今回想すると当時はやはり興奮していた。だが、まさに出発しようとしたその前に突然指令を受け、基隆港内に留まって命令を待たねばならなくなった。まる何日かたっても新たな指令はなく、後にやっと聞いたが、李前『総統』が断固不同意だったからだった。」

突然米日の圧力に遭い計画は流産

陸軍特戦隊および海軍艦隊はすさまじい勢いで作戦配置につき、空軍作戦司令部も暇にはしておらず、10月および11月にそれぞれ6回のべ8機のRF-104G偵察機を釣魚島に行かせて偵察、撮影作業を行い、アメリカ軍の提供する衛星写真と対比することをもって、さらに一歩日本の右翼団体が釣魚島上にさらにその他の施設を増設しているか否か探査した。

(頑住吉注:これより4ページ目)

その間、日本もP-3C対潜機など電子戦機を派遣して台湾軍に対し電子妨害を行った。援護任務を執行したF-5E戦闘機飛行員の回想によれば、「当時RF-104Gはいつも素早く行って素早く戻り、突進すること特別に速く、我々は全くついていけず、いつも精神力で彼らを援護した! しばしば秘密保持のため、発進前には全く我々には知らされず、エンジンを始動し戦備が整ったところでやっと我々にどこに援護に行くのか告げられた。」

作戦演習全体のエピソードの1つは、アメリカ軍機が故意に台湾東部の太平洋海域で飛行を行ったことである。この種の動作は双方に軽挙妄動するなと暗示する他、最も重要なのはやはり武力をもってアメリカの覇権を見せつけること、および中国大陸から来る探りを入れる性質の行動を阻止することだった。

「我が初めてアメリカ軍機を近くに見た時はすぐに非常に震撼した! 言っておくがあのF-18は私から20mの距離だったのだ!」

当時隊を率いた厳姓中佐は回想して語る。「発進後すぐ我々が誘導され旋回した時、2号機が突然口をはさんで大声で叫んだ。「Xだ! F-18がそばにいる!」 私は右を注視し、やっとそれが2機のアメリカ海軍のF-18ホーネットであることに気付いた! 何秒か後、私は68期のあの命知らずでもあり、空気を読まないとも言える野郎が、何と高速機動し後上方からF-18を攻撃しようとするのを見た!」

「私は急ぎ無線で『fight off! fight off!』(頑住吉注:ここでは「下がれ」の意味でしょう)と大声で叫んだ。その後そばのあの2機のF-18が直ちに高速で上昇反転し、あの我々の空気を読まない後輩のすぐ上方につけたのを見た。あの後輩には攻撃の動作をするチャンスさえ全くなく、相手は早くもすでにいつでも彼を攻撃できる状態だった! 本当に面目丸つぶれだった!」

「最後に私は水を飲むゼスチャーをし、燃料補給に戻らねばならないことを示した。2機のF-18はやっと上昇し、その後東南方向に離れていった。」

何日か後、厳姓中佐はまたF-5戦闘機を操縦して日本のF-4戦闘機と空中で遭遇し、かつそれを石垣島に追い返した。これは当時の台湾と日本の空軍の唯一の接触でもある。当時人員は後に今回の軍用機による接触を口外してはならないと告げられた。何故ならその日、「国防省」は「漢彊計画」の中止を命じられたからである。

11月5日午前、李登輝は尋常でない様子で自ら「行政院長」ハオバイツンに電話した。当時その場にいた「総統府軍参謀」の某退役中将の言によれば、李登輝は極めて強烈な語気で電話に向かい次のように言った。「釣魚台は交渉のカードだ! 戦場ではない!」

李登輝が電話を切ったその時、「国防省」が秘密のうちに進めた「漢彊計画」は終わりを告げたのである。


 中国は事を大きくしたがっているようですが、よく読めばこれは奇襲占領計画というより、日本が建てた灯台を破壊して急ぎ撤収する計画だったと思われます。もちろんそれならいいというわけではありませんが。F-104改造偵察機の件でもそうでしたが、台湾軍の最高指導者を無視して勝手な行動ができる体質は危険極まりないです。その後いくらかは改善されているんでしょうか。















戻るボタン