オランダの軍用リボルバー

 「Visier」2005年1月号に、たぶん日本に知る人がほとんどいないだろうと思われる、オランダ軍のリボルバーに関する記事が掲載されていました。


「Nichts Halbes,nichts Ganzes」(頑住吉注:たぶん「中途半端」とか「帯に短したすきに長し」みたいな慣用句、ことわざのたぐいではないかと思いますがよく分かりません)

何十年もの間、オランダの兵士たちはリボルバーに運がなかった。すなわち、重要な要素が欠けているか、加工が劣っているかだったのである。

ランダは20世紀半ばまで、イギリスやフランスとならんで最も重要な植民地を持つ強大国に属したにもかかわらず、オランダの公的機関の武装については実にわずかしか知られていない。だがコレクターは例えばリボルバーに関してはリッチなフィールドであることを理解している。すなわち、リボルバーは1850年代半ば以後のたっぷり100年の期間に見つかり、そしてコルト、Francotte、アダムスのような有名なブランド以外に、Welij、Kuhn、Bergansiusといった知られていない名前も含んでいる。

 その上、例えば1884〜92年に支給された「Revolverpistool tot Kamerschietoefeningen」のような銃器技術上の珍品が見つかる。これは閉鎖空間内における射撃訓練のために特別に開発されたリボルバーである(頑住吉注:名称はオランダ語で意味不明ですが、ひょっとするとカメラを仕込んだ銃かも知れません)。そして1930年代には独自の、公用目的に向いたガスリボルバーさえ生じた。これは王国Marechaussee(頑住吉注:辞書に載っていませんが、検索するとこんなサイトにぶつかりました。 http://www.marechaussee.nl/ たぶん警察か憲兵またはそれに準ずる組織でしょう)の役人に熱狂的に歓迎された。すなわちこれは「聖堂の開基祭および酒盛りでしばしば起こる、閉店した酒場から立ち退くことを拒み悪意を持って向かってくる者たちに対処するため、最終的な成功をもたらすものである。あるいは民衆の不法集会が次々に発生することを望まない時、そして実弾射撃が行えないケースにおいて射撃が要求される時、現在の技術がガスの使用を可能にする。」というものである(頑住吉注:何の説明もありませんが、どうも当時の資料からの引用らしいです)。だがオランダ人はこのために新しい銃を作らせなかった。そのかわりにこれは単に元々陸軍の在庫品だった古いアーミーリボルバーを単純に短縮したものである。しかし1873年に採用されたこのリボルバーには独自の技術的ディテールも見られる。

1873/1875モデルシリーズ
 オランダ国王ウィルヘルム3世(在位1849〜1890)が、1873年に新しい軍制式リボルバーを承認した時に全ては始まった。この銃は当時陸軍テスト機関の長だったJ.J.Bergansiusがすでに1860年代の終わりから粘り強く取り組んできていたものである。フランス、アメリカ、イギリスがまだ大口径の.45を使用していたこの頃、オランダ人は比較的小口径である9.4mmのブラックパウダーセンターファイア弾薬用のダブルアクション型を選択した。次なるプラス。2本のネジのみで固定されたサイドプレートのおかげで、この銃は例えばメカが狭いフレーム内のスリット内に組み込まれているコルトSAA1873よりもずっと簡単に点検およびクリーニングできた。だが、影のない光はない(頑住吉注:物事にはメリットがあれば必ずデメリットがあるということわざのようなものらしいです)。このオクタゴンバレルを装備したBergansiusリボルバーには薬莢のエジェクターがなかった。今日「生煮えの」開発のような印象を与えるこの特徴だが、当時は支持者がいた。著者Heinrich E.HarderとWouter A.Dreschlerはそのスタンダードな著作「オランダのミリタリーリボルバー」のための調査において、管轄するハンドガン検査の公式な理由付けについて率直に述べている。すなわち、「この銃にはいろいろな発明家が薬莢を簡単に除去するために装備しているロッドがない。多くのこうしたいわゆるエジェクターは、非常に創意に富んだものとして定着している。だが、これは銃を複雑化し、またすぐに損傷する可能性がある。そして銃全体のコストをかなり上昇させる。銃に装填された6発の弾薬を発射後、この6つの空薬莢をすぐに排出し、できるだけ早く再び装填することは必要だろうか? この質問は否定される。そして再装填のためには落ち着いた時間を選ぶ、ということが受け入れられる。だとすれば銃にエジェクターを装備しないというのが最も単純な解決である。(頑住吉注:つまり、どうせ戦闘中にエジェクターで空薬莢を排出して再装填する余裕はないのだから、コストアップにつながりまた破損可能性も増えるエジェクターはない方が良い、ということのようです。ちなみにこの銃は言うまでもなくSAA同様ソリッドフレームでローディングゲートから1つ1つ装填、排莢するタイプです)」 そう、そもそも兵士は正当防衛シチュエーションにおいてのみリボルバーを射撃することになるのであって、それを使って意図して戦闘に参加することはない。少なくとも武器の調達をつかさどる官庁のオフィスにいる担当官はそう見た。

 担当官はM1873の慣れが必要なグリッピングも正さなかった。というのは、この銃はフレームの設計のせいで、比較し得る諸銃よりもフレームが手首よりずっと高く作られているのである(頑住吉注:いわゆるハイグリップの逆ということです)。その上、トリガーガード、ローディングゲートの板バネ、サイドプレートにあるネジの頭が周囲と同一平面上に揃って終えられておらず、突出している。遅くとも射撃時には手の中に不快であることが気になる。

 その全ての欠点にもかかわらず、このリボルバーは1873年から1907年頃まで生産され続けた。P.StevensおよびBeaumont&Soleil(両社ともMaastricht所在)、J.F.J.Bar(Delft所在)各社において、ひっくるめて約13,000挺が生産されたが、これは主だった部分に過ぎない。というのは、1882年以後、オランダ国防省はこの銃をDelft所在の「Geweerwinkel」(Gewehrfabrik 頑住吉注:「ライフル工場」。オランダ語をドイツ語に直しているわけですが、少なくともライフルを表す単語はかなり似ていますね)内で組み立てさせたからである。このライフル工場は国立の施設で、1887年以後は「Werkplaaats voor Draagbare Wapenen」(略称W.D.W. ハンドガンのための工場)と改称された。専門家のHarderおよびDreschlerが推測しているように、この銃の最終組み立てはコスト上の理由から、そして「できるだけ専門技術を身につけた銃器工を養成するため」この施設内で行われた。

 オランダ領東インド(略称N.I. 現インドネシア)の植民地部隊はこの銃を1,200挺入手した。祖国で使われた見本品と完全に構造が等しかったにもかかわらず、極東に駐屯する兵士たちはこのリボルバーをその採用年からM1875と呼んだ。N.I.リボルバー(1〜1200)は独自のシリアルナンバー範囲を持たず、スタンダードシリーズ由来だった。しかし調査された全てのM75銃には、シリアルナンバーの前に大文字で「N」が見られる。おそらくこれはオランダ国内で支給される銃と区別する特徴付けだろう。一方オランダ国内で海軍に供給されたBergansiusリボルバーの方は、シリアルナンバーの前に刻印された大文字の「M」によって明らかに特定できる。これはシリアルナンバー範囲1〜3206までの約3200挺のことである。

 1908年から、M1873の改良バージョンが6,100挺作られた。これはオランダでは追加名称「Nieuw Model」(ニューモデル。略称N.M.)を得た。旧型(オランダ語ではOud Model。略称O.M. 頑住吉注:ドイツ語も英語もそしてオランダ語もまあ親戚みたいな言葉ですからニューモデルもオールドモデルも非常に良く似た言葉になっています)はまだ1270gという堂々たる重量だったが、M1873NMは1160gしかなかった。W.D.Wの長M.J.A.Masthoff少佐は製造技術上の根拠から、(頑住吉注:旧型のようなオクタゴンバレルでなく)丸く細いバレル、スリムなシリンダーシールド(頑住吉注:いわゆるリコイルシールドのことらしいです)、ほっそりしたローディングゲートのフタを持つバリエーションを開発した。彼は1873NMの生産を完全に国の手に移すよう努力も行った。

 この時点でオランダ領東インドの植民地部隊はとっくに独自の道を選んでいた。歩兵隊はM1873別名M1875が持つのに重すぎ、かさばりすぎるため植民者に完全に新しいリボルバーを設計させた。

1891モデルシリーズ
 設計と試作は、Friedrich Wilhelm Hermann Kuhnに由来する。彼は植民地軍内で働くドイツ人ライフル製造者であった。彼は陸軍の基礎資料中でしばしば「システムKuhn」と呼ばれるリボルバーを、M1873と全く異なるものとした。そのM1873と比べてきゃしゃな銃は、その輪郭からM1873よりむしろフランス製Chamelot-Delvigneリボルバーを思い出させた(頑住吉注: http://www.littlegun.be/arme%20francaise%202/a%20chamelot%20et%20delvigne%20fr.htm 確かに上の方のリボルバーに似てます。関係ないですがこのページの下の方には見たこともないような恐ろしく不細工なリボルバーが紹介してあって興味を引かれました)。この銃はそのフランス製リボルバーに、バレルに結合されたエジェクター、ハーフオクタゴンバレル、グリップ形状およびランヤードリングを含む「底プレート」によっても類似していた(頑住吉注:このフランス製リボルバーのハーフオクタゴンバレルというのは上のサイトでお分かりのように後半がオクタゴンで前半が丸型です。ところがM1891のそれは、根元のフレームの延長部にカバーされた丸部分が普通より長めなだけでバレル自体は全てオクタゴンであり、この点は全然違うような気がします)。約3750挺の第一回生産分はDelft所在のW.D.Wにおいて1895年まで作られた。1909年以後第二回生産分約2200挺が加わった。

 だが、第三回生産時期には問題があった。オランダ領東インドのミリタリーポリスが第一次大戦後、さらなるKuhnリボルバーを必要とした時、オランダ国内では製造を引き継ぐことができる者が誰もいないことが分かった。国営施設はライフル生産にフル稼働していた。このため生産はイギリスの会社ビッカースに委託されることになった。始めのうち、全ては円滑に進行した。ビッカースの技術者が1921年の始めに初めて見本のリボルバーを手にしたにもかかわらず、ビッカースは1ロット約5800挺の銃を9月にはすでに供給した。

 そのうちの大部分はオフィシャルな検査刻印を得なかった。管轄権のある検査将校Haremaker少佐は、ビッカースが極端に劣ったクオリティで供給を行ってきたことを確認した。それに基づいてHaremakerは全てのリボルバーを却下した。このことは後にコレクター界に混乱を引き起こすことになる。すなわち、イギリスの試射刻印があるが、オランダの検査刻印がないという理由で、ヨーロッパのミリタリーリボルバーの識者でさえ、ビッカースの製造したKuhnリボルバーがかつてイギリスの軍用銃だったと考えた。初めてこの謎を解いたのはHarderとDreschlerである。

 ビッカースはこの却下を次のように取り繕おうと試みた。「警察用リボルバーは軍用銃ほど良好に加工されている必要はない。」 だがビッカースは事後の改良に関わらなかった。そのため、オランダ人は全ロットをHerstal所在のをベルギーの国営コンツェルンであるファブリックナショナル(FN)で手を加えさせた。だがHaremaker少佐は2回目の検査の際罹病していた。このため数百のM1891が検査なしで部隊に送られたのである(頑住吉注:んなアホな。当時リボルバーの検査ができる人材が1人だけだったんですかね)。

 だが、ベルギーで実施されたチューニングも、「ビッカースリボルバー」として知られる見本品を完全に改良し得るには程遠かった。結果として、ミリタリーポリスたちはしばしば自助努力を行った。この記事のためにテストされた見本品がそれを示すようにである。この銃の場合、バレルとフレームは1つの軸線上になく、バレルは約4度左に曲がっている。これは肉眼でも認識できる。その上オクタンゴンバレル全体が(やはり左に)回転し過ぎていることが現れている。フロントサイトが露骨に左に傾いているのに、これでもいまだに左寄りの着弾が多すぎるようである(頑住吉注:バレルが左に大きく曲がっているので、着弾点を修正するためバレルを定位置よりさらにねじ込んでフロントサイトを左に傾けて修正しようとしているが、修正しきれていないということのようです。関係ありませんが昔あるモデルガンメーカーがBB弾発射機能のあるM16を初めて販売した時、説明書にフロントサイトハウジングをねじって左右の着弾を修正しろと書かれていて「乱暴だなおい」と驚いた覚えがあります)。普通このような(頑住吉注:フロントサイトが左に傾いている)場合全弾右よりの着弾となり、15mでさえ弾丸がターゲットの右側を通り過ぎることになる。だがシューティングレンジにおいて、M1873では正確に命中する弾薬を使っても、M1891ではいまだに左寄りに命中した。

 オランダ領東インドの部隊がこのリボルバーにどの程度満足していたのかは推測できるだけである。ナチ・ドイツ軍のオランダ進駐は、1940年始め以後、ここを占領していた母国と植民地との分離をもたらした。当時、装備改編の進行により、オランダ陸軍は多くのM1873リボルバーをすでに兵器庫に保管していた。ナチ・ドイツ軍は「外国の器具」に興味を抱いたが、ブラックパウダー仕様のリボルバーは進駐軍兵士にとって完全に旧式化しているように見えたらしい。大きな可能性をもって、多くのM1873が「原料としての再利用」として供給され、つまり溶鉱炉に行き着いた。入手しやすい他国のミリタリーリボルバーの場合と違って、オランダ製M1873が見つかるのはむしろまれである。(頑住吉注:この後1章を割いて現在この銃を撃つ際のリロード方法が語られていますが、私はリロードに関して全く無知なんでよく理解できません。ただ、いろいろケースバイケースで対処しなければならない問題があるものの、基本的には切り詰めた.41マグナムの薬莢、.40S&W/10mmオート共用弾丸が使えるということです。)

祖国用と植民地用の弾薬(囲み記事)
 9.4mmオランダ軍用弾薬は2つのバリエーションで提供された。1つめは「規則で詳細に定められた」No.3弾薬であり、188グレイン弾と長さ約20mmの薬莢を持ち、約10グレインのブラックパウダーを含んでいた。初速は180m/sだった。この弾薬は1887年以後、わずかな改変を経てNo.5と改称され、1940年まで「規則で詳細に定められた」ままだった。植民地では弾丸が改良され、現地生産の火薬さえ用いられた。実験では初速が約195m/sまで上がった。その際薬莢は23mmに延長されていた。もう1つのさらなる特殊性。1940年以後、植民地と母国の結びつきは引きはがされた。リボルバー薬莢の供給不足は、オランダ製ライフルM/95の使用済み薬莢の使用で克服された。これは27.5mmまで短縮され、手が加えられた。1940年以後製の弾丸を装備した弾薬には、ときどきライフル薬莢の底部刻印が残っているのが見つかる。母国と植民地のいろいろな弾薬タイプは、今日コレクターに混乱を引き起こしている。


 M1873、M1873NM、M1891という今回主に取り上げられたオランダ軍用リボルバーに関し検索してみたんですが、全然ヒットしません。試しにやってみた「TYPE 26 REVOLVER」ですら結構ヒットするのにです。タイミングが悪いと言うか、「1873」という年号が歴史的大傑作コルトSAAとかぶっており、検索に支障になっているというのもありますが、それだけではないはずです。例えば「TYPE INAGAKI PISTOL」では全然ヒットしませんが、「稲垣式拳銃」ならヒットするように、オランダ語の「M1873リボルバー」にあたる文字列を入れて検索すれば多分出てくるんじゃないかと思い、リボルバーに当たるのではと推測される「Revolverpistool」(リボルバーピストル?)、「Draagbare Wapenen」(携帯可能・ドイツ語では「tragbar」・なウェポン?)に年号を加えて検索してみましたがやっぱりダメです。アメリカの本「HANDGUN OF THE WORLD」にわずかに情報がありましたが、見つかったのはそれくらいで、結局ネット上にはこれらの銃の情報は一切見つかりませんでした。
 しかたないので歴史的文書であるM1873の兵士教育用図表のみスキャンしてお見せします。



 大体の形や構造はこれでお分かりでしょう。確かにエジェクターはなく、バレルが通常よりかなり高い位置にあるのも確認できます。ただしSAAに使用する.45ロングコルトと同程度の低い初速、比較的小口径で軽い弾丸、1270gという本体重量ですからマズルジャンプが大きすぎて扱いにくいということはなかったんじゃないでしょうか。ただストッピングパワーはかなり低かったはずです。
 ちなみにさっき二十六年式を例に出しましたが、この銃が制式化された明治二十六年は1893年です。M1891とはおおよそ同世代になるわけですが、これを読む限り二十六年式の方が上等のようにも思えます。イギリスのビッカースと言えば当時一流の兵器メーカーだったはずですし、日英同盟時代には日本も多くの兵器を購入し、悪い評判は読んだ記憶がありません。何故オランダにひどい品質の銃を提供したのか不思議な気がします。









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