八路軍、小銃で日本機を撃墜?

 久しぶりの「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20150908/20351686.html


抗日戦を自ら経験した者が口述 八路軍はいかにして小銃を用いて日本の飛行機を撃墜したか

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1938年、山西太行の八路軍戦士が軽機関銃を用いて防空」)

中国のテレビに湧くように現れる多くの抗日戦ドラマの中で、抗日戦の戦場で中国の歩兵が飛行機を打撃する難度はどんどん低くなっている。当初の重機関銃、軽機関銃で日本機を撃墜するところから、今の狙撃手が1発で飛行員を射殺するところまで、甚だしきに至っては木柄手榴弾で乾坤一擲、日本機を爆発の中で墜落させ、国産テレビドラマのプロットはどんどん「神話」の方向に向かって発展している。ならば、歩兵は一体手中の武器に頼って敵の飛行機を撃墜することが可能なのか否か、また中国の抗日戦の戦場ではいくつかの記憶に値する防空作戦の戦例が出現したのだろうか?

第二次世界大戦の戦場で、歩兵の最も頭を痛ませるものは敵軍の戦車であったが、戦車に比してさらに人を手をつかねて無策にさせたのが敵軍の高空をやってきて高空を去っていく飛行機だった。西欧、ソ連でも中国あるいは太平洋の島嶼上でも、絶対多数の歩兵はたとえそれが堂々の将軍でも敵軍の飛行機が鋭く長い音を立ててやってきて、投弾、掃射後再びさっさと立ち去るのを見れば、およそ天を仰いで長いため息をつくことしかできなかった。ああいった工業強国の陸軍将兵にとって、この時さらに遅れず戦闘機や高射砲が出現しないことを憤怒して罵った。だが中国の戦場の抗日戦の軍民にとって、大部分の時に期待できる空軍や防空軍さえなく、悲しみの嘆きがあるだけだった。誰が我々を立ち後れた農業国にさせたのか? と。

だがこの状況は中国のテレビに多くの抗日戦ドラマが湧くように現れてから、変化が発生しているようだ。観衆たちは、シナリオライター才能あるペンの下、抗日戦の戦場の中国歩兵が飛行機を打撃する難度はどんどん低くなっていることに気付く。当初の重機関銃、軽機関銃で日本機を撃墜するところから、今の狙撃手が1発で飛行員を射殺するところまで、甚だしきに至っては木柄手榴弾で乾坤一擲、日本機を爆発の中で墜落させ、国産テレビドラマのプロットはどんどん「神話」の方向に向かって発展している。

ならば、歩兵は一体手中の武器に頼って敵の飛行機を撃墜することが可能なのか否か、また中国の抗日戦の戦場ではいくつかの記憶に値する防空作戦の戦例が出現したのだろうか?

「紅膏薬」落ちる (頑住吉注:「紅膏薬」は日本機の日の丸のマークの蔑称らしいです)

筆者はかつてある山東省の老八路軍兵士、初治平の回想を見たことがある。それは1943年の元宵節(頑住吉注:旧暦1月15日で春節最後の日)、彼が所在した東海独立連隊第2大隊の、山東省栄成市の崖頭鎮に襲撃にやってくる日本の爆撃機との戦闘法についての物語を記述していた。この老八路軍兵士は次のように回想していた。襲撃にやってくる日本機は威海方向から飛来し、毎回必ず主翼の下に4発の爆弾を搭載していた。中国軍民を発見すると、正気を失った日本機はいつもまず機関銃を用いて掃射し、経験の欠乏した一般民を脅して倒れ伏させ、しかる後に人の群の最も密集したところに向け爆弾を投擲した。

初治平の回想の中で、日本の飛行員は残忍でもありまた傲慢でもある。八路軍の小銃手の射撃に直面して、かえってより低く飛び、「屋根のてっぺんや樹木の梢にこすりそうなほど低いのが見え、機体上の『紅膏薬』マークがくっきりと見え、機体の中の日本兵の目鼻立ちもはっきり見えた。」 日本軍の飛行機が一般民を虐殺するのを見て、初治平も耐えられず「古くて牙の抜けた古いボルトアクションの小銃を空中に向け2発発砲した。」 当然効果はなく、「〜」ことしかできなかった(頑住吉注:スラングみたいのがたくさん出てきて全く分かりません)。このことから我々は、日本の軍用機の急降下攻撃に直面して、敵機がたとえ300m前後まで下降しても、単一の小銃手ではそれに対し毛ほどの脅威ももたらすことはほとんど不可能だったらしいことを見て取ることができる。

この問題に対し、初治平や彼の指揮官の竜涛大隊長、そしてハオリャン指導員もはっきり見ていた。初治平は文中で自ら、我々の武器は日本兵の武器に比べはるかに劣り、「銃を1発撃てば『紅膏薬』はさらに狂ったように投弾、掃射した」と書いている。だが中国の抗日軍民は武器が戦争の勝負を決定する唯一の要素だとは全く信じなかった。重要なカギは人がどのように武器の作用を発揮させるかを見る必要があるのだ、ということである。日本軍の飛行機が威海に戻って弾薬を補充した後きっと再度やってきて襲撃するだろうことを判断して、初治平が所在する大隊は防空作戦の展開を決定した。それぞれの中隊から選抜されたベテラン戦士をそれぞれの角度に散開させ、日本機が来襲する可能性のある方向の上に待ち伏せさせた。果たして当日日本の「紅膏薬」が再度崖頭鎮上空に飛来した時、初治平を含む戦士は異なる方向から同時に照準、射撃し、結果として「皆は機体周囲に多くの『白烟花』が出現するのをはっきりと見、果たしてこの機は前の2回ようにあえてしたい放題をしなかった。」

(頑住吉注:これより2ページ目)

ここに来て、実際上この比較的成功した地上防空作戦はすでに完成していた。歩兵部隊にとって、敵機を駆逐して遠ざけることができれば、すでに防空作戦の任務は完成している(頑住吉注:そういえば「フリーゲルファウスト」に関するドイツ語の記事にもそんなことが書かれてましたっけね)。日本軍の機はいつも敵の目に充当されたので、初治平が所在する大隊は黎明前に移転することを決定し、ただし依然崖頭鎮付近の山頂に射撃チームを配置した。筆者は、この部隊の指揮員は日本機との闘争経験が相当に豊富で、やる事も非常に穏当だと考える。結果として、2日目の空がまだ明るくないうち、初治平は大隊の主力に随伴して崖頭鎮を出たばかりでまだ2里にもならないうち、もう飛行機の騒音が起こるのを聞きまた見、その後1つの「明るい星」が遠くから近づいたが、速度は比較的遅く、「まるで空中に止まっているようで」、八路軍の対空射撃チームは突然発砲し、周囲に銃声が湧き起った。初治平は次のように回想する。かの機が崖頭鎮に到達するやすぐ急降下していったのを見た‥‥奇怪なのは音の後でそれにもかかわらず飛行機が上昇してくるのを見なかったことで、知らないかの戦士の反応は鋭敏で、「命中した、紅膏薬が落ちたぞ!」と叫んだ。

後に初治平は現場に行って日本機の残骸を視察した。日本機の前部座席の操縦員は皮ベルトで座席上にからまっていてその場で焼死し、後部座席の投弾手は落下傘降下したが落下傘の故障のため墜落死していた。初治平はさらに回想する。機上の機関砲はすでに焼けて壊れ、日本機の機首の長い単管望遠鏡は完全な状態で、飛行機の外皮はシルク質だった。筆者は、これは三菱が生産した九九式襲撃機だと推測する。この飛行機は4発の50kg爆弾を搭載でき、操縦員の前方には筒型照準具があり、後部座席には7.7mm機関銃1挺がある。だが、山東解放区の公式戦史の中のこの戦果の時間と初治平の回想にはやや食い違いがあり、「1943年5月1日、膠東軍区部隊は栄成県崖頭鎮付近で日本機1機を撃墜した」というものである。

明知不可為而為之 (頑住吉注:論語の中の言葉で、できないとはっきり分かっていても断固としてやる強固な意志、といった意味らしいです。)

八路軍の防空の成功した戦例を話し終わり、我々はその中から中国の戦場での歩兵の防空作戦の特徴を分析して出すことができる。まず、中国の戦場では、日本軍は長期にわたり戦闘が起きそうな地域の制空権を支配し、このため中国の軍隊、特に正式な防空武器が欠乏した八路軍や新四軍が防空作戦を行う目標は決して敵機の撃墜ではなく、できる限りその地上の戦闘に対する影響を減少させることだった。これこそ地上部隊の防空作戦を決定し、重点は打撃ではなく防御にあり、増してや撃墜を贅沢に望んではいなかったのである。

次に、中国軍民が行う地上防空作戦の主要な方式は隠蔽と欺瞞だった。当然防空作戦の中で隠蔽、疎開、偽装などの方式は軍隊や人民を保護し、敵機の危害を減少させることができるが、依然消極防空に属す。一方敵機の低空飛行時に軽機関銃、重機関銃、小銃を集中させ計画的組織的に対空射撃を行う、これこそが積極防空である。積極防空あってこそ戦果を取得できる。このため、八路軍や新四軍部隊は多くの場合できるだけ地形地物を利用して自らを隠蔽し、敵機に見えず探れないようにさせたが、ひとたびチャンスがあればそれでも部隊を組織して対空射撃し、甚だしきに至っては敵機を殲滅したのである。


 この中国側の戦果は日本側の記録とも合致するんでしょうかね。九九式襲撃機は日本機には珍しくある程度の防弾装備を持っていましたが、逆に言えば低空で地上攻撃をするという任務上地上からの反撃を受けやすく、そうでもしないと損失が多くなりすぎる危険な任務を負った機だったわけです。しかしこの記述からしても日本機を撃墜できるのはよほどの幸運に恵まれた場合に限られたようですね。






















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