中国人は「立ち位置を変えて思考」するべきか

 10月31日のコラムでも「専門家:日本が軍国主義の道を行っているというのは誤判 行って全てはっきりした」という日本擁護論っぽいものを紹介したように、中国にも一部日本に対し冷静な見方、態度を取るよう訴える論があるわけですが、当然反論されます。今回はそのうちの1つを紹介しますが、批判の対象となっている「中国人は角度を変えて日本を見られるか否か」は正直あんまりおもしろくないので紹介しません。この文中で大体想像つくと思います。

http://military.china.com/news/568/20141031/18914918.html


中日の矛盾の本質は中国の勃興の抑制 歴史と領土は駒


中国が「立ち位置を変えて思考」しても、日本がそれに応えることはない

熊達雲

最近ある人が文章を執筆して「中国人は角度を変えて日本を見られるか否か」と提示し、中国の日本研究界が「批判の旗を高く掲げ、批判闘争の激情でいっぱいである。日本政府が行う事柄は、黒でも白でも全て批判の材料になる。」のを批判した。この視点は国内世論の場においていくつかの共鳴を勝ち取った。だが問題は、中国人が「角度を変えて日本を見」れば、日本人がそれに応えるのか? である(頑住吉注:原文では「投桃報李」という慣用句が使われ、桃を贈ったら李をお返しにくれる、転じて友好的で礼を尽くした付き合い、といった意味です)。

中日の主要な矛盾:中国は勃興しようとし、日本は抑制を図る

表面的に見ると、現在中日の矛盾は2つある。1つは近代以来の日本が中国やその他のアジアの国に対し発動した侵略戦争をいかに評価するか、もう1つは釣魚島に関する領土主権の争いである。だが現象を透過して本質を見れば、我々はすぐ、現在中日関係に横たわるこれらの矛盾の根本原因が、中国の平和的勃興をめぐって展開されるゲームから出発しているということに難なく気付く。中国は勃興しようとし、日本は抑制を図る。歴史認識の問題と領土の争いは単に日本が中国の平和的勃興を妨害、牽制する駒に過ぎないのである。

今年9月に発表された調査によれば、93%の日本の民衆は中国に対しネガティブな印象を持っており、この種の集団で中国を嫌悪する純度はいかにして作り出されたのか? この功は高度な政治的覚悟と国際的な敏感性を持つ日本のメディアに帰せられるべきである。

中日の間に摩擦が出現する、あるいは中国国内にいくつかのネガティブな事件が起きるたび、日本のテレビや新聞はすぐに遅れず宣伝し、テレビ画面には繰り返し日本の民衆の感覚器官を強烈に刺激する場面が放送される。それぞれのテレビ局はさらにしばしば一部の専門家、学者、あるいは当局者を招いて中国あるいは中日関係のいくつかの問題につきテレビ討論会を行う。だがどんな人を招こうと、何を語ろうと、全て事前に書き上げられた「脚本」があり、しかも1人2人の異なる意見を持つ人を招いて引き立て役とする。この種の理性的に見える討論会の結果は、民衆に対するミスディレクションの強化である。

一方新聞はどうか? 客観公正な報道の態度を持って中国を扱うと自慢する某大新聞さえも、掲載する中国に関する報道はやはり大多数がネガティブなものである。筆者はかつて面と向かってこの新聞の記者に質問したことがある。何故いつも中国のネガティブなニュースを報道し、ポジティブなニュースも反対の面から解読するのか、と。この記者は率直に、中国のポジティブなニュースの報道はよく売れて金にならなることがないからだ、と語った。

この文を執筆する前、私はかつて日本のアマゾンウェブサイトで、100種近い近年出版された中国と関係がある書籍を捜し当てた。書名をひとたび見るや私を驚かせて止まず、例えば「テレビで放映される中国の97%はデマ」、「何故中国人には1%の希望さえないのか」、「世界征服を夢見て人を嫌わせる国家、中国の狂気」、「中国崩壊前夜」、「中国破産、日本繁栄」などが売れ行きランキング上位にいる。学者が書いた本であっても題名はひどく狂っていて、例えば井上俊哉が書いた「中国勃興の終わり」等々で、福沢諭吉の口振りを真似て「中国を放棄せよ」という人さえいる。

こうした書籍の中に、筆者はさらに1つの興味ある現象を発見した。こうした書籍は一部分が日本の何人かの聞き慣れて詳しく説明することができる右翼「評論家」が書いているのを除き、大部分は一見すると中国人によって書かれているかのようで、例えば石平、黄文雄、陳破空のたぐいであり、日本の読者にこれはお前ら中国人が自分の家の悪いことをさらしているのではないかと思わせる。実は、実際にちょっと調べてみれば、彼らが全て偽中国人たちであることがすぐに分かる。あるいはこの種の人の助けを借りて中国を悪く言わせることは、信頼度がより高くなり、効果がより良くなるのかもしれない。

2014年の世論調査によれば、日本の民衆のテレビ報道に対する信任率は71.3%であり、新聞に対する信任率は65.7%である。想像してみよう。かくのごとく新聞、テレビを信用している民衆がひとたび長期にわたりこのように多くの中国に関する人に嫌悪を生じさせる情報を注ぎ込まれたら、あなたが彼らのそれに対するポジティブな印象を生じさせようとして可能だろうか?

振り返って中国はと見れば、例えば抗日神劇のたぐいのネガティブなものも存在するが、メディア上に出現する日本に関する紹介は基本的に冷静、理性的な内容が多くを占める。中国でも87%の民衆が日本に対しネガティブな印象を持っているのは、筆者の見たところ多くは日本の一部の政府要人が採る対中国政策に対する不満ないし憤懣のせいである。

「立ち位置を変える思考」はかつて歴史をまずい状況に陥れたことがある

最後に我々はさらに「角度を変えて日本を見る」は以上の矛盾を解決し、日本民衆の中国に対するポジティブな印象を引き換えに得られるのか否かを検討してみよう。

実際には十年余り前に早くも類似の主張が中国に出現したことがある。2002年12月、国内で「対日関係の新思想・中日民間の憂い」との一文が発表され、国内のいくつかの「怒れる青年」が対日不満を態度表明する過激な行為を列挙し、中国民衆の日本政府に対する批判を「民族主義的熱狂」として排斥し、中日両国関係は「古い観念を放棄し、新たな思想を始動させる」べきであると提示した。この論がひとたび出るや、日本では直ちに非常によく売れ、中国の学会にも少なからぬ同調者および支持者を獲得した。

「立ち位置を変えた思考」の支持者はあるいは「桃を贈って李がお返しに来る」で、中国文化の思想の慣性に照らして、「あなたが私を一尺敬えば、私はあなたを一丈敬い」、私がごく度量が広い以上、もはやあなたの私に対する侵害にこだわり続けなければ、あなたもきっと誠意を持って一言「私が間違っていた」と言い、しかも今後もはや以前の侵害の歴史をひけらかすことはなく、もって被害者の治癒し難い傷口の上に塩をまき、二次被害をもたらすことを免れさせてくれるだろう、と考えているのかもしれない。だが、「立ち位置を変えた思考」はこうしたことを引き替えに得られるのだろうか?

(頑住吉注:これより2ページ目)

この論点の発明者たちは間違いなく一部の日本人によって上客としてもてなされ、「立ち位置を変えた思考」の主張は日本で確実に広範な伝播を獲得している。だが、「立ち位置を変えた思考」の発明者の初志とは逆に、日本人の理解する「立ち位置を変えた思考」は中国の民衆および政府の、日本の政府要人の右傾化の言動に対する批判は行き過ぎであり、さらには日本の右翼の正しさを逆に証明している、というものである。この種の認識から出たことかもしれないが、当時日本の首相の任にあった小泉が行動の上で「立ち位置を変えた思考」に与えた回答は、再三靖国神社に参拝することに他ならなかった。

「立ち位置を変えた思考」のまずい歴史にかんがみれば、現在この主張を改めて提示し、もって中日の矛盾と争いを解決しようというのは、日本の国内情勢が十数年前と基本的に変わっていない現在においても、恐らくやはり歴史の轍を踏む運命を免れ難い。

単純に「立ち位置を変えた思考」に向かうのは自縄自縛にしかなり得ない

中日両国は互いに近隣で、互いに助け互いに補えるところが非常に多い。世界ナンバー2、アジアナンバーワンであるとの思いこみが深刻な日本の為政者の偏執は両国関係に勃興と抑制の根本的矛盾を存在させている。しかもこの矛盾にはさらに第三者の介入が原因で激化する可能性がある。このため、現在非常に流行している言葉を借用すれば、今後相当に長い一定の時間内、中日間で経済の上では相互に必要とし、政治の上では言い争いすることの共存は、「新たな常態」となる可能性がある。

本来、このような新たな常態に直面し、「立ち位置を変えた思考」の元々あった内に込められた意味は、あるいは中日の矛盾の一部の問題点を打開する助けになり得たかもしれないが、日本方面にそれを用いる意思がないにかんがみれば、我々がこのようにすることを再度堅持することは自縄自縛にしかなり得ない。

筆者には対抗を提唱したり煽ったりする意志はない。日本に対しては「是々非々」の態度をとることが、現在の中日関係を処理する唯一の方法であると愚考する。日本の多くの我が国の参考に供し得る良いものに対し、我々はみだりに排斥を加えてはならず、条件付きの「拏来主義」(頑住吉注:「持ってくる主義」)を実行すべきである。日本の民衆に対し、我々はやはり多く「遊びに行き」、努力して相互理解を促進しかつ深化させるべきである。だが日本政府の種々様々な中国を封じ込める手管に対しては、我々は見ればこれを排斥し、全く手を緩めない必要がある。同時に知恵あり、理あり、利あり、節度ありに注意し、深度と広さもある必要があり、さらに力の強さを必要とする。(筆者は在日の学者)


 私は「中国から見ればこう見える」という視点を紹介することに意義があると思っていますが、どうにも納得いかないことばかりです。日本のマスコミが大衆迎合になりやすい問題を抱えているのは確かでしょうけど言論の自由がない国の人に言われる筋合いはありません。私が調べた時点でアマゾンで「中国」のキーワードで検索してトップに来ているのは「中国が愛する国、ニッポン」ですし、確かに中国の軍拡に警鐘を鳴らす、問題点を指摘するなどの本は多いですがそれは当然で、一方ニュートラルな本もたくさんあります。また検索しても見つかりませんでしたが、「中国勃興の終わり」が何故「題名はひどく狂ってい」るのかさっぱり分かりません。中国の勃興が間もなく終わるというのは私は可能性は低いと思いますけど1つの正当な意見でしょう。中国関連書籍の中で中国人名で書かれているものはごく一部であり、少なくとも「一部分が日本の〜右翼『評論家』が書いているのを除き、大部分は一見すると中国人によって書かれているかのよう」で「実際にちょっと調べてみれば、彼らが全て偽中国人たちであることがすぐに分かる」ことは全くないです。中国の「メディア上に出現する日本に関する紹介は基本的に冷静、理性的な内容が多くを占める」というのは無茶で、物事が全く客観視できない人なんだなあとしか思えません。私は中国人が実際に日本に来れば軍国主義化なんてしてないとすぐに実感できるはずであり、中国人の日本旅行が増えることはまあデメリットもありますけどメリットも多いと思っていますが、「在日の学者」がこんなんではあまり大きな期待はできないのかもしれませんね。


















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