中国によるStG44評 その1

 強い影響を受けたAKを使用し、現在も改良型、発展型を装備する中国は初の本格アサルトライフルをどう評価しているんでしょうか。2回に分けます。ちなみにこの記事に使われている画像はたぶん全部トイガンですね。

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StG44アサルトライフル:これは現代歩兵小火器史上のエポックメイキングな成就の1つである

StG44アサルトライフル(定型、生産投入時の名称はMP44)は現代歩兵小火器史上のエポックメイキングな成就の1つである。これはまず大規模装備された薬莢の短い中間型威力弾薬を使用する自動小銃である。人々皆知っているAK47もMP44の技術を大量に参考にして開発された武器と考えられる。

第一次世界大戦の特徴は静態消耗戦で、作戦双方は陣地戦をメインとした作戦方式で、このためこのことは小銃の長い射程を強調する結果をもたらし、一方50m以内の陣地争奪戦では、近距離速射武器のサブマシンガンの大量装備をもたらした。第一次世界大戦終結以後、工業科学技術の進歩と共に、各国の軍事戦略、戦術理論にも非常に大きな変化が出現した。第一次世界大戦以後の何回かの戦闘の中で、例えばソ連内戦、スペイン内戦では、第一次世界大戦の中では出現しなかった状況が出現した。双方の歩兵の作戦距離は第一次世界大戦の時期に比べ非常に大きく縮小し、70%以上の戦闘が400m以内の距離内に集中した。この距離内では、当時各国が装備した小銃は決してその任に堪えられなかった。ドイツのモーゼル小銃も、ソ連のモシン・ナガン小銃も、イギリスのリー・エンフィールド小銃も、有効射程がいずれも600mを超え、照尺の射程も1500m以上だった。このように強い殺傷力は、400m以内では明らかに必要なかった。この距離内では、伝統的な小銃の威力は過大で、実戦の要求をはるかに超えていた。同時に、各国が装備する手動弾薬装填の小銃の発射速度は高くなく、優秀な射手でも1分間に10発から12発発射できるに過ぎなかった。この発射速度は明らかに敵に対し充分に有効な火力制圧をもたらすことはできなかった。一方各国が小銃の他にもう1種装備するサブマシンガンも現代の戦争の需要を満足させられなかった。第二次世界大戦中の各国のサブマシンガンの有効射程はいずれも150mを超えず、実戦の中では100mにも到達しなかった。100m以内ではサブマシンガンには素晴らしい発射速度と火力制圧があった。だがサブマシンガンが使用する弾薬は拳銃弾薬で、サブマシンガンは150mを超える距離では目的ある射撃ができなかった。サブマシンガンの150m、小銃の500m、その中間には150mから400mの火力の空隙があった。各国の小銃部隊は一般に軽機関銃によって補ったが、軽機関銃は下層の歩兵の中では装備が比較的少なく、しかもその弾薬の威力はやはり非常に大きく、この距離では軽機関銃弾薬の威力は依然過剰だった。同時にサブマシンガンは大量の拳銃弾薬を必要とし、小銃や軽機関銃も大量の小銃弾薬を必要とし、下層の歩兵が同時にサブマシンガンと小銃を装備すること、これはつまり後方勤務人員が同時に2種の弾薬を準備することが必須ということでもあった(頑住吉注:例えば「コンバット」のヘンリー少尉率いる隊は.30-06、.30カービン、.45ACPという3種の弾薬を必要としたわけですが)。

もし下層の歩兵の武器弾薬の統一化が実現できたら、各国の軍事工業システムと後方勤務システムにとって極めて大きな助けである。こうした目的から出て、1930年代末期、各国は突撃武器に対する研究を展開した。彼らは小銃とサブマシンガンの特徴を合一し、現有の小銃、サブマシンガン、甚だしきに至っては軽機関銃に取って代わり得る武器を生み出し得ることを希望した。だが、実験は20世紀初期の標準的な小銃弾薬は自動小銃にとって威力が過大と言え、自動小銃の連発射撃時に精度をコントロールし難く、しかも重量が比較的大きく兵個人の携帯に不便だということを証明した。当時の銃器科学技術と金属冶金精錬技術の制限を受け、当然アサルトライフルに対する理念上の理解が不充分だったという原因もあったが、StG44の出現まで実際の需要は決して満足させられなかった。第一次世界大戦の期間には早くも、ドイツ軍と銃器専門家はもうモーゼル小銃とMP18サブマシンガンの作戦上の種々の欠陥を意識するに至り、第一次世界大戦以後の何度かの比較的大規模な戦役の中で、ドイツはいつも各種の形式をもって参戦し(ソ連内戦にドイツは干渉軍を派遣し、スペイン内戦にドイツはコンドル軍団を派遣した)、実戦の中でより深くこの点を意識するに至った。1938年、ドイツのハーネル社は軍の要求を受け、自動小銃の研究開発作業に着手したが、研究を開始すると必然的に非常に多くの問題に遭遇し、主要な原因は現有の7.92mmモーゼル弾薬の連続射撃中の安定の問題を有効に解決できないことだった。だが、1939年の第二次世界大戦全面勃発と共に、自動小銃の研究開発はドイツ軍に重視され、研究開発速度は顕著に加速した。銃器設計師ヒューゴ シュマイザーによって方案設計師が担当され、短い薬莢の中間型威力弾薬を用いて現有の7.92mmx57モーゼル小銃弾薬に取って代わらせることを提案した。これはエポックメイキングな観念だった。ドイツは1934年には早くももうすでに威力がやや小さい減装薬の薬莢の短い弾薬というこの方面の研究を開始した。薬莢の短い弾薬の使用はサブマシンガンの特徴を全自動小銃に結合することができ、小銃の軽便さおよび連発射撃が容易にコントロールできる特徴が保持できた。1941年、実験の反復を経た後、ドイツは成功裏に7.92mmx33小銃短弾薬を研究開発した。その長さは当時のドイツ軍の7.92mmx57標準小銃弾薬に比べ短縮されており、弾頭はより軽く、発射薬は減らされていた。装薬量は47グレイン(約3g)から24.6グレイン(約1.6g)まで減り、弾頭の重さは198グレイン(約12.8g)から123グレイン(約8g)まで減らされていた。有効射程は相応に短縮していた。この短弾薬は中間型威力弾薬と呼ばれた。この弾薬は長さが現有のモーゼル小銃弾薬に比べて1/3短縮されていた。銃の後座力を非常に大きく減少させ、自動小銃が連続して正確に射撃できない技術のボトルネックは解決された。


























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